夏五ワンライまとめ〜祓本ver.〜夏五ワンライ祓本ver.目次
①「バーメイド」なかよしこよしのドッキリ企画
②「処女」ラジオ収録で大暴れするトーク
③「ストーリーテラー」一人でのラジオ収録日
④「恋する」ガチ恋勢に悩む(半ギレ)傑
⑤「時間制限」二人がまだ学生だった頃。きっかけ
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①「バーメイド」
「傑が浮気した!」
「してないってば」
もう何回目の問答だろう。私の愛しい相方兼恋人の彼は、真白な頬をふくふくとさせ、赤い目元を潤ませながら私を問い詰めていた。
きっかけなんて些細なこと。私が着ていったシャツから知らない女物の甘い香水の匂いがすると、風呂上がりの私に向かってシャツを持って抗議してきたという何とも古典的な展開。勿論、誓って浮気なんかしてない。こんな可愛くて美人で少しえっちな恋人がいて、他のメス猿になんか興味を向けるわけが無い。
まあ、私の恋人、男だけど。
「だって最近も帰り遅いしさ」
「仕事の付き合いで飲み会に誘われて……君が飲めない分、私に声が掛かるんだ」
「じゃあ僕も飲む」
「馬鹿やめな? 君の場合次の日人として使い物にならないことが約束されてるくらいの下戸じゃないか」
「でもでも、だって!」
「だってじゃないよ。私は平気だし、当然だけど浮気もしてない。もしかしたら、今日行ったバーの店員さんかな。バーテンダーが女性で、私たちのファンだって言って色々と話してたんだ。あぁ、勿論スタッフさん達も交えてだから、サシでとかじゃないよ?」
「ンン〜!」
事実を説明しているが、納得しなさそうだ。誤魔化すつもりはサラサラないが、ヨシヨシと恋人、悟の銀糸を撫でてやれば、ふくふくの頬は少しだけしぼんだ。そのまま百九十を超す体躯で体重をかけられながら抱きつかれたが、体幹トレーニングを欠かさない私にとっては造作もない事。もう一度ヨシヨシしてあげて、その日は不服そうだったけれども話は終わった。
終わったはずなのだが。
「悟……?」
「誰それ? 私はユキよ」
「ユキ」
「ユキちゃん、今日はよろしくね」
「ハァイ!」
何がユキだ、どう見ても五条悟だろう。
二十連勤の目がついに狂ったのか、一瞬本気で我を疑った。
今日も今日とて、収録終わりにスタッフたちから飲みに誘われた。悟と二人で組んでいる漫才コンビ、『祓ったれ本舗』が持つ深夜番組『祓本営業中』の収録だ。倫理的にまずくなければ何でもやります的なコンセプトの番組は、良くも悪くも私たちの蛮行を深夜帯とはいえお茶の間に垂れ流していた。今日も無事に生きて終えた収録の帰り、いつも通り私に声がかかった。
「五条君は飲めないからお家かな」
「バッカにすんじゃねーよ! 僕だって頑張れば飲める!」
「いやいや五条君、酒を頑張るって言ってる間はいつまで経っても飲めないって!」
「腹立つ〜! 傑! 早く帰ってこいよ馬鹿前髪!」
「ハイハイ、けど明日はようやくオフなんだから、早めに悟は寝なね」
「子供扱いすんじゃねー!」
別れる直前まで、悟は駄々を捏ねていた。けれどいくら駄々っ子になったところで悟の五臓六腑が酒に対して強化バフを得る訳もなく、大人しくマネージャーの運転する車で帰ったはずだった。
少し仕事の電話をするという監督を数分待ってから、私たちは行きつけのバーに足を運んだ。そう、悟が先日「浮気した!」と難癖つけてきた時のあの店だ。
別に疑われるようなことは一切ないんだからと、私は堂々と店まで来た。扉を開ければ前にもいたバーテンダーのお姉さん、ハルさんが私たちに気が付き緩やかに手を振ってくれた。私もそれに愛想笑いで返し、ふと隣を見たところで凍りついた。
しなやかに巻かれた長い銀糸がサイドに垂れ、残りは私が普段しているように団子結びにされた頭、女性専用のバーテン服に完璧なメイク。バカみたいに背が高いのは隠しきれず、むしろ少しヒールのある靴まで履いて更にデカくなったスレンダー巨女、基女装した悟がいた。
「オー! ハルちゃん、隣の子新人? 可愛いねー!」
「えぇそうなの。今日から働いてもらうユキちゃんです。美人さんでしょ?」
「えー、ハルさんの方が絶対綺麗ですよぉ。ぼっ……私なんて身長高いし女っぽくないしでぇ」
「そんな事ないわ、身長高いなんて、スレンダーでカッコイイじゃない」
今僕って言いそうになったじゃんか。
いつものツッコミのように声に出そうになった。しかし奇妙なことに、私以外の誰もが目の前の女装した悟を「美人でスレンダーなユキちゃん」だと認識している。誰も悟だろと突っ込まない。私がおかしいのか? 段々そんな気になってきたところで、いつも座っているカウンター席に案内された。
