初対面の男二人がクアンタンでちょっとだけ一緒に住む話日本を出てから、一度乗り換えを経て約十時間。七海建人はマレーシア、クアンタンのスルタン・アマッ・シャ空港に降り立った。
今日からここで五日間、見知らぬ男との共同生活が始まる。
—零日目
七海の職業は俳優だ。大学で出会った演劇にのめり込み、そのまま卒業後も役者を目指した。
大学時代の伝手を頼って小さな事務所に所属したものの役者だけでは食べていけず、クォーターである自身の容姿を活かしてモデルのアルバイトをして生計を立てた。
ありがたいことにモデルとしてもっと活躍の場を広げてみてはどうかという誘いは何度か受けたが、七海は演技をすることが好きだったので役者であることにこだわった。
そんな生活が二年程続いたある日、モデルの撮影に出向いた先で現在所属する事務所の社長である冥冥と出会った。冥は七海を一目見て気に入ったらしく、熱心に自分の事務所への移籍を勧めてきた。そうして、誘いに乗る形で冥の事務所に所属することとなった。
七海にとって転機となったのは、公共放送局で放映されている朝の連続ドラマへの出演だった。
昭和初期の神戸を舞台にした作品で、ヒロインの初恋を奪うドイツ人青年役で人気に火が付いたのだ。
人気のあまり、出演回数が当初の予定を大幅に上回り、脚本が何度も書き換えられるという異例の事態となった。さらには凛々しい軍服姿での別れのシーンが放送されると、七海ロスという社会現象が巻き起こり、再登場を願う視聴者による署名運動まで起こったほどだ。
長かった下積みで得た演技の実力に人気が備わって、七海は押しも押されもせぬ人気俳優となったのである。
そんな七海がなぜ、このクアンタンという地に降り立ったのかというと、とある番組の企画による物だった。
その番組とは、「その国にちょっとだけ住んでみる」をコンセプトに制作された紀行番組だ。二人の旅人が世界の街に引っ越したかのように暮らし、地元の人ならではの街の楽しみ方などを紹介する。近所の商店での買い出しや自炊の様子、共同生活を送る二人の会話など日常生活の場面が映し出され、ドキュメンタリー的な要素も盛り込まれている。
本来七海は、私生活を切り売りするような番組には出ない方針だった。しかし、この番組が恩のある公共放送局の物であり、更には来クールでドラマの主演が決まっていることもあって、断りきれずに出演することとなったのだ。
共同生活を送る相手のことは一切明かされておらず、お互いに現地で初めて顔を合わせることになっている。そういう設定というだけで、早い段階で知らせてもらえると思っていたが、本当に知らされないまま今日を迎えてしまった。
兎にも角にも、ひとまずは自力で滞在先まで向かわなくてはいけないらしい。空港からタクシーに乗って目的地へと向かう。
滞在先は、高級ホテルが立ち並ぶリゾート地からは少し離れた、ローカルの人々が住む地域だった。ビーチの近くに建つプール付きの一軒家が、今回の滞在先のようだ。白を基調としたインテリアに、広いアイランドキッチン、清潔感のある水回りと、予想以上の物件で気持ちが上向きになる。
その後は同行の撮影スタッフから、室内の無人カメラの位置、スタッフ同行での撮影スケジュール等の説明を軽く受ける。スタッフは近くにある別の物件に滞在するらしく、室内では基本的に七海と同居人だけの無人カメラによる撮影となるらしい。
同居人の到着は、仕事の都合で明日の午後になるらしいので今日はひとまず休むことにした。
—一日目
カーテンの隙間から差し込む、朝の光に目を覚ます。ここ最近オフがなく働き詰めだったことに加えて、移動の疲れもあって少し眠りすぎてしまったようだ。時刻を確認すると九時を過ぎたあたりだった。
日本から持ってきたドリップコーヒーを飲みながら軽く身支度を整え、今日一日の予定を立てる。同居人は夕方頃に到着するらしいので、何か食事を用意して出迎えるのが良いかもしれない。
七海は今回の出演にあたって、過去の放送回をいくつか見て予備知識を得ていた。
二人の旅人のうち、一人は二十〜三十代の俳優であること。もう一人は、俳優とは別の業種で活躍する四十〜六十代の人生の先輩であることが多かった。
ということは、今日やってくる同居人は自分より十は年上の人間で間違いないだろう。長時間のフライトで疲れた体で外食に出るのはきっと負担になる。それなら今日はさくっと家で食事を摂って早めに休み、明日以降の撮影に備えるのが得策だ。
幸い七海は自炊も得意だったし、この立派なアイランドキッチンを使わないと言う手はない。歓迎の意味も込めて、食事を用意しよう。そうと決まれば明日以降の下見がてら、市街地へ買い出しに出かけることにした。
撮影のスタッフも同行して、バスで市街地へと向かう。七海の滞在エリアとは違って、ショッピングモールや個人商店、カフェやレストランが立ち並ぶなかなかの都会だった。
ひとまずは川沿いのカフェで昼食をとることにした。スパイシーな味付けがされた焼き飯のナシゴレンと肉を甘辛く串焼きにしたサテ、それにスタッフの許可を得てビールを注文する。テラス席で食べる現地の味と昼から飲む冷たいビールは格別で、撮影であることを忘れて思わず頬が緩んだ。
その後、市場へ行って夕飯の食材と、それを盛り付けるマレーシアらしいカラフルな食器も買い込んでから市街地を後にした。滞在先に戻って、同居人の到着予定時刻を確認してから早速夕飯作りに取り掛かかった。
夕飯のメニューは新鮮な魚介類が手に入ったので、アクアパッツァにした。それと簡単なサラダにベーカリーで買ったパンに、魚料理に合う白ワインとビールも冷やしておいた。これで十分歓迎の意を表すことができるだろう。マレーシアらしい料理ではないが、それは明日以降に外食するなりして食べれば良い。
そうこうしている内に、まもなく同居人が到着する旨の連絡が入り、撮影スタッフと共に出迎えの準備をする。インターホンが鳴り、玄関まで出迎えに行くとそこに立っていたのは白髪の美丈夫だった。
「や!おつかれサマンサー!」
「……あ、あなたは」
「今日から一緒に暮らす、最強棋士の五条悟だよ〜。よろしくね♡」
「あ、俳優の七海建人です。よろしくお願いします」
「うんうん!七海だね。七海ロスの七海だ!うわ〜僕一回会ってみたかったんだよね!嬉しいな」
矢継ぎ早に話しながら、一気に距離を詰められる。驚いて一歩後ろに下がると、意味ありげにふふっと笑って家の中へとどんどん入っていった。
自分にだけ向けられた笑みが、なんだかとても夜の匂いを纏っていたような気がして、七海はその場に立ちすくんでしまう。(なんだ、今のは……)
すると、室内へ入って行った男から声がかかる。
「わ〜!何これ!ご飯作って待っててくれたの⁈」
七海も慌てて後を追い、食事を用意した経緯を説明する。お腹が減った!早く食べよう!とうるさい男のために、自己紹介もそこそこにひとまずテーブルにつくことにした。
二人が食事を始めて少しすると、撮影スタッフは引き上げていった。ここからは無人カメラが撮影しているが、実質二人きりの時間だ。
「美味しい!」「七海が食事を用意してくれるなんて感激だ!」「移動で疲れていたからすごく嬉しい!」と、次から次へと賛辞を送られれば自然と七海の表情も緩くなる。
そのタイミングを見計らったかのように、男も美しい蒼眼をにっこりと細めて七海に問いかける。
「ねぇ。七海も僕のこと、知ってる?」
「ええ、もちろん存じ上げてますよ」
「そっかぁ〜嬉しいなぁ」
「あなたほどの有名人、知らない人を探す方が困難ですよ」
七海の目の前の男、五条悟。将棋について殆ど知識のない七海ですら、知っている。現代最強のプロ棋士と言われており、その強さはAIをも凌ぐそうだ。
規格外の強さのみならず、本職のモデルや俳優も尻尾を巻いて逃げ出すほど整った容姿を持ち、連日テレビや雑誌で特集が組まれて世の女性たちを虜にしている。
「それでも、七海が知っててくれたってことが嬉しいんだよ」
「はぁ、そうですか。ところで、私はあなたのことを何とお呼びすれば?」
