夏五ワンライまとめ①ワンライ 目次
①「八月」学生時代/ふたりが炎天下の下を歩く
②「征服」学生時代/硝子と悟が可愛いという話をする(一方的に)
③「ライアー」学生時代/ゲームする二人
④「ギャレー」教師×教師/ナチュラルにいちゃつく教師たち
⑤「終わりの日」未来の話/シリアス
⑥「ペスカトーレ」教師×教師/朝チュン飯物語
⑦「正統派」学生時代/女の趣味
⑧「エンゼルフィッシュ」死者の話/魚越しに見る彼の世界
⑨「ジェットバス」学生時代/好奇心旺盛ボーイととあるカード
⑩「自爆」学生時代/悩む最強と自爆する相棒
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①「八月」
「えっ暑……」
「何を今更……」
隣に座る親友が、ボソッと呟いた。小声で呟かれたそれは、セミの鳴き声に掻き消されるくらいの声音であったが、逆に言えばセミの鳴き声以外に聞こえてくる音もないこの地では、生憎と真隣の私にはハッキリと聞こえた。
「え……暑、暑くない?」
「悟、暑いと言うともっと暑く感じるからやめてくれないか」
「何で俺たちこんな暑い中外にいんの?」
「迎えが来るまでの辛抱だ、もう少し我慢して」
「俺こんなに暑いの初めてなんだけど。よく考えたらこんな熱い中俺待たせるとか何?」
「君の考え方の方が何? って感じだよ。いやそもそも、暑いの初めてってなんだい。高専に来る前だって、君は各地で任務こなしてただろう?」
「だって必ず送迎の奴がそばにいたし、終わりゃすぐ撤収出来たもん」
「ハイハイおぼっちゃまおぼっちゃま……」
「傑」
「何」
「暑い」
「わかってる」
「あーつーいー!」
「静かにしてくれ」
この五条悟とかいう男は、高専に入学したった二人のクラスメイトとなった人物のうちの一人で、呪術界最強の男。入学して四ヶ月しか経ってないにも関わらず、最初から等級は特級。ついでに言うと性格と態度の悪さも特級クラスだと私は思ってる。入学早々殴り合いの喧嘩をした事は記憶に新しい。にも関わらずこの男は私の何が気に入ったのか、生まれたての雛鳥よろしく私の後をちょこちょこ付いてくるようになってしまった。大喧嘩をし、反省文を書かされ、次の日には「なぁ傑、最近の炊飯器ってボタンひとつでチャーハン出来るんだな。昨日食堂で見た」と、お綺麗な澄まし顔を貼り付けやってしょうもない事を言ってきたもんだからなんだコイツと正直思った。
ちなみに食堂の炊飯器はボタンひとつでチャーハンを作ってくれるわけが無い。「炊飯」の文字を「炒飯」と見間違えたポンコツ話だ。
こんな変わり者の男と、今日も私は僻地へと任務へ駆り出されていた。年がら年中人足らずらしい呪術界では、大人も学生も関係ない。術師としての心得がある者は任務に飛ばされる。入学したての私は殊更悟とペアで任務に出されることが多かった。
「帰ったら速攻シャワーだな……」
「傑ー、俺アイス」
「君いつの間にアイスになったんだい」
「なってねぇよ暑さで目がおかしくなったか? アイス食いてぇの。あれ、この前買ってくれたやつがいい。パキってやるやつ」
「あー……チューペット?」
「それ! うっすい味だけど美味しかった」
「庶民の味を貶された気分だ」
「そんな事ねぇよ。俺、ちゅーナントカも、カップラーメンも、チェーン店のハンバーガーも全部好きだぜ」
「それはそれは……。おぼっちゃまのお口に合ったようで良かったよ」
「あっちぃなぁ。帰ったら一緒に食おうな、傑」
「あーそうだね……。気力があったらね……」
パタパタとシャツの首元を扇ぎながら、適当に返事する。悟には悪いが、暑くて今頭があまり回らない。いい感じの切り返しなんて出来なくて、補助監督の迎えの車が早く来ないかとコンビニひとつない土と草の生い茂る道を眺めていた。唯一、廃線となったバスの停留所が私たちの憩いの場だった。屋根があるだけで、八月の照りつける太陽光から身を守ってくれるのだから大助かりだ。まぁせめて、このバスが廃線になっていなければ、ここから一番近い市街地まで出て喫茶店でも何でも飛び込めたのだろうが。
……いけない、また考えても仕方ないことに頭を使ってしまった。私は目を閉じ首元を扇いだまま、ジージーと煩いセミの音を聞くしかなかった。
ふと、隣の悟が随分と大人しくなったなと気がついたのは暫く経ってからのことだった。時間で言えば五分くらいの感覚。さすがの悟も、この暑さの中口を開き続ける事は諦めたかと目を開けてチラリと横を見ると、そこにここ最近ですっかり見慣れてしまった白い存在はなかった。
「えっ悟……悟?」
悟がいたのは、屋根の外。ジリジリと照り続ける太陽は全く雲に隠れる事もなく、悟の白い肌を直接焼き焦がしている。悟はそこに、俯きがちに黙って立っていた。
いや、さすがに慌てた。
さっきまで暑い暑いとセミに負けず騒いでいた人間が何を思って日の下へ? 私は立ち尽くす悟の手を引いて屋根の下のベンチに座らせた。悟の額からはしとどに汗が垂れ流れていた。心做しか肌も赤くなっているような気がする。悟、と名前を呼んでみる。若干濁ったような虚ろな青が、私を見た。
「……ごめん、俺、よくわかんなくて」
「えっと……何が?」
「お前、俺の事嫌いだろ?」
「嫌い……えっ私が? 君の事?」
「ん」
「いやそんな事は……」
「傑、硝子と話す時と俺と話す時で全然違うじゃん。何か今もダルそうだったし」
「いや、それはごめん……。言い訳になるけど、暑くてちょっと返事するのも億劫になっちゃって……」
「俺、お前と硝子以外に友達なんていねぇからさ、距離感? つーのかな、わかんなくて。お前が話しかけられてんの嫌そうにしてたから、俺の事嫌いなんかなと思って、ちょっと離れてた」
「悟……」
何だこの純粋培養生物は。
ちょっと可愛いと思ってしまったことに後ろめたさを感じつつ、私は持っていたハンカチで悟の額を拭ってやった。私も使ったやつだから真新しいやつでは無いけど、そこは今考えないでおこう。咄嗟に拭われて目を瞑った悟が、不思議そうな顔をして目を開いた。さっきより瞳の中の淀みが無くなり、輝きが増した気がした。
「そんな風に思わせてしまってすまない。悟の事は嫌いじゃないよ。確かに第一印象と性格は今でも良いとは思ってないけど」
「……それって嫌いじゃん」
「違うよ。いいかい悟、他人を好きと嫌いに分けるのなら、私たちはまだそれを判断するための時間が不十分だ。私は第一印象こそ君に良い印象は持っていないけど、その後もずっと悪いだなんて思ってないよ。君は、そうだな……この世界でずっと生きてきたせいで、外の世界を知らないだけなんだ。井の中の蛙、大海を知らずとはよく言ったものだ。今の悟はそれかな」
「俺、カエル?」
「ははっそうそう。今の悟はカエルだ。きっと呪術界以外の、私が少し前までいた世界を知れば、友達との距離の取り方も自ずとわかってくると思うよ」
「ふぅん……。じゃあ傑は教えてくれんの? カエルの俺に」
「私のわかる範囲で良ければね。悟、私は君の事嫌いじゃないよ。だから心配しないで。ごめんね、素っ気なくして。暑かったろう?」
「ん……。良かった、嫌いって言われたら俺、この先どうしようかと思ってた」
「私もそこまで無慈悲な人間じゃあないよ」
「じゃあ傑、俺の事好き?」
「好……言ったろ? 私たちにはまだ時間が足りてないんだって。これから好きになっていければいいなと思うよ。……勿論友達としてね?」
「友達以上に好きだったらなんになる?」
「えぇ……友達以上、うーん……親友、かな」
「しんゆう……」
親友、いいな、それ。
そう言って、悟はようやく笑ってくれた。ニコリ、というよりフワリという効果音が似合いそうな笑みに、私の心の奥底が、聞いた事の無い音を放った気がした。そう、気がしただけだ。だから多分これは……気の迷い。八月の気温に狂わされてるだけだ。
「……帰りにコンビニ寄ってもらおうか。悟知ってる?今日はパ○コの日なんだよ」
「何パピ○って」
「チューペットの別バージョンみたいな。チューペットより小さいんだけど、チョコ味とかあって、二本くっついてるんだ」
「マジか、食べたい! 半分こな!」
悟の楽しそうな声が、またセミと同等の大きさになってきた。私はその事に安堵しながらも、悟の流れ出る汗をもう一度拭ってやった。擽ったそうに笑う悟が、何故だか眩しかった。
「純粋過ぎるのも問題だな……」
「あ? 何?」
「いや、何でもない」
補助監督はまだなのか?
セミの鳴き声、悟の声、そして私の胸の音だけがいやによく聞こえている。
車の通る音は、まだ聞こえない。
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②「征服」
「あん? 何だって?」
「だから、悟って可愛いのかな」
「おっ、ついに同級生もう一人もイカれたか〜」
「真面目に聞いてるんだけど……」
八月も末に近付いてきた今日この頃、秋が近いとはいえ、まだまだ暑さの勢いが衰える気配は無い。高専の教室で、私ともう一人、唯一の異性である同級生の硝子とパタパタ動かす下敷き片手に先日あったバス停での話をしていた。未だその全てを掴み取る事は出来そうにない五条悟の、たった一瞬垣間見えた素の顔について。まぁ、あの時は二人とも暑さのせいで頭がやられていたと一蹴されてしまえば、そうかもしれないと思わなくもないのだが、最強たる男のほんの僅かに揺らいだ瞳が、私は忘れられなかった。
「お前の話はわかったけどさ、それがなんで可愛いに繋がっちゃうわけ」
「いやぁ、自分でも可愛いはちょっと違うかなとは思うんだけど。上手く言い表せなくて」
「愛しいとか愛でたいとか?」
「そこまで露骨じゃないかな……」
「良かったよ、同級生がソッチの意味でガチじゃなさそうで。まさかムラっときたとか、そんなんだったらヤバかったよお前」
「…………」
「……まさかお前」
「いや違う、すまないそんな目で見ないでくれ。確かに悟って顔がいいせいでたまに凄くセクシーな表情することはあるなって思うけど、それは硝子も何かわかるだろ?」
「顔がいいからってのはわかるな。そもそもそんな顔目撃したことねぇけど」
ふう、と硝子が熱い息を吐いた。セミの鳴く音と下敷きの風の音以外、平和なもので騒がしくなるような音源はない。私は汗ばむシャツの襟を掴み、直に風を取り込んだ。高専の教室は、建物が古い故にエアコンなんてものはない。良くて教室の片隅で首を降ってる、あのボロい扇風機のみだ。ちなみに今、話題の筆頭である悟は朝から任務に出ていて、実力のある彼のことだからさっさと終わらせてもうすぐ帰ってくるだろう。
「んでもまぁ、それだけさ、五条も人だったってことじゃね」
「……悟は人だろ」
「バッカお前、呪術界において五条をまともに人扱いする奴の方が少ないよ。噂じゃあいつのこと宗教みたいに拝んでる奴らだっているらしいよ」
「……悟は神じゃないんだぞ」
「そうだね、普通に考えればな。でも、五条の足元にも及ばないような奴があんな人間離れした力と存在見ちゃえば、そう思うんじゃない?」
「……」
「多分、夏油にはわからないよ。お前も強いもん」
悟、五条悟。
私の目下の悩みの種、と言っていいのか、とにかくそんな様なものであり、誰もが畏れ、崇拝し、敬愛する。私としては、あまり理解出来ないけれど。
私には数日前の、あの日差しに照りつけられ汗を流し、友達との距離感がわからないと言い迷い虚ろ気味になった眼差しで私を見てきた彼こそが、年相応な彼の人間性を表しているのでは無いかと。誰に言う事もなく、ずっと考えていた。
「……悟は、友達との距離感がわからないと言ってたんだ。私の態度が少し良くなかっただけで、嫌われたのかと思ってその身を引こうとした。私との心の距離はもちろん、物理的な距離も」
「物理的な?」
「私の機嫌がこれ以上損なわないようにと、数メートル離れられた」
「ガキかよ」
「ガキだよ。悟は私たちが当たり前としてきたことがわからない。……必要無いと、教えてこられなかったんだろうけど。その、嬉しいことにね、悟は私と親友になりたいと言ってくれたんだ」
「あっそ。良かったね」
「冷たいなぁ硝子は……。悟から寄り添ってきてくれたんだ。彼が私達と変わらない人間だってことを周りにもわかってもらえるかもしれないじゃないか。いや人間なんだけどね?」
「要するに、五条を自分の親友に仕立てあげて、周りの人間に自分のだって牽制したいってことっしょ」
「え? 今の話聞いてどうしてそう考えちゃったの?」
「違うのか? てっきり『悟は私にこ〜んなに懐いてるんだぞ〜いいだろ〜』って牽制して見せびらかす為かと」
「硝子の中の私のイメージってもしかして結構酷い?」
「さてな」
うぜ〜お前のせいで暑さ増したわ、と硝子は机に置いてた水を豪快に飲み干し、私の向けた目線まで一緒に流してしまったようだ。硝子の中の私のイメージは一旦置いといて、言っておくが私にはそんなつもりは毛頭ない。ただ悟が、わからないことを教えてあげたい、その一心だ。だからそれ以外の気持ちなんて、これっぽっちも、何も、なにも……。
…………。
「……でも、悟ってさ……」
「まだ続くのかあいつの話」
「純粋培養生物過ぎてちょっと心配って気持ちはあるって言うか……」
「なんて?」
硝子が心底意味わからないという顔を向けてきた。私だってわからない。あの時の私は割と本気でそう思ってしまったんだから。
「あんな純粋培養生物なかなかいないからさ……。悟のことちょっと知ったような奴が気を引くために悟の知らないこと教えてあげたらホイホイ着いてっちゃいそうで……」
「お前五条のこと人間は人間でも五歳児くらいの人間だと思ってない?」
「さすがにそこまでは」
「あそ」
「十歳くらいかなとは思った」
「あっそ〜〜〜」
「力で言ったら私だってまだまだ悟には追いつかないだろうけど、せめて精神面では私の目の届く範囲で助けてあげないとさ……。悟が嫌な目にあったら可哀想だろう。硝子も手伝ってね」
「ぜってぇ嫌だわ」
硝子が空になったペットボトルを頭にぶつけてきた。地味に痛い。カツンと音を立てて床に転がったペットボトルは、教室の出入口にまで転がっていった。
「硝子、物を投げるのは良くないよ」
「うるせえクズ系優等生」
「何それどっちなの……」
「お前の五条に対する気持ちが普通にキショい事はよくわかった」
「キショいってそんな」
「キショいもんはキショいんだよ。お前それさ、いずれ呪術界を征服するかもしんない奴をさ、……」
硝子の続ける言葉を聞いて、私は直ぐに反応出来なかった。そんなつもりは、本当になかった。無いつもりだった。なのに、硝子に言葉にされてそれを聞いてしまったら、何故だかガポッと、悟に関して考えていた思考にあった穴に一ミリの隙間もなく当てはまってしまったような気がした。元来、私は別に束縛欲みたいなものは無いはずだが、そうか、他人から見たら私のこの思考は、そう見るのかと。答えられない数秒の間に、暑さでやられていた働かないはずのあたまが目まぐるしく回転していた。
