年上になりたい 年を取る方法を探している。わりかし本気で、無理だとわかっていながら、どうにか「年上」というものになりたくて仕方がない。
あの人の「年上」になりたい。
あの人というのは、俺の会社の上司で俺が好きな人のことを指す。月島課長。月島さん。俺より十も年上の、入社年次に至っては十五年も先輩に当たる人だ。
仕事が出来て、同期で一番早く課長に昇任して、上司の信頼も厚ければ、部下からの支持率だって馬鹿みたいに高い人。何事もそつなくこなすタイプのくせに、やけに忘れ物が多かったり、机に積みあげた資料で定期的に雪崩を起こしてみたりと、人間臭い隙があるのが、いい。銭湯巡りと筋トレが趣味で、休日出勤のときにラフなTシャツでやってくる彼の腕の逞しさには、見るたびにうっとりとしてしまう。
そんな月島さんの好きなタイプが「年上」だということを耳にしたのは、この間行われた飲み会の席でのことだ。
月島さんが参加するからと、たぶん、五年ぶりぐらいに参加したその飲み会で、俺は月島さんの斜め前──と言っても、ちょうど将棋盤の桂馬の進むコマの位置、六人掛けのテーブルの対角線上に位置取って、月島さんが他の面々とあれこれ話をしているのを、同じ輪に入ったような顔をして、ずっと聞いていた。
月島さんはビール党であるらしかった。乾杯のときから、メインの鍋がぐつぐつと湯気を立たせるまでビールを飲み続けていた彼はずっと機嫌がよくて、普段の「岩」みたいな雰囲気が柔らかに崩れていた。ちょうど、煮すぎてくたくたになった鍋の中の白菜みたいに。
そういう平和でまろやかな飲み会の終盤、ラストオーダーも間もなく、というぐらいの時間だったように思う。酔っぱらった月島さんを肴にちびちびとハイボールを舐めていた俺の右隣り、月島さんの斜め前に座った俺の同期が、不意にそういう話題を口走ったのだ。「そういう」──愛とか恋とかそういう、最近じゃあ、一歩足を踏み間違えればセクハラ・パワハラ通報案件となりかねない、あれだ。
月島さんに今のところ恋人なる存在がいないことは知っていた。節々に太くって男らしい薬指に指輪が光っていなかったし、少し前に後輩の結婚式云々の話題が出たとき、俺は独り者だからな、と肩を竦めた姿を見た。自嘲というには随分と明るく、爽やかな諦めが滲んだようなその声を聞いて、俺はほっとした。そういうことなら、まだ俺にも勝ち目があると思ってここまで虎視眈々と、恋人の座を狙ってきたというわけである。
グラスに口を付けながら、そっと月島さんを窺った。月島さんの好きなタイプがわかれば、戦略的にも断然有意である。月島さんは、うーん、と細い目をしたまま、首を傾げていた。目の端がほんのり赤らんでいて、とてもかわいい。
「これと言ってはないなぁ」
「ええ?優しい人とか、明るい人とか、笑顔が可愛い人とか、そういうベタな感じも特にですか?」
「まぁ、いいだろ。俺の話は。この歳になったらな、好いてくれる相手がいるだけでもありがたいことなんだぞ」
「この歳って、課長まだアラサーでしょう。老け込むにはまだまだ早いですよ。ほら、若い子とか、年上が好みとか」
「年下はさすがにないだろ。同い年か年上だな」
月島さんは何気なくそう言って、だいぶ残りが少なくなっていたビールのジョッキを呷った。流れるような動作で呼び出しボタンを押した同期は、俺のほうを見て、「尾形は?」と問うてきた。俺は一瞬固まって、慌てて首を左右に振った。微妙に空いた間を誤魔化すために、ほとんど空のグラスを呷った。口の中に流れ落ちてきたぬるい水滴はただ絶望の味がした。
自分の恋心というやつに気づいてからずっと、俺は模範的部下であり続けてきたつもりだ。仕事を任せられる部下として。仕事ができると一目置かれる部下として。そうして、いつか、月島さんに好かれる可愛い部下へと距離を詰めていく。俺の戦略はそれなりに無難で、まともなものだったと思っている。
