寝たいから、声を聞かせて バイトの時給は一万円だった。普通に考えて、高い。そして、冷静に考えれば胡散臭い。Q2とかで有名なテレクラの「テレ」じゃないバージョン。と、入店面接に際して店長から胸を張って説明されたが、ジェネレーションギャップがえぐすぎて理解不能だった。神妙な顔で勤務条件についてやり取りをし、早々にシフトを埋めた帰りの電車で「テレクラ」をスマホで調べてなるほどな、と思った。
「お待ちしてました。ご指名いただいた『百』です」
要するに、俺のバイト先は、客に声だけを提供するニッチな風俗店なのである。
プレイルームは店舗型のデリヘルと大きく変わるところはない。客が変わるごとにシーツと枕カバーを取り換えるだけのシングルベッドと、14インチの小さいテレビと折り畳み式の安っぽいローテーブル。そして、シャワールームがワンセットになった小部屋で客にサービスをする。普通のデリヘルと違うところと言えば、シングルベッドの頭側の壁一面がマジックミラーになっていて、その奥に俺たちキャストが適宜座って声をお届けするという、独特な仕様が取られていることくらいだろう。接触が不能であることを重視するなら、デリヘルよりも覗き部屋(これも、店長が言っていた。例えがいちいち古いのだ)と言うほうが形態としては近いのかもしれない。
「……ああ。えっと、よろしくお願いします」
基本的にはサイドボードで薄ぼんやりと光るランプシェード以外に照明のない明度の低い部屋の中で所在なさげに立ち尽くしていた男は、声の出所を探るようにミラー越しにこちらを見据えた。そして、さしたる表情を浮かべるでもなくぺこりと一礼してからおもむろにシングルベッドに横たわる。
「なんでもいいから、喋っててくれ」
「はい?」
その客は、今日が初めての新規客だった。最初から俺を指名してやってきたから、そういう趣向──男の低い声に苛められることで興奮するという変態─かと思いきや、そうではないらしい。
「君の声を聞いてると眠れそうなんだ。ああ、羊を数えるとかそういうので構わないから」
男はネクタイを緩めておもむろにベッドの上に寝転がると、仰向けのまま腹の上に手を組み、すぐに目を閉じてしまう。
風俗店にありがちなピンクがかった照明を浴びて、白いシャツを薄ピンクに染めながらも、仮眠中のサラリーマンと少しも変わるところのない様子で仰向けで寝入ろうとする相手に、さすがの俺も面食らった。
客の中にはご丁寧に脚本めいた紙を渡してくる輩もいる。そういう気色の悪い熱意をお示しいただくほうがよっぽど仕事がしやすい。そうじゃなくても、好きに責めてくれ、というリクエストのほうがまだ、対処のしようがあるってもんだ。
「ええっと、」
適当な音を発して間を繋いだ俺に、男は瞼をピクリとも動かさない。
「……それが難しいなら、ほら、あの、むかしむかし、ってやつ。読んでくれないか」
最小限の唇の開閉。紡ぎ出された声も、どこまでも淡々としていた。
「あの」と言われたのは、ホームページ上に乗せられているサンプルボイスのことだ。風俗店のHPに一部の嬢の写真を載せるのと同じ括りで、この風俗店のHPには一応キャストごとのサンプルボイスが載せられている。健全さを装うためなのか、それとも店長の歪んで捻じれた趣向の表れなのか。桃太郎であったりシンデレラであったりと、誰もが知っている物語の数ページを俺たちがひたすら無感動に読み上げた、それ。ひらがなが多く、わずかな漢字にもご丁寧に読み仮名がふられた絵本を手に録音したとき、こんなもんを聞いて欲情が擦られるようなことはないだろうと半ば呆れていたものだが、多少の参考にはなっとるんだなぁ、と妙な感動を覚える。
「わかりました」
返事をしながら、立ち上がる。客待ち中の暇潰しのために用意されている漫画やら雑誌やらがぎっしりと詰め込まれたカラーボックスへと歩み寄るが、さすがにその箱の中にそれらしき絵本は見当たらない。
「すみません。絵本、こちらに準備がなくて、」
「ああ、そうですか。じゃあ、新聞か何かはありますか。本当になんでもいい。何か話してくれれば」
マジックミラーの向こう側に声を掛ければ、すぐに答えが返ってくる。落胆した様子もなく、淡々とどこか投げやりに聞こえる声だ。
俺はカラーボックスの側に置かれたマガジンラックに目を走らせて、ご所望の「新聞か何か」を探してみた。灰色の新聞はない。代わりに、電車の吊り広告のままのピンクやイエローという暴力的な色合いをした週刊誌の発見に至る。
俺は、くじ引きの要領で適当な雑誌を引き抜いて椅子に座り直し、適当にページを開く。かつて一世を風靡したらしいとある俳優のインタビュー記事を機械的に読み上げる。ミラーの向こうで男が一度深く息を吐き出した。
「……ありがとう」
そうとだけ言って、本格的に寝入ろうとし始める男の顔を雑誌越しに何ともなしに眺める。
ピンと張ったシャツには清潔さと几帳面さが漂っていて、折り目の付いたスラックスの膝のあたりに寄った皺や、顎のあたりの伸びた髭には疲弊の気配がする。
どこにでもいるサラリーマンがそこには横たわっている。
ここは風俗なんですが。あんたが眠ろうとしているそのベッドでは今日も男がふたり腰をはしたなく振りたくっていたんですが。何ならその一部始終をここで説明してさしあげましょうか。──そんな下種なことを考えながらも、俺は、普段、手に取ることもなければわざわざ読み込むことなど絶対にしないインタビュー記事を一語一語丁寧に発声してやった。それだけじゃない。そのインタビュー記事を読み終えたあと、ミラーの向こうで寝息が聞こえ始めるまでの間、続く覆面座談会だとかいうくだらない記事を機械的に読み上げ続けてやった。
結局、俺が商売道具である「声」を使ったのは、十五分にも満たない短い時間だった。その客はわりとすぐに寝入ってしまったのだ。
約一時間後(彼は九十分コースで予約していた)、プレイ時間を区切るためにセットされたアラーム音で目を覚ました相手は、大きく伸びをしながらベッドから起き上がり、いやにすっきりとした顔でこちらを見た。
「ありがとう。よく眠れた」
俺の姿は見えていないのだろう。少しずれたあたりに視線を向けた彼は、ゆっくりと深く頭を下げると、すぐさま立ち上がり、そのままてきぱきと部屋を後にした。
ここは風俗店だった。ニッチで風変わりで肌と肌の触れ合いだとかはまったくないし、もしかしたら風俗店としての届出をしていないのかもしれないが、多くの相手は、ベッドの上で腰を振って、出すものを出して帰って行くところなのだ。
プレイ終了のタイマーを目覚まし時計代わりにするそのひとは「月島」と名乗った。本名なのかどうかはわからない。けれど、よく使われる偽名──「渡辺」だとか「山田」だとか「田中」というより、彼に似合っていたので、気づけば俺は、毎週金曜日に俺を指名してプレイ時間を丸ごと使って仮眠を取って帰っていく彼のことを「月島さん」と呼ぶようになっていた。