投げられた空のペットボトルを回収しようと立ち上がったままだった私の思考をストップさせたのは、横暴に開かれた教室のドアが立てた音と、なんとも腑抜けた声だった。
「おいすぐ、ふぎゃっ!」
「……悟!」
何事かと思ったら、任務から帰ってきたであろう悟が勢いよく教室に入ってきたのはいいものの、硝子が投げたペットボトルを踏んで思いっきり後ろへすっ転んだ。あの悟もまさか足元にペットボトルなんてあるとは思ってなかったろう。盛大に後ろへ倒れた悟を起こしに私は慌てて立ち上がり、硝子は指をさして爆笑していた。
「痛ってぇ〜! んだよ何でペットボトルこんなとこにあんだよ!」
「悟! 大丈夫かい? 頭ごっちんした?」
「んぁ? 轟沈?」
「ごっちん。頭ぶつけちゃったの?」
「あぁ、思っきりな! 夜蛾センにぶん殴られた時くらい痛てぇ!」
「可哀想に……。無下限はどうしたんだ」
「今から傑に会おうって時に別に無下限張る必要ねぇだろ」
「悟……」
小さな事でもキュンとしてしまう私の心臓、落ち着け。私の気持ちなど露知らず、悟は拾ったペットボトルを瞬く間に一円玉サイズにまで圧縮してしまい、ゴミ箱に投げ捨てた。多分、そういう小さな事でも人前で平気でするから、変な信者が湧くんだ。
「んな事よりさ! 傑、これ食おうぜ!」
「んん? 何」
「アイス! これ一箱に六粒入ってんだって。で、星型のやつはレアなんだと」
赤と白の小さな箱を、持っていた袋から取り出してきた悟。前にパ〇コを半分こにしてあげてから、悟はシェアする事に大層ハマっているようだった。
「お、硝子もいるじゃん。三人で食おうぜ。一人二粒な」
「いいけど、悟いいの? 自分で食べる分が少なくなるよ?」
「お前俺の事ケチな奴とか思ってんの?」
「いや、そういう訳じゃ……」
「よく見ろよこれ」
悟はアイスの箱をグッと私の顔近くに押し付けてきた。近過ぎて逆に見えない。箱ごと押し付けてきた手を押すと、アイスの箱と、悟の輝かしい顔面から放たれる笑顔が並んだ。
「友達とシェアハピ、ってあるだろ。これ、友達と一緒に食ったらもっと美味くなるって事だろ? だったら傑と食べなきゃじゃん!」
「…………」
「硝子もいるし、美味さ三倍だな。最強じゃん」
何も言えずにいた私を、硝子が哀れみの目で見ている。辞めてくれ、言いたいことはわかってる。
硝子は言った。
『お前それさ、いずれ呪術界を征服するかもしんない奴をさ、自分の手の内に収めて可愛がって、征服したいって思ってる奴の思考じゃん。普通は、同級生の男を精神面で助けてあげたいなんて思わねぇよ』
「……そういうこと、なのかなぁ、私……」
無自覚とは確も愚かしく、自覚とは確も聡い。
無自覚で行っていたうちは、無知であると言い訳もつくが同時に愚かだ。しかし自覚してしまえば、その言い訳はつかなくなる代わりに賢くはなる。あぁしかし、この気持ちは果たして自覚してしまって良かったのだろうか。
「すぐるー? 食わねぇの? もしかしてコレ、嫌い?」
「……いや……何でもない。食べよっか」
「おう!」
友人への征服欲というどうしようもない気持ちを抱えてしまった事を胸に秘めながらも、私は悟の誘いの手を握らずにはいられなかったのだ。
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③ 「ライアー」
「いいだろう。これで決着つけるぞ、悟」
傑が、ゲームのリモコンを取り上げたのを皮切りに、俺たちの戦いの火蓋は切って落とされた。
理由はなんだったか。何だかとても些細なことだった気がする。俺のプリンを傑が食ったか、今日帳降ろし忘れたのお前だろという責任のなすり付け合いだったか。とにかくほんの小さなこと。俺と傑は決着をつけるべく、その年発売された最新テレビゲーム機で戦うことにした。色んなスポーツが入ってる対戦型ゲームで、日頃からよく硝子も交えてやったりしていた。だからその日も、拳を使うことは後に夜蛾センから大目玉を食らうことを理解してる賢い俺たちは、ゲームで勝敗を決めようとしていただけなのだ。
なのに。
「んあ? おいこれ」
「何? あ、初めはボクシングからな」
「完全お前有利じゃねぇか! ちがくて、これ、ゲーム違う」
「えぇ? そんなわけ無いよ。君と昨日もこれやったままで……何コレ」
「「……離れちゃや〜よ……?」」
急に俺たちがバカになったみたいな発言だが、これが傑の部屋にあるテレビに映し出された文字なのだ。ずっと見てると目がチカチカしてきそうなピンクの背景に、漫画の表紙みたいなフォントでデカく書かれた文字。それが離れちゃや〜よ、なわけで。二回言ってもバカみたいだ。
「何コレ? 勝手にソフト入れ替えないでよ」
「俺なわけ無いだろ? お前のゲーム機なんだからお前の仕業だろしらばっくれんな」
「いやごめん悟、マジで知らない」
「……マジで?」
「マジで。何ゲーこれ? 硝子……は、こんなのやるわけないか私のソフトどこいっちゃったの……?」
傑が辺りを捜索し始めた時、ピコンと画面に更なる文字が現れた。スタートとこれまたファンシーな文字面。ボタンを押せば始まりそうな謎のゲームに何となく興味を惹かれた俺は、床に腰を落ち着かせた。コントローラーのひとつを持ち上げ、傑の名前を呼ぶ。
「これやってみようぜ」
「正気か?」
「俺はいつだって冷静沈着五条悟様よ。何かわかんねぇけど別に悪いもんじゃなさそうだし、つまんなかったらすぐ辞めりゃいいじゃん」
「うーん……まぁいいけどさ……。これ、どう考えても二人操作のやつじゃなさそうだから、私は隣で見てるよ」
最早二人とも、何で争ってたかなんてすっかり忘れて目の前の突然変異ゲームに夢中になった。スタートボタンを押すと、まず出てきたのは全体的に黒くて、何故か目隠しをした小さなマスコットキャラクターみたいな生物だった。やぁみんな! と高らかに声を上げたそいつは、突然名前を入力しろと言ってきた。
「何こいつ。こっちが名乗る前にまずお前が名乗れよ」
「ゲームにキレたって仕方ないだろ」
「クソ……名前だって。何にする?」
「……これ、もしかしてギャルゲー?」
「ぎゃるげー? 何それ」
「悟は知らなくていい。けどこれもしそうだったら年齢制限的に……」
「何? 危険思想的な?」
「危険思想……まぁある意味?」
「やっべますます面白そう。名前だろー? んー、これ本名はまずい?」
「さすがにそんなことはないけど、これ男か女かも分からないな、名前つける奴」
「確かに。んじゃあそれっぽく」
俺が入力した「さとるん」の表記に傑が呪霊飲んでる時みたいな顔で俺を見てきた。
「んだよ」
「さとるんって君……自分のことそうやって……」
「別に思ってねーよ! あだ名っぽくてこれならどっちだっていいだろ!」
「まぁねぇ……あ、ほらさとるん続きやって」
「それで呼ぶなよキメェな」
促されるまま、俺はさとるんとしてゲームを次に進めた。そうしたら生まれた。文字通り、赤ん坊の泣き声付きで。
「生まれた! は? 何で!」
「知らないよ! 何この『おめでとうございます、元気なさとるんですよ!』って! さとるんって性別なの?」
「知らね〜! いきなりぶっ飛んでんなこのゲーム!」
オギャーッと高らかに産声を上げながら俺は生まれた。そうして俺は幼稚園、小学校、中学校と、現実でも体験してねぇ世界ですくすくと成長したらしく、今日から高校入学らしい。俺さっき生まれたばっかだと思ってたのに。これが、夜蛾センも言ってた、子供の成長は早いってやつ?
「さとるん、教室に入らないと。ほらドキドキ〜だって」
「お前マジでバカにすんのいい加減にしろよ。大体教室入るだけで何で緊張してんのこいつ」
「悟には多分一生わからないね」
「あ?」
「あ、人がいる」
顎で画面の方をクイッと示され、舌打ちひとつお見舞いしてやり、俺も画面に視線を移す。するとそこには一人の男が机に向かっていた。まだ顔は見えてないけど、黒髪で、学ランで、随分とがっしりした体格で……長い髪をハーフアップにしてる。
「傑じゃん!」
「違う! なんか近しい部分はあるけど断じて違う!」
「お前が髪伸ばしてハーフアップにしてるだけじゃんあれ絶対! 何? さとるんどうなんの?」
「私じゃないし知らないしもう進めろよ」
溜息混じりの傑が横から勝手にボタンを押してくる。手を振り退ける前に画面は進み、下にセリフのログと共に顔がついに見えた。
『やぁ、君が隣の子? 私はスバル、今日からよろしくね』
「……夏油スバル」
「おいコラ」
「絶対偶然じゃないだろ……お前以外にあんな目が細いヤツいる?」
「悟、そういえば私たちさっきまで喧嘩してたんだ。喧嘩の続きなら受け付けるぞ」
「平和にいこうぜスグルちゃん。てか、やぁとか君がとか、口調もマジで似てんな……」
ぽち、ぽちとボタンを押して進めていく。たまにあの謎のキャラクターと一緒に選択肢が出てきて、次の行動を迫られる。休日に遊びに誘うか、クレープを食うかアイス食うか、帰りは手を繋ぐか……。何だこれ? と傑に聞いてみたが、ギリギリ聞こえる声でシュミレーションだよと答えられた。要するに、男と女が一緒になるためのハウトゥーゲーム的なもんなんだろうな。そんなもんまでゲームにしちまう、呪術界じゃない外の世界にははぁと関心を抱きながら、俺は地道にゲームを進めた。
「お、夏祭りだって。去年行ったなー、今年も行きたい!」
「ん、そうだね。硝子も誘って三人で行こうか。今年は三人とも浴衣着て行きたいけど……どこかで借りられるかな?」
「浴衣くらい俺ん家に腐るほどあるよ。借りてくるわ」
「ホント? 楽しみだな」
「なーこれ何? ブンカサイ?」
「あぁ、そうか。悟は文化祭にも参加したことないのか。文化祭って言うのはね、学校行事のひとつで、まぁお祭りみたいなものかな。各クラスで企画をした出店とか見せ物とか用意してね。他校の友達とか、高校だと将来その高校に入学することを考えてる子達のために、客として外部からの参加も認められてるんだよ」
「そんなんあんの? 交流会とは全然違う?」
「全然違うね。私も中学の時文化祭あったけど、懐かしいなぁ。毎年大体の学校が秋くらいにやってるから、機会があったら普通の学校にどこかお邪魔してみよっか」
「行く!」
「なぁ、課外授業だってさ」
「ほんとだ。校外学習的なものかな。あ、別の子達と合流した。別の女の子たちだ。二人も居るね」
「一緒に行動するか、しないかだって。どっちがいい?」
「悟が決めればいいよ。さとるんとスバル、二人きりでいたいなら突き放せばいい」
「んー、や、一緒にいた方が楽しいかもしんないしな。スバルとは帰れば二人きりになれるだろうし」
「そう。優しいね……悟は」
「傑は違ぇの?」
「んー、仮にだよ? 仮にこのスバルが私で、さとるんのことが恋愛的な意味で好意を寄せていたのなら、私は他の人間に水を刺されたくないな。二人きりでいたい」
「は〜、随分と情熱的なこって」
「逆に考えてみなよ。暫く任務が立て込んで、ようやく休日が被った日に私と遊ぶ約束してたのに、急に他の人間が入れてーって来たらどう思う?」
「……それはまた条件的に別の話だろ……傑と二人がいいに決まってる」
「ご覧。そういう事だよ」
俺があれこれ聞いても、傑は嫌な顔ひとつせずに教えてくれた。傑が紡ぐ知識の数々に、幼い頃家のやつが買ってきたシャボン玉に目を輝かせた時のことを思い出した。傑は、俺に何でも教えてくれる。いつしか傑は俺の指針となっていた部分があった。そうして楽しみながらゲームを進めていき、スバルともイイ感じになってきただろうと思っていた。が、ゲームであろうと現実と同じく何でもかんでも上手く進む訳ではないようだ。
「なぁ……何かスバル、元気ない?」
「みたいだね。夏バテかな?」
「せっかく三年になったのに。こいつここ数ヶ月ずっと素っ気ない。俺なんかしちゃった?」
「さてね。とりあえず声をかけてあげなよ」
「そうだな。んー、じゃあこれ!」
「あっバカ」
「え何」
「何だよ『どうしたの? 蕎麦の食べ過ぎ?』って。夏バテもそうだけど、スバルの好きな食べ物は素麺だったろ?」
「あ、やっべ間違えた! 蕎麦はお前だったな、傑!」
「……まったく……あぁほら、またスバルの顔が暗くなってるよ」
「えぇえ! 何だこいつ面倒臭い奴だな……」
「……悟には一生わからないよ」
そのセリフ、二度目だぞとは言えなかった。傑の奴、多分意識してなかったけど、その声もスバルと重なるくらいあまり明るいものじゃなかった。
傑はさっき、教室に入るドキドキ感も俺には一生わからないだろうと言った。それも一般知識の話かと思ってたけど、どうやらそうでも無さそうで。さとるんとスバルはいつだって一緒にいたはずなのに、スバルはどんどんと心を閉ざしていく様だった。俺がどんなに明るく話しかける選択肢を選んでも、ダメだった。
あの、小さな黒い目隠しキャラクターだけが、ずっと変わらない笑顔で笑っていた。
「傑はスバルが元気ない理由、わかんの?」
「んん……そう、だね。上手く言えないけどさ、さとるんはどんなピンチになっても自分の力で乗り越える選択肢を選んでるだろ? 誰かに頼るとか、協力してもらうとかじゃなくて」
「まぁ。俺が何やっても出来ちゃうのもあって、ついそっち選んじゃうんだよな」
「それってさ、スバルからしたら、寂しいことじゃないかな」
「寂しい?」
「どんなに近くにいて、一緒に行動しても、そうやって君が……さとるんが何でも一人でこなしてしまえば、自分は一緒にいなくてもいいんじゃないだろうかと考えてしまうものだよ」
君は一人でも生きていけるだろうって感じさ。
傑は自嘲めいた顔でそう言った。その言葉は、俺の心の中で領域展開したみたいに、言葉が呪いとなって反抗できない位の大きな「傷」になるような気持ちに俺をさせた。そして、あ、という傑の気の抜けた声でハッとして、テレビを見るとそこにはエピローグと書かれていた。
「え、エピローグ? 終わり?」
「……スバル、転校しちゃったんだって。さとるんに何も言わずに」
「え……卒業は?」
「一緒には出来ないね」
目隠しキャラが、またあの怖いくらいまっさらな笑顔で出てきた。
『残念! スバル君と君はもう二度と会えなくなってしまいました! だけどモーマンタイ! これはゲームだからね。もう一度全てをリセットしてやり直す事ができるよ! どうする?』
「リセット……」
それは、今までのスバルとのセーブデータという名の思い出を全て無かったことにし、消し去って新しくやり直すという選択肢。目隠しはニコニコと口元を歪ませたまま、俺のチョイスを待っていた。
「どうする?」
「……いや……やらない。これでいい」
「いいの?」
「うん……」
「どうして。またやり直せば今度こそスバルと両思いかもよ?」
「そう、なんだけど。これが俺の選択だって思い知らないといけない気がする。ゲームだからって甘えてやり直して、本来の俺の選択に嘘つきたくない」