今日だってそう。月島さんの残業に付き合って、夜の執務室に二人きりという絶好のシチュエーションを創り出す手腕は、我ながら手練れのそれだ。
だというのに。月島さんは年上が好みで、月島さんのことが好きな俺は、彼よりずっと年下なのだ。
どうやったって年を重ねることは無理だし、年上らしく振る舞おうにも、十もある年の差を埋めきるのはさすがに無謀というほかない。
「うわ。もうこんな時間か。悪かったな、付き合わせて。お前が手伝ってくれて助かった。ありがとうな」
「いえ。ちゃんと貸しにしますんで」
「わかってる。飯でいいか?」
実際、俺の努力はそれなりに実を結んでいた。今じゃ多少砕けたことやら、生意気なことを言ったって許してもらえる気心知れた部下、ぐらいの位置まで昇り詰めている。ここまで一年近い献身があった。おかげさまで、残業に付き合ったお礼にと缶コーヒーを渡されるところから始まって、たまには昼飯をおごってもらう、ぐらいには順調に関係も深まってきている。
「飯でいいです」
けれど、これじゃあ、いつまで経っても、この人の恋人になれそうもない。この間の飲み会から、年上にはなれないなりに、年上らしく、頼り甲斐とか、余裕とか、そういうものを演出しようと模索してきたけれど、結局、手ごたえはない。よくも悪くもこれまでと一緒。ずっとこのままなんて、望んでいないはずなのに。
ちらと横目で見た月島さんはパソコンを閉じ、椅子から立ちあがって大きく伸びをしている。天井に向かって伸びた腕と背中の逞しさに、ひっそりと見惚れて、ほんの少しの決心をする。
「あの、」
「ん?」
「今日これからとか、どうですか。飯。……ほら、今日、夕飯、食い損ねとるでしょ、俺も、月島さんも」
気を抜くと泳ぎそうになる目をなんとか月島さんの目元に留めて、けれど、どんどんと言い訳をするみたいな口調になっていくのがみっともない。
だいたい、呑みに連れて行ってください、とねだる段階で色々と違う気がする。年上の相手はどういうふうに月島さんを誘うんだろうか。飯に行くぞ、とか?飲みに付き合え、とか?──いくら考えたって答えは出ない。
「おう。いいぞ。お前がいいなら」
月島さんは、なんの衒いもなく、上司らしい顔で笑った。俺は、はい、と言った。それは、哀しいぐらいに従順な部下らしい返事だった。
ふたりで飲みに行くことのは、これが初めてだった。
どういう話をして、どういうふうに振る舞えばよいのか正直よくわからなかった。ただ、沈黙するのはもったいないような気がして、無難で、どうでもいい話を、矢継ぎ早に口にし続けた。月島さんはそのいちいちに律義に答えを寄越した。笑いながらジョッキを傾ける月島さんを見ながら、俺も倣って酒を呷った。
月島さんは説教臭いところもないし、愚痴めいたことも言わないし、とても理想的な上司だった。俺の呑むペースを気遣って、途中からチェイサーを注文してくれるあたりも。対して俺は、理想的な部下を気取るにしては随分飲みすぎていたように思う。
「珍しいよな」
仕事の話もひととおり尽きて、会社の近所の飯屋についての情報交換──交換というより、周囲の飯屋にやけに詳しい月島さんからのおすすめ紹介を俺が興味深く、一方的に拝聴していた─のあと、ぽそりと月島さんが言った。ちらと俺を見て、残り三切れのキュウリの浅漬けをひとかけら箸で摘まみあげる。
「何がですか」
「お前が人前で飲んでるのが。滅多に飲み会来ないだろ、お前」
ゆっくりと持ちあげられた緑が月島さんの口の中に消えていく。パリポリと小気味のよい音を立てながら、月島さんは箸を一度取り皿の上に置く。ごくんと喉仏が動いた。
「そうでもないでしょう。こないだだって、いましたよ、俺」
斜め前の席に陣取って、月島さんを眺めながら酒を飲んでいた。
