搭乗時間て意外と長い 空港の待合室にはたくさんの人が飛行機の搭乗時間までの暇を潰していた。新八は目立たない隅の空いている椅子に腰を下ろした。無事に手続きを終えることが出来て、思わずフゥと息を吐き出した。あとは飛行機が安全に飛んでくれるのを待つばかりだ。3月に入ったばかりの東京はまだまだ肌寒い。そこから更に北上するのだから、万が一大雪によって欠航になる可能性もある。どうか問題なく飛んでくれますようにと、新八は心の中で祈った。そして、リュックサックから本を1冊取り出した。それは、旅行雑誌だった。大きくポップな字体で『北海道』と書かれ、美味しそうなグルメや広大な自然の写真が所狭しと載っている。食べてみたい、行ってみたいという気持ちが沸き立つような表紙なのに、新八の心は少しも弾まなかった。
本当にこれで良かったのだろうか。今ならまだ引き返せる。職員の人には迷惑を掛けてしまうけれど、手続きをキャンセルして空港から出たら電車に乗って最寄りの駅で下りる。そして、その足で今度こそ大好きだったあの人に『別れの言葉』を伝えに行くのだ。いつもみたいに気怠げに『あっそ』と言われるのかもしれない。多分どんな言葉を返されても十分傷付くんだろう。それが怖くて、何も伝えずに連絡手段を全て排除し、1人で『傷心旅行』という名目で北の大地に逃げようとしている。自分は卑怯な臆病者だ。新八はギュッと唇を噛み締めた。
高校3年生の夏、新八は担任である銀八に告白した。告白といっても、誰もいない教室に呼び出して、顔を真っ赤に染めながら想いを伝えるというような甘酸っぱい青春の1ページにはならなかった。なぜなら、新八は告白するつもりは全くなかったからだ。男で未成年の自分が告白しても勝率が0%なのは明らかだし、銀八を困らせて距離を置かれるのも怖かった。だから、卒業までの少ない月日を存分に楽しもうと思っていた。しかし、その日は違った。1学期最後の日、国語準備室の掃除を頼まれた新八は渋々掃除を手伝った。その後、自販機で売られている紙パックのジュースを手渡しながら銀八は新八に言った。
「俺お前がいなかったらダメかもしれねぇわ」
その言葉が、いつも理性に振れていた新八の心の天秤を大きく動かした。遠くの方でもう1人の自分が必死に『やめろ!』と叫んでいるのが分かっていても、新八は喉までせり上がる気持ちを押し止める事なんてできなかった。
「好きです」
紙パックを持っていた銀八の手がピタリと止まった。その瞬間、失敗したと新八は思った。甘い夢から一気に覚めて嫌な汗が頬を伝っていくのが分かった。終わった。もう駄目だ。きっと2学期になったらここには呼んでくれなくなる。新八はどうにかしなきゃと、必死に笑顔を作って言った。
「な、なーんてじょうだ「冗談?」」
低い声で銀八に凄まれ、新八は咄嗟に小さな声で『すみません』と謝った。空気が重い。逃げたい。振るなら早く振ってくれ。新八は両手を握りしめて大人しくその時を待った。
「俺、お前の担任よ」
「……分かってます」
「お前今年受験よ」
「はい」
「どこも行かねぇし、何もしねぇけどいいわけ?」
試されているのかと、新八と思った。恋人らしい事は一切しないけど、青春真っ盛りのお前はそれでもいいわけ?と銀八に言われているような気がした。
「それでもいいです」
「ふーん」
銀八は溜め息交じりの声で言った。それから表情一つ変えずに新八の頬に紙パックを当てた。
「ほらよ」
新八は恐る恐る紙パックを受け取った。銀八は新八の横を通り過ぎると、後ろにある教員用の椅子にドカリと座った。
「嫌になったらいつでも言えよ」
「はぁ」
新八は曖昧に返事をする事しかできなかった。嫌になるのは銀八の方ではないだろうか。というか、これはお付き合いを了承してくれたという事でいいのか。
「せ、先生」
「んー」
「よ、よろしくお願いします」
「おー」
適当に返事し過ぎだろと新八は思ったが、それよりも嬉しさの方がこみ上げて来た。緩みそうになる口元を誤魔化すために、新八はストローに口を付けた。
それからの日々は、他人から見れば『それは付き合っているのか』と思われるほどに淡泊で地味な毎日だったが、新八にとっては幸せな毎日だった。何気ない会話にさえ喜びを感じ、銀八の手が頭や肩に触れてくるだけでもドキドキが止まらなかった。『緊急連絡先とでも思っとけ』と言われて連絡先を交換してくれた時は天にも昇るような気持ちだった。日が沈むのが早くなると、帰りが遅い日は送ってくれるようになった。幸せ過ぎて舞い上がっていた新八が冷水を浴びせられるような話を聞いたのは2学期の終業式の日だった。
