君を知らずに100年生きるより④ 流されるままに残りの一日を過ごしたけれど、三木ヱ門が提案した「恋人ごっこ」はそう宣言されただけで、いつも以上なことは特に起きなかった。そして、そのまま今日が終わっていくかと思っていた矢先に三木ヱ門は二人の間から衝立をとっぱらってしまった。
「火を消してもいい?」
「ああ」
変わらず困惑したままそう尋ねながら、灯明の火を吹き消すと、外からは鈴虫の声だけがしているような、静かな夜が部屋に満ちた。
衝立なんて、たった1枚の板にすぎないけれど、それが無くなっただけで、こんなにも彼の存在が近く感じるとは思わなかった。暗くなった部屋の中でも自分とは違うこがれ香の髪は淡く光るように浮かび上がっていて、それが神秘的に見えた。すると、くるり、と三木ヱ門は寝返りをうって、うさぎのような赤い目がこちらをとらえた。
「眠らないのか?」
「何だかさ、勿体ないような気がして」
なんだか眠れないのは三木ヱ門も同じなのだと、少しだけ嬉しくなる。今日をまだお終いにしたくない。実をいうとこんなことを思ったのは今日が初めてではないし、この部屋に身を横たえる度に思っていることでもあった。
「前はさ、真ん中に布団を敷いていたんだ」
「うん」
ぽつり、と三木ヱ門がこちらをじいっと見て話し出した。不思議だけれど、二人だけ世界から切り取られたような心地がした。ずっと、ひとりは寂しかったけれど、この夜は終わらないで欲しいと感じるほど寂しくはなかった。
「押し入れも全部、自分だけで使えたし、どんなに汚くしても迷惑をかける相手もいなかった。」
「便利だった?」
自分が来る前、どれだけの時間をひとりで過ごしていたのだろうかと思う。長屋の部屋は決して広いとは言えない。そう考えると、そりゃあ一人の方がずうっと勝手がいいだろう。
「そりゃあ正直ね。でも、委員会から帰ったら部屋は真っ暗で、2人分のおかえりが聞こえてくる後輩を見送って、静かな長屋に帰ってきたんだ。別にそれがどうって、思ったことは無かったんだが」
「うん」
三木ヱ門が守一郎に、滝夜叉丸と喜八郎の話をしてくれたことがある。とても素敵な関係だと感じたし、羨ましくも思った。そしてふとそれを思い返した時に、その二人をただ見てきたひとりの三木ヱ門の姿が見えたような気がした。彼はきっと否定するだろうけれど、誰よりも二人の関係性を理解し、知っている彼は、混ざりもせずにそれをどんな気持ちで静かに見ていたのだろうか、と考えたことすらある。
そして彼は以前、三人で長屋に住んでいる後輩の背中も見送っていたのだと知った。
滝夜叉丸と喜八郎の関係性や、彼らのいざこざを不器用に心配している姿を見て、もしかしたらどちらかを慕っているのか?と考えたこともある。でもきっと、三木ヱ門がこい焦がれているのははっきりとした個人ではなく、彼のための「誰か」なのかもしれない。だから。
「1人分の場所を開けるために掃除をしてからの方が、ずっと楽しい」
「…そっか」
自分が来ることを彼が心待ちにしていてくれたことが、ただただ嬉しかった。曽祖父との暮らし、ひとりぼっちの籠城、それだって大切な思い出だけれど、そこから歩んできた未来の中で明るく楽しみな気持ちを抱えて彼が自分を「待っていた」ことが、何だかとても意味があることに思えた。今ここで、2人で並んでいることは当たり前では無いのだと、それが嬉しくて、有難くて、泣きたくなった。
「三木ヱ門」
「なんだ?」
「次の休みにさ、団子屋さんに行こうよ。しんベヱからさ美味しい団子屋さんの話を聞いたんだ。少し歩くけどさ。」
「そっか、じゃあ…」
「ふたりで行こうよ」