月島さんは、斜め上あたりに視線を漂わせたあと、ああ、と平坦な声をあげた。あまり関心がなさそうに、月島さんがまた俺のほうを見る。目が合った瞬間、月島さんがやわく笑った。
「こないだだけだろ」
こないだと同じぐらい、月島さんは適度に酔っぱらっていて、雰囲気が柔らかい。真正面から見ると、低い鼻先がほんのりと赤らんでいるのがよくわかる。その赤い皮膚を束の間うっとりと眺めていると、月島さんは俺の視線の先を確かめるみたいに少し俯き、不思議そうに首を傾げた。慌てて、目を伏せておく。
「別に。酒ぐらい飲みますよ。……それこそ、月島さんの奢りなら、いくらでも」
グラスを呷り、続けざま、チェイサーを煽る。カランと氷が鳴る。グラスの底でテーブルを打つ。力加減を間違った。テーブルが揺れた拍子に、皿の上にあった箸がころんと転がった。箸を拾おうと手を伸ばそうとする。半端に浮いた俺の手の先、月島さんの指がそれを摘まんで、そっと皿の端に置いた。
「そうか」
「そうです」
間髪入れずに答えていた。勢い込んだ自分の声に、今のは必死過ぎたなと遅れて思う。酔っている。酔っているせいだ。もう一度チェイサーを飲む。よく冷えたそれはすっきりと食道を通って、みぞおちのあたりを涼ませてくれる。けれど、それも一瞬のことだった。心臓から伝う鼓動がすぐに胸元を熱くする。頬がじんわりと熱を持つ。続けざまハイボールを呷る。口に落ちてきた氷を噛み砕く。小さく散った破片が冷たくて気持ちがいい。
「弱いだろ。無理するなよ」
氷だけになった俺のグラスを月島さんが取りあげようとする。未練がましくガラスに張りついた俺の指先が水滴に滑って、とんとテーブルの上に落ちた。手の制御がうまく利かなかった。アルコールが指先にまでたっぷりと詰まっている。ぎこちなくしか動かない手をぼうっと見ていると、月島さんがほら見たことか、というふうに小さく笑った。年長者らしい、寛容さと鷹揚さを讃えた微笑み。その柔らかい表情は嫌いじゃない。けれど、なんとなく悔しくもある。子ども扱いされるのは嫌いだ。だって、それじゃあ駄目なのだ。
「無理してません」
月島さんの微笑みが深くなった。くつくつと太い喉が鳴る。やっぱり悔しい。唇が尖りそうになるから、口元に力を籠める。月島さんはまだ笑いの余韻を首元と口元に漂わせている。たぶん、俺の唇が曲がっているのだろう。まるきり、拗ねた子どもの顔をしているのだとしたら、笑えない。咄嗟に手のひらで口元を覆った。
「お前って、結構、かわいいところあるよな」
月島さんは自分のジョッキを傾ける。ひとくち、ふたくちとビールを呑み込んで、それを音もなくテーブルに置き直す。濡れた手をおしぼりで拭く。それから、彼はすっとこっちを見た。
酔って潤んでいる目。少し赤らんだ眦。こちらの様子を窺う眼差しは、どことなく楽しげに見える。
「かわいい年下は、お嫌いですか」
いい感じに、冗談ぶった声を作れた、と、思う。いつもの軽口のテンションを忠実に真似られた。口元に置いた手はそのままにしておく。手のひらの下で、うまく笑えなかった頬がひくついている。瞼に力を入れて、目を細めた。月島さんからこちらの瞳が見えないように、薄目でじっと相手を窺う。
月島さんはゆっくりと頷くと、パッと破顔した。でこぼこした歯が見える。飛び出た八重歯がいやに無邪気で、無駄にかわいい。
「いいや?好きだぞ」
心臓がドンと弾けかける。強烈な鼓動をどうにか飲み込みながら、からかわれているのだ、と、必死になって自分に言い聞かせた。そう言い聞かせないと駄目だった。ただの軽口にすぎない「好き」に、うっとりと酔いしれてしまいそうになる。この人の無防備なひとことに心がさんざんに乱れる。からかうなんてひどい、と思う。ひどいと思う自分にうんざりする。でも、どうしたってひどい、と思ってしまう。