国語準備室に向かっていると、空き教室から複数の声が聞こえてきた。その中の1人の声は明らかに泣いていて、新八は思わず足を止めた。
「だから止めとけって言ったのに」
「だって、ずっと好きだったんだもん」
空き教室には3人の女子生徒がいた。2人が1人を一生懸命慰めている。しかし、慰められている方は気持ちの整理が追いつかないのか嗚咽を漏らしていた。
「銀八が生徒の告白なんか相手にしないなんて有名な話じゃん」
「そうそう。うちらの1つ上の先輩なんて『青い臭いガキに興味ない』ってバッサリ言われたらしいし」
「何それサイテー。ちょっとアンタは何言われたの?場合によっちゃ、うちらが殴り込みに言ってやるからさ」
「ほ、本命がいるから無理だって。すごくかわいくて大事にしたいって言われた」
「うわ、誰だろう?この学校の人かな?」
心臓の音がうるさくて、新八は左胸を握りしめた。呼吸を圧し殺し、女子生徒の言葉を待った。女子生徒は震える声で言った。
「ちがうって」
息が止まりそうになった。新八はバレないように教室から遠ざかると、国語準備室とは反対にある昇降口へと一目散に駆け出した。聞かなきゃ良かった。そうすれば何も知らずに幸せボケした頭で銀八に会いに行けたのに。走り疲れた新八は閑散とした公園のベンチに座ると空を見上げた。なんて自分は馬鹿なんだろう。結局、自分は銀八に付き合って『もらって』いたに過ぎなかった。銀八に好きな人がいるなんて知らなかったが、冷静に考えればいても何らおかしくはない。そこに気付かずに、ただ自分の気持ちを抑えきれなかった自分に反吐が出そうだ。新八は思い切り息を吐き出した。
「どうしよう」
銀八は『嫌になったらいつでも言え』と言っていた。新八は鞄からスマートフォンを取り出すと、銀八の連絡先を開いた。交換してから一度も掛けた事がない番号に指を伸ばす。あと少し、あと少しで触れるというところで、新八はスマートフォンの電源を落とした。
「やっぱり無理だ」
好きな人と別れるというのはこんなにも苦しいのかと、新八は思った。このままではいけないと思いながらも銀八に別れを告げる事が出来ずにあっという間に冬休みが終わり、大学の試験を迎え、無事合格した。
大学に入学すれば、必然的に銀八と顔を合わせる事はなくなるだろう。連絡を取らなければ自然と繋がりは消えて行き、やがて消滅する。ハッキリと別れを告げるか、言わずに去って自然消滅するのを待つか。卒業式のギリギリまで、新八は悩んだ。そして、結局己に負けた。逃げるように校門をくぐり、その日のうちに銀八の連絡先を消した。次の日は姉のお妙と卒業を祝い、その次の日には北海道行きの便のチケットを取った。
北海道で何をするのか全く決めていない。3日も見知らぬ地で過ごすのだ。少しぐらいやる事を決めておいたほうが気分転換にもなるだろう。新八がパラパラと本のページをめくっていると、隣に誰かがドカリと腰を下ろしてきた。人の多い待合室で知らない人間が隣に座るなんてよくある事だ。新八は気にせずに次のページをめくろうとした。
「あれ?アナタも北海道に行くんですか?」
新八の指がピタリと止まった。その声を、新八はよく知っていた。
「奇遇ですねぇ。俺も北海道に行くんですよ。恋人に捨てられちゃって。傷心旅行みてぇなやつなんですけど」
ガシッと右の手首を摑まれた新八は、ヒュッと息を呑んだ。ありえない。ありえるはずがない。だって誰にも言ってないんだから。友達や大切な姉にも行き先を伝えていないのに、この男が知り得るはずがない。
新八はギギギと顔を向けた。
「俺も同行していいですか?」
銀八に微笑みかけられて、新八はゾワリと背筋が粟立つのを感じた。滅多に表情を変えないあの銀八が微笑んでいる。いや、違う。笑っているのは口元だけで、目は恐ろしいほどに冷え切っていた。
「いやぁ楽しみだわ、北海道。飯は美味ぇし、酒飲んだら締めにパフェ食うらしいし」
それに、と銀八は続けた。
「知り合いが誰もいねぇ」
「いっ!」
手首を掴む力が強まり、新八は顔を顰めた。
「今まで出来なかった事ぜぇんぶしような、志村」
心底楽しそうな声色で銀八は言った。新八は初めて銀八を怖いと思った。手を離してくれとは到底言えない雰囲気に、もしや自分はとんでもない間違いを犯してしまったような気がして仕方がない。あれだけ飛行機が飛んでほしいと思っていた気持ちもすっかり消え失せてしまった。新八は頭を抱えながら、今日の北海道行きの便が全て欠航にならないだろうかと、現実逃避をするしかなかった。