くゆるおもいイエル達が拠点としている廃墟の屋上で、ミオリネは左右を見渡す。人気のないことを確認し、安いプラスチックの使い捨てライターを慣れない手つきでカチカチと鳴らす。苦労して点火した火は、咥えた煙草を焦がすばかりでなかなか燃え移ってくれない。
「あ、あれ?」
「吸いながらつけるんだよ」
背後から声がして、ミオリネは文字通り飛び上がった。
「…ったく、何してるんだ」
呆れた顔をしたイエルがミオリネを見下ろしていた。そのまま口に挟んでいた煙草をひょいと取り上げられる。
「かっ、返して!」
「返しても何も、俺のだろうが」
持ち主の留守中にジャンパーのポケットから拝借した煙草は、届かない位置まで掲げられてしまった。背の低いミオリネは、取り返そうと手を伸ばしてぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「〜ッいいじゃない少しくらい!」
「だーめだ。ハタチになってから吸いなサイ」
「自分のこと棚に上げて…説得力ないわよ!」
ハタチに足りてない喫煙者の真っ当な注意ほど、響かないものはない。定型文で説得するのを諦めたイエルは、ため息を吐いた。
「別にいいもんじゃないぞ。不味い上に体に毒なだけだ」
「……あなたは吸ってるじゃない」
イエルからはいつも煙草の匂いがした。宇宙には煙草を吸っている人間というのは、実は殆どいない。火気厳禁であることも多いコロニーでは宇宙開発の黎明期に、廃れてしまった嗜好品らしい。
彼の近くにいると鼻腔をくすぐる。パーティーで振り撒かれるミオリネの嫌いな男物のオーデコロンとは違う、もっと苦くて雑みのある、嗅ぎ慣れない香り。
きっかけは、ほんの少しの興味だった。
煙草への。あるいは彼への。
むくれた顔をしていると、小さなため息を吐いたイエルがミオリネの頭に手のひらを乗せる。「一本だけな」という声にミオリネは、ぱっと表情を輝かせた。ミオリネの諦めの悪さを知っているイエルは、自分の留守中に煙草をくすねられて無駄にされるよりは、ここで欲求を解消しておいた方がいいと判断したらしい。
「ほら、息吸え」
イエルはミオリネの後ろから覆い被さるようにして、ライターの火をつけた。いつもの煙草の香りが近くなる。早くなった鼓動に気付かれないように、言われた通りミオリネは煙草を咥え息を吸った。
途端、真新しい煙の味が口いっぱいに広がって、(そしてそれが彼と同じ匂いなんだと意識してしまい)思い切り咳き込んだ。
「あー、だから言っただろ?」
けふん、けふんと咳を繰り返すミオリネの背中を軽く叩いてやってから、ミオリネの口元から煙草を取り去ったイエルは、そのまま自分の口に咥える。あ、と思ったがあまりに自然な動作だったので、何かを言うのも癪な気がしたミオリネは代わりに悪態をついた。
「体に毒、って言ったくせに」
「これはこれでメリットもあるんだよ」
イエルが言うには、喫煙所に集まる人間はたとえ初対面であっても妙な連帯感があって、煙草を吸っている間はほんの少し口が軽くなってくれるらしい。
「他にもあるけど、秘密」
にっと悪戯っぽく笑い、慣れた仕草で空に向かって煙を吐き出す。
「こんなもの吸わないでいいなら、その方がいいんだよ」
夕方のオレンジ色に染まった空気に、毒の煙が溶けていく。逆光のシルエットに目を細めながら、まだ口の中に残っている香りが消えていくのを、ミオリネは名残り惜しく思った。
こんなもの吸えたところで大人になれただなんて、ましてや彼に近付けただなんて、思わないけれど。
「…ねえ、知ってた?香りって強く記憶に残るんだって」