「最初、何飲まれます?」
「ユキちゃんも作れるの?」
「もっちろん! 今日までハルさんに扱いてもらいました!」
「えぇ。ユキちゃんはもう立派なバーメイドよ」
「へ〜。じゃあ俺マンハッタンにしよっかな。夏油君は?」
「え、あぁじゃあ……ユキさんのおまかせで」
「へ? おまかせ?」
「攻めるねー夏油君。五条君にまた浮気だーって言われちゃうよ?」
「ハハ……別に疑われるようなことはしてないので……」
私の言葉に笑った監督とハルさんをよそに、悟はぽかんとした顔をしたあと、ぷくっと頬を膨らませてた。あぁそんな顔も可愛いなと思いつつ、他のスタッフも各々がカクテルを注文する。二人のバーメイド(仮)はひとつずつ着手していく。
これが意外にも、悟……や、ユキは器用にカクテルを作っていた。さすがにプロのハルさんには劣るが、それでも出来としては見た目も味も完璧なものを提供していた。そしてこれはわざとなのか、私のは最後に回された。
「お待たせ致しました、ナイトキャップでございます」
ユキがテーブルに差し出してきたのは、オレンジ色がバーのライトに照らされ美しく輝くカクテルだった。色の通り、オレンジの匂いが香ってくる。
「ナイトキャップ、知らないな」
「結構度数強いお酒よ。ブランデーとホワイトキュラソーをベースに、卵黄を入れたお酒なの」
「へぇ。甘めな感じするね。どうしてこれを私に?」
ユキに真っ直ぐ視線を寄越せば、バチリと目が合う。目が合った瞳はいつもの蒼ではなく黒だった。恐らくカラコンでも入れてるのだろう。少し慌てたように目を逸らされ、それから静かにカウンター席の上にある卓上カレンダーを指さした。
「カレンダー?」
「日めくりか。へー、毎日違う酒の写真だこれ!」
「それ、その日の誕生酒が写ってるんですよ」
「誕生酒?」
「ほら、誕生花とかよくあるじゃないですか。お酒にもそういうのあるんです」
ハルさんが丁寧に説明してくれる。横からユキが監督からカレンダーを奪い取り、パラパラと捲る。トン、と置かれたのは二月三日のページ。
「夏油さんの誕生酒がナイトキャップなので、それにしました」
これが俗に言うしたり顔というやつなのか。
ユキがフフンと効果音が付きそうな顔で私の反応を煽った。まぁ確かに、酒が飲めない故に殆ど興味も示さない悟からしたら趣向を凝らした演出だろう。
「へぇ、そんなのあるんだ。嬉しいな、私のために作ってくれた上に、誕生日まで調べてくれて」
「え? いや元から知ってるし」
「どうして?」
「……ハッ、いや、その、ハルさんがファンだから! ぼ、私も知ってて!」
上手く躱されたか。慌ててハルさんを指さしたけど、周りも笑いを堪えていて、どうやら私が疲れている訳では無さそうだと安堵した。ユキの白い肌はアルコールに酔わされたように赤かった。
この時はまだ、その赤みが照れから来るものかと思っていた。が、しばらく談笑していると、目が虚ろ気味になり、どこか上の空な返事が返ってくるようになってきて、本当に酔ったのだと早々に気が付いたのは私だけだった。
「ユキさん? もしかして酔いました?」
「えぇ、ユキちゃん飲んでないよね?」
「お酒に弱い人は空気だけで酔うこともあるんです。ユキさん、少し座ったらどうです?」
「ん〜、酔ってないよ?」
「あらあら、それは酔ってる人が言うセリフよ」
ハルさんに手を引かれ、ぽやっとしたユキが私の隣に座った。香水を撒いていない体からは、カクテルの甘い匂いと私のよく知る「五条悟」の匂いがした。
カウンター席の正面、店の壁にあるたくさんの酒瓶が私を見ていた。
「あー、すみません、私今日はここで」
悟の手を取り立ち上がろうとすると、監督やスタッフ達の間から囃し立てる様な歓声が上がった。
「おー? 夏油君送り狼かー?」
監督が発破をかけるように発せられる。隣の悟は顔を伏せて黙っている。私はそんな悟の腰を抱いて立ち上がらせる。私より高い長身が勢い余ってよろけそうになる。その拍子に、悟の顔は上がった。
「えぇ、そうですね。こんな美人でセクシーなバーメイドの顔、全国放送できないでしょう? 何より、私が見せたくない」
監督達とハルさんに向かって言えば、誰も声を上げる者はいなかった。ただ静かに、照れたであろう悟の、はく、という小さな息遣いだけが上から聞こえてきた。
「番組の企画か知りませんけど、放送する時は編集したの一回見せてくださいね。ユキ……いや、この悟は全国向きの顔じゃない」
お、お前ー! なんて隣から叫ばれ耳が痛いが、無視して腰を抱いたまま歩く。こっちだって先日浮気の疑いをかけられて少しはショックだったのだ。こうなれば、人前で堂々と「私は君のものだ」と証明すればいいのだろう?
