名前を呼んで「賢者様、食器洗い終わったよ」
「ありがとうございます」
フィガロは食器を洗って濡れていた手をタオルで拭き、ソファーでテレビを見ていた晶の隣へと腰掛けた。
「賢者様が作ってくれた魚のソテー、美味しかったなぁ」
「それは良かったです。また作りますね」
「本当?楽しみだな、ありがとう」
平日の夜、二人で夕飯を食べ終えてソファーでくつろぎながら晶はフィガロと他愛のない話をし、それすら幸せに感じていた。
フィガロがこちらの世界に来てから数日。何かしら晶の手伝いをしたいとフィガロが申し出てくれたため、いくつかの家事を分担することになり、食事の後片付けはフィガロが担当と言う事になった。はるか年上の魔法使いに家事の手伝いをさせる事は申し訳なく、一人で全てをこなす事には全然苦に感じなかったために晶は最初に断ったが、フィガロがなかなか折れなかったために晶が妥協して今に至る。
「フィガロ」
「ん?なぁに?賢者様」
名前を呼ばれたフィガロは優しい笑顔を晶に向け、どこか甘えるような声で返事をした。
「あの…もしフィガロか嫌でなければでいいんですけど」
「うん?」
「…………」
言いにくいことなのか、一度晶は言い淀む。
「どうしたの?遠慮せず俺に言ってみて」
「あの………これからは俺の事を名前で呼んで欲しい…です」
フィガロの優しい後押しする言葉に晶は意を決し、緊張しながらもフィガロの目を見て伝えた。フィガロは晶の言いにくい事はどんなことだろうと思っていたら、はるかに可愛い小さな頼みごとでくすりと笑った。
「…そんなに言うの迷っちゃう頼みごとかな?そうだね、これからは賢者様の事を名前で呼ばせてもらおうかな」
フィガロはすぐに晶の頼みを快く承諾し、それを聞いた晶は安心したようでぱっと顔が明るくなった。
「ありがとうございます。あの、無理しないで少しずつ慣れていければで大丈夫なので」
「あはは!相変わらず謙虚だよね、賢者様って。あっ」
晶のいつもの謙虚さにフィガロは笑ったが、ついいつもの呼び名で晶の事を呼んでしまい、いけない、と声を漏らした。やってしまった、という顔のフィガロはなかなか見た事のない表情で新鮮さを感じ、晶は思わず笑いが漏れてしまう。
「最初は慣れないと思うので、慣れるまで前の呼び方でも大丈夫ですよ、フィガロ」
「ごめんごめん。ありがとう」
以前、フィガロはレノックスへ自身の呼び方についてよく指摘していた事を思い出し、自分も気をつけようと心の中で言い聞かせた。
「もしかして魔法舎にいた時から名前で呼んで欲しいと思ってた?もしそうなら遠慮せずに言ってくれればいいのに」
「いえ、前の呼び方も気に入っていたのでそこまで思ってはいなかったですよ。ただ、今はもう俺は賢者ではないですし、この国では賢者と言われる人はそういないので、俺がそう呼ばれていると他の人からしたら変だと思われちゃうかなって」
「そうなんだ。君はずっと俺の賢者様だけどね。ま、君の頼みなら断るはずないよ」
「でも、やっぱり好きな人からは名前で呼ばれたいという気持ちが一番ですよ」
晶ははにかみながら、名前を呼んでほしい一番の理由を打ち明ける。恋人同士なら当たり前の理由かもしれないが、普段はあまり愛を伝える言葉を言わない晶に『好きな人』と言われ、わかってはいるもののフィガロは嬉しくなりつい顔が緩んでしまう。
「そんな可愛い理由を言われちゃね」
フィガロはソファーの上に置かれていた晶の手を大きな手で優しく上から重ねた。
「ねぇ、晶」
フィガロは晶と目が合うと、晶の口元へと軽くキスをした。晶はフィガロの心地良い低いトーンの声で名前を呼ばれ、ドキンと心臓が跳ねる。
「……なんだか慣れなくて…嬉しい気持ちと同時に…ドキドキしちゃいます」
口が少し離れ、まだ互いの息がかかりそうなくらいの距離で晶は照れ隠しの笑みをこぼし、耳まで赤くしながらフィガロの目を見つめた。名前を呼ばれる事がこんなにも嬉しいと感じるとは思わなかった。
「本当?何度でも呼ぶよ、晶」
「ん、フィガロ…」
フィガロはまた晶の名を呼び、両手で晶の顔を包みこんで再度唇同士を合わせ、角度を変えては何度も何度も口づけを交わす。晶はフィガロの背中に腕をまわしてフィガロのキスに応えた。名前を呼ばれ、前よりもフィガロと一層恋人同士らしく感じて晶は胸がいっぱいになるくらいに幸福感に満たされる。
「晶…」
互いの唇を離し、フィガロは熱を帯びた瞳で晶を見つめた。
「そ、そんな何度も名前を呼ばなくてもいいですから…」
「今まで我慢していた分、たくさん呼ばせて」
フィガロはまた晶、と晶の耳元で名前を囁く。晶はフィガロの心地のいい柔らかな声がとても好きで、耳元でいつもよりなお優しい、誘っているような色気のある声色で囁かれ、晶はムラムラしてきてしまう。
「は、反則です、フィガロ…!」
晶は堪えきれず、フィガロの肩を持って自分から勢いよく引き剥がした。
「あははは!やっぱり可愛いな、晶は」
「フィガロ!!」
晶は自分の反応を楽しんでいるフィガロが面白くなく、つい怒るように声を上げた。自身がいつまでたってもフィガロのからかいや甘ったるい台詞に対しての反応を変える事が出来ればいいとも思うが、フィガロに愛されているという実感もあってその対応は難しかった。フィガロも晶が自身の声に弱い事は知っていて、歯の浮くような台詞を囁やけばすぐに顔が赤くなる晶が可愛く、愛おしく感じてしまってつい苛めたくなってしまう。
「ねぇ、晶」
「な、なんですか?」
「このまま……シない?」
いじけている晶を余所にフィガロはシたくなっちゃった、と可愛く呟きながらも、手で優しく晶の頬を撫でながら晶を誘う。
「……っ、さっきみたいな事されたら…いいに決まってるじゃないですか…」
晶は少し不貞腐れた態度をとりながらも、頬に触れていたフィガロの手をきゅ、と握って小さな声で呟いた。
「………でも今から賢者様って言うのはなしですからね」
「あれ?少しずつ慣れていってからでいいって言ってなかったっけ?」
「フィガロがからかうので、前言撤回です」
「あはは、ちょっとやりすぎちゃったかな」
「今更そう言っても遅いです」
フィガロと晶は目を合わせて笑い合う。そして二人は抱き合いながら、今度は深く、熱く唇を合わせてソファーへとなだれ込んだ。
「好きだよ、晶」
「俺も…俺も好きです、フィガロ」
幸せすぎてどうにかなってしまいそうだった。一方、この幸せはいつまで続くのだろう、そう晶は頭の片隅に不安が過るも、考えることを止めて目の前にいる好きな人へと強く抱きしめた。