「な〜んでもいいよ。サトル♡とかサトルくん♡とかサトルさん♡とか」
「では、五条さんで」
「えぇ〜。もっと親しみ込めて、歩み寄った呼び方でいいんだよ?あ!じゃあ僕も建人♡って呼ぼうかな?」
「いえ、そのままで大丈夫です」
「つれないねぇ」
口ではそう言いながらも、終始ニコニコしていてとても機嫌が良さそうだ。傍若無人な態度が将棋界の上層部を中心に受けが悪いといった報道を見かけたことがあったので少し身構えたが、杞憂に過ぎないのかもしれない。
五条は、思っていたよりもずっと明るく気さくで話しやすい人だった。明日以降の予定を、七海がクアンタンでしたいことや食べたい物等をさりげなく聞き出しながら考えてくれてリードしてくれる。バラエティ番組の出演が苦手な七海にとって、共演者として理想的だ。
食後は、移動で疲れているであろう五条に入浴を促して、七海は後片付けを買って出た。しかし、七海がキッチンに立ってるところが見たいからというよく分からない理由で、五条はそのままダイニングに居座って片付けをする七海のことを嬉しそうに観察していた。
片付けが終わり、それぞれ入浴も済ませた後は明日に備えて各々割り当てられた寝室で休むことにした。就寝前には用意されている自撮りカメラで、今日一日の感想を撮ることになっている。
どんな感想にしようかと今日一日を振り返る。市街地へ出て食事や買い物をしたけど、やはり今日のハイラトは五条が到着してからだろう。
頭の中で感想を整理してから、自撮りする。五条の第一印象や、これから一緒に過ごすのが楽しみだといった当たり障りのない内容を話しておいた。
そろそろベッドに入り、眠気がくるまで読書でもしようかと持ってきた本を物色していると、部屋のドアがノックされる。
「七海…まだ起きてる…?」とても控えめな声だ。
「ええ、起きてますよ」と返事をしながらドアを開けて「どうかされましたか?」と問いかける。
「ごめんね、休んでるところ。このカメラの使い方がちょっとよく分かんなくてさ」
「あぁ、これはこのボタンを長押しで電源をまず入れて、その後録画ボタンがこちら、停止はもう一度このボタンです」
「あぁ、そっか!まずはこれ押さえなきゃだったんだね。で、このボタンが…」
小さなカメラを大の男が二人で覗き込んでいたため、ふと顔を上げると至近距離に五条の顔があった。五条はまだカメラを手に、ぶつぶつ言いながらボタンを確認している。
こちらに意識が向いてないのをいいことに、そっとその横顔を伺う。つるりとした白い肌には、シミや出来物どころか毛穴の一つも見当たらない。顔の中央にはスッと鼻筋の通った高い鼻。この綺麗な瞳の色は何色と表現するのが正解なのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると五条がクスクスと笑い出した。
「七海、見過ぎ」
「な…⁈あなた、気付いてたんですね」
「なぁに?見惚れちゃった?」
バレていたのなら仕方がない。七海は開き直った。
「そうですね。モデルや役者でも、なかなかお目にかかれないくらいには整ったお顔立ちだなと」
「あはっ。熱烈だねぇ」そう言いながら七海の顔を覗き込んでくる。
「僕は、七海の顔の方が好きだよ」
「そう…ですか」
居た堪れなくなった七海が五条から離れようとすると、いつの間にかがっしりと腰を抱かれていた。
「ちょっと!五条さん!」
七海の抗議もお構いなしに、五条はさらに顔を近付けてくる。
「七海。帰るまでに、僕はお前のことを抱くからね」
耳に直接、吐息とともに「覚悟しててね」と吹き込むと、ちゅっと口付けてから離れていった。
あまりに突然のことに呆然とする七海をよそに、五条は「じゃ、おやすみ七海。また明日ね〜」と自室へ戻って行った。
どっどっどっどっ…という音が自分の心臓の音だと気づくまで、どれくらいそこで立ち尽くしていただろうか。
仕事柄なのか、七海の外見がそうさせるのか、今までも同性から同じような誘いを受けたことは一度や二度ではない。ただ、そういった時に自分から湧き出る感情は嫌悪感しかなかった。
それが今回はどういう感情なのだろうか。どきどきとうるさい心臓と、頬だけでなく耳まで火照ったこの状況は何をあらわしているのだろう。
七海は考えるのをやめて、ベッドに潜り込んだ。なかなか寝付けず、いつ眠りに落ちたのかそれともずっと起きていたのか、分からないまま気が付けば朝を迎えていた。
—二日目
枕元の時計に手を伸ばし、時刻を確認する。午前七時三十分。
かれこれ一時間以上、ベッドから抜け出せずにいる。眠いわけではない。五条と顔を合わせるのが気まずいのだ。
昨夜あんなことを言われて、今日からどんな風に接すればいいのか。いくら考えても答えは出ない。それでもこのまま部屋に篭っているわけにはいかないだろう。
とりあえず、顔を洗いに行こう。そう思い立って洗面所へ向かうと、いきなり五条と鉢合わせる。
「あ、七海。おはよー。よく眠れた?」
「…おは、ようございます…」
「ぷっ。ははっ。そんな身構えるなよ〜。昨日はあんなこと言ったけどさ、無理矢理とか嫌がってるのにしようとはしないから。安心して」
「…否定はしないんですね」
「そりゃそうでしょ。お前のこと、抱きたいと思ってるのは本当だからね」
「あなた、朝から、なんてことを…」
「確かに!朝っぱらからする話じゃないね」
そう言って五条はからからと呑気に笑う。
「身支度整えたらテラスにおいで。朝メシ作ってあるから一緒に食べよう」
バチンと音が鳴りそうなウインクと共に言い残して、洗面所から出て行った。
胸の中の空気が全部出て行ったのではないかと思えるくらい、大きなため息が出る。洗面台の鏡を覗き込むと、耳まで真っ赤に染まった自分の顔を見て更にもう一つため息が出た。
身支度を整えてテラスへ行く。ここからは無人カメラの撮影範囲内だから、五条もおかしな言動はしないだろう。
七海だって俳優の端くれだ。動揺する気持ちなど完全に隠して乗り切ってやる。何よりやられっぱなしは性に合わない。
芳しい珈琲の香りを漂わせ、リベイクしたてのパンを運びながら五条が声をかけてくる。
「おはよ、七海」
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「ええ。おかげさまで」
「それは良かった。さ、朝ごはん食べよう。昨日のお礼に僕が腕をふるいました〜!」
「ありがとうございます」
七海が昨日買ってきた、カラフルな食器にスクランブルエッグとベーコン、サラダが盛り付けられている。理想的な朝食だ。
「コーヒー、良い香りですね。酸味が少なくて好きな味です」
「そ?お口に合って良かったよ」
「朝食のプレートも、理想の朝食を具現化したかのようですね」
「そうでしょ。僕って、なーんでも出来ちゃうからね」
「俗に言うスパダリってやつですね。こんなことされたら、好きになってしまいそうですね」
「えー?七海なら大歓迎だよ、僕」
「ふふっ、そうですか。それは光栄ですね」
にっこりと人形のように美しい笑顔を向けられて、こちらも控えめに微笑み返しておく。まるで腹の探り合いだなと思いつつ、用意された食事に手をつけた。
卵はふわふわ、ベーコンは程よくカリカリ、サラダはしっかりと水気が切られよく冷えていて(美味しい…)思わず顔が綻ぶ。
「どれも、本当に美味しいですね」と顔を上げると、五条が少し驚いたような顔をしていた。
「そっかぁ〜。ははっ。良かった。じゃ、僕も食べよ」
そう言って下を向いた五条の耳が少し赤くなっていたが、その理由は七海にはわからなかった。
五条が合流して二日目の今日は、昨日七海が一人で出かけた市街地へ一緒に繰り出すことにした。買い物と街の散策、地元の料理に舌鼓を打つのが今日の目的だ。
五条の容姿はこちらでも人々の目を引くようで、移動中も多くの女性から熱い視線を向けられていた。英語で話しかけてくる積極的な女性もいたが、同じくらい流暢な英語でさらりと断っていて、こういった事に慣れているのがありありと見て取れる。
(どうしてこんな人が男の私なんかを?)