今日は絶好のタイミングだった。酒瓶の隙間から隠しカメラを目視出来た瞬間に、私はこれが悟による番組のドッキリ企画兼、先日の喧嘩の報復なのだと悟ったのだ。
「……ねぇ監督、あの二人『ガチ』って噂、ホント?」
「……いや〜……知らなかったけど、これは『ガチ』だねぇ」
「あらやだ、いいもの見させて貰っちゃったわ!」
残されたスタッフ達がその後どうしたかは知らない。店を出る前にハルさんの明るい笑い声が聞こえてきたのを最後に、私は送り狼となるべくバーの扉を閉めた。
後日、無事映像はほぼノーカットで使われ私はキレた。
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②「処女」
「ヤバい俺、処女なくしたわ……」
祓ったれ本舗が白い方こと、五条悟がそう呟きながら楽屋に入ってきたのは、毎週深夜に放送されているラジオの生放送直前だった。さてそろそろ収録時間が迫っているというのにあの相方は何をしているのかと、祓ったれ本舗が黒い方こと夏油傑が案じ始め、席を立とうとしたまさにその時の帰還だった。そんな事を呟かれた夏油の表情は、宇宙の全貌を目の当たりにした猫、はたまた梅干しの如くしわくちゃに顔を歪めた黄色いネズミに負けないような、何とも言えない表情となった。
「さ……え、しょ……?」
悟、え、処女? が訳である。
「や、これはマジで……。まぁいいや、もう時間だろ? 行こうぜ」
「まぁいいや? 正気か?」
今の今まで待っていたのは夏油の方だと言うのに、立場逆転、五条の方が先陣切って楽屋を出ていってしまった。机の上には彼の分の台本が放置されていた。五条がこのラジオで台本を持っていたのは最初の頃だけだった。
もちろん、台本には本日の曲や進行の大まかな段取りだって書いてあって、夏油は毎回きちんとそれに則って、話が脱線しやすい相方の舵取りをしていた。
しかし今日の夏油は、五条と同じく台本を机の上に放置して来た。
「それでは本番! さん、にー……」
ディレクターの合図と共に、ラジオ開始のオープニングが流れ出す。時刻は深夜二時、金曜の夜、すなわち日付が変わって土曜になっているこの時間帯だが、案外聞いてくれている人間は多いもので。祓ったれ本舗のファンの間では「深夜帯だからと調子にのってテレビじゃ出来ない放送スレスレの話をし出す爆弾放送」と、聞くことが必須とされているラジオだった。
「祓ったれ本舗の、取っ祓い上等〜!」
ラジオ名は五条が付けた。取っ払いと祓いをかけたそうだが、何故上等とかヤンキーみが出てしまうような文言までつけたのかは謎だ。
「今週も始まりました。俺たちが好き勝手喋るだけの三十分です。いやお前らさ〜毎回律儀に感想メールとか送ってきてくれてありがとな! 全然読んでないけど感謝はしてるよ」
「……」
「リクエスト曲とかお便りに関しては全部スタッフが読んでその時の気分で選んでるから、俺たちは一切知らねぇんだわ。だから先週は呪いとかいうイカれた曲流れたわけでさ。まぁ夏だからいいだろ?」
「……」
「そんでな〜、今ラジオ中だってのに全っ然喋んねぇでずっと俺のグッドルッキングフェイスをガン見してくる奴が目の前にいんのよ。俺はボケ担当だけどもうツッコむわ。傑、何?」
何? ではない。
夏油の口はすぐにでもそうツッコミたかったけれど、それよりも先ず特大の溜め息が出た。何で本人に自覚がないんだと言いたげな目線をジトッと寄越し、夏油はリスナーにも聞かせるための語り口調で話し始めた。
「いや……皆さんちょっと長くなるけど聞いてください。悟とはね、今日一緒に現場に入ってきたんです。それまで別番組の収録してて、ちょっと休憩して、それでここ来たんですけど」
「そーね」
「それで悟、本番少し前に楽屋出ていったんですね。まぁ大方トイレか何かだろうと思って特に声もかけなかったんですけど、中々帰って来なかったんですよ」
「そんなかかった?」
「かかってたよ。十五分以上は経過してたね。それでね、帰ってきて開口一番、何て言ったと思います?」
「え?」
