ほんのちょっとの素直な気持ちを ――10月17日23時50分
七種茨は副所長室でパソコンと向き合っていた。明日までに終わらせなければならない仕事がまだ残っているからだ。いつもは(想定外の事が起きない限り)期日に追われたりしない茨だったが、今回ばかりは自業自得であった。泊まりがけのロケを無理矢理明日に自ら入れたのだ。
元々、明日は休み、明後日は事務仕事に取り組む予定だった。明日からのロケは元々オファーがあったが、どうしてもその日は休みたかったから、断り続けていたものだ。基本的に希望して休みなんか取らない茨だったが、その日に関しては死守していた。心のどこかで浮かれていたのも否めない。
そう、明日10月18日は伏見弓弦の誕生日、2人が付き合い始めてから初めて迎える特別な日だった。
アイドルという職業ゆえ、バレンタインやクリスマスは2人で予定を合わせることは到底難しい。しかし、幸いお互いの誕生日は特別イベントと時期が被っているわけでもなく、休みを合わせることはそこまで難しくない。弓弦がその日に希望して休みを取っていることを茨は知っていた。弓弦からはまだ何も言われていないが、察しの良い自分が先回りして、自分のスケジュールを調整し、綺麗なレストランなんかも予約しちゃって?、弓弦の驚いた顔と照れた顔、そして何より喜んだ顔を想像して準備を着々と行っていた。
10月初旬。一向に話題に上がらない18日のこと。浮かれていた茨は、弓弦は恥ずかしくて自分を誘えないものと思い込んでいた。しょうがない、ここは自分から話を振ってやろう、なんて照れ隠しをしながら話し始めたのだ。
「弓弦、そういえばもうすぐ誕生日ですね、どのように過ごすんですか?」
ほら、弓弦、今、俺を誘う時だよ!なんて思いながら、期待の眼差しを弓弦に向ける。
「聞いてください、茨!」
話を振った瞬間変わった表情に悪い予感がした。弓弦がそういう表情をする時は決まっているからだ。弓弦はそのまま話し出す。
「坊ちゃまが英智さまに相談して、その週の『英智デー』をわたくしの誕生日にしてくださったんです!わたくしに何も言わずに進めてくれたみたいで……わたくし感無量でございます……」
弓弦は涙を拭う仕草をしていた。茨は頭が真っ白だった。身体の動きがピタリと止まってしまった。自分が大きな勘違いをしていたことが悲しくなり、そしてすごく恥ずかしかった。ここでようやく自分が浮かれていたことに気づいたのだった。
「茨……?」
弓弦が心配そうに声をかける。茨は、返事ができそうになかった。
「……すみません、自分帰ります」
素早く席から立ち上がってその場を去ろうとしたが、右腕を掴む弓弦の手がそれを許してくれなかった。
「一体、急にどうしたんですか?体調でも悪いんですか?」
「大丈夫です、急用を思い出しただけなので。だから、離してください」
「あなた、今日は1日休みだと言っていたでしょう。特に連絡を受けた様子でもないですし……」
「いいから、離せっ……!」
腕を掴んだままの手を思いっきり振り払う。弓弦は酷く驚いた顔でこちらを見る。
「あんたは、いつだって……!」
言いかけてから、ハッとして口を閉じた。2人を静寂が包み込んだ。
「……すみません、また連絡しますので」
かすれた声で一言残し、茨はその場を後にした。今日ほど個室で良かったと思ったことはなかった。
その後、そのまま事務所に向かった。たまたまいた漣ジュンには「うおっ、なんかあったんすか~?めちゃめちゃ暗い顔してますよぉ~?」なんて言われてしまった。副所長室に入るや否、断り続けていたロケのオファー元に連絡を取り、OKの返事をした。先方はすごく喜んでいた。予約を取ってしまったレストランはさすがに日程が近いためキャンセルするとキャンセル料がかかってしまうだろうから、ジュンに押し付けた。殿下とでも行ってもらえばいい。
「はぁ――……」
副所長室の椅子に深く腰掛ける。浮かれすぎていた自分自身に嫌気がさす。こんな関係になったからって、あいつの優先順位が変わらないことなんて俺が1番わかっていたのに。
弓弦には「今日はすみませんでした。後日埋め合わせします。」と連絡を入れた。すぐに「わかりました。連絡お待ちしてます。」と返ってきたが、既読もつけずに画面を閉じた。
「はあ……」
そのやり取りから何も増えていないトーク画面を眺めながらため息をつく。数分後にはもうあいつが生まれた日になってしまう。いつ渡せるかもわからないプレゼントは副所長室のデスクの引き出しにしまい込んだ。一言ぐらいは送っておくか、なんて考えながら文章を打ち込み始めた時だった。
「茨」
名前を呼ばれた声に顔を上げると、目の前にはここ2週間ほど頭を悩ませていた原因が立っていた。
「……なんでいるんですか」
「青葉さまに伺ったところ、多分事務所だろうとのことだったので」
「そうですか……」
お互いに口を閉ざす。最近は夜になると冷え込むが、それ以上に空気が冷たく感じる。
「すみませんでした、」
おもむろに弓弦が口を開く。
「漣さまにお聞きしました。茨が色々わたくしのために準備をしてくれていた、と」
「っ……!」
ジュン、余計な事を……!押し付けたレストランの支払いは自分が既に済ませているが、ジュンの分は後で請求しようか、なんて考えながら、大きく息をして気持ちを落ち着かせる。
「いえ、自分が勝手にやったことなので」
「……それはそうですね、わたくしに一言でも言ってくだされば良かったのに」
弓弦の言葉に落ち着かせた気持ちが一気に湧き上がる。
「それは、すみませんでした!俺が、勝手に浮かれてしまって!俺たちの関係が変わってから初めてのイベントだったので、張り切ってしまいました!でも、確認もせずに弓弦にとっては迷惑でしたね!」
「そこまでは……」
「俺は、ただ!………………弓弦に喜んでもらいたかったんです」
段々と小さくなる声に、下がっていく視線。パソコンのキーボードが少しだけ滲んで見えた。
弓弦が近づいてくる気配がする。
「茨、こちらを向いてください」
「………………」
弓弦はしびれを切らし、俺が座っている椅子ごと向きを変えてきて、その場に膝をついた。
「昔から、張り切ってしまうと一直線でしたよね。そこが危なっかしくもあり、可愛くもありました」
「なっ……!」
「再会するまでに、たくさん大変な思いをされたのでしょう。再会後のあなたはそういう面を他人に見せないようになっておりました」
「………………」
「そんな成長した茨が、俺にだけ見せてくれる面が、とても愛おしいです」
「……馬鹿にしてる」
「いいえ、してませんよ」
顔をあげると、弓弦と目があった。俺のことを真っ直ぐ見てくれるそれは昔から変わらない、1番信頼できるものだった。
「そんなあなたに、一番に祝ってもらいたいから、会いに来たんですよ」
視界の奥にある時計は、0時12分を指していた。
「……弓弦、誕生日おめでとう。来年も祝ってあげてもいいよ」
恥ずかしくなって、顔を逸らす。そんな俺を見て弓弦はくすくすと笑うのだった。
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「弓弦、これプレゼントです。」
「!ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「……どうぞ」
「カフスボタンですか……?」
「はい、これくらいのデザインでしたら使いやすいかと思いまして」
「それだけですか?」
「?はい、そうですけど……」
「茨、プレゼントには色々な意味があるんですよ♪」
弓弦は茨を思いっきり抱きしめた。