当て馬の猛追(没案)」
「好きな人がいる、とか?」
「あっ──あぁ、うん、そう……そうなんだ、それで……」
ドキリ、核心を突かれて心臓が大きく跳ねる。
「だから──」
「好きな人がいるから、おれの部屋には入れない?」
「……ていうわけじゃないけど……うん……そうだね、そんな感じかな。安易に入るべきじゃないと思うんだ」
部屋に入って、バッキーと二人っきりで、何もしない自信はない。
今頃になって回ってきたアルコールは自制心や理性を溶かしているし、酔っ払ったバッキーは最高に可愛くて。普段なら決してない甘えた素振りと上目遣いが、すっかり腑抜けた恋心をダイレクトに刺激する。
『悪い男』の呪縛が解けた今、暴走を制御する自信はなかった。
「…………べつに、何もしないのに……」
ぽつり、呟いた声は拗ねているのに悲しそうで。
背広のポケットを弄ぶ指が、力なく端っこに引っかかる。
「君はそうでも、僕は分からない。コーヒーを飲んだだけで大人しく帰る自信がないんだよ、バッキー。何もしない自信がない。紳士的な振る舞いを約束できないんだ。今夜は酔っ払ってるし、時間だって遅い。終電がないって言い訳をして泊まってしまうかもしれないし、そうすると君を抱いて──……あぁ、もう終電は終わっちゃったな。タクシーを拾わないと……まぁ、とにかく」
腕時計を確認して帰宅手段を変更しながら、「僕を家に上げない方がいい」と、堪え性のない狼であることを白状する。この辺が、僕が『いい子ちゃん』である所以であり、臆病で腰抜けで『悪い男』になれないウィークポイントなのだろう。
押しが弱いとは、よく言われる台詞だ。
「…………おれを、抱くの?」
「抱かないよ、抱かない。もちろん、無理に抱いたりしないよ。大丈夫だ。でもその可能性はゼロじゃない。僕だって『男』だからね。何をするか分からないよ。『悪い男』じゃないけど……今夜に限っては信頼に足る『いい子ちゃん』でもない。だから僕を家に入れるべきじゃないんだ。今は大丈夫でも、君の部屋で二人っきりになるとどうなるか分からないからね。すごく危険だよ。僕を信用しない方がいい」
「…………そう……」
「そう。だから、コーヒーはまた今度にするよ。酔っ払っていなくて、理性が残ってる時にね。……それまで、君が新しい人と進展していないといいんだけど」
それは難しいかな、と、自嘲気味に笑う。
押して押して、押しまくって。既成事実を作ってしまえば、違う未来が待っていると分かっているのに。そのひと押しが出来ない。
我ながら嫌になる。
「…………進展、するかも……」
「だよね。君は魅力的だし、今度の人は見る目がありそうだ。『優しく』て『良い人』で……僕の出る幕はなさそうだな。でも──」
それでも、今夜は君の部屋には入れないと。断る唇が、熱い何かに遮られる。柔らかくて、熱くて、少しアルコール臭くて、そして、そして──、
「…………っ?!」
バッキーの匂いがすると、そう思った。
視界にいっぱいに、バッキーが広がる。
「…………すき」
離れた唇が、愛の言葉を紡ぐ。
「スティーブが、すき」
瞬きの音さえ聞こえそうな至近距離で、潤んだアイスグレーが僕だけを見る。
僕だけを見て──僕だけが、バッキーの世界にいた。
「…………すき……?」
「そう」
「……バッキーが、僕を……?」
「ん……そう……」
二度、三度。柔らかな唇が触れる。
熱くて、柔らかくて、ちょっとお酒臭くて、甘くて、そして、そして──、
「……夢?」
バッキーの匂いがするキスは、ものすごくリアルでどこまでも優しくて、そしてふわふわ柔らかくて、とても現実的だとは思えなかった。
end