「『ヤバい俺、処女なくしたわ……』」
「ンッフフ」
妙に真剣な顔をしながら語られたそれは、五条の腹筋を崩壊させるには十分の破壊力だった。リスナーは五条の爆笑による音割れで耳に被害を受けた。
「おっまえそんな事考えてたの! ヤバ! はー俺の相方最高すぎる〜!」
「笑い事じゃないだろ。処女ってなんだ。たった十五分で相方の処女が無くなったって話聞かされて本番臨んでる私の気持ち考えたことある?」
「ねぇよ」
「だろうね。で? 何処女って? 掘られたの?」
「だとしたら流石の俺だってもう少し悲しそうにしてるわ」
深夜帯のラジオとはいえ、ここまで序盤から飛ばして話すだろうか、いつか本当に上から怒られそうだとディレクターたちは止めに止められず、話を聞くばかりだった。ブースの中では、五条がスマホを取り出しはじめていた。
このラジオ、ネット上ではかなりファン達の間で有名であり、ハッシュタグ「取っぱラジオ」でリアルタイムに感想後ほど等が投稿されている。五条はそれを容赦なくエゴサする。番組の上向きな感想から、二人に対する純粋な誹謗中傷まで、五条はありのままの今の自分達がどう思われているのか見届けるのが趣味のひとつだった。
「見て、神回確定って言われてる、そうだな今日は神回にしてやるわ」
「悟、いいから話せ」
「傑の怒気が割とすごいから話すわ。いや別にお前が心配してるような事はなんもない。昨日ね、俺たち今度やる特番の収録したんだけど、夜は打ち上げだったんよ。傑も一緒にいたよな」
「いた。焼肉に行きました」
「そー! 俺さ、人生で初めて焼肉の食べ放題に行ったんだけど、あれほんとに食べ放題なんだな。何皿頼んでも肉っぽいものが無限に出てくる。甘いものまで!」
「悟、いつも言ってるけど、庶民が食べる肉と君がいつも家で食べてた肉は当たり前だけど違うに決まってんだから、庶民の肉を肉っぽいものっていうのやめな」
トレンドには一気に「肉っぽいもの」が割り込んだ。五条が一般家庭出身で無いことは既に周知の話だった。
「や、それで俺マジでめちゃくちゃに食ったわけ。俺たちだけで食った量半端なかったくらい。で、満足して帰ったんだけど、次の日ってか今日も普通に仕事だから寝て起きて仕事してたの。さすがに前の晩に馬鹿みたいに食ったから、腹減ってなくて何も食ってなかったんだよ。そしたらさ、今になって腹が落ち着いてきたのか、ここ着いてからな、超トイレしたくなってきて」
「……君まさか」
「そう、もうすっげぇでっけぇうん、」
「こんな深夜だけどお食事中の方がいたら本当にすみませんねー! 真剣に悩んでいた私も馬鹿でした!」
「だぁから俺もおかしくって! 何でそんな事でちょっと怒ってんのって!」
「たった十五分で相方が処女喪失したなんて聞いて正気でいられるか」
「お前俺が誰にでもケツ向ける男だと思ってんの? てか向けたことないんだけど?」
「向けるなら私くらいにしておきな」
「それはそう」
トレンドがまた荒れた。それはそうって何だとハッシュタグ付きのツイートは大いに盛り上がった。当然それはエゴサを続けている五条の目にも留まっており、器用に片手でスマホをスクロールしながらマイクに向かっていた。
「それはそうって何って言われても。知らない奴にケツ向けるより知ってる奴の方がいいだろ」
「知ってても知らなくてもケツ向ける状況になるって相当だと思うけど」
「確かにな。あ、じゃあ処女ついでに俺も一個話していい?」
「処女ついでって何? すっごい気になる」
「お前さ、エヌエムエムエヌって知ってる?」
「エヌエ、え? 何? 日本放送協会?」
「うちテレビないんで……じゃ無くて、エヌエムエムエヌ、全部アルファベット」
「知らない」
お分かりいただけただろうか。今この瞬間、祓ったれ本舗の一部ファンは凍りついたことを。エゴサの鬼、五条悟がまさかその手の界隈まで見てしまったのかと。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている。二人の仲を邪推するものはまた、本人にもそれを見られているのである。少なくとも、五条悟という男は好奇心で覗き込むどころかダイブしてくるタイプの男だ。