五条を見れば見るほど、七海の謎は深まるばかりだった。
市街地に着いた二人は、まず最初に水着を買うことにした。五条が、庭にあるプールにどうしても入りたいと言うからだ。
普通に買い物しては面白くないので、それぞれ別行動でお互いの水着を選んで買うことにする。五条と七海は、撮影スタッフと共にそれぞれ二手に分かれた。
通り沿いの商店や、ショッピングモールを見て回る。五条はスタイルが良く、華やかな雰囲気なのでどんな水着でも似合うだろう。シンプルでも良いし、派手でも良い。せっかくなので本人が選ばなそうな物にしようと探していると、露店でこれだ!と思える物を見つけて、七海は思わず笑みをこぼした。
買い物後は、また五条と合流してローカルな食堂で昼食をとることにした。
辛い物が苦手だと言う五条は食事のチキンライスよりも、テ・タレという練乳入りのミルクティーを大層気に入っていた。しつこく勧めてくるので、一口もらったが甘すぎて七海の口には合わなかった。
七海はバクテーという、骨付き肉を漢方で煮込んだ料理を選んだ。滋養強壮にも効果があるので、残りの撮影を乗り切るために選んだが五条には別の意味で捉えられたらしい。
「そんなに精つけちゃって、どーすんのよ」とニヤニヤ笑われたので、大きめのため息で返事の代わりにした。
食後は散歩がてら、有名なモスクを見に行った。白とブルーのコントラストが美しく、街中でも一際目を引く様はどこか五条のようだ。外観だけでなく、内部も美しいステンドグラスで装飾が施されているという。ただ残念なことにタイミングが悪く、内部の拝観は叶わなかった。
その後は少しビーチに立ち寄ってから、またバスに乗って滞在先へと戻る。戻ったバス停の近くにある小さなスーパーマーケットへ寄って、夕飯の食材や果物、飲み物なんかを買い込んでから帰った。
暑い中歩き回ってさすがに疲れたため、夕飯までの時間をテラスのデッキチェアで休むことにした。のんびりと夕陽を眺め、寛ぎながらビールを飲む。至福の時間だ。
すると五条も紙パックのジュースを手に、隣にやってきた。
「飲んでるね〜。七海はさ、割と飲む方なの?」
「そうですね。仕事柄飲めるタイミングが限られているので、飲める時には飲むという感じでしょうか」
「好きなんだね」
「ええ。好きな方だと思いますよ。あなたは何を?」
「僕?ミロだよ」
「ミロ」
「うん。ミロ。懐かしいよね?」
「そうですね。子供の頃に飲んだことがあるかもしれませんが、味は思い出せません」
「飲む?」
「いえ、大丈夫です」
「美味しいよ」
「良かったです。甘い物、お好きですね」
「うん。頭を回すために甘い物ばっかり食べてたら、好きになったって感じかな」
「なるほど」
「マレーシアって五人に一人が糖尿病って言われてるくらいの甘党大国なんだって。だから僕の口にはすごく合ってる」
「それは何よりです。今回のロケ地がマレーシアで良かったですね」
「まぁね。でも今回は場所よりも七海に会えたことが一番よかったことだよ」
「そうですか。私も、五条さんで良かったですよ」
「ははっ。僕たち、相性バツグンだね」
「ええ。本当に」
これは、七海の本心だった。昨日の夜のことを差し引いても、やはり五条は共演者としてとても相性が良かった。少し距離感が近過ぎるのが気になるところだが。
五条はというと、どこか上の空なのが少しひっかかった。
その後は二人で夕飯を作った。自炊が得意な七海から見ても五条はとても手際がよく、自分で言っていた『な〜んでもできちゃう』はあながち間違ってはいないのだと思った。
二日目にして、すでに日本食が恋しいと言う五条のリクエストで作った親子丼を食べながら明日の予定を話し合った。
五条曰く明日のメインイベントは、お互いのために選んだ水着のお披露目なのだそうだ。
「七海が僕のために選んでくれた水着はどんなのかなぁ」と子供のように目を輝かせながら楽しみにしている。
そんな五条の様子を見ながら七海は自分の選んだ水着を思い浮かべて、罪悪感からほんの少しだけ胸がチクリと痛んだ。
先にお風呂入ってねと、五条から促され浴室へ行ったが替えの下着を忘れて部屋に戻った。
すると隣の部屋から五条の声が聞こえてくる。電話でもしているのか、思いの外はっきりと聞き取れる。
人の会話に聞き耳を立てるなんてと、急いで浴室へ戻ろうとしたが五条の声で七海の知ってる名前が出たため動きが止まる。
「ちゃんと冥さんに言われた通りにやってますよ。…うん……うん…分かってますって」
(冥さんって、まさかうちの社長のことか?)
「……それも大丈夫。………冥さんの方こそ、約束は守ってもらいますよ。…そう。七海のこと」
(どういうことだ?)
話の内容は全く分からなかったが、五条は七海が所属する事務所の社長冥と電話をしていたようだった。他ならぬ七海のことについて。
(社長と知り合いだったのか?そもそも、ここに来て初めて同居人が私だと知ったのではないのか?)
驚きと混乱で、胸が激しく波立つのを感じる。
ひとまず、五条に気付かれないうちにそっと浴室へと戻ってシャワーを浴びた。気を紛らわせようと頭から一気に湯を被ってみたが、考えれば考えるほど疑問が浮かび上がってくるだけだった。
浴室を出て、自室へ戻ろうとしたタイミングで五条が部屋から出てきて鉢合わせてしまう。
「あ、七海上がったの?」
「ええ。お先に頂きました…」
「風呂上がりの七海、可愛いね」
髪を撫でようとしたのか、顔の方に伸びてきた五条の手を咄嗟に払い除けた。
「え…?」
五条は払い除けられた手をそのままに、驚いた表情で七海を見ている。
「何が目的ですか?」
つい、鋭い声音で尋ねてしまう。
「目的?それは、昨日も言ったけど僕は七海を抱き…」
「うちの社長とどんな約束をして、そんなことを?」
「あ〜…聞こえちゃった?」
さして悪びれる様子のない五条に、さらに苛立ちが募る。
「どういった意図があるのかは知りませんが、そういった接触は今後控えて頂けますか」
「そんな怒んないでよ」
へらりと人好きのする笑顔を向けられて、なんだか無性にやるせ無い気持ちになる。
「ね、七海。ちゃんと話すから、聞いて」
五条からそう言われたが、とてもそんな気にはなれず、一人にしてくださいと断って部屋に入った。
暗い部屋の中、ベッドに潜り込んで目を閉じる。
普段の七海の性格だったら、きっと落ち着いて五条から話を聞くことが出来ただろう。
でもなぜか、それが出来なかった。
五条が自分へと向けてくれた、気遣いや好意を表す態度の全てが偽りだったのだという真実を突きつけられるのが怖かったのだ。
これではまるで、自分が五条に惹かれているみたいではないか。
たどり着いた答えに、七海は呆然とするしかなかった。
—三ヶ月前 東京
五条はこの日、千駄ヶ谷にある将棋連盟本部に呼び出されていた。なんでも、テレビ局から出演依頼が来ているらしい。
テレビ出演など全くもって興味はない。
顔を合わせれば小言ばかり言ってくる連中がいる本部に出向くのも、嫌いだ。
それでも今回渋々ながらも足を運んだのは、他ならぬ夜蛾からの頼みだったからだ。
所謂天才肌の五条には、他の棋士たちのように師匠と呼べる人間がいない。師事せずとも最初から出来てしまったし、五条に教えることの出来る人間など今の棋界には存在しない。
そんな五条にとって夜蛾は、棋界に身を置く者として最低限知っておくべきしきたりや決まりごとについて教えてくれた恩人だ。無碍には出来ない。
五条がタクシーを降りると、入り口付近で事務職員の伊地知が待ち構えていた。
「あ! 五条さん。ご足労頂いて申し訳ありません」
「ほんとだよ。まったく」
「すみません。皆さんお揃いですので、どうぞこちらへ」
伊地知に案内されて会議室へ入ると、夜蛾の他に連盟の年寄りが一人とテレビ局の人間らしき三人が五条の到着を待っていた。
「悟。遅いぞ」
「すみませんね。これでもなかなか多忙でして」
すかさずテレビ局の人間が立ち上がり、名刺を手に寄ってくる。
