貴方の好きな香り貴方の好きな香り
ハピみな展示/新作
暇潰しに事務所に置いてある雑誌を手に取りぱらぱらと捲ると、棗巳波の意外な一面と書かれたページで手が止まる。そこにあったのは健啖家であるとかマニアックな一面だとかそんな見出しばかりで。
──意外……意外……?
自分が彼と共にいる時間が長く、知っていることが増えすぎた自覚なんて全くない悠は首を傾げる。それはそれとして、と悠は写真をまじまじと見つめた。
「めちゃくちゃ良い顔してるじゃん」
嬉しそうに食事をする姿、楽しげに作曲についてインタビューを受ける彼。それから、何処か自慢げにユニットのことを語る笑顔。そのどれもがきらきらと輝いていた。“写真は”良いし電子版で買っていつでも見られるようにしておこうかなと雑誌名で検索にかけ、販売ページを開く。
「あら、そんなに気に入って頂けましたか?」
予期せぬ声にスマホが手から滑り落ち落としそうになったのを何とかキャッチする。それから、声にした方に視線を向け──言葉にならない悲鳴が迸った。
「びっくりさせないでよもう……」
巳波から心配されて深呼吸を促されるくらいに動揺していたもののようやく落ち着いた悠ははーっと息を吐く。驚かせておきながらしれっと隣に座った彼は背中をさすりながらくすくすと笑う。
「あんなに驚かれるとは思っていませんでしたよ。まるで“そういうもの”に興味があるところを見つかったようで可愛らしかったですね」
「面白がってない……?っていうかどういう表現なのそれ、巳波もそういうのがバレたらびっくりするの?」
それはどうでしょう、とひらりと躱されてしまう。まあ巳波がそういうものを嗜んでいる印象はないし──でも年齢から言えば意外では無いけれど、なんて思いながら彼の用意してくれたカップを手に取る。柔らかい甘さが今の悠には優しく染み渡り、ぐちゃぐちゃになった思考を癒していった。そばにあったお菓子を開けながら先程の雑誌をもう一度見る。
「その雑誌、“写真は”すごい良いじゃん」
「インタビューはあまりお気に召しませんでしたか?」
「意外って書いてる割には全然意外じゃないし……」
「亥清さんは、私の全てをファンの皆さんが知っていた方が嬉しいタイプですか?」
唐突な質問に悠が一瞬固まる。それから、いや、と首を横に振る。
「独り占めしたいところも……ある」
でしょう?と巳波が頭を撫でた。全部欲しがってくれる彼が愛おしくて仕方ない。
「亥清さんのそういうところ大好きですよ」
ちょっとした悪戯心とそれの数倍はある好意を耳元で囁かれ悠は顔を赤くする。その姿がまた巳波の心を煽った。手に触れ、指を絡ませ、唇に触れようとして──彼がだめ、と止める。
「誰か来たらどうするんだよ」
「狗丸さんと御堂さんは直帰らしいですし、宇都木さんも今日は何かの付き合いがのようなことを言っていたので誰も来ませんよ」
何かの付き合いの言い方で思い浮かんだ顔はあるがそれどころではない。
「他にも事務所の人とか」
「鍵はかけてありますよ」
「最初からこのつもりで来たでしょ……」
そう言いながらもほんと?と確認して彼がええ、と頷けば唇が触れるだけのキスをする。
「これだけで良いんですか?」
「巳波の可愛い声を他のやつに聞かれるくらいなら我慢する」
「健気ですね。それとも、お預けですか?」
わざとらしく彼の太腿を指でなぞる。まだ少年ではあるものの最近は筋肉もついてきていてそれがさらに巳波を誘う。
「両方かな。だって巳波」
仕返しのように耳元に息を吹きかけられ、腰に手が触れ、続けて言葉が届く。それはどうしようもなく刺激的で力が上手く入らなくなり、彼に身体を預けることになる。
「……何処で覚えて来たんですかそんな台詞」
「一体誰に仕込まれたんだと思う?」
今にも崩れ落ちそうな巳波を抱きとめながらも挑発的な目をする悠はあれこれ言ってもやはり男子高校生なりの欲があって──その一方で流石に事務所ではだとか言いすぎたかななどとも思いつつ彼の髪に触れる。
抱かれたい男ランカーらしくない動揺と腰の砕け方を見せてから年下の彼氏に甘やかされる姿は悠だけの特権で──巳波からは「私をこんなにした責任、取ってくださいね」と言われたもののそれすら嬉しくて堪らない。その喜びが溢れていたのを見て彼は悠の頬に触れる。
「さっきはあんなに動揺していたのに随分余裕そうですね。責任も迫られているのに」
「責任って言ってもオレが巳波以外と付き合う訳ないでしょ」
巳波としてはこの上なく嬉しいのだが真っ直ぐすぎて不安にもなりつつ彼の目を見る。それは、ステージに立っている時と変わらない覚悟のある強い色で。
「ねえ、巳波の全部、オレに頂戴」
──ああ、亥清さんのこういうところ、好きだなあ。
そう思いながらも口には出さず目を閉じる。言わないと伝わらない、それどころか言っても伝わらないこともある──まあ記憶の中のあの人に関しては伝わらないとはまた違うのだが、それを知っていたとしても今ここにいる彼は全てを受け止めてくれるからどうしても甘えてしまうのだった。