「ナマモノって意味らしい」
「ナマモノ? この季節にナマモノは危険じゃない?」
「そういう意味じゃなくて。まぁな? そのナマモノが今度の日曜日、某展示会場でたくさん販売されるみたいなんだよ」
「展示会場……あぁ、君が言いたいことがわかった。即売会だな?」
もうやめてくれとリスナーのお姉さま方は叫んだ。別に描き手たちの姿は祓ったれ本舗の二人に見えている訳では無いが、公開処刑に晒されているのも同義だった。シンプルな地獄。だがしかし二人のマシンガントークが止まることは無いのだ。
「あれだろ、逆三角形がシンボルの東京にあるシンデレラ城。日曜日とかよく人が集まってるらしいじゃないか。あぁナマモノってあれか、存在してる人間を取り扱ってます的な」
「うんそう。でさ、俺何冊かサンプル見たの」
「君相変わらず勇者だなそういうところ」
「そしたら俺、傑に処女捧げてた」
夏油傑は滅多に笑わない。正確に言えば、声を出して笑うことがない。芸人の癖に。いつだってアルカイックスマイルを浮かばせながら、隣で馬鹿騒ぎしている相方を宥める、もしくは悪ノリし一緒になって場を壊す(芸人としては良い意味で、人間としては悪い意味で)のが彼の役目だった。
その夏油傑が、声を出して笑いだした。
「ンフフッ待って私君の処女奪ったの? フフフッ」
「そう。しかも一人じゃなくて結構な人がそれ描いてて」
「ンッフ」
「無理やりって感じのやつもあれば、『傑、優しくして……っ』って何故か俺も処女捧げることに肯定的なやつもあって」
「ダッハッもう勘弁してアハハハ!」
「やべぇ傑がツボった。マジに今日神回だわ」
深夜に響き渡る成人男性の爆笑。その手の事には明るくないリスナーもいれば、今まさに無料配布用の絵を描いていたリスナーもいた。もちろん関係性として逆を推すリスナーもいるだろうが、五条が覗いた深淵は自分が受け身側のものだったわけで。
「あーあ、でもさ」
「な、なに?」
「俺あんま漫画ってジャンプくらいしか読まないけど、プロっていうの? そうじゃなくても絵めっちゃ上手いやつって沢山いんだな」
「あーそれはそうでしょ。私たちだってプロじゃなくても学園祭で初めて漫才やった時、めちゃくちゃウケたじゃん。才能や努力に年齢も性別も関係ないってことだよ」
「処女ネタ話してさっきまで爆笑してた奴とは思えないくらいいい事言ってる」
「何事も有り余るくらいの才能を発揮するのに、どうしてか芸人を目指したいなんて言い出した奴が私の身近にいてね。努力も才能のひとつだっていうのをこの目で見てたんだ」
「へぇ。それって誰のこと?」
「んー? さてね? 誰だろう」
祓ったれ本舗が好かれる所以は、こう言うところであった。
それまで腹を抱えて笑っていたリスナーも、いつの間にか真顔で聞き入っており、ハッシュタグ付きのツイートは
「尊い」で埋め尽くされた。
リスナーからは見えてないブースの中で、夏油と五条は二人にしかわからない情を込めた目線を送りあっていた。
「で、この本いくつかこの週末買いに行こうと思ってんだけど」
「いやどう考えても私たち行ったら身バレするよね?」
「コスプレって言って誤魔化せねぇかな」
「にしたって再現度高すぎでしょ。せめて伊地知に買いに行かせよう」
ブースの外で、静かにマネージャーである伊地知は週末の予定の確認をした。この二人が「やる」と言ったら「やりましょう」としか言えないのだ。伊地知の週末の休暇は消えた。
そうして次の週に、数冊手に入れた薄い本を見ながらの生放送が繰り広げられ、リスナーから「もうやめて」というお便り続出に、五条が更に面白がって俺も描くなどと言い出すのであった……。
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③「ストーリーテラー」