「五条竜王名人、本日はお時間頂きましてありがとうございます」
「はいはい。あー、その竜王とかいいよ。五条で」
名刺を受け取りながら五条が答える。
挨拶もそこそこに、揃って席に着くと番組の内容について説明を受けた。皆が黙って五条の反応を待つ。
「えっと、つまり海外で一週間近く見知らぬおっさんと暮らすってこと?」
「ええ、まぁ、概ねそうですね」
五条のあけすけな言い方に、プロデューサーは苦笑いで答える。すぐに隣のディレクターが、別の資料を示しながら説明を再開させた。
「今のところお相手の候補はこちらの三名で、料理研究家の〇〇先生、元オリンピック柔道代表〇〇選手、作曲家兼ミュージシャンの…」
「え、無理無理。はぁ? 何が悲しくて、そんなおっさんと共同生活送んなきゃなんないの。なんの罰ゲームだよ」
説明の途中で五条が口を挟むとテレビ局側の人間が強張った顔で固まり、見かねた夜蛾が口を開く。
「悟、口の利き方に気をつけろ。連盟としては、将棋のさらなる普及のためにもだな…」
今まで何度となく聞かされてきた台詞にうんざりした顔を隠しもせず、五条は夜蛾の言葉を遮った。
「それに関しては、僕はもう十分すぎるほど貢献してると思ってますけどー」
五条の言い分は正しいが、テレビ局側も引き下がるわけにはいかないようでプロデューサーの男が提案をする。
「では、例えばですが、共演者を五条さんの方で候補をあげて頂くとかならどうですか?」
これでどうだ? とドヤ顔でこちらを見てくるが、そもそも五条は番組出演自体に後ろ向きなのだ。共演者どうこうの問題ではない。
「いや、誰が相手でも一緒だよ。そもそもそんな、プライベートを晒したくないし」
しかし、自分で言っておきながら頭の中に一人の男の顔が浮かび上がる。五条が最近気になって仕方がない男だ。
「ね、それって本当に誰でもいいの?」
急に話に乗ってきた五条を逃すまいと、プロデューサーの男が食い気味で答える。
「ええ! それはもう、できる限りご希望にお応えできるように致しますよ!」
「どなたか候補がいらっしゃるんですか⁈」
ディレクターもこのチャンスを逃すまいと、嬉々として乗り出してきた。
「あの、こないだまで朝ドラに出てたさ、あの金髪の、名前、なんだっけ?」
「ああ! 七海建人さんですか?」
「そー! そー! 七海! あいつとだったら考えてもいーよ」
五条は椅子の背もたれに深く体を預けて、相手の反応を待った。
「七海くんですか。彼も今、すごくスケジュールが立て込んでるみたいですからね…どうだろう。事務所に確認とってみるか。彼、事務所どこだっけ?」
プロデューサーが他の二人に問いかけると、一人が少しバツが悪そうに答える。
「あー、彼はオフィスMMですね」
事務所名を聞くやいなや、参ったなとプロデューサーも先程までの勢いが急になくなってしまう。どういうことかと五条が問うと、事務所の社長がなかなかのやり手で業界内では名の通った人物なのだそうだ。
「それでキャスティングが面倒って話? それならこの話は終わりだね」
五条が立ち上がろうとすると、プロデューサーが慌てて止めに入った。すぐに連絡してみますと、どこかへ電話をかけ始める。そのまま通話しながら外へ出て行き、ものの数分で話がまとまったのか嬉しそうに戻ってきた。
七海の事務所の社長は今ちょうど青山の事務所にいたようで、すぐにこちらへ向かってくれるとのことだった。
それから二十分としない内に、黒のパンツスーツに身を包んだ長身の女性が伊地知の案内で現れた。事務所と此方の場所が近かったとはいえ、まさかこれほど早く到着するとは誰も想像していなかった。おまけに、甘い物がお好きだと聞きましたのでと、五条もお気に入りの人気パティスリーの紙袋を差し出してきたのには更に驚かされた。
テレビ局の人間達が挨拶の名刺交換を済ませ、七海建人が所属する事務所の社長、冥冥に足を運んでもらうことになった経緯を説明した。番組の詳細と、五条が七海を指名していることまできっちりと話し終えると、意外にも冥はあっさりと承諾した。
そうと決まれば五条自身が話すことはもう何もない。スケジュール調整は伊地知に任せて、さっさと席を立った。
会議室を後にしてエレベーターを待っている所で、追いかけてきた冥に呼び止められた。
「うちの七海をご指名くださって、ありがとうございます」
明らかに腹に一物ありそうな、不敵な笑顔を向けられる。
「いや、まあ僕も一回会ってみたかったし?」
五条が何でもないことのように言うと、冥は笑顔のままでとんでもないことを言い出した。
「事務所の方針として、プライベートは本人に任せてありますので口出しする気はありませんが。くれぐれもカメラには映らないようにお願いしますね」
「へ?」
「カメラにさえ映らなければ、好きにしてくださって構いませんので」
「いや…」
話の方向がとんでもないことへ向かっているような気がして、焦る五条を尻目に冥はどんどん話を進めてくる。
「今回ご一緒させて頂いて、七海のことを気に入ってもらえましたら、またこうしてご指名頂けると本人も喜ぶかと。五条さんメインで、将棋の教育番組のご予定があるとか」
「そんな話、僕まだ聞いてないけど…」
「おや。では、そんなお話がきた時には、是非よろしくお願いしますね」
冥は含みのある言い方をして、にっこりと微笑んだ。
五条本人でさえまだ知らないテレビ出演の情報を掴んでいるとは、さすがである。いや、流石を通り越してもはや恐ろしくもある。
五条にしては珍しく、これは逆らってはいけないタイプの人間だと悟った。
そこからタクシーに乗り込んで自宅へと帰ったが、正直なところその間の記憶はあまりない。
冥が言っていた、『カメラにさえ映らなければ何をしてもオッケー』が頭の中の思考を全て掻っ攫ってしまったからだ。
こうして五条の、気になる男ナンバーワン七海建人との海外暮らしを指折り数えて待ち侘びる日々が幕を開けた。
—三日目
七海は結局、眠りに付けずにいた。時刻は午前四時をまわったところ。テラスに出て、少し風に当たろうとドアに手をかけたところで、メモが挟まっていることに気が付いた。開いて見ると、五条からの手紙だった。
そこにはシンプルに七海に黙っていたことへの謝罪と、七海が望むなら撮影中止を申し出る旨が端正な文字で認められていた。読み終えてからきっちりと元通りに折りたたんで、ポケットへ大事に仕舞った。
テラスへ出ると、東の空が少しだけ明るくなっていた。ぼんやりと海を眺めていると、後ろから「七海」と声をかけられる。振り返ると、五条が気遣わしげに立っていた。
「あなたって、字まで美しいんですね」
七海が少し表情を緩めて言うと、五条は隣にやってきた。
「何回も書き直して、一番綺麗に書けたのを挟んでおいたんだよ」
そう言ってから七海に向き直って「七海、本当にごめんね」と、しっかりと目を見て謝った。
「いえ、私も意地になってしまって。話も聞かずにすみませんでした」
七海も昨晩の意固地な態度を素直に謝り、お互いに顔を見合わせてほっと息を吐き出した。
「あー、良かった。僕もうほんと、どうしようかと思って。全然眠れなくて、ずっと部屋の中を行ったり来たりしてたんだよ」
五条はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。七海は、部屋の中を行ったり来たりうろうろしている彼の姿を想像して、叱られた大型犬が思い起こされて少し笑ってしまった。
「でも、説明はしてください。あなたの口からきちんと聞きたい」
五条に促されて、一つのデッキチェアに並んで腰掛ける。肩と肩が少し触れ合うか触れ合わないかの、絶妙な距離で。今から遡ること三ヶ月ほど前、五条宛に出演依頼が来たという所から順を追って説明をしてくれた。
五条たっての希望で七海がキャスティングされたこと。七海の事務所の社長とはその際に知り合って、くれぐれも七海をよろしくと色んな意味を含めて頼まれたこと。昨日の電話は撮影が順調かどうかの確認だったということ。