密やかな甘い時間の後、二人で事務所を出て巳波の言う“責任”を取るための一環として駅の方へと歩く。今日一日付き合ってください、なんて言うから少し身構えこそしたものの──身構えるくらいに自分が何をしたかは理解していて──何をしたら良いのかと聞けば遠回しなデートのお誘いであった。
「最近忙しくてあまりお出かけ出来なかったでしょう?」
「確かにオレはテストもあったし……寂しかったの?」
「亥清さんだって寂しそうな顔をしていたじゃないですか。それに、皆さんから貴方と同じ現場になる度に私の話をされると聞きましたよ」
えっ、と目が見開かれる。心当たりがない、そんなに言われる程だっけ、そんな風にあたふたしていると彼がくすくすと微笑む。
「誰から聞いたか気になりますか?」
「気になるような……聞くのが怖いような……」
うーんでも、と悩んだ末に恐る恐る誰から?と聞いてみる。巳波が誰と話しているのかの興味が勝ってしまった。
「狗丸さんや御堂さん、宇都木さんは貴方が別のお仕事の時の私の様子を気にしているようなことを仰っていましたね。それから、同じ学校のお二人からも──」
「待って待って待って、そんなに?」
「まだありますよ、この前了さんからも心配されていましたし」
「なんで!?」
大きな声が出てしまい巳波に駄目ですよ、と口元に指を当てられる。マスク越しで触れられてすらいないのにその仕草は色気があって──
「宇都木さんが亥清さんのことを心配して相談したようですよ」
「知らないところで話題になってる……」
まあまあと宥められているうちに彼の目的の店に着きこちらだと手を引かれる。そこには多種多様なリップクリームが並んでおり、悠の目を引いた。可愛らしいデザインから大人っぽい香りのものまで、素直に興味が湧いてくる。
「亥清さんはどれがお好きですか?」
早く巳波のように大人の色気が欲しいとはいえ、どれが好きかと言われると甘い香りの──甘い味のものが気になってしまう。いくつかある甘い味のものからこれかな、と指すとご機嫌そうに彼はそれを手に取った。
「次はあちらの売り場も見ましょうか」
そう言って連れて行かれたのはハンドクリームのコーナーでこちらも先程と同じように色々な商品が並んでいた。その中には見覚えのある顔が広告になっていたりもして──そんなことを気にしている間に巳波はひとつ手に取っていた。
「それにするの?良いじゃん、巳波に似合うと思う」
それを聞いた彼は一瞬何かを考えるような素振りを見せたものの、こちらはどうですか?と聞いてくる。それは甘い香りのもので、迷うことなく好きだと答えた。彼の手には先程のリップクリームが一つとハンドクリームが二つ。そのまま手早く会計を済ませて──悠が自分が払うと言ったものの財布を鞄に戻されてしまい──次は夕食に行きましょうと促される。
「亥清さんにはお願いしたいことがちゃんとあるので」
巳波にプレゼントをしたかった気持ちでむくれていたものの何かお願いされると聞いて期待に胸が躍る。
「それで、どこにするの?」
「亥清さんが今洋食の気分であれば行きたいお店があるんですけど──」
店名を出されてとても行きたかった場所であることに気がつき喜んで頷く。
「ご飯もデザートも美味しいって聞いたからすごい楽しみ……!」
嬉しさでいっぱいになり自分の腕にくっついてくるのが可愛らしくて仕方ない。何処の誰からの情報かなど気にすることはなく──気にしたところで巳波は答えない予感がするものの、ご機嫌なのだから良いのだろう。
楽しみにしていた洋食店はお洒落で店員の制服もかっこよく、または可愛らしく、メニューもまた全部が美味しそうで二人はきらきらと目を輝かせる。
「わあ……!全部美味しそう!」
「ハンバーグもオムライスも良いですね……こちらが例のパフェですか……!」
沢山迷いながらも注文をして──デザートは大きなパフェを二人で半分こすることにして──食事が来るのを待ちながら二人で会話する間も幸せで堪らない。
和やかな空気の中メインディッシュを食べ終えて運ばれてきたパフェを前に悠が感動に満ちた声を上げれば巳波は一緒に来れて良かったと目を細める。
「すご……大きいしめちゃくちゃ凝ってる……!どこ見ても最高じゃん!」
写真撮って良い?とわくわくした顔で聞くものだからもちろん、と応じつつ自分もスマホのカメラを起動する。パフェとそれを前にして可愛らしくはしゃぐ恋人が映るように撮った。
──やば、いつも可愛いけど今日の巳波すごい可愛い……。
自分で撮った写真を絶賛してから──巳波は巳波で自分の撮った悠のことを可愛いと思っているのだがそんなことは知らないまま、スプーンを手に持つ。チョコレートソースのかかったアイスもブラウニーも全てが美味しい。それも、笑顔の恋人と共に食べるのだからなおさら。