俺は迷いなく、コントローラーで『やり直さない』を選んだ。そうしたら、目隠し野郎が初めて無表情になった。すん、とした真顔(目元はそのままで何も見えてなかったけど)は純粋な恐怖を生み出した。
『そう。それが君の選択なんだね。なぁんだ、つまんないの! 君をライアーにして笑いものにしたかったのに! ……なら、どうか君は間違わないでね』
そうしてブツっと急にテレビの電源が落ちた。慌てた俺と傑はテレビを上から叩いたりして普通のテレビを映そうとした。カチカチとリモコンを操作すると、すんなりついてみせたスイッチは民間放送を映し出し、ゲームの事などなかったかのように終わってしまった。
恐る恐る、傑とゲーム機本体のディスク部分を開けると、そこには初めにやろうとしていたスポーツゲームが鎮座していた。
「……ライアーって」
「嘘つき、って意味だよな」
「……私達の会話を聞いてた、なんて、そんなこと……」
「……ある訳ないだろ! ハハ! ……ハハ……」
顔を見合せた俺たちは、呪霊なんて末恐ろしい化け物を毎日見てる癖に、出会ったことのない超常現象に背筋を凍らせ、その日は二人で狭いベッドを分け合って寝た。何が怖かったって? あのゲーム、やってる最中もずっと、呪力も何も感じなかったってとこだよ。呪具でも呪霊の攻撃でもない「訳のわからないもの」の前では、俺達はただの男の子だったってワケね。
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あれは結局なんだったのか。五年経った今でも忘れられない出来事だし、あのゲームはそれ以来傑の部屋でも、高専内のどこでも見かけることは無かった。
あの目隠しは俺をライアーにしたかったと言った。嘘つき、か。あのゲームは、最中の俊の言葉も相まって、それ以降俺の心に居座る記憶のひとつとなっていた。傑の言葉以外にも、指針とする物が増えた感覚だ。
それは五年経って、高専を卒業して、呪術師最強として君臨する傍ら高専の見習い教師として日々教職訓練に専念している今でも変わらない。
俺は今、一人で最強だなんて言われてるけど。
「ねー、夏油さま、ゲームしていい?」
「いいですか?」
「いいよ。でもご飯出来るまでの一時間だけね?」
「はぁい!」
「ありがとうございます」
小さな足音がふたつ、傑の部屋に響いた。俺が卵を割っていると、「手伝うよ」といつしか見慣れた黒髪ハーフアップを揺らして隣に立ってきた。
俺は今、一人で最強だなんて言われてるけど。それは嘘。俺にはもう一人の最強が着いていた。
「おう。四人分さっさと作るぞ」
「任せて」
俺が笑えば、傑も偽りのない笑顔で笑ってくれた。
嘘つきにならないよう、自分の気持ちも正直に話すようになったおかげで、今の俺たちがいるような気がした。それを思えば、あの目隠し野郎のゲームにも感謝するべきなのかもしれないと、俺は心の隅で考えていた。
「ねぇ、美々子、これ何かな」
「……わかんない。何も書いてないね。ゲームの棚にあるから、ゲームだとは思うけど、勝手にやったらダメだよ」
「あれ、なんか紙挟まってる!」
「……は、えなくて、……漢字読めない」
「後で夏油さまに聞いてみよう。それより早くしないと一時間たっちゃうよ!」
「あ、うん」
幼女たちの記憶に、その紙がゲーム後まで留まることはなかった。ヒラリ、と舞い落ちた紙の音に気が付くものは誰もいなかった。
『君は間違えなくて良かった』
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④「ギャレー」
その日、悟は一人、遠くの地への任務から帰還していた。ファーストクラスの座席は任務帰りの悟の体を疲れさせることは無い。悠々自適に長い足と広い背中を伸ばしながら、ようやく日本へ帰れることにいたく感激していた。
実に三週間振りくらいだろうか。愛しの生徒たちや信頼する同僚の顔を一切見られず、異形の化け物達と対峙し続けるのは、流石の最強であっても精神的に疲弊する部分がある。連絡はマメに取っていたし、電話だってしたが、それでも生身で会って話すのとは充実感からして違う。受け持つ子供たちはまだ一年だというのに、悟をこんな遠い地に追いやった老耄達を絶対に許してなるものかと心の底から思っていると、胸より下、へその辺りから珍しくいい音が鳴ってきた。
「あぁ……そういやまともに食べてなかったなぁ」
思い返せば、昨日の朝普通の街角にあるパン屋で適当な菓子パンを見繕ったきり、二十四時間以上固形物を口にしていない。水分だけは摂っていたが、特段食べる気にもなれなかった。それ程に、この最強は疲れを貯めていたのだ。
「ん〜〜〜アイス食べたいけど、これだけだと絶対あいつ怒るもんなぁ。言ってもないのに何でわかるんだよ……よく考えたらこわぁ」
お前は俺の母親か? とツッコミの一つ二つ入れたくなるくらい、口うるさい同僚を思い出し、すぐに煙のように思考から追い払うと、ファーストクラス専属のアテンダントを呼んだ。
「何か軽くつまめる物とアイス頂戴」
「かしこまりました。お飲み物はいかが致しましょう」
「カフェラテ、アイスでね。ガムシロップ沢山持ってきて」
「承りました」
流石ファーストクラス専属、仕事が早くて助かる。このくらい腐ったミカン達も仕事が出来たらなぁと、ありもしないまさに「夢物語」を悟は夢想した。後は老衰を待つばかり……の、保守派隠居野郎共の事など本来なら知ったこっちゃないのだが、悟の立場がそうはさせなかった。だからこうして今も、わざわざ日本を飛び立っての仕事をこなしているのだ。
「あ〜僕ってやっぱりいい子だなぁ! あ、いい子と言えば、一年たちは元気かな。暫く顔見てないし、お土産もたぁくさん買ってきたから、会いに行ってあげよっと」
存外寂しがり屋の最強は、独り言が絶えない。手持ち検査をパスした袋の中には、菓子やら現地の特産物やらで溢れていた。半分は自分の糖分補給用の物だが、もう半分は可愛い生徒たちと、愛しい同僚と分け合うためである。またこんなに買ってきて、と少し呆れ半分に、けれどどこかくすぐったそうに笑いながら小言を言う同僚は、つい先程思い浮かべた顔の人間と同じとはとても思えない。
悟の扱い方が誰よりも上手い男なのだ。全く、スケコマシな奴め。
「お待たせ致しました。クラブサンドイッチを御用意致しました。アイスクリームのお味はどちらご希望でしょうか?」
「あーありがとう。アイスはそうだな……いちごがいいな」
「承りました」
軽くつまめる物として、アテンダントは手頃なサンドイッチを持ってきた。悟の希望通り、アイスクリームと、ミルクたっぷりのカフェラテとガムシロップも沢山掲げて。この飛行機を何度か使用している悟のことを知るアテンダントは、ガムシロップが一つ二つで事足りる訳が無い事をよく理解していた。
アテンダントが去るのを見送り、サンドイッチに手をつける。パン生地はほんのり温かいが、焼いたパン生地特有のパリッとした手触りではない。
飛行機のギャレーでは火が使えない。故に温めたりする時には全て電子レンジとなる。火を通さなければいけないものは基本的に飛行機に乗せる前に地上で全て調理されており、ギャレーではそれを温めて提供する形だった。
上層部の嫌味ったらしい出張任務に疲れた心と体に、ギャレーの機械的ぬくもりの篭ったサンドイッチは、美味しいはずなのに何故かあまり美味しいとは感じられなかった。変な味がするといった理由ではなく、何かが足らないような、悟であっても言葉に出来ない感覚に揺さぶられた。
「んー別に不味くはないんだけどなぁ」
疑問に思いながら、サンドイッチはさっさと腹の中に片付け、国産いちごで作られた、スーパーなんかには絶対に売っていないアイスクリームを手にした。ぱくっと一口食べる。いちごのほのかな酸味とミルクの芳醇さが口の中に広がり、コレコレ、と悟もテンションを上げた。しかし同時に、このアイスは美味しく感じるのになぁと疑問にも思った。理由もわからないまま、溶ける前にとアイスクリームを平らげ、残り数時間のフライトで短い睡眠を摂った。ショートスリーパーの悟には着陸までの数時間で十分なのだが、珍しく寝起き時にはスッキリとした目覚めにはならなかった。
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そうして着陸した飛行機から降りて、空港で待っていた伊地知の車に拾われて高専を目指す。以前は個人宅もあったのだが、任務と高専の往復で「これ家いらなくね?」という考えになるのに時間はかからなかった。高専内の敷地で寝泊まりするにあたり、任務への行き来や生徒たちとのふれあいには困らなくなった。
まぁ、恋人とのふれあいだけには時と場所に慎重にならざるを得なくないが。
「五条さん、到着致しました。お疲れ様です」
「ん。お土産持ってってくんない? 生徒たちに分けるから」
「あぁ、はい。乗せる時も思いましたけど、沢山購入されたんですね」
「長かったからね。買ったあとにまた別のもの見ると、あーこれも買っとこって思っちゃうんだよね。お前も好きなの持ってっていーよ」
「ありがとうございます。でも、虎杖君たち寂しがってたので、きっとお顔を見られたら喜ばれますよ」
「喜んでくれんのは多分悠仁だけっしょ〜」
「えぇと、いや、もう一方おられるかと……」
「? 誰?」
伊地知は自分が試されているのかと身構えてしまった。これで正直に答えたら、お前如きが僕とアイツの何がわかるんだとか何とか言われそうだし、かと言って無言を突き通せば絶対責め立てられる。マジビンタだけは避けたいと、悟の機嫌がジェットコースターの如く落ちないようにと、言葉を慎重に選んだ。
「……五条さんの代わりに、生徒たちを見てくれていた方ですよ……」
「あぁ。そゆこと。いやまぁそうだろうね。僕達ラブラブだし?」
「は、はは……ですよね……」
「ですよねってお前僕達のラブラブ現場そんなに見た事あるわけ?」
「ヒッ……いえまぁ、時たま、それなりに、だいぶ……」
「ふぅん」
ま、学生時代からの名残みたいなもんだしね、と悟は開き直って見せた。一瞬見えた不穏なビンタ空気に怯えたが、どうやら無事クリアしたらしく伊地知はお土産を抱えて五条の後をついて行った。
「たっだいま〜! 僕の愛しの生徒たち、いい子にしてたかな〜!」
「せんせーおかえりー! お疲れ様!」
「おかえりなさい。腹減りました」
「土産寄越しなさいよ。ゼリー系ある?」
「唯一心配してくれた悠仁には後でコーラ買ってあげようね」
「やった! でも俺もお土産楽しみにしてたわ」
下手に嘘をつかれて誤魔化されるより、正直な子の方がよっぽど良い。齢十五の子供らしく素直に気持ちを告げる悠仁に伊地知に持たせてきた分も含め土産物を解放させると、ワッと子供たちは群がってきた。恵は顔に出てはないが、土産に喜んでいるというより、他二名の同級生とこういった時間を過ごせることの方が嬉しいのだろう。十年近く面倒を見てきた(と、悟は少なくとも思っている)子供の気持ちを少し察することくらい、最強にはおちゃのこさいさいだ。
「あー、みんな午後は?」
「今日は任務もないよ!」
「午前中は座学で、午後は体術の予定だったんだけど、無くなったのよ」
「そうなの?」
「えぇ。まぁ……理由わかんなかったんですけど、今わかりました」
「今ぁ?」
「先生! 二年の先輩たちも誘って食べていい?」
「もっちろんよ! 二年合わせて食べても残るくらい買ってきたからね」
嬉々として、野薔薇はスマホを取り出し早速電話をした。相手はおそらく真希だろうなぁと思っていると、加減された力で、ちょいちょいと悠仁が悟の袖を引いた。
「せんせ」
「ん?」
「夏油先生なら一本吸ってくるって言ってたよ」
「……どうしてそれを僕に?」
「探してるっぽかったから。な、伏黒」
恵を見れば、目は合わないが悠仁の言っている事には頷いて答えた。
「一本吸ってくるって言えば、自分がどこにいるかわかるだろうって、言ってたんで、あの人」
生徒を使ってなんて事。
悟はわざとらしく溜息をつき、ごめんねぇ僕のが惚気けて、とブーメランよろしく盛大な惚気を言い放って恵の頭を一撫でした。辞めろと機嫌の悪い猫のように振り払われたが、かすり傷にもならない。むしろこれから向かう場所にいる人物と話す方が、心に傷を向けられる可能性は大いにあった。
自由に食べてていいよと言い残し、伊地知には今日の報告書を押し付け、悟は思い当たる場所にまっすぐ向かった。
そこは、悠仁達が住む寮とは言っても現先使用されている部屋ではなく、屋上。古びた木製階段を悟の身長と体重で歩くだけで、ギッシギッシと音を鳴らす。建て替えもいずれ必要になるだろうなと思いつつ、屋上の扉を開ければ、果たしてそこに彼はいた。
「……来たね。おかえり、悟」
「生徒使って僕を誘うなよ、傑。ただいま」
全身黒のジャージに長い髪をハーフアップにしてまとめた傑が、ぷかぷかと空に輪っかの煙を吹き出して悟を手招きした。大人しく従って近くに寄れば、何の迷いもなくその手が悟の腰に回された。
「ちょっとー、セクハラだよ夏油先生」
「おや、すまないね。魅惑的な腰が私の腕に抱いて欲しいって強請ってきてるようで、つい」
「ついじゃねぇよ。恵が嫌そうな顔してたぞ」
「いやぁ、その顔が見たくて伝えたんだよね」
「性悪」
「何とでも。ところで、怪我は? 大丈夫かい?」
「僕を誰だと思ってるの? 怪我なんかしてないし、これでも予定を一週間早めて来たんだよ? もっと褒めろよ」
「そう簡単に褒められないよ。君、また飯を抜いたな? その分だと軽食程度はとってきたのかな」
「……お前さぁ。なんでいっつもわかんの?」
「んー、触った感じ?」
腰に置かれた手がさわさわと動かされる。その触り方にどのような意味が込められているかなんて、悟もわからないままの子供ではなかった。出張帰りでヘトヘトのはずなのに、その手が織り成すテクニックでもっと疲れる事をされそうになっているのだ。しかしそれが嫌では無いのが、惚れている相手の手だからなのか。
「っ……そういうの、今いいから……。生徒たち誘ってご飯行こうと思ってたんだけど」
「何で? 私と二人で行こうよ。生徒たちとはいつでも行けるでしょ?」
「は? お前外の店嫌がるじゃん」
「嫌だけど……悟が行きたいって言うなら、個室の店なら行ける」
「そんなら部屋戻って食べるよ。ギャレー産のサンドイッチじゃ何かもの足んなくてさ。ちょっとお腹空いてきたんだよね」
「ギャレー? あぁ、機内食か、あんまりあたたかくないだろうし、物足りないよね」
「や、あったかかったよ?」
「いやそういう意味じゃなくてさ。アレって地上で作られたのチンしただけだろ? なんて言うかな。手作りのあたたかさってあるじゃん。その場限りでしか味わえないだろ? 私は猿の作ったものは極力口にしたくないけども、呪術師の皆が作ってくれたご飯なら、心のこもったあたたかさがあるじゃないか」
悟の言う物足りなさも、それだろ?