ようやく電話の内容についても理解する。理解は出来たが自分だけが何も知らされずに今に至ったということには少し納得がいかない。七海は不満げに、五条をちらりと見た。
「つまり、私だけが蚊帳の外だったわけですね」
「それは、制作側の方針だよ。僕はただ、この番組に出る条件として七海を指名しただけ」
五条は、それに関しては全く自分には非がないとでも言わんばかりに肩をすくめた。
「はぁ。そもそもそれが一番分からないんですよね。なぜ私だったんですか?」
五条からのアプローチを受けて七海がずっと疑問に思っていたことを口にすると、五条は心底理解できないといった顔で七海を見た。
「オマエ、本気で言ってるの? まぁ、いいけど。僕ね、教え子たちと一緒に毎朝あのドラマをリアタイしててさ。七海のことずっと見てたら、会ってみたいなーどんな奴なのかなーって気になり出して。で、気付いたらオマエの名前を口に出してたんだよね」
「そうですか…。そこまで思って頂けたのなら、演じた甲斐がありましたね」
「うん、演技もすごく良かったけどね、七海建人って人間にすごく興味が湧いたんだよね。僕、今まで他人に興味持つことってなかったから自分でもびっくりだったよ」
「…そう、ですか」
五条から伝えられる言葉にむず痒くなって、思わず言葉を詰まらせる。すると五条は、うーんっと伸びをして、少し寝ようかと提案してきた。
「今日の予定はプールくらいだし、昼前までゆっくり寝てても問題ないでしょ」
「まあ、確かに…」
七海も応じながら、あくびが出てしまう。
「ほら、七海も眠そう。それにクマもできちゃってる」
五条がそっと手を伸ばしてきて、親指の腹で優しく目の下を撫でた。とても大事な物に触れるかのようなその手付きと表情に、目が離せなくなってしまう。
今度は払い除けられなくて良かったと、優しく微笑まれて思わず息を飲んだ。
そんな顔をされては、とてもじゃないが払いのけることなんて出来ない。七海は叫び出してしまいそうな気持ちを見ないふりをして、そっと目を伏せた。
それからお互いの自室へと戻って、二日ぶりにぐっすりと眠った。
次に目を覚ました時にはすっかり日が高くなっていて、手もとの時計はまもなく十一時になろうとしている。
さすがに寝過ぎてしまったか。自室を出ると、五条がキッチンに立っていた。
「おはよう、七海。お腹、空いたでしょ」
七海に気がつくと、とても寝起きとは思えない完璧な笑顔で笑いかけてくる。七海は自分だけが随分と寝こけてしまっていたのかと不安になって問いかけた。
「おはようございます。五条さん、ずっと起きてたんですか?」
「いや、僕もさっき起きたとこだよ。お腹すいちゃってさ。パスタ作ったから一緒に食べよ」
五条が茹で上がったパスタとトマトソースを和えている間に、皿を用意してカトラリーをテーブルに運ぶ。飲み物を用意するために冷蔵庫を開けると、サラダが入っていたので一緒に取り出した。
二人でテーブルに着き、揃って食べ始める。パスタはトマトソースが濃厚で、お店のような出来栄えだった。サラダはしっかり冷えていて、シンプルなオリーブオイルのドレッシングがよく合っていた。
「美味しいです。パスタもサラダも」
「ほんと? 良かった」
「お料理、得意なんですね」
「うん。よく作るかな。僕、いい主夫になると思う」
「ふふっ。あなた、家庭に入るんですか」
「それはね、相手に合わせるよ」
「なるほど。懐が深い」
「そうだよ。僕って優良物件だよ」
「確かに」
二人で他愛もない会話をしながら、あっという間に食事を平らげた。さっと後片付けを済ませると、スタッフが合流し撮影が始まった。
プールの前に、まずは五条がとても楽しみにしていた、お互いのために選んだ水着のお披露目会だ。先に七海が開封して取り出すと、五条が用意した七海用の水着は鮮やかなロイヤルブルーだった。色味は一目見て気に入ったが、広げてみると女性物かと見紛うほどに布面積の小さな所謂ビキニパンツだった。
水着を広げてキョトンとする七海を見て、七海絶対似合うと思ってさ! とげらげら笑う五条はまるで小学生だ。
「なんです、これ」
「これはね、全視聴者の夢と希望を詰め込んだ水着だよ」
「バカですか。こんなに小さな水着はさすがに事務所から許可が出ないですよ。五条さんがはいたらいいのでは?」
七海がじっとりと視線を向けると、五条は嬉々として七海が渡した袋を掲げていた。
「僕は七海が選んでくれたのがあるからね! 残念だなぁ」
全く残念そうに見えない口調で答えながら、七海の選んだ水着を袋から取り出した。
「これは…国旗…?」
七海が選んだのはマレーシア国旗が全面に大きくプリントされた水着だった。水着とお揃いの国旗Tシャツまでセットにした。五条はそのセットアップを自分の身体にあてて、どう、似合う? と七海に見せている。
「あなたなら着こなせそうだと思って」
「ま、僕くらいになると何でも着こなしちゃうからね」
七海は少しウケを狙って選んだその水着を、当たり前のように着こなしてしまいそうな五条を改めてまじまじと見つめていた。これほどまでに見目良い男には、今まで出会ったことがない。きっとこの人が着ると、どんな服でも一流ブランドのように見えるのだろう。
ぼんやりと五条を見つめたままで飛ばしていた意識を取り戻し、早速着替えに取り掛かろうとビキニパンツを手に七海が立ち上がると、五条が驚いて引き止める。
「ねぇ! 七海、それはくの?」
「ええ。せっかく五条さんが選んでくれましたからね。私、下積み時代は下着モデルもやってましたので、実はそんなに抵抗ありません」
七海が平然とそう言ってのけると、五条は大きな目をさらに大きく見開いた。
「下着モデル…? なんだそれ。めちゃくちゃ気になる。でも、いや、ダメダメ! そんな小さい水着、七海が良くても僕が許さないよ!」
「はぁ…あなたが選んだ水着ですけどね」
「冗談に決まってるだろ。後で二人っきりの時にはいて見せてくれるのはいいけど♡」
五条は七海の手から水着を奪い取って、別の水着を押し付けてきた。同じロイヤルブルーのいたってノーマルな形の水着だった。用意してるなら初めから渡して欲しい。七海は言葉には出さずとも、抗議の視線を向けた。
着替えを終えて、プールサイドに行くと五条はスタッフと共に大きなフラミンゴの浮き輪に空気を入れていた。七海が選んだ国旗柄を、完璧に着こなしている。似合ってますよと声をかけると、はにかんで笑う顔が少年のようで不覚にも可愛らしいと思ってしまった。
スポーツジム以外でプールに入るのなんて、何年ぶりだろう。南国の太陽の下でなら、ド派手なピンク色のフラミンゴに乗っかってプカプカ浮かぶのも悪くない。五条はドーナツの形をした浮き輪に乗って浮いていたが、少し前に室内へ入ったっきりだ。
そろそろ上がろうかな。喉も乾いたし。ぼんやり考えていると、七海の好きな瓶ビールを手に五条がプールサイドに戻ってきた。喉乾いただろと瓶ビールを掲げて呼ばれると、無意識のうちに「好きです、五条さん」と口走っていて、五条と撮影スタッフを大いに笑わせることとなった。
パラソルの下、日陰になったデッキチェアでくつろぎながら冷えたビールで喉を濡らす。これ以上ないくらいの、至福のひと時を味わっていると五条のスマホが着信を告げる。
七海の隣で同じようにくつろぎながら、グァバネクターを飲んでいた五条が通話を始めた。どうやらビデオ通話のようで、向こう側は複数人がわいわい言っている。
「おぉっ! 五条先生、めっちゃ南国っぽいじゃん!」
「どれよ。ほんとだ! 何そこ? プールサイド?」
「そうだよー。庭のプールで遊んで、今は休憩中〜」
「はぁ? 完全に遊んでるじゃない。ほんとに仕事で行ってんの?」
「もちろん、ちゃんとやってるよー。今だって撮影中だし? 野薔薇も映るかもよー」
「ちょっと! 先に言いなさいよ、そういうことは! 釘崎野薔薇十六歳でーす♡ 芸能関係の人たち、スカウトしてもいいわよ!」
随分と親しい仲なのか、漫才のような掛け合いが続く中、五条が七海の方にカメラを向ける。