───あぁ、えっと、一人ってあまり慣れてないから……色々と拙い部分があるかと思うけど、よろしくね。今回は私たちの結成について語ればいいんだっけ? と言っても、面白いのかなぁ。至って普通だと思うけど……。普通というか在り来りというか、さ。まぁ、いつものおふざけタイムは今回は封印って事で。悟のファンには悪いけど、三十分、今日は私の話を楽しんでね。
いつもの時間、金曜の夜、深夜二時。
お笑い芸人祓ったれ本舗の黒い方、夏油傑はラジオブースで一人マイクに向かっていた。そう、今日はいつもと違う日。相方である五条悟がいないのだ。ハッキリとした理由はわからない、ただ夏油は「今日の放送、悟は来ません」と一言だけ冒頭に語って、それきりだった。電波に乗った夏油の声は、何となく寂しそうだった。
「そう。今までここのリスナーの方とか普通にファンレターとかで、結構祓ったれ本舗の結成話を聞かせてくださいって声が多かったんだよね。確かに大っぴらに話したことは無いんだよね。別に話したくないとかでは無いんだ。ただ本当に、そう、話す機会が無かっただけ。私たちお笑い芸人でしょ? そんな身の上話なんて話してもなんにも面白くないと思うからさ」
祓ったれ本舗の冠番組でもあるこのラジオ、普段はテレビじゃとても出来ないような内容をペラペラと、美しい顏をもつ二人の男たちから濁流のように語られている。とても褒められたもんじゃない風刺的な内容から、小学生レベルの下ネタまで、ある種「刺激的」な内容が盛り沢山で、それが今の現代ではなかなかに見られないスタイルでもあることから、人気を博していた。
今回に限っては、それが封印されそうであるが。
「さてと。それじゃ、祓ったれ本舗の結成について……ストーリーテラーにでもなろうかな。むかしむかし、ある高校に、それはそれは顔だけは一級品で黙ってれば人間国宝にもなりえそうな男がいました。そいつは出席番号順から、私の後ろの席にいました。窓からの光とは別に後ろからもその顔面に照らされてるような気分で割と不快でした」
夏油は何も五条信者ではない。だから相方で親友であろうと、平気でし文句も言うし、罵倒もする。他社が五条を貶せば本人よりキレる時もあるのに、自分ではこうだ。まるで、自分だけはそれが許されているかのように振る舞う。
「振り返ってプリントを渡そうとした時の衝撃は今でも忘れられません。二対の蒼い眼球が、私をじっと見ていました。マジレスすると、綺麗過ぎて引いた。漫画から飛び出して来たのかと思ったけれど、彼はプリントを乱暴に取りながら、私に向かって言ったのです。『お前変な前髪してんな。趣味も悪そう』と。咄嗟に手にしていた筆箱で頭を殴りました」
スパーンッという軽快な音がマイク越しに視聴者へも伝わった。夏油が台本を雑に丸めて机を叩いた音だ。ブース外のスタッフたちもこれにはフフっと笑い始めた。夏油のツッコミは毒を含ませている割に軽快で子気味いいと評判なのだ。
「そこからはもーお察しの通り大喧嘩。入学式終えて初日にですよ? もう担任や学年主任からは二人して問題児のレッテルを貼られましたよ。まぉでも……これが確かなきっかけで、私たちはお互いを意識しだしました。テストの学年順位とか、体育でさ、皆昔やらなかったかな、スポーツテストって。あれのシャトルランの数とかね。私は当時文化系の部活に入ってたんだけど、外の施設で色々体動かしたりはしててね。それなりに体力には自信があったんだ。悟は剣道部だったんだけど、もう白熱したよ。結果は……ふふっ私の勝ち。一回差で勝ったんだ」
ツッコミと同じテンポの良いトークが語られる。ストーリーテラーとなるに必須の能力、相手を引き付けるトーク力が夏油にはある。丸めた台本はそのままに、ポンポンと片手で持ちもう片方の手の平を叩きながら、夏油の口は続きを紡ぐ。
「や〜あれは忘れられないよ。それまでずーっと私の前ではヘラヘラ笑ったりおちょくったりしてきてた悟が、負けたって頭で理解出来た瞬間にボロッボロ泣き始めてね。想像出来る? あのでっかい眼から大雨かってくらいの涙が出てくるんだ。えって思った時にはもう遅くて、体育館の壁際で悟が号泣し出した。傑に負けた、信じらんない、意味わかんないって。そりゃーもうえらく焦った。なんなら目の敵にされてた教師にでさえ心配された。号泣問題児をどうしていいかわからなくて、ついに教師は私に『二人で話し合え』って匙投げてさ。私と悟は二人で体育館の裏手集合だ」
