推しより先に死にたくない! あなたの好きなものを教えて、と言われて、そのとき思いついたものを伝える。車内に響くラジオがタイミングよくいい感じの曲を流していると、これなんていい感じだよね、と便乗して。こちらがハンドルを握っているというだけで容易くそこそこのムードを作り出せるのだから、それで十分だった。
しかし後日、「あれを聴いた」「同じ歌手の他の曲を聴いた」などと報告されたって、反応に困る。添えられる感想が、ほとんどの場合自分が抱いた所感の熱量を上回っているからだ。
だから、良くないことだとわかっていて、ああそう、と生返事をするたびに、好きなんじゃなかったの、と怪訝な顔をされる。そういった些細なことがきっかけになって、関係に亀裂が入って。弁明に力を尽くしてまで繋ぎ止める気力はないので、去っていく背中を追ったことはない。あまりにもろくに続かないものだから、最近はもうめっきり枯れ気味だ。
「音、漏れてるかも」
講義が始まる前、すでに着席してスマートフォンを弄る女生徒の顔を、覗き込む。伝わるようにはっきりと口の形を作って、とんとん、と自分の片耳を指で突いてみれば、彼女はすぐに顔を赤くして、すみません、と呟いてからイヤフォンを外した。
まだチャイムはなっていないのだから取らなくてもいいのにと思いつつ、いそいそとそれらをしまう様子は健気で、可愛らしかった。素直な学生には好感が持てる。
「今の曲、俺も聴いたことあるよ」
戯れにそう投げかけると、彼女は大仰に驚いた。そこを深く掘られるとも、いや、教卓の向こうの存在から話しかけられるとも、想定していなかったのかもしれない。
「本当ですか」
「うん。この前、有線か、ラジオでだったかな……。いい声だよね」
おかげで、聴きやすく、いい意味で耳に残る曲だと、珍しくはっきりと覚えていた。
久々に知った振りができることに気分を良くして伝えただけだ。なのに、彼女は、忽ち目を輝かせた、ような気がした。何の気なく、一般的な学生とのコミュニケーションのつもりで話しかけたのに、変な期待をさせるのは良くない。そう思って、すぐに、じゃあ、と距離を取ろうとしたときだった。
「MV、見たことありますか!?」
――MV。文脈からして、彼女が今聴いていた曲の、だろう。想定外の文言に、戸惑いながら、見ていないと正直に答える。すると、その口はさっと開きかけて。
しかし、そこでチャイムが鳴ってしまったから、続きを聞くことは叶わなかった。
とらいえ生徒の嬉しそうな顔のことは気になる。また来週話題を与えてもいいかもしれない、と思い、帰宅してから、該当のミュージックビデオを動画配信サイトに探しに行った。
まさか、何の気なく再生したそれで出会った彼が、運命の存在になってしまうなんて、露ほども知らずに。
ミュージックビデオには、一人の少年と、その相手役と思しき少女が映っていた。よくあるラブストーリー仕立ての映像が始まるのだろうか、なんて思っていると、そのいい加減な予想はすぐに砕かれた。
歌詞を紐解いていけば、それは男性目線の悲恋の曲だった。だからか、少女の出番はほどほどに、男の子の方が、出番を占領している。落ち着いた芯のある声を、耳で聞いただけのときはそんなことを思わなかったが、役者と演技が揃うと、どうにも若い印象が付加された。自分の年齢が年齢だから、あまり感情移入ができるようなものではないなと思っていると、不意に、画面を占領する彼と目が合う。
よく見れば、整った目鼻立ちをしている。少し長めの髪のせいか中性的にも見えて、くるっと回った毛先が影を落としているお陰で、アンニュイな雰囲気が絶妙に表れていた。彼の表情や仕草には、与えられた役にぴったりな、えも言われぬ儚さや悲痛さが漂っていて、なぜか目が離せない。
今すぐ彼の名前が知りたい。でも映像を中断したくないから、検索窓に行くわけにも、動画の説明を見に行く訳にもいかない。
ここまで来ると、対象年齢への疑問を覚えたとはいえ、流れている歌も良く感じた。芯があってはっきりとしているのに、物悲しい歌詞を殺さない落ち着いた歌声が、耳によく馴染む。演じているのが同性だからだというのもあるだろうが、演者の魅力も、引き立てられているように思った。