「じゃ〜んっ! こちらが俳優の七海建人クンで〜すっ!」
「うぉーっ! マジでナナミンじゃんっ!」
「妄想じゃなかったのか」
「ちょっと、恵! 妄想だと思ってたの⁈ ひどくない?」
五条はひどいよねぇと言って泣き真似をしながら、二人一緒にカメラにおさまるように七海の肩を抱き横にぴたりとくっついて座った。
「おい。ちけーわ。離れなさいよ」
「先生、めっちゃ嬉しそうじゃん!」
「七海さんが迷惑そうですよ」
「この子たちね、僕の生徒。可愛いでしょ」
「はぁ。初めまして、七海です」
「すっげー! オレ今、ナナミンとしゃべってるー!」
全く噛み合っていないそれぞれ一方通行の会話が数分間繰り広げられ、最終的には日本へ帰ってから皆で食事に行くことが決まって通話は終了した。
七海に分かったことは、五条には高校生くらいの年頃の生徒が少なくとも三人いることと、その内の一人から何やら変なあだ名で呼ばれているということだけだった。
しっかりとプールを満喫したため撮れ高は十分だったようで、本日残りの撮影は無人カメラに任せ撮影クルーは引き上げることになった。
撤収準備をしているクルーのうち、無人カメラの映像チェック担当の人間を捕まえて今日の自分の眠りこけっぷりを謝りつつ、さりげなく五条の起床時間を確認してみる。
七海の予想通り、五条は七海が起き出してくるよりも随分早くに起きてキッチンに立っていたとのことだった。
「五条さんってあの見た目と才能であれだけ心配りができるって、性別関係なく惚れちゃいそうですよね〜」
スタッフの何気ない一言に、自分の心のうちが漏れ出てしまっているのではないかとぎくりとする。
「本当に。逆に何を持ち得ていないんでしょうね」
何でもない風を装って返したが、相手にはどう見えていただろうか。
撮影クルーを送り出し、リビングに戻ると当の五条はソファで横になって、うたた寝をしている。顔の近くにしゃがみ込んで、その整った顔をよくよく見ていると、まつ毛がふると震えて目を覚ます気配がした。
「五条さん、ベッドで少し眠られては?」
七海がそっと囁くと閉じていた瞳を少し持ち上げて、ふにゃりと微笑む。
「んーん。やだぁ」
「夕飯の支度は私がしますから」
「やだ。ここでいい」
「ここではゆっくり眠れないでしょう。どうして嫌なんです?」
小さな子供のような返答に、つられてこちらも幼子に言ってきかせるような口調になる。
「だってぇーななみのちかくにいたいもん」
もんって何だ。もんって。アラサー大男が言っていいセリフではない。
それでも七海はそんな姿も可愛らしいと少しだけ胸がときめいてしまうくらいには、五条に絆されてしまっていた。ふわふわと不思議な光彩を放つ白髪を、優しく漉きながら問いかける。
「では、アナタが眠れるまで添い寝して差し上げましょうか」
そう言い終わるか終わらないかの内に、ガバっと起き上がった五条は目を爛々と輝かせてがっしりと七海の腕を掴んでいる。
「マジ⁈」
「…冗談です」
五条はぼすっとソファに倒れ込み、七海に弄ばれた〜! と足をバタつかせた。七海はもう一度白くてふわふわの頭に手をやり、髪をくしゃくしゃと撫でまわしてから立ち上がった。
「好きにしてください。私は夕飯の支度に取りかかりますよ」
ソファでくだを巻く五条をそのまま放置して、キッチンへと向かう途中でこちらに向けて設置されている無人カメラに気がつく。
やってしまった…。
撮影クルーを送り出したことで気を抜いてしまっていたが、無人カメラはずっと撮影を続けているのだ。
今のやり取りをしっかりカメラに収められていた上、そのうち全国の茶の間に放映されると思うと頭が痛くなってきた。五条の自由奔放さにつられて、被写体として取り繕うことをついつい忘れてしまっているような気がする。
帰国まで残り二日を切ったところで、七海は今一度気を引き締めることにした。
—四日目 帰国前日
午前六時。セットしておいたアラームの音で目を覚ます。
昨日はソファで眠っていた五条が起きてから、七海の作った夕飯を食べて、早めに就寝した。帰国前日の今日は朝から撮影のスケジュールが立て込んでいるからだ。
軽く身支度を整え、ランニングウェアに着替えて外に出た。待ち合わせていたカメラマンと合流して、滞在先周辺を散歩がてらランニングに出掛ける。
朝の早い時間にランニングをするのは、十代の頃から続けている七海の日課だった。もっとも、最近は仕事の忙しさに加えて目立つ容姿のせいで外を走ることは難しく、ルームランナーが七海の相棒であったが。
こうして何も気にせず、外の景色を楽しみながらランニングに出かける機会をずっと伺っていた。本当はクアンタン滞在中は毎日ランニングに出掛けるつもりでいたが、諸々の事情によって今日ようやく叶うことになった。
人気のないビーチや、開店準備を始める朝食の屋台、昼間とは打って変わったまばらな車通り。まだ起き切っていない街の景色を、いつもより遅めのペースで走りながらゆっくりと楽しんだ。
五キロほど走って、滞在先に戻るとまもなく七時になろうという頃だった。五条はまだ眠っているのか、その姿は共用スペースには見当たらない。音を立てないように気をつけて、シャワーを浴びるために浴室へと向かった。
七海がシャワーを浴びて出てきたのと同時に、五条が玄関から入ってきた。
「あ、七海おかえり」
「戻りました。五条さんも出かけてらしたんですか」
「うん。七海にサプラ〜イズしようと思って」
にこにこと嬉しそうに言う五条に、サプライズの意味とは…と思わなくもなかったが敢えてそこには触れないでおいた。
キッチンへ向かい、冷蔵庫から何やら色々と取り出しては大きなバスケットへと詰め込んでいる五条を見ながら問いかける。
「どんなサプライズですか?」
すると五条は黙ってついてきてと、右手にバスケットを持ち左手で七海の手を取って、外へと向かった。
手を引かれ連れてこられたのは、家からすぐのビーチだった。パラソルとレジャーシートが準備してあって、そこに恭しく案内される。
「さぁ、どうぞ。僕の王子様」
促されるまま腰を下ろすと砂の上は思っていたよりも柔らかく、用意されていた大きめのクッションが更に座り心地を良くしてくれていた。五条も隣を陣取り、バスケットの中身を取り出して広げていく。
バゲットにロースハムとカマンベールチーズを挟んだ、シンプルなカスクート。彩豊かなサラダに昨日七海が美味しいと言った、五条特製のドレッシング。綺麗にカットされたフルーツとよく冷えたアイスコーヒーまで用意されていた。
「アナタ、これを一人で?」
七海が目を丸くして訊ねると、五条はにこにこと笑っている。
「海を眺めながら朝ごはん。食いしん坊の七海にぴったりのサプライズでしょ」
嬉しそうに言う五条に、これ以上ないサプライズですねと答えながら、心の中では完全に白旗を掲げていた。五条のような人にここまでされて、落ちない人間がいるだろうか。
五条が用意してくれた朝食を、貸し切り状態のビーチで海を眺めながら味わう。隣ではその人が、美味しい? 気に入ってくれた? と自分を気にかけてくれるている。
「はぁ。帰りたくない」
七海の口から思わず零れ落ちてしまったその言葉は、五条にとっては何よりも喜ばしい返事となったようで。二人して顔を見合わせてひとしきり笑った後、七海の肩を抱いて満足そうに言った。
「サプライズ大成功だね」
朝食の後も滞在先に戻って、さらに撮影が続いた。
近くにあるスーパーで働く現地の女性が七海達の元を訪ねてくれて、一緒に料理を作ることになっている。
買い出しの度に少しずつコミュニケーションを取って仲良くなり、思い出に現地の料理を教えてもらうというシナリオだが、当然この女性は制作側が事前にセッティングした現地の料理研究家の先生で、いわゆる仕込みというやつである。
七海はもともと自炊が趣味だ。さらに今回教えてもらうのがマレー料理と中国料理がミックスされた、ニョニャ料理という珍しい物なのも興味深く、密かにこの時間を楽しみにしていた。
