覚えてないなら今にして それは、酒の席での他愛無い、ちょっとした好奇心だった。
「ダンデのファーストキスっていつだったの?」
事の始まりは薄暗がりなパブの片隅で、テーブルの少し冷めたチップスを指で弄びながらキバナが尋ねたこの質問から始まった。キバナは、10年以上転がし続けたダンデへの恋心を一体何処へ落ち着けようかとずっと悩んでいた。
チャンピオンがあの子に変わってから、リーグに関わる人間の多くは環境がガラリと変わった。それこそキバナに至ってはジムの修繕手続きやら、新しい体制でのジムチャレンジに向けたあれこれやらと、何かと忙しく。
そんな中で、久しぶりにリーグ会議で一緒の帰りになって、ダンデから明日はオフだとも聞いてしまえば、折角だから帰りに軽く一杯引っ掛けようなんて言葉が出てくるのも自然な事だった。あわよくばちょっと酔った姿のダンデが見てみたい。そんなちょっと下心を持ちつつ誘ってみたら思ったよりも嬉しそうに乗ってくれて。正面で向かい合って話す事ができて浮かれていた事もある。そこからのちょっとした好奇心と、少しの足踏み。様々な事が一気に変わってしまったこの一年で、キバナは一歩踏み出す事に少しだけ臆病風に吹かれていたと言ってもいい。
そんな気持ちからまろび出たのが、冒頭の質問である。少しだけ、ダンデの恋愛観を聞く事ができれば上々。なんてくらいの気持ちだった。
「…キミ、覚えてないのか」
しかしキバナの予想に反して、ダンデはちょっと驚いたような、少し寂しそうな顔をしてそう返事をしてきた。その、少し責めるような目線と口調にキバナは何故だかドキリとして固まる。
「…えっ?」
ダンデから見つめられ続け、全く心当たりの無いキバナは一気に酔いが醒めて彼を見つめ返す。暫くそんな睨めっこ状態が続いていたが、やがてダンデは諦めたように溜息を吐き、グラスに残っていたエールを一気に飲み干した。トンっとグラスをテーブルに置き、ペロリと唇に残ったアルコールを少し行儀悪く舌で舐め取るダンデの少し艶のある仕草にこれまたドキリとして、キバナは自分の頭をフル回転させて記憶を浚っていくが全く心当たりが無い。
結局その日、ダンデは何もキバナに対して答えはくれなかった。というかキバナが怖くて聞けなかった、というのが正しい。そしてあのパブでの一件から、ダンデとの関係がとてもギクシャクし始めた。忙しい中でも今まではビデオ通話やメッセージでのやり取りは頻繁にやっていたのに、電話をかけても繋がらず、メッセージを送っても既読すらつかない。あの飲み会から1ヶ月程経った今も、既読の付かないメッセージ画面を見つめながら頭を抱えてキバナはダンデの言葉の意味を考える。どこで?誰と?オレさまと?いや、ない!!それは無い!!…無い…筈だよな?酒で失敗した事は結構あったが、その時にダンデが居合わせた事は無かった。じゃあ、いつ?オレさまが知ってる奴?誰それ今すぐ捻り潰しそう。
自分が臆病風に吹かれていたなんてことは全力で棚に上げてそんな思考をぐるぐると繰り返す。
もうなりふり構ってなんていられなかった。
電子機器の操作音に少し古臭い紙の香り。そしてチャカチャカと爪の音をたてながら歩き回るワンパチの足音が響く研究所内に、伸び切ったパーカーと擦り切れたデニム姿の男が1人、温情で淹れてもらった紅茶をちびりと飲みながら項垂れていた。植物へ陽光が当たりやすいようにガラス張りとなっている部分から、植物だけで無く研究所内にも燦々と温かな光が降り注いでいたが、男のいるテーブル周りだけどんよりと濁った空気が漂っていた。
「ソニア、どうしよう…」
「ダンデくん、またその話?」
「…他に話す人がいないぜ」
