どうしようもない気持ち。寮の部屋に戻ってくるなり、バッキーがドアを閉めたその瞬間だった。
スティーブにそっと後ろから抱きしめられた。
「……!」
一瞬、呼吸が止まった。
背中越しに感じる体温。高くて広い胸板。
声に出さなくても、それが誰のものかなんて分かりきっている。
(……スティーブ、背ぇ伸びたよな)
そんなことをぼんやり思いながらも、心臓は激しく跳ねていた。
その距離、その静けさに、バッキーの身体がこわばる。
(あ……キス、くるか?)
さっきまで求められていたワケだし……
自然と喉が鳴る。
しかし、数秒後。
スティーブの唇から出てきたのは、まったく予想していなかった言葉だった。
「……今日はありがとう」
それだけを言って、彼の腕がすっと離れた。
バッキーは、ぽかんとした。
「……は?」
拍子抜けにも程がある。
スティーブは気を使ったつもりなのかもしれない。けれどバッキーにとっては、むしろその“遠慮”がイライラの原因だった。
(なに気遣ってんだ…さっき拒否ったからか?? けど、今のはする流れだっただろ!……この奥手クソもやし野郎……)
寮に戻るまでのあの積極さはどこへ行ったんだ……
恋人になった途端、急に奥手になるなよ。
もう、意味わかんねぇ。
バッキーはイラつきながら、無言のまま荷物を放り投げ、コートを乱暴にハンガーに掛ける。
後ろではスティーブが妙に静かになっていた。
「……ご、ごめん。あの、やっぱりさっきのハグ、急だったよな……嫌だった?」
スティーブの声は、どこかしゅんとしている。
その声を聞いて、バッキーは小さく息を吐いて、ベッドの縁に座り込んでいるスティーブの横にどかっと腰を下ろした。
それだけでスティーブの肩がぴくりと動く。
(ああもう、こいつ……)
なんでお前がそんなにびびってんだよ、と言いかけて、飲み込む。
バッキーは、言葉の代わりに不意にスティーブの顎を指先で持ち上げ——
そのまま、軽くキスをした。
ほんの一瞬、唇が触れるだけの、柔らかいもの。
スティーブが何が起こったのか分からず、目を見開いたまま固まっている。
バッキーは少しだけ不機嫌そうに言った。
「スティーブ……どうせ、また“俺なんか嫌われたかも”とか思ってんだろ?」
「……え!? ち、違うよ……!」
顔を真っ赤にして慌てるスティーブを見て、バッキーはようやく、少しだけ笑った。
「やっぱバレてんじゃねぇか、もやし野郎」
そう言って、バッキーはスティーブの肩にもたれかかる。
無言のまま、そっと。ぴったりと。
スティーブの息が止まったように静まる。
「ハグとかキスの誘いとか、急にされると、心の準備が要るっつってんの。……けど、嫌だったわけじゃねぇよ」
ぽつり、と呟くように続けた。
「むしろ、あんなのされたら、期待して……しまうに決まってんだろ……」
そして、目を背けたバッキーの顔は、赤くなっていた。耳まで火照って、視線は泳いで、声もどこか掠れてる。
スティーブは目を見開いたあと、ゆっくりと、心の底から安堵したように微笑んだ。
そして、バッキーの肩に自分の頭をそっと預け返した。
「……ありがとう」
「バッキー。僕からも………してもいいかな……」
「…聞くな。……分かれよ…マヌケ。」
バッキーの返事は相変わらずぶっきらぼうに答えた。
そんな彼の熱を帯びた頬にスティーブは優しく手を添える。
指先がゆっくりと顎をすくいあげた。
そのまま、ためらうことなく、バッキーの唇に唇を重ねた。
(……スティーブ)
バッキーは目を閉じ、ただその触れ合う体温を受け止める。
空気が溶けていくような優しいキス。
唇が離れて、目が合う。
「大好きだよ、バッキー」
優しく微笑むスティーブに対してバッキーは小さく呟いた。
「ん。…あぁ、俺もだ…」
スティーブはその言葉に、少しだけ強く、彼の手を握った。
━━━━━━━━━━ fin.