これほどまでに惹かれている、強烈な存在感を放っている彼の顔を今まで知らなかったのが、不思議に思えた。自分がテレビや動画をあまり見ない部類の人間なのが理由かもしれないが、これほど目を引く存在なのに、なぜ。
息をするのも忘れていたことに気がついたのは、画面が暗くなり、静かになった部屋に、自分の不自然な吐息を漏らしたあとだった。
俺は、逸る心を抑えられずに、その動画の概要欄を開いた。
「......え」
『Act and song by Faust Lavinia』
そこで初めて、俺は、俺の関心を引いた歌声と、見惚れた容姿の持ち主が同一であることを知った。
ファウスト・ラウィーニア。十七歳。誕生日は一月十三日。身長、百七十四センチ。特技は、歌と、服飾デザイン。
検索していくと、そんなプロフィールに行き当たった。そして、なぜ彼のことを今まで知らなかったのかも、判明した。
「MV、見たよ。歌ってる子、すごく綺麗だった」
一週間後、講義にやってきた例の彼女に、自分から話しかけた。すると彼女は目を瞬かせた後に、ありがとうございます、と立ち上がって頭を下げた。ぎょっとしていると、にこにこと微笑まれる。
「彼、私の推してるアイドルグループのメンバーなんです。アイドルには勿体ないくらいの歌唱力ですよね……。あ、まだ、デビューはしてないんですけど」
そう、初めて知ったときはそこでも驚いたのだが、彼は、歌手でも、役者でも、モデルでもなく、アイドルだった。こんなに綺麗な子が? と思いつつ、グループ名を調べているうちに、気がついた。所属している集団はあれど、彼らにはまだ売り出しているCD等がない。だから、一般の知名度が乏しいのだ。
彼個人のミュージックビデオがあるくらいなのに、と不思議に思ったが、どうやらあれはタイアップ企業の広告を目的に作られたものらしい。デビュー前から一人であれほどの仕事を引き受けられるというのはおそらく異例の活躍なのだろうけれど。
「へえ、アイドルなのは、調べてわかってたけど……。きみ、ファンだったんだね。推しメンってやつ?」
「あ、推しは別にいます」
急に真剣な顔で即答されて、少しひやっとした。何も事情を知らないのに、無闇矢鱈に突っ込むのは良くなさそうだ。
最近の帰宅後の日課は、家事をしながら動画を垂れ流すこと。ファウスト君が所属しているグループの面々がトークをしたり、遊んだり、たまにダンスの練習動画を上げたりするチャンネルのそれらを、だ。メンバーが複数いるせいで、出演もほとんど交代制だから、彼がいないときもある。出ていてもあまり発言をしないときも。そういうときは少し早送りをしながら、たまにある不在の彼への言及を楽しんでいた。もちろん本命の動画は、生活そっちのけで食い入るように見てしまうこともあったりして。
彼は、わりと中心的なメンバーのようだった。明確に一人、リーダーポジションについている、陽気で溌剌とした、いかにもアイドルらしい風体のメンバーがいるのだが、そこと仲が良い。どちらかと言えばクールな、仕事人タイプのファウスト君は、よくそのツッコミ役や振り回され担当になっていた。
彼の絡む問答を見て聞いてくすくすと笑っていると、次に再生される動画では圧巻のパフォーマンスをしていて、そのギャップに心臓がどきっと音を立てることも多々ある。同性なのに、とか、いくつ年下なんだ、とか、思うことは沢山あったが、まあ自分は男だし、完全に興味本位だし、ガチ恋とか、ないしな……と、割り切ってもいる。今まで、この歌手の曲はまあまあ聞ける、とか、この役者の演技は見ていて気持ちがいい、とか、芸能人に対して、無難な感想を抱くことしかなかった。だから、すべてが新鮮な気持ちで。ハマりたてが一番楽しいというのは、その通りだった。
「……でさ〜、これとか、ダンスもすごいんだよ。ほら、この子の動き、キレ、めちゃくちゃあるでしょ」
「……ああ」
「で、ビジュアルもいいの。なのに、メインボーカル。チートすぎない?」
「…………ああ」
「フィガロちゃん、何オズちゃんに絡んでるの?」
「なにそれ、動画? 見せて見せて〜」
「嫌です」
「えーっ!」
「どうして!」
学会後の打ち上げ。新しい動画も上がっているし、正直早く帰りたいのだが、読まなければいけない空気に従った結果、抜け出すことはできず、ならせめてと都合良く相槌を打つ旧知の仲の存在を捕まえていた。そうしたら、面倒そうな二人――俺の、恩師にあたる人物がやってきて。