「最後の一口は巳波が食べなよ」
「亥清さん、こういうのお好きでしょう?食べて良いですよ」
最後の一口を巡って譲り合いをしていたものの、巳波がそれでは、遠慮なくとスプーンで掬う。それから、悠の口元へと運び──動揺する彼を見ながらも食べさせる。驚きながらもごくりと飲み込んだところを見て巳波はご機嫌な笑みを浮かべる。
「亥清さんの今のお顔とても可愛いかったですよ、ご馳走様でした」
最後の一口はさっきまでのパフェと同じだと思えないほどずっと甘くて頭がぐるぐると回る。まるで巳波にかき混ぜられているようだ。
「……紅茶一口ちょうだい」
「ストレートですけど良いんですか?」
「今めちゃくちゃ口の中甘いし……」
巳波が間接キスは気にしないんだなと思っていることなど知らずに、グラスを受け取って一口飲むとストレートとは思えないほど甘く感じた。
食事を終えて帰る頃にはもう遅めの時間になっており──そもそも巳波の家に泊まるつもりではあったから祖母に連絡はしてあるのだが──最寄り駅からは手を繋いで歩いていた。まだ車道側を歩かせてくれない巳波に子供扱いしないでほしいと思いながらも、こういうところが優しいんだよなとも感じる。
マンションが見えて来たあたりからそわそわとし始めた悠の手を握り返して歩く。共用のエントランスを抜けてエレベーターに乗っている間も落ち着かない様子の彼が可愛らしくて早く甘やかしたくて仕方ない。
もっとも、巳波も悠にたっぷり甘やかされるのだけれど──
エレベーターを降り自分の部屋の鍵を開けて彼を招き入れる。他には誰も住んでいないというのに律儀に挨拶をするあたりが悠の育ちの良さというものだろう。
お風呂の用意をしている間は今日の話やあまり二人で過ごせなかった日の話をして──もちろんその時間だけじゃ足りないものの後でいっぱいまた話そうと約束をして。先に悠を送り出して巳波はさて、と買ってきた袋を開ける。リップクリームはポケットに、片方のハンドクリームは机の上に、もう一つは、
「こちらは予定外でしたけど……ああ言われてしまっては買わずにはいられませんね」
もう一つも机の上に並べてふふ、と笑う。恋人が似合うと言ってくれたのだから嬉しいに決まっている。
そうしている間に彼が浴室から戻ってきて二つのハンドクリームを目にする。
「そういえば何でハンドクリーム二つ買ったの?」
「気になります?」
「結構気になる、オレの反応も聞いてたでしょ」
それでは、と悠に片方の──甘い香りの方を渡して待っている間に塗っておいてくださいね。とウインクする。
「もしかしてオレのために選んでくれたとか……?」
「半分は正解です」
「半分なの?自意識過剰みたいじゃん……」
「そんなことはないですよ、もう半分は私の我儘ですから」
どういうことか聞いてくる恋人を置いて巳波は浴室へと軽やかに歩く。
「どういうこと……」
疑問と一緒に残されたものの彼の言うことは素直に聞いてハンドクリームを開けると甘い香りがした。
シャワーを浴びて湯船に浸かりながらこれからのことを考える。彼のことだからちゃんと塗っていてくれるとは思っているけれど、この後の自分が上手く立ち回れるかも問題だ。
──油断するとすぐに掻き乱してくるから……
ちゃぷ、と水面が揺らぐ。ぬるくなってきたお湯から身を引き摺り出し、深呼吸をする。浴室から出て体を拭いて、部屋着に着替えて、ポケットに忍ばせていたリップクリームを塗り──あとは、自分と彼次第だ。
「お待たせしました、先程のはお気に召して頂けましたか?」
悠からは余裕そうに見えるが、実際のところ珍しく巳波には余裕が全くなく、ソファーに座っている彼に寄り添う。彼からしたら大人の色気のある恋人が隣にくっついてくるので胸の鼓動は大変なことになっているのだが──
「ちゃんと塗ったけど……これで良いの?」
悠が不安げに出した手を自分の頬に持っていき、甘い香りと彼の高い体温にうっとりとする。想像していたよりもずっとずっと愛しくて離したくない。そんな心の中を読んだかのように悠は優しく巳波の頬を撫でる。
「気持ちいい?」
そう聞きながらも悠は巳波の肌が心地よくて堪らない。この綺麗な肌にずっと触れていたい。そんな欲望でいっぱいだ。
「ええ、とても気持ちいいです。亥清さん、このまま顔を近づけてくれませんか?」
言われるがまま近づいて、唇が触れる。ほんのりとした甘さが心地良い。
「ん……ぁ……」
舌を絡め合いより深くまで探り合う。この甘さはクリームのせいなのか、それとも。
「み、なみ……すき」
ふわふわとした口調で押し倒され、ソファーに沈む。キスだけでこんなになってしまうのだからこの先はまだお預けだ。
「私も好きですよ」
──沢山幸せをくれて、その素敵な声を聞かせてくれて、一緒にいてくれて、
言葉の代わりにもう一度キスを交わす。その柔らかさに包まれていると、甘く幸せな時はきっと夜が明けてもずっと続く気がした。