恋とはどんなものかしら④『恋って素敵、だって恋をすると綺麗になるのよ。』
そんなの、嘘ですよ、と言ってやりたかった。だってそんなの、同室の男を見ていればハッキリと分かるからだ。
綾部喜八郎の同室の男こと、平滝夜叉丸は花も綻ぶくのたまよろしく、どうやら最近は恋というものに熱心で、自分のサインやらブロマイドそっちのけで奇妙な本ばかりを読み漁っていた。最初こそ、すぐに飽きるだろうと思っていたけれど、意外や意外、それはなかなか終わる気配を見せなかった。
「もしかして、恋、してるとか…?」
「えぇ…?」
そうだ、確か守一郎がそんな事を言ったんだった。頬に手を当てて、恥じらうような素振りを見せた彼とは対照的に喜八郎は眉間に皺を寄せた。その時はただ「面倒くさいことにならなければいいなぁ」と思うだけだった。
けれど、それから状況は変わっていった。厳密に言うと、滝夜叉丸が変わっていった、ように思えた。
じっとこちらを探るように見つめてくるわ、本を読んでうんうん唸るわ。そういうことをされたり、恋の話をされる度に居心地が悪いわモヤモヤするわ、そういう不快感の蓄積があった。
そして、今日はその同室の男が、以前の守一郎のように頬を赤らめて誰かを見ているという心底気持ち悪い夢を見て、最低な気分で目を覚ました。
「…滝夜叉丸?」
まだ、日は登りかけで、いつもの時間よりは少しだけ早い。きっともうすぐでヘムヘムが鐘を鳴らすであろう早朝だというのに、自室の中にもう1人の姿は無かった。
のそのそと体を起こすと、くしゃくしゃになった紙が転がっていて、その皺をのばして中の文字を読んだ。
「・美しい
・優秀である
・実技も秀でている」
何なんだ、と思った。何の条件かは知らないけれど、どうせ最近ずっと宣っている恋だなんだに関連することだろうとは理解出来る。ならばこそ、それが相手にまつわることだという可能性も大いに有り得る。
(そんなの、お前のことみたいじゃないか)
喜八郎が滝夜叉丸をそう思っているかはさておき、滝夜叉丸は滝夜叉丸自身のことをそうだと認識していることぐらいは知っている。知っているけれど、彼が自分自身以外の何者かに興味を持つなんて、まるで知らない誰かになってしまったように思えた。
別に、今までベッタリと過ごしてきた訳では無い。むしろ、他の同室という関係性をもつ人らよりも、自分たちはずっとずっと淡白だった。
それでも、滝夜叉丸は何かあれば聞いていなくても喜八郎にベラベラと全てを喋るし、特にそれをキチンと聞いている訳では無いがそういう雑音が「当たり前」だった。部屋の中では静かな時間も少なからずあったが、それはただ単に「話すことがないだけ」だった。
確かに互いに自立しているし、マイペースだし、くっつきあっている訳では無いけれど、まるで呼吸するみたいにそこに「在る」ものでしかなかった。
だから、近頃の何かを言いたげに含んだままでいる滝夜叉丸に苛立ってしょうがなかった。
「今日は、随分早かったんだね」
嫌味っぽい言葉になってしまったが、仕方がなかった。実際不快感を感じていたから。勝手にすればいいけれど、今までだったら「先に行く」やら「朝早い」やら、聞いていなくとも告げてきていたし、そういうものなのだろうと喜八郎もそうしていた。互いに特別なことをする訳ではなかったが、ただそういう習慣があった。でもそれが今朝、無視されたのだ。
「まぁな」
すん、と澄まして滝夜叉丸は返事をした。彼らしくもない、似合わない返事だった。
「何だか今日は様子が」「大人しい」「黙っていればあの人も」
ヒソヒソと人の声がする。その僅かに色めく声に、本当にこれが「良い」と思うのか、なんて余計に気持ちがささくれ出した。そういう振る舞いを、誰が望んだのか、そんなことも聞きたくもなかった。
「なんだ喜八郎、お前、私が恋しかったのか?」
そんなことを「お前」が言うのか、と思うと、頭に血が上るようだった。本当に、自分らしくもない、とは思うが、元々結構揶揄われるのは嫌いだったし、だからこそかは知らないけれど滝夜叉丸はそういうことをしなかった、のに。
「……誰が、お前なんか」
恋しいなんて、とは続かなかった。ずっと守一郎のそばで様子を伺っていた三木ヱ門が口を塞いだからだ。酷い言葉だというのは分かっているし、わざと、傷つけるために選んだ言葉だった。だめだ、と三木ヱ門が目を吊り上げて制止をしている。その隙に滝夜叉丸は食堂を飛び出してしまっていた。
(だって)
「いつものあいつを、かえしてよ」
三木ヱ門の手の中でもごもごと呟いた言葉はまるで迷子の子供のように拙くて、それが唯一聞こえていたらしい目の前の同級生は、怒りの表情から一転して、眉を下げて困ったような顔になっていた。
「と、言うことで、お前には洗いざらい吐いてもらわなきゃならない!」