まるで知っているかのように話す傑だったが、悟からしてみれば目から鱗の話だ。昔からそうだ。傑は悟の知らない事を教えてくれる。時に子供に読み聞かせをする母親のように、時に世間の厳しさを教える父親のように。学生時代から今日まで、悟が傑に教わったことは両手に収まりきらない。
周りは、世の中は、傑の方が悟に救われたと言う。確かに十年前にあった出来事は、二人にとっても呪術界にとっても忘れてはいけない事件であり、事実だ。あの時の傑の手を引いたのは間違いなく悟ではあったが。
「……悟?」
「……ん、ごめん。そうだな。またお前に教わっちゃった」
「えぇ? 別に教えたつもりはないんだけどなぁ。ま、君がまたひとつ理解出来た事が増えたならよかった。そうだ、じゃあ今日は私がご飯作ってあげようか」
「傑が?」
「特段上手いわけじゃないけどね。君の口に合うかわからないけど」
「や、いい。傑のご飯がいいや」
「ふふっそうかい? じゃあ腕によりをかけようかな。あたたかいのにしようね」
「おう。任せたぜダーリン」
「任されたよハニー。ご飯食べたら君を食べてもいい?」
「おっさんくせぇぞアラサー」
「君もだろ」
腰にあった手がふと離れ、優しく頬に添えられた。ギャレーで温められたパン生地よりあたたかく、子供たちの手の温度よりは低い無骨な手。
そのまま導かれるように、悟は傑の唇の熱に浸ったのだった。
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⑤「終わりの日」
終わりの始まり、なんて言葉をよく聞く。それはこんな世界に身を置くからか、単にご時世的なものなのか明確にはわからないけれど、今までの僕には縁遠い言葉だった。
「だって、僕に終わりなんてあると思う?」
どんな景色を視界に入れたって、僕の眼には世界中がサーモグラフィーに当てられたかのように膜のかかった光景しか見えなかった。幼い頃は、風雨の世界ってどんな風に見えるんだろうなんて考えたこともあったけど、才能がどんどん開花していくにつれて、そんな考え方すら代償のように出来なくなっていた。
見たくても見えない世界を、他人の眼を通してだけれど教えてくれたのは、目の前にいる世界でたった一人の親友だった。
「ね〜ヤバくない? 僕三十三になっちゃった。アラサー突入だよ! まぁ生徒達には本当に歳とってる? なぁんて聞かれちゃうくらいピッチピチなんだけどね」
その時一緒にいた硝子には何か嫌な物を見た時みたいな顔をされてスネを蹴られた。
生徒たちは笑っていた。
僕も笑ったよ。
「でもさ、見た目が変わってなくても中身は歳とってんのかなぁ、笑うのもだんだん疲れてきちゃうんだよね。お前、死ぬ前そんな事あった?」
話しかけたけど、返事なんて空耳でだって返ってこない。そりゃそうだ。話しかけてるのは僕が建てた墓石。ついでに言うと親友も僕の手で殺した。
言い訳をしていいなら、あの時は何もかも仕方なかった。僕が呪術界の正義で、あいつが悪で。たとえ僕の死んだ心が最後の力で「殺したくない」と叫んでも、「五条悟」として生まれてきてしまったからには、その心の鼓動も親友の息の根も、自分で止めるしかなかったのだ。あれももう六年前なのか。
「そりゃ皆大きくもなるわな。見てみてー、これ僕の生徒たち。可愛いでしょ? 左から悠仁、野薔薇、恵っていうんだ。お前の体は情報として知ってたかもだけど、アタマはお前じゃなかったからちゃんと教えてあげんね」
掲げたスマホの待受は最近撮ったもの。今年で二十歳になる三人の教え子の写真。学生時代は好きなグラビアアイドルとかにしてたけど、今じゃ年寄りが孫を可愛がる感覚で待受設定をしてる。五条家の人間は待受を僕にしても自分の子供にするような大人はいないけど、世間一般はそうなんだって、お前も生徒も言ってたね。
生まれてきてから三十三年、息つく暇なんて本当になかった。楽しい時間は沢山あった。でもその何十倍も疲れたり嫌な思いをする出来事の方が多かった。楽しかった思い出まで真っ黒の闇に塗り潰されてしまいそうで、僕は必死に大切な記憶を守ってきた。
無下限のおかげで体に傷がつく事はなかった。まぁ一時期ある意味お前のせいで封印されちゃったけど、ちゃんと出てきてちゃんとお片付けした。偉いでしょ、僕。
「みんなね〜僕に負けじ劣らず……とはちょっとまだ言えないけど、でも世界を任せられるくらいには強くなったんだ。僕が教えてあげたんだよ、僕頼れる先生だからね。飲み込みの早い優秀な子達ばかりで助かったよ。だからね、僕、今日で引退することにしたんだー」
面白いネタではないけれど、自然と笑い声が喉から上がってきた。誰も笑ってくれる人なんてそばに居ない。勿論、お疲れ様とか、労わってくれる人も今はいない。高専に戻って発表したら、ビックリされんだろうなぁ。
「最初にお前に言いたかったんだ。僕、先生も、呪術師も引退するよ。全部辞めてみようと思う」
冷たい石は何の音をたてず、僕の意志を聞いてくれている。いいんだ、返事が欲しいわけじゃないし。
墓石を照らす冬の日差しは少しだけ暖かくて、でも風のせいでそんな温もりも僕の体温も空の彼方に吹き飛ばされてしまう。この体温が奪われていく感覚、僕がお前を奪ってしまった時とおんなじだね。
「五条家はまだ僕がいないとどうにもならないから、書類にハンコ押す仕事くらいはするけどさ。ねぇねぇ僕普通の男の子になれると思う? 僕学校って高専しか知らないからさ、大学生にでもなってみよっかな。あれって年齢制限ないんでしょ? あ、アルバイトもしてみたいな。お前は昔新聞配達してたって言ってたよね。自転車こいで一軒一軒回るんでしょ、ヤバいよね。朝からウーバーやるようなもんじゃん。ちょっと違う? いや待て、僕この年でアルバイトってもしかしてフリーター扱いになるのかな。え〜! 五条悟三十三歳、職業フリーターですって?」
アハハハ! と寒空に僕の笑い声が響いた。空気が澄んでるせいでマジで響く。七海辺りが聞いてたら、多分物凄く白けた目をされるか、他人のフリしてその場を去られそう。多分後者。
「とにかくさ、色々やってみたいなって思うんだ。呪術とか関係なく、ほんとに、色々さ……いろいろ……ねぇ傑、普通の生活って、何だと思う?」
密かに引退を決めた日の夜、考えてみたけれど、普通の生活というものがわからなくてネットで調べた。そうしたら月収がどうとか、結婚がどうとか、マイホームがあるとか無いとか、そんな細かいことばかり出てきて途中で匙を投げた。これから収入は無くなるかもだけど、金なら腐るほどあるし、家だっていらないけどある。結婚はしないと決めてる。けれど結婚する事がイコール普通の生活だというのなら、僕には無理だとすぐ思った。
その中にね、ひとつあったんだ。普通の生活の基準のひとつに、僕が知ってて無くしちゃったもの。
「普通の生活ってね、友達と話したり出かけたりお泊まりしたり、関わりを沢山持つことも含まれるんだって。僕お前と硝子しか友達いないから、困っちゃった。……出来ないや」
別に硝子は死んでない。友達としての交流をやろうと思えばやれるけれど、彼女は確実に嫌がるだろうし、どうして僕がそんな事しようとしてるのか理由を知ったらもっと拒むと思う。彼女はとても優しいからね。
「ねぇねぇ傑、僕って何でも持ってそうとか、悩みとか無さそうって言われるんだけど、そんな軽く見える? いや確かに軽そうに見せてる部分はあるけどさ、だとしてもそんな……そんなに軽いのかな。僕ってば信頼出来る友達もいないし、安心出来る家族もいない。何にも持ってないのにね」
だからさぁ。
ザァ、と風が強く吹いた。お前が昔高専に宣戦布告しに来た時、帰り際デッカイ鳥の呪霊に乗って帰った時のことを思い出した。羽ばたいていった後ろ姿と風の強さを、妙にこの眼と肌が覚えてる。そうやってお前が俺に後ろ姿を見せるのは二度目だったな。二回とも、俺が普通の人間だったら追いかけてたんだけど、そう出来なかった立場にも、自分にも、今となっては腹が立つし、けどどうしようもない。
「だからさぁ。やり直そっかなって。全部丸ごと、世界ごとさ。ここじゃ俺のやりたいこと、なりたい姿、何にも叶えられないから……リセットしたくてさ」
生まれた時から今日まで鉄格子の中のような世界で生きてきたとようやく気がついた。もういいだろう。自分のやるべき事は終わったのだ。
お前の傍に行くワガママくらい、最後に聞いてもらったって、バチは当たらないよね。
「これで生まれ変わっても何も変わってなかったらさすがに諦めるわ。俺はずっと俺なんだって。でもま、お前とずっと一緒にバカやってられる世界なら、我慢するわ。だから頼むぜ、ちゃんと傍にいてくれよな?」
今日は五条悟、最後の日であり、始まりの日にもなる。
傑を殺した時と同じように指先に呪力を込める。ずっと回しっぱなしだったオート設定の無下限を切る。何にも守られていない僕を殺すなら今しかない。でもそんなこと出来る奴はこの世にいない。
だって僕、最強だから。
僕一人が、最強だから。
……そんなのもう、嫌だよ。
「これちゃんと赤ちゃんとして生まれ変われるかな……。わかんないよね、もし空から落ちてきたらちゃんと抱き締めてキャッチしてね? こんな白いし、もし消しゴムとかに生まれ変わったらちゃんと使い切れよ。頼むから、どんな形であっても、俺と一緒にいて」
サヨナラ世界! サヨナラ五条悟!