「年下は趣味じゃねぇのに?」
ほんとうに、恋とは厄介なものなのだ。心臓から勝手に声が出る。軽口らしいコーティングをし損ねた声だ。勝手に動く頬はどうにか手のひらの陰に隠し続ける。瞼の陰に隠した目でねめつけてみれば、月島さんはぽかんとした顔で首を傾げている。
心当たりがない、と言わんばかりの彼の様子に、つい手のひらをテーブルに打ち付けていた。遮るもののなくなった口から勢いよく言葉が迸る。
「この前の、ほら。課の飲み会で。あんた、言っとったでしょう。付き合うなら同い年か年上がいい、って」
月島さんは左斜め前あたりに視線を投じたまま、しばらく固まった。俺は口を開けたまま、月島さんの答えを待った。表情を取り繕うことも、隠すことも、完全に忘れたまま、月島さんの口が開くのをひたすらに待った。
「あぁ。そんな話したっけなぁ」
「は?」
「あの飲み会、若手の女子職員もいたしな。年下がいいとか言ったら下手したらセクハラだろ。 あの手の話題は色々気を遣うんだぞ、こっちも」
他人事のような口振りで、月島さんはそう言った。一応は思い出したような気はするけれど、あまり確証は持っていないのだというふうに月島さんは眉尻を下げ、苦笑を溢す。さっと笑みを納める。
言われた俺は、肩の力ががくんと抜ける。
月島さんにとってはただ無難な応答を選択しただけで、特段深い意味のない発言だったということらしい。俺のほうはそうじゃなかったのに。と、お門違いな苛立ちが一瞬眉間のあたりを衝いた。けれどそれをすぐさま打ち消す勢いで頭が沸騰した。
じゃあ、俺にだってチャンスはあるじゃないか。頭の中で特大のファンファーレが鳴り響く。我ながら調子がよすぎて、笑うしかない。
「じゃあ、本当のところ、どういう相手がタイプなんです」
勢いのまま、訊いた。訊いたところで、もっと致命的な回答が寄越されるかもしれないのに、と俺の中の冷静な部分が囁く。例えば、「かわいい『女性』が好き」だとか。そう思うと冷えていたはずの頭の隅がぐらぐらと煮え立つ。勝手な嫉妬と勝手な絶望がぐつぐつと茹る。脳の芯が熱に痺れてくる。咄嗟にグラスに残った氷を食んだ。ガリガリと音を立てる。氷を呑み込んだ食道だけがうっすらと涼しい。もう一つ、氷を口に含もうとする。
「好きになった相手がタイプだな。年下でも。好きだぞ」
月島さんの言葉が頭に到達した瞬間、また呆気なく心臓が跳ねた。あまりに力強く内側から響く鼓動に自分でも驚いた。息が苦しいぐらいだった。思わず、口を開き掛け、口に入った氷が飛び出そうになって慌てて唇を閉じた。何をやってるのだろうと呆れる。心臓がうるさくて、胸の中が死にそうなぐらいに熱い。
月島さんは、ジョッキを銜えながら、じっと静かにこちらを見ていた。穏やかで、やはりどこか楽しげな目を見ていられなくて、視線を逸らす。唇の赤さが目に付く。分厚いガラス越しなのに、その唇が笑っているのがわかる。ビールに湿った唇はジョッキが離れたあとも、それはカーブを描いたままだった。
見たことのない顔だった。意味ありげな微笑。かわいいような、色っぽいような、しっとりと濡れた顔。熱とアルコールのせいにして、その顔と言葉とを都合よく解してしまいそうになる。好きだと言われたのだと、思い込んでしまいたくなる。
口の温度に氷がじわじわと溶けていく。頬の内側だけが冷えて、頬の外側がますます熱い。
たまらず、両手のひらで顔を覆っていた。けれど、今更すぎた。赤くてだらしなく蕩けた頬も、切実に光っているだろう目も、月島さんにはしっかり見られてしまっていたのだろう。その証拠に、俺がそのまま俯けば、ははは、と月島さんの笑い声が聞こえてきた。
その声は、上司らしくも、年上らしくもなくって、いたずらに成功したガキの、明々とした笑い声にとてもよく似ていた。