三木ヱ門にありがとうと言わないと、と思った。出会ってくれてありがとう、同室になってくれてありがとう、友達になってくれてありがとう。それから、君を好きになれて、とても幸せだから、ありがとう、と。
「三木ヱ門はしたいことある?」
「したいこと…」
そう問いかけた頃に、三木ヱ門の思色の目がとろとろとしてきていた。もうこの夜が終わろうとしていることが寂しかったし、眠いんだな、というのが分かりやすくて、愛しいとも思った。
「いっぱい、ある…だから、次の次の休みも……」
そうか、次の次もあるのか、と当たり前の事に気づいた。それからきっと、次が来たらまた次を思ってしまう。それできっと、もっともっと前に出会えていたらって欲張りになっていくのかもしれない。
目が完全に閉じているのに、うろうろと手が伸ばされて、力尽きたみたいにぱたんと床に落ちた。布団にいれてあげようとその手を握って、それから離すのが惜しくなった。
「おやすみ、三木ヱ門」
どうして手を伸ばしたのか、考えていた。触れた手は指先が冷えて、かさついている。手のひらにはたこができていて、たくさん傷ついたことがあるのであろう手は、その可憐な容姿に似合わないほど硬かった。闇に目が慣れてきて、その指先は蓄積された煤汚れが落ちずに黒ずんでいるのが分かる。
彼が、負けず嫌いだと知ってる。挑戦的で、激情型でもある。それから、沢山努力をして、悩んで、歯を食いしばって、立ち上がっているのも、知ってる、でも。
この手がこんなに固くなるほど彼ががむしゃらにあゆみ続けて、打ちひしがれた時に、この部屋にひとりで帰ってきたその時に、どんな心地がしたのだろうかと思う。彼は強くて、自分の力で立ち上がれることも見てきたから分かる。ただ、自分が、その時にも「おかえり」と、言ってやりたかったと思う。
「三木ヱ門、ごめんね」
出会うの、遅くなっちゃった。そのつぶやきは届かない。当の本人はあどけない顔をして眠っている。それで良かった。三木ヱ門が安心して居られるこの部屋が好きだから。
そうやって眺めて居られる夜が過ぎていくのが惜しくて、いつもよりずっと夜更かしをしてしまった。
「三木ヱ門……?」
目を覚ますと、隣は空になって、布団は畳まれていた。「おはよう」を逃してしまったな、と寝起きのぼんやりとした頭で考えながら部屋を見回す。まだ、寝坊という時間では無い。
手ぬぐいを持って井戸へ向かった。日が登り始めてそう時間も経っていないため、三木ヱ門もそこにいるような気がした。
「…ような気がして……」
(三木ヱ門の声だ。)
朝霧の中から、かすかにあの高い声がした。まだ薄ぼんやりとした意識のまま、この角を曲がれば居るのだろうそこへ顔を出そうとしたその時に、自分の名前が耳に入った。
「守一郎は、とても優しくて、いいヤツです。きっとみんなが彼を好きになる。だから、私は守一郎に、誰かと幸せになって欲しいと、本当に思っているんです。」
「誰かと、なんだね?」
タカ丸も居るのか、やら、自分の話をしていたのか、やら、思った事はたくさんある。でも、ひとつの彼の願いが引っかかってしまった。
(誰かと幸せに、か。)
守一郎は十二分に幸せだった。ずっと、自分が不幸や恵まれていないと嘆いたことは無かったし、紆余曲折を経て、今この学園で学ぶことが出来ている。それに、素敵な人に出会って、今は恋をしていて、それはとても幸福なことだと思っていた。
それでも三木ヱ門は守一郎が、「誰かと恋をして、誰かと幸せになる」ことを望んでいた。
(三木ヱ門じゃあ駄目なの?)
彼の帰る場所や、居場所になりたいと思った。きっとそれが恋だって信じたかった。それでも、色々なことに経験がなくて、今、この場からの動き方すらわからなくなってしまっている。
(三木ヱ門が望まないなら、恋なんて知らなければ良かったな。)