集められた呪力が、胸元で赤く光ったのを見たのが最後。僕の意識は導線切れの電球の様にブツっと切れた。
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「ってのが今日の夢」
「……何だそれ、最悪じゃないか」
不機嫌さを隠すことなく、不細工な目元を釣り上げて僕を睨みつけてくる親友。今日午後の授業ダルいよな、みたいな感覚で語った僕は、傑がそんな顔をするだなんて思わなくて食べていた菓子パンにかぶりつくのを辞めた。
「エッ……何でそんな怒るの?」
「怒ってないよ別に」
「や、怒ってんじゃん〜! お前その目、この前僕の見た目に突っかかってきた他校の先輩ボコす時と同じ目してんじゃん!」
「そんなに? あの時確かにあの猿共に殺意湧いてたけど、そんなにだった?」
「おん。僕の事で未だにそこまで怒ってくれるのお前だけだよ、傑。で、何でそんな怒んの?」
傑も焼きそばパンに齧り付くのを辞めて、ちょっとの間考えていた。傑は僕の幼なじみで、高校生になった今でもずっと一緒の奴だ。世界一の大親友で、自慢じゃないけどクラス替えで別れたことが生まれてこの方一度も無い。
遊びも喧嘩もずっと一緒。それが僕達だ。
「……わからない」
「わかんねぇの?」
「自分でも不思議なんだ。どうしてここまで怒りが湧いてきたのか。君の言うその世界って、要するに君にとっては一生こき使われて、擦り減らされて消費されてく世界だったわけだろ? 君がそんな扱い受けるの、私は見てられないよ」
「まぁ多分? でも仕方なかったっぽいよ。僕その世界では最強だったっぽいし」
「ていうか私死んでるんだよね? 君に殺されて? 何したんだよ私は」
「知らんけど、お前たまに宗教顔負けの怖ぇ考え方とかするから、詐欺師でもしてたんじゃね?」
「詐欺師だったとしても君に殺される程の詐欺って何なんだよ……」
傑が机に顔を突っ伏して泣き真似なんかするから、食うのを再開してたあんぱんを吹き出すかと思った。
「ま、夢なんだし別に良くね? 今はずっと一緒にいんだしさ」
「……まぁ、そうだね。絶対終わりの日なんか迎えさせないよ。私が一生傍にいるからね」
「やだぁ〜! ね〜傑に告白されちゃった〜!」
わざとらしく大声で騒げば、クラスメイト達から「ハイハイオメデト」「お前らもう結婚してんだろ」なんて野次が飛ぶ。フフっと笑って傑の方を向き直れば、傑も満更ではない感じで笑ってくれていた。
僕は傑の笑顔が大好きだ。
「これからも一緒にいてよね、傑!」
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⑥「ペスカトーレ」
「起きろ、ねぼすけべ野郎。今日はこの五条悟様直々に昼飯作ってやる。あと五秒以内に目を覚まさないと明日の任務明けまで飯抜きだ」
「寝起き一発目から物騒だな……きみは……」
気にぶら下がるミノムシよろしく、私は篭っていた布の居城から顔を出した。朝日をバックに輝く顔を更に美しく瞬かせているのは、親友兼同居人兼恋人である、最強男だった。
昨晩は二人して任務明けであり、明日は久しぶりに重なった休日。もうこれはヤる事ヤるっきゃないよね! と、歳も考えずに十代に戻ったかのように。それはそれはもう盛り上がった。ベッドがもはやなんの液体なのかわからないくらいぐしょぐしょのぐちゃぐちゃになっていても構わず、私たちは愛を深めていた訳だが。
いわゆる「ネコ」だとか「受け」側である悟の方が元気にベッドから起き上がり、あろう事か裸にエプロンという姿で、私の惰眠タイムを妨げてきたのだ。
腰も最強なのか? この男。
「はいいーち、にー、さーん」
「わかった、わかった……起きるから……君ってやつは、なんで朝からそんな元気なんだ?」
「朝朝言ってるけど、お前もう十一時過ぎてっからね?」
「マジ? わ、ほんとだ…」
枕元にあるスマホのロック画面を見れば、時間は眠りに落ちてから既に八時間以上経過していた。こんなに途中覚醒することなく寝続けたのはいつぶりだろうか。半ば信じられない気持ちでスマホを見たままボーッとしていると、コンッと頭に何かが落ちてきた。上目遣いで頭の上を見れば、悟が手にしていたトングで私の頭を小突いていた。
「お前ほんと朝だけは弱いよな」
「君が朝に強すぎるんだよ」
「僕は元々ショートスリーパーなのもあるけどさ。いつもはあんなにシャキッとして、皆の憧れの的夏油先生〜って感じなのにな」
「生徒の前では……カッコつけたいじゃん……」
「恋人の前では?」
「たまには甘えたな姿も悪くないだろ……?」
「うわぁーそういうとこだかんなお前」
そんな私が好きなくせに、とは口に出さなかったけど、悟は言いたいことを言い終えたのか、裸エプロンの裾をひらめかせながら部屋を出ていった。仕方ない、私も起きるかと、昨夜投げ捨てたズボンをベッドから数歩歩いて手に取った。
ベッドの下はとても綺麗とは言えない散らかりようだった。脱いだ服、下着、丸めたティッシュ、中身が空っぽのボトル、使用済みのゴム……生徒の教育に良いとか悪いとか、そういう範疇を越している有様だった。成人してそろそろ十年は経とうと言うのに恥ずかしく無いんですか? なんて聞かれたら何も言えない。
「パンツパンツ……あれこれ悟のだわ。私のは?」
先程姿を現した悟を思い出してみても、多分下着は履いてなかった。となればどこかにあるはずなのだが、もう面倒なので悟のを拝借した。
「……ん、やーっと来た」
「ごめんごめん。パンツ探しててさ」
「床になかった?」
「多分あるけど、見つけられなかったから悟の借りたよ」
「バッカじゃねーのお前」
悟はフライパンを手にしながら、吹き出して笑っていた。嫌がられる態度を見せられなくて良かった。
フラフラと近付いて、悟の手にするフライパンの中を見ると、まだオリーブオイルを垂らしただけのようだった。そこに刻んだニンニクを手際よく入れると、悟は私の名を呼んだ。
「すぐるー、冷蔵庫の中のザル取って」
「ザル?」
「そ。解凍しておいたやつ」
自慢じゃないが、私は大して料理が出来ない。全く出来ないことは無いのだが、何だってやろうと思えばやれてしまうこの恋人に頼んだ方が確実に味が保証出来る。普段クソみたいなゲロ雑巾を口に含んでいる分、普通の食事には、ちょっと味にうるさい部分があると自分でも自覚している。
「あ、なにこれ海鮮?」
「そー。この前任務先で貰ったんだ。新鮮なうちに冷凍して貰ったから、多分美味いよ」
「へぇ。それは楽しみだ。何にするの?」
「昨日から体力使いっぱなしで超腹減ったので、今日はペスカトーレにしまーす」
「なに?」
聞きなれない横文字、たまに悟が出してくる呪文料理だ。
「なに? ペニス通れ?」
「やっべーここ数年で一番最低な言葉聞いたかも」
「は? 君だってベニスに死すをペニスに死すと聞き間違えて腹抱えて過呼吸起こすまで大笑いしてたじゃないか」
「いやそれいつの話? 学生時代だろ? 大人になってからはそんな低俗な事で笑ったりしませーん」
「この前ポークビッツ見せながら『元気がない時の私』って披露したネタ、死ぬほど笑ってた癖に」
「いやあれは反則だろ。てかちがくて」
俺が言ってんのはペスカトーレだって、と改めて悟からツッコミが飛んできた。
はて、ペスカトーレ。どっかに外食した時に聞いたことがあるような無いようなと、ふわっとした記憶しか無いのだが、多分食べたことはない。何それと悟に向き直ると悟は信じられないと言わんばかりの顔で私を見た。
「知らねぇの? お前。悠仁だって知ってると思うよ?」
「そりゃ虎杖は料理する子だからだろ。私はしないし」
「傑って味にうるさい癖して、料理には興味無いよな」
「まぁ。料理名知らなくても美味しけりゃいいし腹に入っちゃえば一緒だろ?」
「えー、それ術式的にも同じこと言える?」
「食べた料理飼い慣らすわけじゃないんだから、全然違うよ」
あまりにも取り留めもない会話だが、これが学生時代からの私と悟だった。口を動かしている間も悟の手が止まることは無く、順調に海鮮に火を通しつつ味を整えていた。
「味付けそんなもんでいいの? 薄くないかい?」
「いやこれからトマトペースト入れるし……あー、傑ペスカトーレが何だかわかってなかったんだわ。ペスカトーレってさ、要するにトマト味の海鮮パスタよ」
「あぁパスタね。なるほど、イタリアンのお店に行った時にでも聞いたのかな。何となく頭にはあったんだ」
「あんな聞き間違いしといてよく言う……」
「そもそも悟、君も意地悪だなぁ。ペスカトーレなんて言わなくても、トマトと海鮮のパスタとか言ってくれればいいだろ」
「それ屁理屈? 僕に似たね」
私が文句垂れれば、悟は面白そうに笑った。まるでやり取りが昔とは逆だ。全く、大人になるということはかくも残酷か。青春期の幼さ故の純粋さはどこかへ霧散してしまったのだ。
悟は瓶詰めのトマトペーストを投入し、また私を顎で使ってきた。曰く、大鍋に水溜めて火にかけろ、と。麺を茹でるんだなと、それくらいの事は察せられた私もいそいそと手伝い始めた。トマトペーストと混ぜられ炒められた海鮮からは、ニンニクと相まったいい匂いが鼻腔と胃を刺激してきた。そういえば、昨日からもう水と悟のアレしか飲んでない。
アレとは、アレだ。
「ん、ふふ、傑腹鳴ってる」
「今更ながら空腹なのに気が付いたよ。匂いにつられた」
「やべーよなニンニクって。お腹減ってなくても匂いするだけで食べられちゃう気がするんだもん」
「ね。パスタどれくらい茹でる?」
「それひと袋いけるっしょ」
「いけるね」
ちなみにひと袋とは四人前である。
そこいらの若者に負けないくらい、私も悟も三大欲求は満ち満ちているのだ。湯が沸いてからすぐに、ザーッと音を立ててひと袋全部投入した。世の中じゃ鍋のふちに沿って回すように入れるみたいだけど、知らない。煮えれば一緒だ。
横から悟の視線がちょっと痛かったけど、さえばしで麺全体が浸かるように徐々に徐々にと麺を沈めた。
「んな押さえつけなくてもいいんだよ。鍋に任せておけばさ。たまに混ぜたりして麺がくっつかないようにしておけばそれでさ」
「ふぅん、そっか。じゃあ私の仕事はこれで終わりでいいかい?」
「待てって。そこのフランスパン切ってよ。僕二枚ね。傑の分は好きなだけ切っていいよ」
「美味しそうだねコレ。一本買ってきたの?」
「そー。たまたま焼きたてだって言って店頭に出てたからさ。たまにはいっかなって」
海鮮もそうだが、悟はしばしば任務先で土産物として特産物を貰ってきたり、自分の気に入った物を購入してくる。味にうるさい私のためだろうか、なんて少しだけ自意識過剰になってしまう。悟の家の冷蔵庫は、悟の糖分補給用のデザートと私との食事に使う材料で溢れていた。悟の家は元々物が少ない。そんな中に私の物が徐々に増えていく様は、見ていて気分が良いのだ。
「私三枚食べる。焼く?」
「おー、もう焼いていいよ」
「バターは?」
「いらなーい」
さすがの私でもトースターにセットすることぐらい出来る。パンを入れてタイマーをセットしてる間に、悟の方からはヨシ、という言葉が零れてきた。
見れば、フライパンの中の海鮮はトマトペーストの衣装を纏い赤く艶やかに、芳醇な匂いと共に食欲を誘う姿に変わっていた。それだけで十分食べられそうなくらいだ。悟は一旦火を切ると鍋の方を様子見し、一本麺を取った。
「傑、あーん」
「ん。……」
「どう? 固い?」
「いや、これくらいでいい」
「おっけー。じゃあお湯切ってよ。麺はザルの上にあけて」
「悟やらないの?」
「誰かさんのせいで腰がイッててさ。重いもの持ちたくない」
「なるほど。それは責任を取らないとね」
そう言われてしまえばこちらは抵抗することが出来ない。女王様の言う通り、鍋を持ち上げ熱湯を切り麺をあける。こちらもいい湯加減で煮られたようで、黄色の麺がいい具合に茹だっていた。半分ずつに分けて皿に盛り、悟特性の海鮮ソース(もうカタカナは忘れた)をかければ、店顔負けの一品が完成した。
「出来たー! パンももう焼けてる?」
「焼けてる。パスタは私が持ってくから、悟パン持ってきて。食べよう」
「食べよう食べよう。腹減ったー」
パタパタと悟は小皿を持ってトースターに近付いた。パン皿よりかは重い計四人前のパスタ皿を持ってテーブルにつく。向かって右側が悟、左側が私。二人の生活の定位置だ。
「はいパン」
「ありがとう」
「じゃ、いただきまーす!」
「いただきます」
案外育ちがいい悟は手を合わせてパスタにファースを刺した。一方でパスタを食べる時の礼儀など知りもしない私は豪快に中央からざっくりフォークで持ち上げて一口かぶりついた。トマトのスッキリとした酸味と、それに絡まったエビやイカのプリっとした食感やアサリの出汁が染み付いた味わいがより一層食欲を刺激してきた。たまらず二口目を迎い入れると、正面の悟が声を出して笑った。
「必死かよ、てかやっぱお前口大きいね」
「んぁ、ほぉ?」
「口の中空にしてから喋れよ。まぁこの五条悟様お手製だから美味しいに決まってるよね」
「ん。ほんとに美味しいよ、悟」
「でしょー。……あ、ちょっとごめん」
悟がテーブルに置いてあったスマホを覗き込む。コトコトと机にぶつかり震えていた。どうやら着信のようで「はいはーい」と少し声を高くして電話に出た。こういう時の悟は教師モード、生徒の誰かだろう。
「どしたの。え、今夜? わ〜いいねぇやろやろ! うん、うん、わかったよ。傑も連れてくね」
「私もか」
「ハイハイ、あ、タコならうちにあるよ。持ってくねー。……ふふっ、そう言ってくれるのは悠仁だけだよー」
(あぁ、虎杖か。)
タコを持ってくような要件ってなんだと電話してる悟を見ていたが、ふと思い立ち、悟に手を伸ばした。
「え、何?」
「ちょっと貸して」
「え、あーごめん。何か傑が用あるみたいで。うん、代わるね。……何?」
「あーもしもし虎杖? 変なこと聞くんだけど、ペニス通れって知ってる?」
「ペスカトーレだっての」
「ペスカトーレだ」
最初のは聞き間違いだと思ってくれたのか、私の間違いには何も突っ込まずに虎杖はその答えを紡いだ。