というか、私別に悪くないんだけどね? 付け加えるように夏油はため息混じりに息をついた。世の中は無情な事もあり、大抵喧嘩の際は泣いてる方に軍配が上がる。つまるところ、謝らなければならないのは泣かれた方になる。それはこの時の夏油も同じで、ひとまずこの決壊したダムを止めなければ、と適当に謝罪を口にした。
「皆、これは私からのありがたい言葉だと思って聞いて欲しいんだけど。たとえ状況が芳しくなくても、自分が悪いと思わなかったら謝らない方がいい。適当に謝ってた私に悟は言ったんだ」
『おれのこと、笑わせてくれたら、ゆるしてやる』
「馬鹿か? って思わず言ったね」
暇だから面白い話をしてみろと傍若無人な命じる王様よろしく、五条は顔を覆っていた手の隙間から夏油をチラ見しながら言った。絶対わざとだろうと勘づいていた夏油は付き合ってられないと、当然突き放そうとした。けれどそれを止めたのは、細長く白い、態度とは裏腹な繊細さを持つ五条の指だった。夏油の体操ジャージの裾を引っ付かみ、ねぇ、と強請ってみせた。
「まー……なんと言うか、その顔にやられてね。本当に悟は顔だけは良いからさ。ていうかこれクラスメイトになってから一か月ちょっとの話だよ? 命じられる権利義理なくない? って思ったけど、仕方ないからさ。ちょっと考えてさ、私当時から髪伸ばしてて今みたいに括ってたんだけど、それをといてね……若い子はわかるかなぁ、このネタ」
夏油はちょいちょいと外にいる音響スタッフの一人を呼んだ。あとでネットに載せるから写真を撮ってくれと指示した。そして綺麗にまとめられた団子を崩し、その髪を後ろで二つに分けて耳の所まで折り返すように持ち上げた。
「一発芸、卑弥呼様」
写真を撮ろうとしていたスタッフの吹き出す音、外にいたスタッフの純粋な笑い声、果てはマネージャーの「ひぇ……」という何故か怯えた声までもをマイクは忠実に拾い上げた。絶対見たい。リスナーはタイムラインを更新しまくった。
「ありがとう、その写真はまぁ放送が終わったら載せるから、今はまだストーリーテラーごっこをさせてよ。はー、結ぶのめんどくさいからこのまま喋ろ。まぁね、このネタを私はやったのね。言っておくけど持ちネタとかじゃない。咄嗟に思いついたのがそれだったってだけ。肝心の悟はというと、ぽかんとした顔でしばらく黙ってたけど……多分体育館内にも聞こえてたんじゃないかってくらいの大声で笑いだして、さ。腹まで抱えちゃって膝から崩れ落ちてた。別の意味での涙が今度は止まらなくなっちゃって、最初は落ち着けよって言ってた私もだんだん面白くなっちゃって、二人して笑ってた」
その時のことは今でも覚えている。もう十年以上前前の話なのに、夏油は昨日の事のように思い出された。
五条の笑い声も、涙を浮かべた笑顔も。
「まぁそんな事がありまして! 次の日から悟は私の事親鴨か何かと勘違いしたのか、雛鳥みたいにぴよぴよついてくるようになった。ほんとその体育の時までは目が合えば中指立ててくるような奴だったのに。けどまぁ、よくよく話してみたら面白い奴だなって私も気がついてね、顔がいいだけのクソ男じゃなかった。それでずっと一緒に行動するようになって、ある時文化祭でね、うちの学校ちょっと変わってて各クラス代表でひとチーム作って舞台に立ってなにかするっていう余興みたいなのがあってね。そこでだよ、漫才やってみようぜって悟が言い出したんだ」
放送から既に二十分と少しが経過していた。ようやく二人にとって大切な部分である漫才の話が出た。本当ならあるはずのコマーシャルやリクエスト曲の入りが無い、異例の放送だった。しかしリスナーは勿論スタッフさえも、夏油の語りを止めようと思う者はいなかった。