しかし、嫌と言いつつ、満更でもなかった。だから勿体ぶるふりをして、最後は折れてやると、彼らは楽しそうにそれを見てくれた。最近の子達ってすごいねえ、と繰り返す二人に、でしょうと胸を張る。大体落ちサビを担当するのは彼なので、そのタイミングで、特にこの子、と、ファウスト君を指差す。そこで、ビジュ、ダンススキル、そして歌唱力、そして俺が彼を見つけたきっかけになったMVでの芸術性すら感じる表現力について伝えながら、すべてが群を抜いているのだと主張する。
「めっちゃ早口……」
「フィガロちゃんの推しがファウスト君なのはわかった」
推し、と、呼んで良いのだろうか。ただミーハーに彼に注目するようになっただけなのに、大仰で、烏滸がましすぎはしないか。
なぜか、認めるのが悔しかった。そんな複雑な気持ちになる時点で、もう、大分なのに。
「ガルシア教授、あの……、全然断ってくれても良いんで、一つ、提案しても良いでしょうか」
「どうぞ」
もしかしたら今最も仲が良いかもしれない件の女生徒が、珍しく講義後に話しかけてきた。どうぞ、と許可をしながら教材をまとめていると、彼女の口から、とんでもない提案が飛び出てきて。
「夏の公演、当たったんですけど、連番しません?」
「……連番?」
すぐそう聞き返したが、なんとなく、言わんとすることはわかってしまって、どきどきと胸が音を立てる。自分らしくない。落ち着いて息をしよう。いや、でも、普通、誘うか? 大学の教員を。推しのコンサートに。
「あ、二名席を当てたので、隣に座ってもらえないかってことで……。深い意図はないんです! けど、教授最近ファウストのことめっちゃ好きじゃないですか。私みたいにコンサート行くほどの熱量じゃないかもしれないけど……」
「いや、まあ、そうだね……。俺、そういうの、一切行ったことないし」
嫌じゃない。それどころか。けど、生徒と? この歳で? 男性アイドルグループのコンサートに? 俺、そんなにファウスト君にハマってる? と、数えきれない葛藤が押し寄せてきている。
「ですよね……。すごい変なこと言うんですけど、教授、男性だから目立ちそうだし、そのそばでアピールしやすいじゃないですか。あとまあ同担と被りたくはなくて……すみません、思いつきで言っただけなので。忘れてください」
大した思いつきだ。やはり、何かに夢中になっている人間は、驚異的な発想を持ち得る。彼女が謝ってさっさと背中を向けたのと、その発言の内容から、本当に利害のことだけを考えて俺を誘ってきたんだな、と思い至って、その清々しさに感心する。
そして同時に、ならいいか、と、こちらも高揚感から箍が外れてしまって。
「いい、かも。いつ?」
ほいほいとその船に乗ることにしてしまった。
「はい、ペンライトはこれ、二本持ってください」
「二本……」
受けとって、左右に一本ずつ持とうとすると、違います! と指摘された。
「どっちか片方の手で二本持ってください。で、もう片方の手には、これ」
「……」
どうやって片方で二本を、と戸惑っていると、より信じ難いものを手渡された。
『ハートつくって』
紫色、彼のメンバーカラーで縁取られた、丸っこく大きな文字が印刷された、うちわ。
「で、ペンライト持ってる方で頑張って、こう……。ハートの片側作るような感じで。せっかくアリーナ引けたんで、アピールしましょ! 教授、背が高いしすらっとしてて格好いいし、男ファンの中でもマジで目立つからいけると思います」
さらっと耳触りの良い褒め言葉が並んだ。なのに、ただの賞賛とはまた違うそれらを素直に受け止めきれずに、はは、と苦く笑う。
「『いける』というのは……」
「ファンサ、貰いたくないですか?」
ファンサくらい俺も意味は知っている。だが、広い会場の、たしかに前の方ではあるかもしれないが、端っこの、通路側。そんな簡単にもらえる気がしないし、こういうのは、所謂「ガチ勢」が乞うことでは……。
混乱していると、会場が暗転してしまった。隣の彼女と駅で待ち合わせたのは余裕を持った一時間も前だったのに、あっという間すぎて。
ていうか、紫のペンライト、多くない? 彼って人気メンなの? これじゃあ尚更ファンサなんて。