「……そうか、わかったありがとう。もう切っていい?」
「いいよ」
「じゃ、切るね。はーい」
「どうだった?」
「……知ってた」
「ほら〜!」
イマドキの高校生だって知ってんだぞーと悟は声を荒らげた。私はイマドキの高校生じゃないから知らないさ。それに名前がなんだろうと、悟が作ってくれるものは全部美味しいんだからあまり関係ないんだ。
「ところでタコって?」
「あ、今夜生徒たちと大部屋でタコパしようって誘われた。傑も行こーね」
「タコパかぁ。じゃあ行く前に運動しないとね、あそこで」
「お前耳といい言ってることといい、本当に歳とったね」
口の端にトマトソースを付けた悟が無邪気に笑う。それはお互い様だろ、とトマトソースを指でぬぐってやった。
ペスカトーレ、たまにはカタカナ料理も悪くないな。
━━━━━━━━━━━━━━━
⑦「正統派」
それは、いつの事だっただろうか。本当に珍しく、ただただ緩やかな時間が過ぎ去っていくだけの日。自分たちに任務も無ければ担任教師も出張で出払っており、私とクラスメイトの硝子は各々で時間を潰していた。一応、自習と言う名目の時間ではあったので、私は漫画ではない活字の本を読んでいた。
「夏油」
「ん? どうしたの」
「ん」
「え、何? 雑誌がどうかした?」
そんな折、硝子が不意に見せてきたのは彼女が読んでいた雑誌だった。ティーン女性向けのソレは私とは縁遠いもので、今年の流行色が〜とか、彼と上手くいくには〜とか、そんなような煽り文句が表紙のモデルと共に印刷されていた。
そのうちの一ページを硝子は見開きで差し出してきた。写ってるのは、素人のモデル──いわゆる読モというのか、そんな女の子たちがキラキラと着飾った服を纏い、全身ショットでキメていた。
「お前これどっちがタイプ?」
「珍しいね、硝子がそんな話してくるなんて。んーそうだなぁ。これって女の子のタイプ? 服装の話?」
「どっちも込で」
「込か。……それならこつちかな、右の子」
「あっそ。つまんね」
「つま……えぇ?」
私が指さした方を一瞥した硝子は冗談抜きでつまらなそうに雑誌を自分の元へ戻していった。
私が選んだ子は、肩より少し下まで伸びる黒髪にさほど濃くもない化粧、ロングスカートに少し透けてる素材を使った青のトップスを着た子。夏本番が近い今日この頃、「大好きな彼と海デート」というのがテーマみたいだ。
「いかにも正統派な女選びやがって」
「正統派、いいじゃないか。別に左の子が可愛くないとかではないよ?」
「左はちょっと男にこ慣れた感じの金髪ギャル風女でしょ。多分、隣並んで歩いてても友達感覚で話せるやつ」
「あーうん、それは思った」
「けどお前は、三歩下がって後ろでお淑やかに歩きますーみたいな方を選んだ。冒険心がない奴だな」
「や、硝子にはわからないと思うけど、こういう支えてくれそうな大人しい子っていうのも今は割と貴重だよ? 特にほら……私たちの世界じゃそんな子いないだろう……?」
「は? 私はお淑やかだろ」
「本当にお淑やかな人はね、教室でタバコ吸わないんだよ」
「ははっそれは言えてる」
硝子は指先に挟んでいたタバコを揺らして笑った。私としては硝子も可愛い、というか綺麗なタイプの子だと思うけど、残念ながら私たちの間に愛だの恋だのといった複雑な感情要素は生まれないのだ。
硝子はもう一度雑誌を見ると、ふと私の顔をまた見ているようだった。
「今度は何?」
「いーや、男と女の趣味ってのは違うもんだなと思って」
「どういう意味かな? 硝子は左の子の方がいいの?」
「そーいうんじゃなくて……あ」
「あ? …………あ」
二人だけの空間、教室も廊下も静かだった所に、少しずつ近付いてくる音。次第にそれはこちらに向かってくるにつれ大きくもなり、イノシシでも走ってるのかと思う程の粗暴な足取りだった。そうしてピタッと教室の前で止まった音源は、忙しなく木製扉を力強く開け、私たちに正体を表した。
「傑! 硝子!」
「おかえり悟」
「おー。土産は?」
「ある! 食おうぜ!」
「悟、報告書は?」
「車でパッと書いてきて補助監に渡したから大丈夫っしょ。それよりコレコレ。あっちぃよな〜外!」
もう一人のクラスメイト、悟はそう言いながら手にしていた袋の中から箱を取り出した。
悟はついさっきまで北の方へ一人任務で飛んでいた。最強を自負する彼の力であれば容易い任務で、すぐ帰ってくるわと言って出ていったのが昨日の夕方。まだ二十四時間経過してもない。ほぼトンボ帰り状態で行ったのだが、悟がいないたった数時間、日付を跨いで迎えた朝はとんでもない異常気象に見舞われ、東京は炎天下の真っ只中にあった。
予め悟には、そちらとの気温差が激しいだろうから気をつけて帰ってこいという旨のメールをしたのだが、まぁ見事この暑さは彼の予想を遥かに超える暑さであり、急遽土産先で買おうとしていた饅頭を辞め、ご当地のアイスを買ってきたのだと、箱から出している最中教えてくれた。
「まだアイスって季節じゃないと思ったんだけどよ。これは馬鹿、暑すぎ。東京ヤバくね? 暑さで呪霊消えねぇかな」
「人間が死ぬ暑さなんだから呪霊も死んでておかしくない。もう死んでるけどさ」
「北の方は涼しかった?」
「おう。だからまぁ傑からメール貰った時も、そんな大した暑さじゃねぇだろと思ってたんだけどさ。ニュース見てビビったわ。なんで四十度近いんだよ、おかしいだろ」
「こういう時、せめて私たちの周りだけでも天候を操れるような呪霊あったらなって思うよ」
「ポ〇モンマスターかお前は」
「ポケ〇ン? 何それ?」
「悟には後で教えてあげる。どれどれ、アイスの方は……うわ、何それ高そう」
悟が出した箱はどうやらクーラーボックスの役割を果たしていたようで、中から取り出されたのはどう見ても市販のスーパーに売ってるちょっとお高めのアイスよりもっとしっかりした装丁に、金の英文字で味が書かれたものだった。悟曰く、ご当地アイスではあるらしいが。
「お前これ本当にご当地?」
「そーだって! 店員言ってたもん」
「あー硝子硝子、これ味がそうだ。特産物を使った味ではあるんだけど、多分これを買った店が問題」
「なるほどね。さっすがおぼっちゃま。あたしコレ」
「俺これ」
「それじゃあ私は……これにしよっかな」
まだあるからこれ夜蛾センにもあげようぜと、悟はクーラーボックスを一旦日差しの当たらない場所に置いて戻ってきた。黙々とアイスを頬張っていると、硝子が思い出したようにまたあの雑誌を取り出してきた。
「おい五条、お前これどっちがタイプ?」
「え、何急に。あ〜? どっちも別に……」
「強いて言うならさ」
「強いて……じゃこっち」
悟が指さしたのは私と同じ右の子。硝子はお前ら揃いも揃って、と言いたげな顔で私たちを見たが、悟はそれに気付かず話し続けた。
「別にどっちがいいとかそんなねぇけどさ、そっちの子の方が傑に似てる」
「は?」
「え、お前夏油の事そんな風に見えてんの?」
「ちっげーよ。でももし傑が女になったらこっちって感じしねぇ? 傑が女だろうと男だろうと、俺一緒にいたいからさ。だからこっちかなって、そんだけ」
硝子さん、心底呆れた目で私の方を見るのやめてくれるかな。
悟はこういう事を、時として悪びれた様子も何かを画策している様子もなく言ってのける。さっきまで正統派がどう等と言い合っていた私たちとは全然違う角度で物事を見てくる。オマケにその理由がこんな……認めたくないけど可愛らしいものだと……。私の中の何かが爆発しそうになった。慌てて誤魔化すように私はアイスを持っていた手を悟に伸ばした。
「悟……よしよし」
「んだよ急に! 俺今汗かいてるからあんま触んなよ」
「いいよ気にしない。私も悟が女の子だったとしても、一緒にいたいな」
「当たり前だろ。俺たち親友なんだから、一緒にいるもんなんだよ」
カラッとした笑顔が彼らしく、私の中で嬉しさとも楽しさとも取れない浮かれた感情が沸き立ってきた。これが何かは分からないけれど、せめて悟に勘ぐられないように普通を装った。
「ワーオメデトウー」
「硝子? 何がめでてぇの?」
付き合ってられないとばかりに、硝子は悟の質問を無視してそっぽを向いてしまった。悟は汗をかいたと言っていたけど、悟の白い髪はそれを一切感じさせず、ふわふわとした綿毛を優しく撫でてやった。
「ほら見ろ……男と女の趣味は違うだろ?」
「ねぇそれ、さっきからどういう意味?」
「わかんねぇならもうそれでいいよ」
硝子に言われた意味が分からないまま、私は悟に強請られたポ〇モンを教えてあげながら二人でアイスをつついていた。
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そんな日もあったなぁと、思い返しながら、教団内の一室で私は夏の空を眺めていた。少し外に出るだけで滝のような汗が吹き出しそうな猛暑日、訪れてくる猿共はどいつもこいつも汗臭くて、全身に消臭剤や墨を擦り付けてやりたくなっていた。そんな雑務を今日も終え、五条袈裟を脱いだ私は一息ついていた。
「あ、夏油様ー! ここにいた!」「美々子、走ると危ないよ」
「わかってるってー」
「んん? あぁ二人とも。どうかしたの?」
「あのね、ラルゥがフルーツ搾ったやつ凍らせて、アイスにしてくれたの!」
「これなら夏油様も食べられるかなって……」
「あぁいいね。今日は暑いから、一つ貰おうかな」
「やった! 持って来るから一緒に食べましょ!」
「いいよ」
かつてのクラスメイトを裏切ったあの日、連れ出した双子の少女たちは無事に大きく育った。夏の装いで駆けていく二人の後ろ姿が、ふとあの時硝子が見せてくれた雑誌の二人に重なった。
勿論の事ながら、私は美々子と菜々子にどっちがタイプだとか、そんな下衆な想像はしない。けれど、今になって唐突に、あの時硝子が言っていた言葉の意味を理解してしまった。
男と女の趣味が違う。
「あぁそうか……私は悟に恋をしていたんだね」
どんなに可愛く着飾った少女たちより、私は正統派とは真反対に位置する男を愛おしく思っていた。そんな気持ちに今更気が付くなんて、何もかも遅過ぎる。
あの日あの時の気持ちは、飲み込んだアイスと共に、もう私の中で封をしてしまった。初恋を悟った日に、私は失恋を覚えた。
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⑧「エンゼルフィッシュ」
「エンゼルフィッシュ、初めて見た」
晴れ渡る青空、悟の瞳に負けないくらい真っ青なそれは、私たちを照りつけ燦々と存在を主張していた。沖縄の空は、海と同じで眩しかった。いっそ任務で来ている事を忘れてしまえたらと思ったが、私たちの傍で元気よく声を上げながら、束の間の娯楽を楽しむ彼女達を警護している現実からは離れられない。
私は彼女達から目を離さないようにしつつ、海の家のベンチに座って休憩していた。
「何?」
「ほらあそこ、水槽の中」
悟と並んで座っていたのだが、ふと、海の家の一角に置いてあった水槽に目が留まった。水槽には色とりどりのエンゼルフィッシュが数匹泳いでいた。
「エンゼルフィッシュ、知らない? 何かたまに歌詞の中にあったりするじゃないか」
「歌詞?」
「その度にエンゼルフィッシュってどんな何だろうって思ってて調べたことあったんだけど、生きてるの見るのは初めてだな」
「……エンゼルフィッシュの歌とかあるの?」
「エンゼルフィッシュの歌はないと思うけど……何か歌詞の中出てきたりしない?」
「知らない」
「まぁ悟はあんま音楽聴いたりしないか……」
「は? 俺だって音楽くらい聞くわ」
「最近何聞いた?」
「最近? 家の関係で能楽の、」
「あ、もういいや」
「おい!」
悟は稀に、こういった世間と離れたような育ちの様を見せつけた。流行りの音楽、誰もが手にしたことのあるゲーム機、見た事のあるテレビ番組。悟は、そういう俗世の物に疎かった。暗に「五条家」という家がどういった教育を悟に施してきたのかを察せられるには十分の要素だった。もし悟が少しでもイマドキの事を知っていたとしても、間違っても能楽にエンゼルフィッシュは出てこない。
「あれ、エンゼルフィッシュっていうの?」
「あぁ、そうだよ。熱帯魚の一種で、アマゾン川なんかに生息してるとか何とか。日本じゃ捕まえられないだろうから、ペットショップで買ってきたんじゃないかな」
「エンゼルって事は天使なのか? エンゼルパイ的な?」
「エンゼルパイって……ふふっ、お腹すいた?」
「ちっげーよ。あの姿が天使なわけ?」
「ごめんごめん。でも、あぁやってゆったりと大きなヒレを揺らして泳いでる姿が天使のようだからって理由ではあるみたい。まぁ西洋絵画みたいな天使を想像しちゃうと、そうは見えないよね」
ふぅん、と悟は物憂げに呟き、エンゼルフィッシュに目を向けていた。ポツリと、綺麗だな、なんて言うから珍しくてぽかんとしてしまった。何の返事も出来なかった私だけれど、悟は己の声が小さいこともあったからか、聞こえなかったのかと判断されて怪しまれる事はなかった。エンゼルフィッシュよりも遥かに美しいその眼は、しばらく揺蕩う魚を見つめていた。
その時の横顔を、私は瞼を閉じても鮮明に思い出せるくらい、頭に残っていた。
「……エンゼルフィッシュ?」
そんな私は今、たったひとり、真っ暗な空間を漂っていた。まるで私が水槽の中の魚になった気分だ。光の影もない真っ暗な中、けれど息苦しさも、どこか痛むような傷もなかった。そんなはずは無い、と直ぐに思い直した。
だって私は、ついさっき悟に殺されたのだから。
「って、殺されたなんて言ったら悟が可哀想か。彼は自分の立場上の仕事をしただけだもんね……」
新宿と京都で起こした百鬼夜行、その裏で単身乗り込んだ高専での乙骨憂太との戦いこそが、メインだった。結果として私は敗れ、祈本里香を手にすることなく、何なら片腕を持ってかれた状態で、悟にトドメを刺された訳だが。どう見ても死んだ私が何故、意識を持って今目を開け、エンゼルフィッシュを認知しているのか。というか、エンゼルフィッシュ?