まずはパイティーという、現地でも人気の前菜メニューを作ることになった。
米粉を水で解いた生地を金型に貼り付け、油でカリッと揚げて器にする。そこに千切りにしたカブの煮物や、錦糸卵、フライドオニオンなどを詰めて出来上がりだ。
五条が生地を金型に貼り付けて、それを七海が油で揚げていく。二人とも元から自炊慣れしているのに加えて、既に数食分を共に作っているため自然と流れ作業になっている。
「アナタ達二人でお店を始めたら? きっと大人気よ」
料理を教えてくれている先生もそう勧めるほどには、二人の息はぴったり合っていた。
続いてメイン料理にはココナッツカレーのヌードル、ニョニャラクサを作ることになった。
鶏や魚介の出汁にココナッツミルクとスパイスやハーブ類を加えて、スープを作る。スパイスを加える際に、五条は辛いのが得意じゃないので控えめにしようと七海が提案すると、先生がとても感心した様子で何度も頷いてから言った。
「まぁ。ベイ想いの優しいダーリンね」
七海は「ベイ」の意味がわからず、なんとなく茶化されたのかなという程度の認識だったが五条はしっかりと理解したようで、七海の肩を抱き寄せて僕のベイってほんと最高でしょ! と嬉しそうに答えていた。
「なんです? ベイって」
七海は肩に回された手をそっとのけながら五条に尋ねると、今度は腰に手を回してくる。
「ベイはBAE、before anyone elseの頭文字で若い子達が恋人を指すときに使う言葉だよ」
「よくご存知ですね。というか、訂正してくださいよ」
腰にまわった手をぴしゃりと叩くと、やれやれと言った様子で先生と顔を見合わせてから小声で照れ屋さんなんだと言って笑い合っているので、七海はもう諦めて残りの調理に取り掛かることにした。
ランチにしては少し遅くなってしまったが、出来上がった料理を三人で試食する。
パイティーは器の部分はカリッと揚がった食感が良く、中に詰めてある煮物はどこか懐かしさを感じるような少し和風の味付けに似ていていくつでも食べられそうだ。
ラクサの方はスパイスを控えめにしたことが、鶏や魚介の出汁の味を引き立たせることになった。とても良い仕上がりで、先生からも本当に美味しく出来たとお墨付きをもらうことができた。
食事中七海が、自分と五条はカップルではないと訂正すると、どう見てもカップルにしか見えなかったと言われてしまい、苦笑いするしかない一幕もあったが、この企画自体は成功に終わったと信じたい。
料理の先生を送り出し、後片付けを済ませて撮影クルーが引き上げると、すっかり日が傾いていた。明日にはいよいよ帰国するため、荷物の整理でもしておこうかと考えていると、五条からビーチへ散歩に出かけようと誘われた。
今朝二人で朝食を摂ったビーチは、夕暮れの散歩にもぴったりの静けさだった。白い砂浜に打ち寄せる波を見ていると、クアンタン滞在四日目にして、海に全く入っていなかったことに気が付く。
七海は履いていたサンダルを脱ぎ、リネンのパンツの裾を折り上げて躊躇うことなく足を浸けた。ざぶざぶと足で波を受けながら遠い水平線を眺めていると、ここで過ごした数日のことが思い起こされた。
南国らしい異国の景色に、日本とは全く異なる味付けがなされた食事、その中に暮らす現地の人々。色んなものを目にして口にして刺激を受けたはずなのに、自分の記憶の真ん中に居座るのは五条ばかりだった。
ふと後ろを振り返ってみると、七海が脱ぎ捨てたサンダルを手に五条がこちらを見つめている。そんな顔で見ないでほしい。
「そんな顔して見ないでください」
思わず口にした言葉に、五条は全てお見通しとでも言いたげな顔で笑っている。
「いいじゃん、見せてよ。減るもんじゃないでしょ」
差し出された手を取って砂浜に上がると、五条が並べてくれたサンダルを足に引っ掛けた。
「ねぇ、七海。僕はお前のことをいつでも見ていたいよ。誰よりも一番近くでね」
「五条さん…」
取られたままの手が五条の口元に運ばれて、手の甲に控えめなキスが落とされる。辺り一面が青と赤に染まっていく中でも、自分を見つめる五条の瞳は蒼く美しく煌めいていて、まるでお伽話の王子様のようだ。
静かな夕暮れの海辺で、この世の者とは思えないくらい美しい男が手を取って告白してくるなんて完璧のシチュエーションではないか。そう、あまりにも完璧すぎるのだ。
「現実味がない…」
そう言った七海の顔を見て五条はぶっと吹き出した。
「お前、こんな告白受けた人間がそんなうんざりした顔する? 普通」
どんな顔をしていたのかは自分では分からないが、全てにおいてお腹がいっぱいだったのは確かだ。なんなら胸焼けすら起こしてしまいそうなほどに。
その気持ちを正直に伝えると、五条はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「お前って正直なんだね」
遠回しに断ったことに気付いているのかいないのか、五条は変わらず七海の手を取ったままでにこにこと上機嫌だ。
「完璧なあなたがずっと見ていたいと思うのは、ここで一緒に過ごした私です。日本に戻ればきっと幻滅することしかない」
「えー? そうかなぁ? 僕はきっとどんな七海も大好きだと思うよ。僕の方こそ、思ってたのと違うって言われちゃうかも」
握ったままだった七海の手の甲にもう一度ちゅっとキスをした上、バチンと音が鳴りそうなウインクまできめてくる。
「それは、あなたの生徒さん達とのビデオ通話でうっすら感じましたよ」
そろそろ手汗が心配になってきた七海は、五条の手からそっと逃れた。しかし、五条は離す気がないようで今度はするりと腕を組んで七海の肩に頭を預けぐりぐりと押し付けた。
「で? そんな僕は嫌い? 付き合えないって断っちゃう?」
表情は見えないが、声のトーンから少し気落ちしているような気がした。
「いえ、ですから、お互いに今は答えを出さずに、戻ってからもう一度最初から始めるのはどうですか」
「初めましてからってこと?」
「まあ、なんというか知り合いから?」
「やだ」
そう言うと同時に、組んでいる腕にも強く力を込められて態度でも拒否の意思表示をされる。
「友人寄りの知人?」
「うーん」
「普通の友人?」
「もう一声」
叩き売りのようなやり取りに思わず七海が吹き出すと、五条も嬉しそうに七海の顔を覗き込んできた。
「じゃあ、もうほぼほぼ恋人だけど七海のワガママに付き合って一応友人という枠に収まってる友達っていう関係でどう?」
五条の自分勝手な物言いに呆れた七海は大きめのため息で返事をする。
「やはり、初めましてからやり直しましょうか」
「えー! やだやだやだ!」
そろそろ滞在先に戻ろうと歩き出した七海の腕に、駄々をこねながらしがみついて離れない五条。足技をかけて砂浜に転がしてやろうかと思ったけれどやめておいた。
ここで答えを出さなかったところで、結局なんだかんだと押し切られるのは分かっているけど、今はこうして少し抵抗するポーズを取っておきたい気分の七海なのだった。
戻ってからは明日の帰国に向けて、各々荷造りをしたり、共有スペースの掃除をしたりと忙しなく動き回った。シャワーを済ませてようやく就寝できる頃には、すっかり日付けが変わっていた。
ダイニングで眠る前の水分補給をしながら少し会話をして、自室へ眠りに行こうとする七海に五条が声をかける。
「ねぇ、七海。今日は最後だから一緒に寝ない?」
五条の真意を測りかねてじっと見つめていると、しおらしく眉を下げてさらに続けた。
「一緒に暮らした思い出にさ、寝入る時にお前の声が聞けたら幸せだなーって思ったんだ」
「それだけですか?」
「うん、それだけ。お前が嫌がることは絶対にしないよ」
約束ですよと念を押すと、約束ねと返しながら手を取られて部屋に連れて行かれる。
五条が使っている部屋に入るのは、これで二度目だ。一度目はまだ彼が到着する前、二つある寝室のどちらを自室とするべきか決めるために両方の部屋を確認しに訪れた。