なぜか不満に似た面倒な感情を抱きつつ、どくどくとあまりにも大きな心臓の音を鳴らしてしまう。不意に目に入った、まだ暗いステージを真剣に見つめる教え子の横顔、その瞳がきらきらと輝いていて。
俺も、精一杯楽しんでみようと思った。
あ、本当に、同じ世界に存在するんだ。
すごく人並みだけれど、彼等がスモークの向こうから登場した瞬間に、そう実感した。
そして、お目当ての彼の姿は、意外にも一瞬で見つけることができた。動画で見るファウスト君はクールで、常識人で、なのにパフォーマンスには熱がこもっているのを感じて。それで十分凄かったはずなのに、生身、すぐそこの距離で歌って、踊る彼は、さらに、楽しそうで。
ファンの顔が見える公演だからかはわからないが、画面に流れる映像よりも、今日の彼は笑顔が多い気がした。思っていたよりも天真爛漫な姿に、ああ、やっぱりアイドルなんだ、と実感する。
正直、多才だし、自分が好きになったきっかけがアーティスティックな一面だったのもあって、別にアイドルじゃなくてもやっていけるのにと思ったことがある。それに、他人へ話すときも、侮られるのが嫌で、アイドルだけどそれにしては才能が突出しすぎだとか、そんな伝え方をしていた。
けれど、きらきらと星のかけらを振り撒くような笑顔や仕草を見ていると、彼の真価がどこで発揮されているかなんて、俺が判断することじゃないと思った。
わからない曲だって何曲もあるのに、彼の瞳の色に光らせたペンライトを振るのが楽しい。心からの応援が、ファウスト君に届けばいいなと思う。推している、そう、心から実感した。
彼らはステージを縦横無尽に駆け回るから、正直、目で追うのが大変だった。立ち位置とか、ちゃんと勉強しておけばよかった、と後悔する。
少しポップなサマーソングのイントロが流れると、一部のメンバーたちがステージを降り始めた。ハイタッチをしたり至近距離でファンサービスを連発する彼らに、そんなことある? 流石にファンとの距離が近すぎじゃないか、なんて思いながら、移動するファウスト君の姿を追い続けた。すると彼は、真ん中の通路を通って歩いて行くと、後ろの扉から場外へ出ていってしまった。慌てていると、そのすぐ上の階の扉から、彼が現れる。そこでようやく、ああこれが隣の彼女が言っていた『客降り』か、と気がついた。
ファンサチャンスだと言われたけど、彼はもう大分遠いところに行ってしまった。その代わりに別のメンバーが俺たちの横の通路を駆け抜けたり、留まったりしていて、これは見応えがあるな、と思う。
推しは遠いところにいるし、近くにいるメンバーに背を向けてまでファウスト君の方を見るのは少し気が引けたので、折角だから、丁度近くに来てパフォーマンスをしているメンバーを見ていた。人気のある子で、周りにそのメンカラのペンライトを掲げている子も多いから、盛り上がりが凄くて、自分も気分が上がる。
これ、俺もハイタッチできちゃうんじゃ? と思っていた、そのときだった。ほど近い前方にあった扉が開いて、誰かが姿を現す。
ひゅっと息を呑んだ。彼だった。
あっ、と、後ろの生徒が俺の背中を叩く。やれ、と言われている気がして、慌ててうちわを掲げながら、指示された通りに手の形を作った。
今までで一番近くで、彼を見ている。とはいえ彼は他のファンサに夢中だし、その中に、勿論アピールが拾われない子もいる。少しずつ近づいてくる瞬間が、楽しみなのに、怖かった。心臓を壊れそうなくらいドキドキさせながら、震える手でペンライトを振る。
手を振りながら通路を歩いている彼と、一瞬、目が合って、彼の目が丸くなったような気がした。そのときだった。
彼が目の前にやってきて、自分を指差し、首を傾げた。こくこくこくとオーバーリアクションで頷くと、彼は、少し、照れ臭そうな顔をして――俺が作っていた片側のハートに、自分の手を添えて、完成させてくれた。
ありがとう、と、小さい呟きが聞こえたような気がした。ただ、呆然と彼の口の動きを見て思っただけかもしれないけど。
途端に、周囲からきゃあっと黄色い歓声が上がる。え、なんでこんなに周りが沸いてるの。ていうか、これ、ファンサ? ファンサだ。俺、どう反応すれば。
訳もわからずまた頷いていると、彼は手を振って去っていってしまった。
「教授、ヤバい。特大ファンサじゃないですか! あー、男羨ましい……!」