とりあえず、と昼食を済ませると、三木ヱ門は喜八郎を捕まえて、食堂裏の落とし穴に引きずり込んだ。あとからその後を追って守一郎まで降りてきて、狭い穴の中で文字通り膝を突合せている。
「3人用じゃないんだけどなぁ」
「今はそんな話をしているバヤイではないだろう!」
三木ヱ門が語気を強めて言った。彼の声はよく言えぼ可愛らしいが、こうも強く喋られるとキンキンして敵わない。思わず彼の方の耳を指で塞いだ。その時だった。
「ごめん!!」
「そうきたかぁ」
反対側から、守一郎の特大謝罪が飛んできた。その声の大きさに耳が痛くなりながらも、鼓膜が、破れなくて良かった、と思いながら耳を揉む。なんやかんや煩いものの、滝夜叉丸の声は物理的な攻撃力はなくて良かった、なんて安心したりした。
「喜八郎がおかしいの、俺が変な事を言ったからだよな?」
「そうなのか、喜八郎」
「え?何の話?」
心底わからない、という顔をすると、その向かいで守一郎と三木ヱ門は顔を見合わせて首を傾げていた。それから、三木ヱ門は頭痛がするとも言いたげにこめかみを揉んで、「まずは状況を整理しよう」と言い出した。
「まず、守一郎」
「はい!」
穴の中では響くから、声を抑えてほしいな、なんて文句は口にださなかった。ついでに「僕の話を聞くためじゃなかったの?」という言葉も飲み込んだ。
「俺が前、喜八郎と、えっと…あの……恋の話をしたことがあって」
「うんうん、それで?」
顔を真っ赤にする守一郎とは対照的に、三木ヱ門はくそ真面目に頷いている。落とし穴の中で。変な状況だな、なんて他人事みたいに思いながらも不思議と久々に気持ちが凪いでいることに気づいた。
「その後に、喜八郎が落とし穴をたくさん掘り出したから、嫌だったのかもと思ったし…三木ヱ門もあの時期から喜八郎が不機嫌な気がするってわざわざ落とし穴に落ちていたりしたから、俺心配で!」
「おやまぁ」
そんなことしてたの?大丈夫?という言葉は相変わらずの4文字に飲み込まれた。守一郎は何の責任感を感じているのか、「何かしたなら謝る!」と外にまで聞こえそうな大きな声で喜八郎に頭を下げた。
「別に、嫌なことはまったくされてないけど」
「ほら、だから言っただろう?どうせあの滝夜叉丸のあほが何かをやらかしたんだって」
まったく覚えがない事を伝えると、三木ヱ門は気を病んでいる守一郎のためか、はたまたもしかしたら滝夜叉丸をただ馬鹿にしたかったのか定かでは無いが、喜八郎の返答に得意げになっていた。
「でも、流石にあれは言い過ぎだぞ。あの言葉は、あれは普通に傷つくだろう。」
いつも滝夜叉丸と喧嘩をしているのは三木ヱ門だというのに、彼は彼なりの一線を踏み越えてはいないというのは喜八郎も理解していた。だってあれは正しく「喧嘩」であって、今回の自分は「傷つける」ためにやっていた。だから、自分の非だって十二分に分かっている。それでも。
「だってあいつ、恋だのなんだの、五月蝿いんだもの」
「ほらやっぱり!喜八郎はそれが嫌だったんだ!」
不貞腐れた喜八郎の言葉にすぐに反応したのは守一郎だった。それから、先程言っていた自分の発言が不機嫌の発端なのではという事を指しているのだと頭で合点がいった。
「いやいや、本当に、守一郎のせいでは無いし、気にしてないから。」
そう肩に手を置いて、はた、と気づいた。
そうだ、別に恋だ何だの話をされて、守一郎を不快に思ったことは無い。穴の上で話に花を咲かせるくのたまたちだって、小動物のようで愛らしいとは思いこそすれど、不愉快になど一回もなったことが無かった。
「じゃあまた何でそんな」
三木ヱ門の言葉に、こっちが聞きたい、と返してやりたかったが、でもきっとこれは考えて、分からなければならない事のような気がした。だってこれはきっと、仙蔵が言っていた「自分にすら分からなくなってしまってる問題」とやらだと思ったから。
(滝夜叉丸だから、嫌だったんだ。)
こっちを見ようともせず、地に足の着いた努力とは違ってふわふわと舞い上がるようなことばかりを言って、彼らしくない態度で好かれようとするその様を、人は綺麗だと感じていたらしいが、ちっともそんなことはない、と喜八郎は思った。
派手で、うるさくて、変で、人前では見栄を張ってばかりだけどそのためにずっと泥臭い努力をしていて。結構泣き虫だし、寂しがり屋のかまってちゃんで、でも世話焼きでもあって。自意識過剰だし自己愛も強いけれど、有事にはすぐに飛び出して言ってしまうぐらい、他者への愛も強い人。
本当に、目が痛いほど眩しくて、面倒くさくて、そんな滝夜叉丸は本人が嘆くぐらいファンクラブの人は増えず、人気があるとは言えなかったけど。
(でも、そんな変なお前を誰よりも好きだったのは、お前だったじゃない。)
そういう滝夜叉丸が、面白くて、多分大好きだった。
(誰かの為に、綺麗にならなくても良かったのに。)
誰が、お前なんか好きなんだ。お前と、僕以外にさ。多分本当はそう言いたかったのかもしれない。