その時と同じくらい綺麗に片付いた部屋の端にキャリーバッグが置かれていて、今夜が最後の夜だということを嫌でも実感させられた。
最後の夜を意識すると、目の前の男から帰るまでに抱くと言われたことが思い起こされて、どっと心拍数が上がる。嫌がることはしない約束だが、五条から迫られた時に果たして本当に拒むことができるのか、自分の気持ちが何よりも信用できないでいた。
「ほら、早くおいで」
七海があれこれ考えている間に、先にベッドに入った五条が隣に来るよう促してくる。誘われるまま隣に寝転ぶと、満足そうに掛け布団をかけてくれた。
自分の顔のすぐそばに五条の顔があると思うとなかなかそちらを向くことができず、仰向けになってひたすら天井を見つめることにする。
控えめな常夜灯へと明かりが落とされると、七海の緊張は更に高まっていった。身じろぎひとつで衣擦れの音が響くこの状況で、煩いほどに早鐘を打つこの心臓の音が五条の耳にも届いているのではないかと不安になる。
「ななみ」
ほとんど吐息のような、ひそめた声で名前を呼ばれる。さすがに眠ったふりをするわけにもいかず、返事をする代わりに五条の方へと顔を向けた。
「少し話してもいい?」
いつも耳にしていた明るくよく通る声がひそやかに発せられると、ここが夜の寝室であることを改めて強く認識させられる。
「ええ。もちろん」
七海も同じように声のトーンを落として返事をした。
「最初の日にお前のこと抱くよって言ったの、覚えてる?」
「ええ」
いきなり切り込んできた話の内容にどきりとしながら応えると、五条はさらに続けた。
「お前に会ってみたいなって思いながらここに来て、実物見たらやっぱりすっごい好みだったし、料理作ってくれてたり、僕を気遣ってくれたり、中身もめちゃくちゃいい奴じゃん! って思ったら、どうにかして僕のことを意識して欲しくてあんなこと言っちゃったんだよね」
なんと答えれば良いのかわからず、七海は小さく頷いて先を促すことにする。
「その後一緒に過ごしてお前をずっと見てたら、見た目ももちろんだけど、美味しそうに食べるところとか、真面目で優しいところとか、僕本当にお前のことどんどん好きだなって思うようになった」
「五条さん…」
「でもまぁ、さっきお前が言ってたように、この状況が非日常で一種の吊り橋効果みたいなもんだって思っちゃうのもわかるよ」
そっと伸びてきた五条の大きなてのひらが、七海の頬を優しく包み込む。その手はひやりと冷たくて、自分と同じように彼も緊張しているのだと分かると、途端にすーっと緊張がほぐれていった。
「だから帰ってからも何回だって、お前のこと口説くから。覚悟してて」
「わかりました」
五条の手に自分の手を重ね、頬を擦り寄せた。五条は目を丸くした後ぎゅっと瞑って、もぉ〜と唸っている。ぶつぶつと唸る五条に、今度は七海から声をかける。
「そろそろ眠りましょうか」
重ねた手を二度ほど優しく叩くと、五条は顔をこちらに寄せて内緒話でもするかのように小さく囁いた。
「おやすみのキス、してもいい?」
「…一度だけなら」
そっと寄せられた唇が控えめに重なって、柔らかな感触を楽しむ間もなく離れていった。離れた唇を追いかけるように、七海の方からもう一度重ねる。
それが合図となって、ちゅっちゅっと啄むようなキスを何度も繰り返す。離れていこうとする五条の唇が名残惜しくて、その下唇を柔く甘噛みした。
「ねぇ、なんでそんな可愛いことすんの」
あっと思った時には既に五条が覆い被さっていて、重なった唇のあわいから五条の長い舌が入り込んでくる。お互いの舌を絡めて深く触れ合うキスは、じわじわと頭の中を快楽で染めていった。
しかしそれは突然、五条が中断したことで終わりを迎えた。七海の肩に顔を埋めて、獣みたいに低い声でダメとかとまれなくなるとか、呻くように呟いている。
七海はそんな五条がたまらなく愛おしく感じて、髪を梳き、丸く形の良い頭にキスをしながら、寝ましょうかと囁いた。
後ろから抱きしめられると、五条の熱を帯びたものがちょうど七海の尻あたりに押し付けられる。七海だって人のことは言えない状態になっているので、お互いこの状態のまま眠るとはなかなか滑稽だななんて呑気なことを考えていた。
五条の方はまだおさまりがつかないようで、七海の首筋に熱心にキスを送りながら、ここでやめられるなんて僕ってほんと良い彼氏になるよとか、帰ったら絶対最後までしてやるとか呟いている。
それでも七海が、腹のあたりにまわされている腕を優しく撫でながらおやすみなさいと言えば、五条ももう一度首筋にキスを落とした後おやすみ、大好きと返してくれた。
五条の温もりに包まれると、眠気はすぐにやってきて、私もですと言葉にして返す前に深い眠りへと落ちてしまった。
—五日目 帰国当日
帰国当日の今朝は、飛行機の時間に合わせて早めに目覚ましをセットしておいた。アラーム音に目を覚ますと、間近に五条の顔があり、さらにはぎゅっと抱きしめられていることに気がつく。
五条の腕の中からそっと抜け出そうとすると、抱きしめる腕の力が強まって身動きが取れなくなる。
「五条さん、起きてますよね」
確信しながら声をかけると、目を閉じたままで笑っている。
「キスして七海。そしたら僕起きるから」
綺麗な顔に一瞬絆されそうになったが思い直し、顔を近づけてキスするふりをして、高い鼻をギュッと摘んでやった。
「これで目が覚めたでしょう」
痛い! と大袈裟に驚く五条を放って、さっさとベッドから抜け出す。今日のスケジュールはタイトなので、五条の我が儘に付き合っている暇はない。
身支度を整えた後、買っておいたパンとコーヒーで簡単な朝食を済ませる。テラスに出て、数日間過ごしたこの場所の景色を見ながら残ったコーヒーを飲み干した。
午前中の飛行機でここを発つため、今日の撮影は無人カメラのみ。朝食を摂り、後片付けと掃除をして五条と二人玄関を出ていく所までを写して撮影終了となった。
世話になった撮影スタッフや現地のコーディネーターと挨拶を交わし、五条と七海は一足早く空港へ向かう。
空港へ向かう車の窓からクアンタンの街並みを眺める。隣では五条が空港のラウンジであれが食べたいとか、帰ったら次はいつ会えるとか忙しなく喋っている。
この地にまた訪れることはあるのだろうか。
その時はまた、この騒がしい人が隣にいたらいい。
そんなことを考えながら、今はこの景色を目に焼き付ける七海だった。
—帰国から約二週間後 愛知県
五条は史上初の八冠をかけた大きなタイトルの対局に、クアンタンで七海から贈られた国旗Tシャツを着用して挑んだ。
対局相手へ敬意を払うため、一応Tシャツの上からジャケットを羽織っているものの、派手なその国旗柄はジャケットのインナーとしてはあまりにも主張が強すぎた。
通常、タイトル戦のような大事な対局には殆どの棋士は和服で挑む。ごく稀にスーツ姿で挑む者もいるが、それもほんの一握りだろう。
注目度の高い対局にTシャツ姿で、しかもなぜかマレーシア国旗柄で現れた五条をマスコミはこぞって取り上げた。
このニュースは瞬く間に日本中に拡散された上、マレーシアでも大きく取り上げられた。
ネットでは大バズりと大炎上を繰り広げ、国旗柄Tシャツは売り切れ続出。
将棋連盟の上層部は五条の処分に頭を悩ませ、これまでは暗黙の了解とされていた和服の着用を原則義務へと規定変更した。
それでも誰もが不思議に思ったのが、何故マレーシア国旗だったのかという点だ。
五条のあの不思議な色合いの髪と瞳は、マレーシアにルーツがあってそれを主張するためなのではないか。
五条のことを気に入ったマレーシアの王族と近々婚約発表するため、それを匂わせたのではないか。
様々な憶測が飛び交っても、当の五条は国旗柄については沈黙を貫いていた。
しかし話題となった対局から数日後、五条と七海のクアンタンちょい住み番組が放送されると、世の中は突然答えを突きつけられることとなる。
一部の女性たちは「五条悟、そういうとこ…」とダイイングメッセージを残して息絶えたのであった。