「え、何で……おいというかここは何処なんだ? 私実は同じエンゼルフィッシュだったりする……?」
全くもって状況が理解出来ない。私はこの闇の空間に五体満足の状態で、しかもボロボロだった袈裟が昔懐かしい見慣れた制服に変わっていた。私の視界にはふよふよと数匹のエンゼルフィッシュが我関せずという顔で泳いでいた。いや魚に顔ってのは比喩みたいなもんだけど。とにかく何か情報を手に出来ないかと、そっとエンゼルフィッシュの一匹に触れてみる。避けられることなく、エンゼルフィッシュは私の指に触れられた。その瞬間、私の目の前が闇から光に引っ張られるように空間が歪み、景色が変わった。
「っ何……! ……これって?」
光だと思っていたものはどうやら映像みたいなもので、プロジェクターに映されたもののようにも見える。そこに映っていたのは、雪景色だった。そして少し下の目線位置にいるのは、黒い制服を纏った乙骨憂太。更に映像が動き、正面に向くと彼の同級生たちの姿があった。
「これは一体……?」
何もわからないけれど、私のいとしい親友の姿が見えない事だけが心配だった。まさか死んでるとかは無いだろうと確信していたけれど、全く見えないのも不安になった。
しかしながら。漂うエンゼルフィッシュに手を差し伸べでこれが見えたのだ。試してみる価値はあると、私は他の魚たちにも次々と手を触れた。
そうしてわかったのは、このエンゼルフィッシュたちは全て悟の視界であることだった。
「エンゼルフィッシュ越しに視界を覗き見するなんて、歌詞にもないぞ……」
私が知らないだけであるのかもしれない。猿の作った曲なんて聞く気にもならないけど、俗世は私がどう生きてても流れていくものなのだ。
まぁそんなことはいいとして、私がエンゼルフィッシュ越しに見つめた悟の世界は、良くも悪くも過ぎ去るのが早かった。あまりにも、事を早く進みすぎる。彼の瞳、六眼から見る世界は、確かサーモグラフィーみたいになってると聞いた事があるが、この視界は普通に見えていた。その視界からまるで映画を見ているかのようにのんびりと見ているが、彼が任務を遂行するとしても一瞬すぎて「え? 今本当に祓った?」と、出来ることなら一時停止したくなる位だった。生徒たちと一緒に過ごす時間もかなり少なく……いや、一人例外はいたけど、彼を抜けば目まぐるしく回る悟の生活は、映像越しにでも休めと一言言いたくなった。
「君の領域展開を見るのは初めてだ。へぇ、主観的に見るとこうなってるんだ。絶対受けたくないな」
「悟、そんな人形配っても若い子は喜ばないだろう……」
「蟻を踏むな。いやそうか死なないのか」
「歌姫先輩と探してるのか。上手く見つけられればいいけど」
「渋谷か、今こんなに駅広いの?」
「それ特級だよね? 三級か何かと思ってない?」
「え」
「ちょっと待って」
「私?」
一つ一つエンゼルフィッシュに触れては世界を見通してきた。なのに今、私は信じられないものを見ている。私がいる。袈裟姿で、趣味の悪い傷を額に拵えて、薄ら気味悪い笑顔を浮かべている。声も私だ。
「その声で悟の名を呼ぶな! 何なんだお前、その体は私のか? やめてくれ、本当に……」
柄にもなく、私は困惑した。悟の動揺が、視界越しにも伝わってくるようだった。そうして悟の体が何かに囚われた瞬間、ブツリと私と世界を結ぶ視界は閉ざされ、闇に包まれた。
「クソ! どこだ、どこに……いた!」
私はエンゼルフィッシュを探した。天使のように揺蕩うその姿を、最後の一匹を、私は掴むようにして触れた。
天使は、どこかへ消えてしまった。
「……? 何も見えない……?」
おかしい。触れたはずなのに、闇の世界には何も映らなかった。まさか握り潰した? そんな事で見えなくなってしまうものなのか。信じられないまま辺りを見回そうとした時、ぽんと、肩に何かが触れた。振り返ればそこには、もう居なくなったはずの青いエンゼルフィッシュが一匹。私は恐る恐る、今度は優しく、表面に触れた。
「…………あ」
「……あれ? 傑?」
青いエンゼルフィッシュは、あろう事か私の唯一無二の親友の姿に変わった。本人もぽかんとしており、現状を掴めていないようだった。
「き、君さっき何か、私じゃない何かに捕まって……!」
「あーうん、そう、お前じゃないことはわかってたよ。誰だって聞いたら、傑の頭がパッカーンてね。凄かった、缶詰の蓋みたいに、パッカーンて!」
「笑ってる場合じゃないだろう! 大体君、君……なんだその姿……」
「それは傑もでしょ。何若作りしてんの? 学生気分?」
私と同じで、悟の格好も高専時代と相違なかった。若くなったかどうかと聞かれると、悟は殆ど変わっていないけれど、それでも格好だけ見れば、青い春を過ごしたあの時と同じだった。
「外の世界はどうにかなるよ。僕の優秀な生徒たちが助けてくれるって」
「私はずっと、ここから君の視界で世界を見ていて……」
「なにそんな事してたの? やだちょっと覗き見〜?」
「ふざけてる場合じゃ……」
「ないのはわかってるんだけど、ね。獄門彊持ってこられるとは思ってなくてさぁ。しかもお前の姿持ってくるなんて卑怯だよな。そりゃあさすがの僕だってちょっとはビックリしちゃうよ。僕あの後虚無空間に閉じ込められたはずなんだけど、ふと気がついたらここにいてさ。ここどこ?」
「……それがわかっていたら私だってどうにかしてたさ」
「なるほどね。じゃあ傑一人じゃどうにもならなかったってわけね」
「……私は君に、及ばないと?」
「んな事言ってないじゃん。ひねくれてんな。傑ぐらい強くってもどうにもならないと思ったんでしょ? 僕が来たんだから、どうにかなるよ、二人ならさ」
「……!」
悟がゆっくりと私の手を取った。その動作は、どこかあのエンゼルフィッシュたちによく似ていた。
「もうどこにも、行かないでよ」
「さとる、」
「お前の死体が何だか使われててさ、僕も気分悪いんだ。生徒たちも助けたいし、ここから出るのに手伝ってよ、相棒」
「……ハハ……全く、君って奴は……」
絡められた指を離すことなんて出来なかった。エンゼルフィッシュはもういない。いるのは、私を天国へも地獄へも連れて行ってくれる青い天使だけだった。
━━━━━━━━━━━━━━━
⑨「ジェットバス」
その日は珍しく、特級二人が組まされての任務だった。場所は都内某所、移動時間も大してかからず、且つ久しぶりに親友と組めたことに悟も傑も嬉々として任務をこなした。いつものように新幹線や高専の車に揺られて長旅をする辺鄙な場所でもなく、大都会の中の、少しだけ奥まったソコでの任務は、大暴れは出来ないものの二人の実力からしては力を持て余してしまう程、呆気なく終わった。
ただ少し違ったのは、依頼人の態度だった。
呪術師という職業(?)柄、かなり特殊な能力を扱う彼彼女らの事を人扱いしないような物言いを放ってくる輩も少なくはなかった。自分の目に見えないナニかが弾け、蠢き、身の回りを歪ませていくのだ。そりゃあ一般人からしたら夏の心霊番組を見てるよりよっぽど精神的にも堪えるだろうと、一般人出身の傑にはすぐにでも察せられた。
しかしながら、この世に生まれ落ちた瞬間から人生前途多難であり順風満帆でもある親友からしたら、その態度は癪に障るものらしく、大人しくしようと努力はしているが、口が達者な依頼人相手だと、すぐ手が出る(殴るでは無く相手に見えない呪力での制裁。ある意味卑怯である。)ことが傑のココ最近の目下の悩みであった。
それが今日はどうだろう。
「いやぁ、本当に助かりました。御二方のおかげでうちの旅館もこれで風評被害に合わずに済みます……」
「いえいえ、私たちは成すべき事を成したまでです」
「傑、帰ろう」
「コラ、ちょっと待ってな」
今日の依頼人は、現場近くに旅館を経営しているという男だった。見た目も態度も至って普通の男であり、むしろ平身低頭であるくらいだ。悟が無関心である、つまるところ不機嫌でも無いということは、それだけ男がこちらに対して丁寧な人間である事の証拠であった。
「では、そろそろ。迎えも来ると思うので」
「あぁ、そうですね。何か御二方にはお礼をしたいのですが……」
「んなの要らねぇよ」
「悟、親切に言ってくださってるんだから、そんな言い方は……」
「お気になさらず。あぁそうだ、私ね、実はもう少し都心の方ではホテルも経営してましてね……」
「はぁ」
男は徐に懐から一枚の紙を取り出した。名刺程のサイズのそれは、ただの紙かと思いきや、どうやらカードの様だった。
「お若い御二方には、必要なものかと思いますので、どうかこちらお納めください。お使いになる機会もあるでしょうからねぇ」
「何これ? クレカ?」
「そんな訳ないだろ。これは……あぁ……ありがとう、ございます……」
「?」
受け取った二人のうち、傑は少し見ただけで何かを察したようだ。悟とは言うと、正面に英字で何か書かれた紫色の毒々しい色をしたカードにこれっぽっちも検討がつかないようだった。男は相変わらず愛想良く、しかし傑から見れば随分と下卑た笑顔で笑っていた。丁度その時、迎えに来た補助監督からの連絡が入り、傑と悟は男の元を後にした。
「な、これ、何?」
「うーん、悟には必要ないかも」
「何で? やっぱ金?」
「君にとって必要ないもの金なんだ。このボンボンめ」
「えっ何で俺怒られてんの?」
「怒ってないよ。……とりあえず、財布にでもしまっておきな。家の人に見られたら取り上げられるかもよ」
「これがぁ? やべーもんじゃん。呪物かよ」
「まぁある意味ね。全く、あのエロ親父……」
健全な男子高校生である夏油傑は、少し前までは健全な男子中学生だったのだ。ただしそのルックスと性格から、周りの男子より少し、いやかなり、女性たちからは黄色い歓声を受け続け、その腰を抱いてきた、健全な男子だった。その彼がこのカードの意味する事を理解出来て、隣の顔だけ見れば人間国宝の男が知らないのか。それは単純に、育ちの違いと言うやつなのだ。
このカードは、少なくとも悟と一緒の時は使わないだろうなと呑気に考えていた傑だったが、その考えが覆されてしまったのは、たった一週間後の事だった。
「悟、早く!」
「へーへー。もうこんなに濡れてちゃ急いでも意味無くね?」
「馬鹿野郎下着が濡れるまでが勝負だよ」
「そうなんだ……つっても、雨宿り出来るとこ、あんの?」
真夏だと言うのに、記録的豪雨。雨風嵐のオンパレード。人間は確も弱くあったかと思い知らされるような自然の摂理に圧倒されつつ、そんな事知ったこっちゃないと容赦なく発生する呪霊達を、本日もバッタバッタと祓い取り込み抹消した二人は、呪霊を圧倒出来たとしても自然には勝てなかった。
補助監督もこの嵐の中車を走らせてはいるらしいが、渋滞にハマりいつ来るか分からない状況。もう待てないと駄々を捏ね始めた悟が何の算段も無く走り出したのがついさっきのこと。ようやく捕まえた悟を引きずるように、適当に屋根のある所へ避難した傑は、この顔だけ男を引きずってどこに避難しようかと思考を巡らせていた。
「なー傑、すぐるってば」
「何だ。私は今誰かさんのせいでギリギリの下着のままどう無事にこの嵐をやり過ごせるか考えているんだけど」
「あれ、あの看板」
「看板?」
「なんかどっかで見たことある気がしねぇ?」
純粋に向けられた蒼の瞳と、瞳の持ち主である人間のしなやかな腕がまっすぐと雨の中の一方向を指さす。看板。それは確かに雨の中でもよく見えるネオンの光に囲われた看板で、凝視してようやく思い出した名前に傑は頭を抱えた。
「いや……それだけは……それだけは……」
「何? 何あれ? ゲーセン?」
「や、違くて……」
「あー! 思い出した! あの旅館のおっさんがくれたカード! 俺今持ってるぜ、使える?」
「使えるけどさ〜〜〜!」
何律儀に持ってんだ、何ワクワクしてんだ遠足前の子供か、と傑の頭の中はツッコミの言葉でいっぱいになった。しかしそれも現実逃避に過ぎず、そして今濡れ鼠である自分たちの身を清め芯から冷え始めた身体を温めるには、悟の持っているカードを使うしか無い。こうなりゃヤケだと、傑は悟の手を握りまた雨の中を引っ張り走った。
「わっ何だよ!」
「行くよ! カード用意して!」
「え、あそこ行くの? あそこって何?」
「何って……」
ラブホだよ。ラブホテル。
そう傑から告げられた悟の頭の中に、いつか未来の自分が展開するはずの宇宙が広がった。悟がセルフ展開をしている間の傑こ行動は早かった。無人の受付で悟が用意したカードをスキャンして、部屋の写真が飾られている沢山の中から、一つボタンを押す。そのままボーッと立っていた悟の手を「行くよ」と引いて、慣れた足取りでエレベーターに向かった。連れられた部屋は最上階の一番端。カシャンとロックが解除された部屋に、悟は半ば押し込まれるように入れられた。
「…………漫画では見たことあるけど、ほんとにあんだな」
「そりゃね」
「てかお前、慣れてね?」
「……そんな事ないよ。さ、お風呂入ってきちゃいな、いくら最強と言えど風邪ひくよ?」
「風呂? ……傑君のエッチー!」
「外出されたい?」
「冗談だっての。お前は?」
「悟先でいいよ」
スマートな先導に、悟が付け入る隙はなかった。あれよあれよと風呂場に入れられ、続いてポンっと渡されたのはバスローブだった。一般人向けに作られたそれは、当然のように悟の足の長さに順応していなかった。
「……ま、入るか」
全面透明のガラスになった風呂場は、悟の実家では絶対見られない景色だった。これに何の意味があるのか、変なところで純粋培養な悟にはわからなかった。ただ、バスローブは小さいくせに浴槽は悟が足を伸ばせるくらい大きかった。テンションが上がった悟は、早速湯を張って温かな波に体を沈めた。悟がふと壁のボタンに気がついたのは、そんな時だった。
一方で、慣れてると見抜かれた傑は早々に制服を脱いでハンガーに掛け、とりあえずバスローブを羽織ってソファで落ち着いていた。