ふと、何かの折にライブラリで読んだ知識をそのまま口にする。近い将来、現実と夢の狭間のようなどこかモラトリアムのようなこの時間を、煙草の香りと共に自分は思い出すのだろうか。
それを聞いたイエルはもう一度煙を吸い込み、ふーっと吐き出した。
「だったらなおさら、必要ないだろ」
彼の笑った気配がする。その表情は夕陽に照らされて覗うことはできなかった。
*
カチッ
手元のライターに火が点る。
あの頃は覚束なかったこの動作にも、今やすっかり慣れてしまった。
宇宙とは違う、地球の湿気った夜の空気に、ミオリネは一筋の煙を吐き出す。
(…これも違う)
地球に降りる度に、ミオリネは煙草を一箱買うことにしている。銘柄はわからないので目に付いたものを適当に。不毛なことはわかっている。けれど、年々薄れていく記憶を引き止める術はなく、この思い出はミオリネにとってあの時間が確かにあったのだという、数少ないよすがだった。
あの年の冬に差し掛かる頃、イエル・オグルをリーダーとしたアーシアンのテロ組織と、ベネリットグループとの交渉が秘密裏に行われた。アーシアン側の要求は、現地の利権の確約と治安維持の名目で配置されているMSの撤収。交渉材料はベネリットグループ総裁の娘の身柄の引き渡しだった。
しかし交渉は決裂。ベネリットグループ側の武力行使をきっかけに交渉の場は乱戦になった。MSまで投入された制圧戦はベネリット側が圧倒して、アーシアン側に多大な犠牲を出して終結した。
(…何もできなかった)
その場でドミニコス隊に身柄を確保されたミオリネは、拘束を振り解こうとがむしゃらに暴れて泣きじゃくるだけで、見知った顔が次々に倒れていくのを、見ていることしかできなかった。当時の無力感が蘇り左手に力が入る。まだ中身の入っている煙草の箱が、くしゃりと潰れた。
あの頃のミオリネは何の力もない子どもで、その命すら〝総裁の娘〟という肩書を、大人達に利用されたに過ぎなかった。
苦い思いを煙草の煙で押し流してしまいたい衝動を抑えて、ミオリネは携帯灰皿に煙草を押し付けて火を消す。
煙草は味と匂いを確認する、ひと呼吸までと決めている。
(銘柄によって匂いが違うなんて、知らなかったのよね)
主犯のイエル・オグルの遺体は見つかっていない。
あれから何年も行方を探しているが、地球での調査報告を聞く度に落胆する。煙草を吸い始めたのは、何度目かの報告を聞いた後の夜のことだった。あの時の匂いとは違うと気付いても、その習慣は続いている。すがるような気持ちで、同じ銘柄を見つけたら彼も見つかるんじゃないかという、願掛けめいた理由だった。
近ごろは怖くなる。同じ香りが見つからないのは、あの時の思い出をミオリネがちゃんと思い出せなくなっているからではないかと。その恐怖は新しい煙草を吸う度、季節を重ねるごとに強くなっている。
─さよなら。
銃声の怒号の飛び交う土煙の向こう側で、彼の口が別れの言葉の形に動いて微笑んだ。それが最後だった。どんなに記憶が薄れてもその時の言葉と彼の表情だけは、突き刺すような痛みと共に、ミオリネの中から消えてくれない。
痛みを噛み締めるように、ミオリネは目を伏せる。
憧れのような恋だったと思う。
父親という鳥籠から抜け出せなかったあの頃のミオリネにとっては、自分の力で何かを成し遂げようとする彼は眩しく、大人に見えたのだ。
ミオリネから見た彼は、自分と違って自由で、強い信念を持っていて、仲間から信頼されていて。
自分とたった一つしか違わない、十八歳の少年だった。
あれから幾年も経ち、彼の年齢を通り過ぎて、ミオリネは大人になった。
今ならわかる。当時の彼が、どれだけのものをその身に背負っていたのか。
(…どこにいるの)
はやる気持ちとは裏腹に思い出と異なる残り香だけが、肺の中に降り積もっていた。