捲し立てる彼女の方を振り返って、ありがとうと伝えた。そうしたら、驚いた顔で、やばい、教授泣きそう、と呟かれて。
無理もない。その瞬間、たしかに彼の瞳には、俺が映ったのだから。
その日俺は、ファンクラブに加入した。で、次の公演に応募できるのを心待ちにしていたけど、そもそも滅多にあるものじゃないらしく、同じ規模の会場での公演を見るにはまた一年近く待たなければいけないことを知り、がっかりした。ちょこちょこある他のアイドルとの共演イベントとかに申し込んだりはするけど、それも、当たらないし。
一個だけ、彼が出演する舞台のチケットが当選して、それは嬉しかった。きらきらしたアイドルらしい彼と違い、例のMVで見つけた一面の方が強いパフォーマンスを見ると、それはそれでやっぱりいいなと思ったりして。
「もうすぐ今年の現場について発表される気がします」
新学期初日、学年を重ねても俺の演習授業――ゼミを履修してくれている彼女にそう伝えられて、やっとか、と呟いた。
「当たるかなあ」
「ビギナーズラック信じましょう。あ、というか――」
何かを言いかけた彼女が、ぽんと手を口に当てて押さえた。
「……教授、今年も一年生向けの演習、開講しますよね?」
「うん」
そうですか、と呟いた彼女に、聞き返す。
「なんで?」
「ああ、いや。サークルの後輩が、応募しようかなって言ってて」
後期から演習授業を履修するには、入学直後に、受け持つ教員が定めた試験や面接を突破する必要がある。残念ながら推薦枠はないから、彼女の後輩を優遇することはないが、滅多なことがない限り、書類選考くらいは通してあげようかなとも思った。
「なんていう子?」
えっと、と告げられた名前に覚えはない。一年生向けの講義を他に持っていないから、当然なのだが。覚えておくねとだけ言って、期待はするなと彼女に返した。俺は意外と、名物教授というやつなのだ。落ち着きがあり、それなりの容姿を持ち合わせた女生徒に人気の教授――というポジションだった。
最近、彼女と会話をしているのを聞かれて、一部女子生徒からはアイドル関係の話題を持ち出されることも増えてきたけれど。
彼女の言う通り、次の公演についての発表は、その日の数日後に、本人たちが直接緊急生配信と銘打って行われた。晩酌のお供にその様子を見ながら、まだ先の日程だが、絶対に行く、と誓ったところで、本人たちの決意表明が最後に挟まる。
真剣な抱負や、少しユーモアが混じった個々の宣言。順番が回ってきて、彼の番になると、固唾を飲んで見守った。
『今年の夏もよろしくお願いします。いや、来年も再来年も――僕達が爺さんになるまで、お願いします!』
どっと、メンバー内で笑いが起きる。意外にも、彼は少しふざけているようにも思える宣言をした。ごくたまに天然ボケ側に回って総ツッコミを受ける、という鉄板が起きて、愛くるしい気持ちになる。
配信が終わってから、彼の一言を頭の中で反芻して、思った。
彼が老人になる頃に、俺はどうなるか分からない。そう思うと、冗談だとわかっていても、焦りを覚えた。こんな酒、飲んでいる場合じゃないかもしれない。ただでさえ遅れをとった期間を惜しんでいるのだから、ぽっくり逝ってその後のパフォーマンスを見る機会を失うなんて、困る! もう少し健康に気をつけよう、と俺も俺なりの決意表明をして、とりあえず今年の夏に向かって体力をつけようと思った。
「どうぞ。入っていいですよ」
そう告げながら、姿勢を正す。一人目の印象はよく残る。間違っても贔屓はしないようにしよう。一人一人のプロフィールは、面接当日、各人話をしながら確認するスタイルだ。余計な前情報は入れないから、公正な判断を下せるようにしてある。
こんこん。
教室のドアを押して入ってきた背格好や髪型にに、尊く思う容姿とどこか近しいものを感じた。いや、なんでも紐づけるのは良くない。そう思いつつ、真面目にやろう、と誓いなおしたところで。
「よろしくお願いします。ファウスト・ラウィーニアです」
マスクを下げた彼の名乗りという強襲を、俺はもろに喰らう羽目になった。
驚きのあまり立ち上がるとか、そういうのすら、ない。体がかちんこちんに固まって、息ができなかった。
――いや、聞いてないんだけど!
これは、一人と一人が恋に落ちたり、落ちていたりする物語である。