あのカードは言わば優待券のようなものだった。一日、自分が経営しているラブホテルの宿泊を許す券。『お若い御二方には必要なもの。使う機会もあるでしょうからね』と言ったあの男。今度あったらあの時調伏した呪霊を頭から浴びせてやろうと傑は静かに決意した。自分は良い、でも、傑の親友は、突然どこか幼い考え方と知識を出してくる。今日このラブホも知識としか知らなかったし、きっとあの全面透明ガラスの風呂場の意味もわかってないんだろうと容易に察せられた。
その時だった。
「うぉあああああああっ!」
「悟!」
突如として響いたのは、悟の絶叫だった。戦いの最中でも聞いたことないような咆哮。傑は立ち上がり風呂場に駆け込もうとしたが、それより先に現れたのは悟の方だった。
「傑!」
「悟! どうしたの!」
「ふ、風呂が! ドバババババって!」
「何!」
「だぁから! ボタン押したら風呂がドバババババってなってゴーーッてなって俺がおわぁって!」
「いやほんとに何?」
髪だけじゃなく全身の肌も真白な悟が、当然のように全裸で現れ隠すべきものも隠さず白さを保ったまま傑相手に全開でいることに気が付いてないのだろうか。そんな事は気にせず、今度は悟が傑の手を引き風呂場に連行した。
「このボタン! 押せ!」
「は〜?」
渋々押すと、浴槽に溜められた湯が勢いよく泡立つように震え出した。あぁ、と傑は納得した。
「ジェットバスか」
「ジェットバス?」
「えっ悟知らない?」
「俺ん家の日本家屋にこんな魚雷付きの風呂あると思ってんの?」
「魚雷て。いや無いだろうけど、五条家なら何か高そうなホテルとかで会合とかしてそうじゃん。そんでそこのホテルの部屋に付いてるとかさ」
「んなのねぇし、大体会合はうちでやるから、わざわざ俺が出向くなんてこと殆どしない」
「聞くんじゃなかった親友のボンボン自慢」
「自慢じゃねぇ!」
「ハイハイ。あー、ジェットバスってのはさ、こうやって勢いよく泡が出て、腰とか刺激してくれるんだよ。ずっと当たってると気持ちよくなってくるよ多分」
「マジ?」
「マジ。ほらいつまで裸でいるんだ。ちょっと浸かってみな」
「傑見てて」
「何で?」
「見てて」
「マジか……」
女顔負けの白い肌が妙に色目かしい。新手の修行かと思いつつ、傑は袖を引かれるまま浴槽へ近づいた。再び湯に身体を沈めた悟は、恐る恐る壁のボタンを押し込んだ。瞬間、水を割る轟音と共に悟の腰目掛けて泡が放たれた。ジェットバスの実力をこれでもかと発揮している最新式の浴槽は、最強をも滑落させた。文字通り、本当に沈んだ。
「さ、悟!」
勢い余って尻から滑ったのか、悟の身体が頭の先まで浸かりそうになったのを慌てて腕を引っ張り引き上げた。あまりの衝撃に呆然としていた悟だつたが、心配して揺さぶる傑の目を見ると、ハッとしてその蒼を輝かせた。
「すげぇ! 傑すげぇこれ! 俺ん家、いや高専に欲しい!」
「それは無理だろ。浴槽無いだろうちは。大浴場じゃないか」
「じゃあ大浴場につけよう!」
「バカ言わないでよ。ねぇ私もやりたいからちょっと早く出てよ。身体温まったろ」
「やだ! まだやる! まだ気持ちよくなってねぇ!」
「ここはラブホでしかも私ら二人きりの時に言うセリフかなぁそれは! 誤解を招きそうだ!」
「誰に?」
「……自分の心に?」
はぁ? と悟が首を傾げる。湯に浸かった下半身は揺れる水でその先はぼやけているが、上半身の白さと、二点だけ色の違う胸元がいやに傑の目に毒だった。
じゃあ一緒に入ろうぜ、バカ言ってんじゃないよ。そんなやり取りでさえ、少しだけ胸が高鳴った。
そうしてジェットバスが気に入ってしまった悟は、傑が貰っていたもう一枚のカードでまた来ようなどと、傑の気持ちも知らぬまま言ってのけるのであった。
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⑩「自爆」
いくら最強イケメン呪術師の俺でも、これには勝てん。
これとは、今俺の頭のてっぺんから足先まで照らしてくる夏の日差しのことだ。ついさっきまで冷房の効いた補助監督が運転する車の中にいたはずなのに、外に一歩出てみればこの地獄だった。今日はひとり任務。普通の奴なら丸一日かかる任務を、俺は半日で終わらせて速攻車を走らせ(半ば脅して)帰ってきた。朝から出たから時刻はまだ昼過ぎだった。
東京都内にあるはずだが、木と山しか周りに見えない辺鄙な所にある高専の外道は長い。校舎に向かうまでの道がこんなにも長いものなのか。普通の学校に通ったことがない俺にはわからない。
帰ったら思いっきり水を浴びたい気分だ。シャワーを頭っから被って体の熱を逃がしたかった。きっと俺の親友は、これを知れば「夏だからってそれは良くない。風邪ひくよ」なんて説教じみた言葉をこ零すのだろう。
そう、親友。かれこれ一週間は顔を合わせていない。ぶつかることも多かったけど、大切な俺の親友、夏油傑。
「あいつ、元気かなぁ」
ジリジリ照りつける太陽が、脳を焼き切るようだった。さっきから道の端に干からびたミミズが数匹いるのを見た。最近の傑はそんな感じだった。いやミミズっぽいって訳じゃなくて、干からびているような。
全てはそう、あの護衛任務の後からだ。俺が名実ともに最強の名を冠するようになった、あの任務。傑はあの後から、毎日何かを思い詰めるような顔を俺の前でもするようになった。前からどうでもいいことから大切なことまで頭を使って悩まずにはいられないような奴だったけど、最近はそれも顕著で、俺はそれが少し寂しかった。
お互い特級になってからは特にだが、任務で一緒に組まされる事がとんと減った。顔を合わせるペースも当然の事ながら減っていき、同じ学校、同じ寮に住んでるはずなのに距離が離れていく感覚だ。だからこそ、離れていた時間が長くなるにつれ、傑の表情が少しずつ変化していってるのが見て取れてしまった。
「……俺にも話せないことなんかな」
俺たちは二人で最強なのに。
どうしてだろう、もしかしたら俺がなにかしてしまったのか?
いつの間にか俺の足は炎天下で止まっていて、額から更に滝のような汗が出ていた。顎を伝ってポタリと落ちたところで軽く頭を振って気を取り直す。校舎はもう少し先だ。俺は目当てのものを取りに行く為に、寮に帰る前にわざわざ足を運んでいた。
「あーあちぃ。さっさと取って帰るか」
と、言うのも、机の中に置きっぱなしにして任務に向かってしまった為に今取りに来たって訳だ。元々生徒も教師も少ないこの学校では、誰かとすれ違う方が少ない。特に今なんて昼過ぎだ。任務に出払ってるやつも多いし、教師陣だっていち呪術師であるのだから当然任務に出ている。俺たちの担任もきっと今日は任務中だろう。
考え事をしながらもちゃんと足を動かしていれば、案外すぐ目的地には着くもんで、すぐに教室へたどり着いた。ガラリと木製の扉をスライドさせ中を見るけど、案の定誰もいない。俺の身長に全く合ってない机の中を覗き込めば、あったあった、目当てのもん。
「……やっぱ誘うのやめとこっかな」
ペラっと机の中から取り出したのは、二枚の薄っぺらな紙。盆時期に渋々帰省した実家にいたやつに貰ったものだ。夏の終わりに行われるという花火大会の特等席のチケット。毎年大々的に行われ、中継も繋げられる程有名な花火大会が今年も開催される。その花火を一望出来る特等席のような、まぁ簡単に言えば満開の桜が楽しめる花見の席を確保してくれてるような特別なやつで、四枚貰ったのだ。
最初は硝子も誘って三人で行き、一枚は別にいいかなんて軽く考えていたのだが、傑に話すより前に先に話した硝子が少し考えるような素振りをして、俺の手から二枚チケットをひったくった。
「お前ら二人となんてお断りだね。私は歌姫先輩と一緒に行くから、お前らは二人で行け。仲良く手でも繋いでさ」
いや貰ったの俺なんだけど。という俺の言葉は硝子の耳を右から左に抜け、チケットだけ取られた。そうしてこの話を傑にしようとずっと思ってたんだけど、中々会うことが出来ず今に至る。前はすぐにでも傑を誘いたい気持ちでいっぱいだったのに、今はその気も引けてくる。もしかしたら俺が原因で悩んでるかもしれないってのに、それで花火大会なんて誘われても傑は困るんじゃないか、なんて。
「あーあ! 俺らしくもねぇ! ……帰る、か……」
外を歩いていた時よりも更に嫌な方向へ思考は働いていた。我ながららしくないな、とため息が思わず出た。チケットを片手に、行きと同じく誰にも会わない道をひとり歩いた。
寮に帰ってきて部屋の扉を開くまでに、そっと隣を見やった。傑の部屋だ。おやつ時と呼ばれる時間であるからか、まだ部屋の電気をつける必要がなく、当然傑の部屋も電気の有無では不在状況を確認出来なかった。結局隣の部屋をノックすること無く部屋に滑り込む。汗で気持ち悪い服を脱ぎ捨てて、チケットは適当に机の上に置いてシャワーに閉じこもった。俺の望んだ通り、頭から水を被った。
「……すぐる」
冷えた水が心地良いような、心まで冷やすような。どこか耳の奥で、俺を叱る傑の声が聞こえたような気がした。
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コンコン、と自室の扉をノックされる音が聞こえた気がした。ふっとそう思って目が覚めた。あの後、シャワーを浴びてからの記憶が少し曖昧だった。どうやらまたも適当に投げ捨てていたシャツを身につけ寝落ちしていたようだった。まだ覚醒仕切ってない頭を擡げていると、コンコンとまた扉の音が鳴った。どうやら俺は夢を見ている訳じゃ無さそうだ。
「……誰?」
「……悟? ごめん、今大事?」
「え、あ、すぐる……!」
俺は慌てて駆け寄り扉を開いた。そこには朝からずっと俺の思考をジャックし続けてきた張本人が立っていた。遠慮がちにしていたあいつが、出てきた俺の顔を見て何か納得したように一瞬顔を歪めた。
「悟、ごめん。君寝起きだろう? 起こしちゃった?」
「や、大丈夫。どしたん?」
「いや、私もさっき任務から帰ってきたんだけど、夜蛾先生が悟はもう戻ってるみたいだって言っててからさ」
「あー、昼過ぎには帰ってきたわ。何、もしかして寂しくなって俺の顔見たくなっちゃった?」
「うん」
「そっかそっか! 俺の顔見たく……ん?」
バッチリ疑問符を語尾に付けて、俺は傑の発言を繰り返した。本人は少し真剣な眼差しで俺を見ていた。そして一呼吸置いて、決心したように聞いてきた。
「悟、花火大会、誰と行くの?」
「……え?」
「硝子から聞いたよ。花火大会のチケットか何かがあるんだって? 硝子は歌姫先輩と二人で行くからチケット貰ったって言ってたけど」
「いやあれは貰ったっていうより奪われたって感じで」
「そんな事は今どうでもいい」
「はい」
「あと二枚あるでしょ? そのうち一枚は君の分として、あと一枚、誰と行くの?」
いや紛れもなくお前を誘おうとしてたんだけど。そう言えばこいつはどんな反応を見せるだろうか。喜ぶか、驚くか?
どうしてか口を開く度に不機嫌になっていく様子の傑に戸惑いながら、その圧に耐えきれずすぐに口を開いた。何こいつ、呪霊相手にしてる時と同じ覇気を感じる。俺は呪霊か?
「いや、その」
「誰」
「普通に……お前誘おうと思ってたんだけど……」
「は?」
「は?」
いやなんでキレられなきゃいけないわけ?
傑の眉間にシワが超寄ったのを皮切りに、俺は思っていた事をぶちまけてやった。くらいやがれ!
「は? じゃねぇよ! 普通にお前誘おうと思ってたよ!」
「いや全然誘ってくれなかったじゃないか! もうこの話を硝子から聞いたの一週間くらい前だぞ!」
「仕方ねぇじゃん全然会えなかったんだし!」
「メールとか電話でもいいだろ!」
「だってお前! ……お前最近顔怖くて。何か悩んでんのかな、もしかして俺がまた何かしちまったんじゃって思ったら……ンな簡単に誘ったり出来ねぇよ!」
「は? 今更何カマトトぶってんの? デリカシー無いのはいつもの事なんだから、気にせず声掛けてくれればいいじゃないか!」
「ンだよそれ! お前のこと考えてやってんのに! いつもは場の空気読めとか言うくせに。そんなに花火大会行きたいならお前だって好きな奴とかいんならそいつと一緒に行きゃいいだろ!」
「だから言ってんじゃないか君に!」
「え?」
「あ」
「……ん?」
「今のナシ」
常時フル回転の俺の脳みそが、一瞬言葉を理解出来なくて止まった。伏黒甚爾と戦ってた時と同じような感覚。それに匹敵するって相当なんだけど、傑の顔がどんどん首から額にかけて赤くなっていくのを見てハッとした。
「……えっ、え〜! 傑ってもしかして俺の事!」
「静かにしてくれないか」
「ンだよ……なんだよ! 言えってそれこそ! 大好きな俺が花火大会誘ってくれなくて、ヤキモチしたってことだろお前!」
「静かにして?」
「えへへ、なんだよバカ! 心配して損した!お前ってさぁ」
「静かにしろ」
「はい」
傑に怒られた。まだ顔を赤くしている傑はハァとため息を着くと、ん、と手を差し出してきた。俺は怒られた手前、喋らずその手にポンと自分の手をのせた。
「いやお手じゃない。チケットないの?」
「……喋っていい?」
「いいよ」
「あるよ」
「頂戴。好きな人と行きたいんだ」
「ふっ、開き直ってる」
「自爆したからね。もういいよ。それにさ」
傑が、傑の手が、俺が重ねた手をギュッと握ってきた。デカくて分厚くて、いつもは呪霊玉を握る手が、俺の手を心做しか優しく包んできた。
「悟だって私の子、好きだろ?」
「……はぁい」
傑は自分の自爆に俺まで巻き込んできた。観念して返事をすれば、ふふっとさっきよりも格段に上機嫌になった傑が笑いだした。
久しぶりに見られた笑顔は、少し前の傑とおんなじ笑顔のままだった。つられて俺も、笑ってしまった。