「ダンデ君、キスなんかポケモン以外とした事ないじゃん」
「…そうだぜ」
「なんでそんな変な答え返しちゃったのかねぇ…」
「……キバナがな…オレのファーストキスについて、なんだか嬉しそうな顔で聞いてきたのがちょっとショックで。つい、出来心だったんだ」
「あー…そういうのって聞き方によっては『貴方にそういう興味は無いですよ』って言ってるようなものだもんね。そりゃあ片思い中のダンデ君にとってはショックだよねぇ」
ソニアの言葉が図星だったようで、ダンデは飲み途中のカップを横にずらして机の天板へと突っ伏した。
「オレばっかりいつもキバナの言動に一喜一憂してるのも不平等だなって思って…ちょっとした仕返しのつもりだったんだ…そしたら…」
「何だか気不味くなっちゃって、前みたいに普通にやり取りできなくなっちゃったの?」
「……うん」
もう取り繕う余裕も無いようで、しおしおと萎びていき机にへばりつく。
「うーん…まあ、これ以上グダグダしてるダンデ君見るのも面白く無いしね…これくらいで大丈夫かな?オッケー?……じゃあ後はよろしくねキバナさん!」
大声でそんな爆弾を落としてから、幼馴染はバタバタと研究所の2階へとワンパチを伴って走り去って行った。ダンデにとって今一番聞きたく無い三文字が突然聞こえてきて、ダンデは一瞬で萎びていた体に力を入れようとする。が、それは叶わなかった。勢い良く引こうとした椅子が何かにぶつかって動かない。そして何よりも机に伏していた顔の横に、ダンデの顔よりも大きな掌が勢い良くドンっと置かれ、大きな影がダンデの背後から覆い被さってきたからだ。ふわりと砂と、この手の持ち主が好んで使っているシダーウッドの香りが、影が覆い被さった時の風圧で、中途半端に上半身を浮かせたダンデの前髪をフワリと揺らしていく。
「なあ」
低い声が、耳の横で聞こえる。耳をくすぐる吐息にぞわりと背筋が震えて、ダンデはそろりともう一度机の上に伏せる。正直、今この状態で顔を上げる勇気はなかった。
「嘘だったの?」
「…嘘…じゃなくて。えっと…その。そういうのは覚えて、無くてだな」
覚えてないどころが今までしたことなんてない。そう言いたかったのに、背中からの圧に負けてそんな言葉が口から滑り出る。悪手だとは思うのだが、どうにかここを切り抜けなければという考えが頭の中を駆け巡る。
「ふーん」
ダンデの返答を聞いて相変わらず心情が読み取れないような低い声が聞こえてきた後、パッと背中からの圧とダンデを覆っていた影が消えた。顔の両側にあった掌も消え、痛い程の静寂が訪れる。暴れ回っているような音を立てている自分の心音が外に響いているのでは無いかと思うほどの静寂に、少しずつ心音が元のリズムを取り戻して行く。
「…キバナ?」
伏したままそろりと尋ねてみるが返事は無かった。もう一度同じように名前を呼ぶが、やはり何も返ってはこず。
「キバナ?」
段々と何のリアクションが無いことに不安になり、背後にいるであろうキバナの方へと上半身を起こして捻ろうとする。そうしたはずだったのに、気付けば砂とシダーウッドの香りを纏った指先に顎を掴まれて、瞬き2つしている間にはもう、目の前に湖面のような青色が自分の瞳の色と混ざってゆらゆらと輝いていた。
想像よりも、柔らかい。
そんなことを考えているうちに湖面は離れて人の形をとる。
「覚えてないなら、これを初めてにしてよ」
自分の顔は、耳はどうなっているだろう。熱くて熱くて堪らない。それは目の前の男も同じだろうか。同じ熱を持った意味だと確信させて欲しい。
ダンデは少しだけ震える指先で男の頬に触れる。そして触れた後、もう一度湖面に自分の瞳の色を、月のように浮かべてみたいと思って顔を寄せたのだった。