「私別にお笑いが好きな訳じゃないし、何が楽しくて大人数の前で笑われなきゃいけないんだって思ったんだけどさ。あの時の……そ、腹抱えて大笑いしてた悟を見たのは、スポーツテストの時以来だった。それから見てなくてね。私は……あの大口開けてとてもじゃないけど上品とは言えないような笑い方で笑う悟がもう一度見てみたくなったんだ。だから、いいよって言ってあげた。そこからお笑いの楽しさと、悟の笑顔に魅力を感じて、ずるずると今日まで続けちゃってるって感じかなぁ」
ふぅ、と夏油は息をついた。ほら在り来りでしょ〜? なんて簡単に言ってのけるが、聞いている誰もが心の中で、どこが在り来りなんだと総ツッコミを入れていた。ここでようやく時計を見た夏油は、まさか自分が結構な時間をかけて語っていたとは思わなかったようで、驚きの声をあげると少し慌ててスタッフが寄越してきた一通のお便りを読み出した。
「今日はこの一通だけかな、ごめんね。取っぱらネーム純白の天使さんから。夏油さんこんばんは。こんばんはー。結成話聞いてました。一字一句五条悟が言ったセリフを間違えず覚えていたり、やたらと顔だけしか褒めない所が気持ち悪かったです。……ん? えー……ちょくちょく出てくるお前の本心がそんなだったなんて知らなかった。ムカつくから早く帰って来い。今日はごめん。……ハハッいや、やられたな」
ちょっとこれ分かってて渡したでしょ、と夏油は笑いながらスタッフの方に向かって話していた。リスナーも全てを察しており、もう卑弥呼様の写真のことなんて頭からすっぽり抜けていた。深夜のトレンドに「惚気」がランクインした。
「はーあ、じゃあ今日は帰還命令が出たからこれでお開きかな。あ、そう、エゴサしてたけど悟は体調不良とかそういうんじゃないのでご安心ください! 強いて言うならそうだな……ちょっと喧嘩したんだ。どっちが上になるか、でね? そんでへそ曲げちゃって現場にまで行かないなんて言い出してさー。ほんっとワガママな猫ちゃんだよ。まぁ悟の態度次第で折れてあげようかなあ。……それじゃ、今夜はここまで。お相手は祓ったれ本舗の夏油傑でした。来週も聞いてね」
とんでもない爆弾発言を落とした夏油の高らかな笑い声だけが、最後に響いていた。あるリスナーは椅子から落ちたし、別の誰かはスマホを投げた。そして家で不貞腐れて聞いていた純白の天使は「言い方!」と顔を赤くして怒りを顕にしていた。どちらの意味で赤くなっていたかは、本人にしかわからない。
しばらくして更新された公式アカウントには、卑弥呼様夏油の写真と、新品に買い換えましたと文章が添えられた二段ベッドの写真と、隅に映る二人分のピース写真だった……。
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④「恋する」
世の中には「ガチ恋勢」という人間がいる。読んで字のごとくだが、何者かに本気で恋している人間を指すのだが、祓ったれ本舗の黒い方こと夏油傑はこのガチ恋勢が心底嫌いだった。
「普通のファンだったらいいんだ。けど、このガチ恋勢だけは受け止められない。ハッキリ言って気持ち悪い。どうして関わったこともないのに顔だけで判断するんだ? 私が実は休日には家でトンボや蝶の羽を毟ったり、アリを一匹ずつ潰して喜んでるような人間かもしれないだろ」
「例えが怖すぎる。もうちょい無かった? 酒飲みとかさ」
「アル中の方が現実味あるけど、あれは更生しようと思えば努力出来るだろう。けど生き物相手にヤバい事出来る人間はもうダメなんだよ。サイコパスは治らない」
「傑本物のサイコパス見たことあんの?」
「無い」
「じゃあその確信どこからくんの?」
「私の目の前に、昔トンボや蝶の羽を毟って笑ってた奴がいるからね。そいつ治ってないから」
「えっ誰? って俺か〜い。……は? 表出ろよ」
今日も祓ったれ本舗は絶好調だなぁ。
この後二人のいる楽屋からとんでもない大きな音が聞こえてきたり、何かが割れたような音がしても、外にいるスタッフ達はきっとそう思うだろう。現に今、扉の前にいるマネージャーの伊地知はいつこのドアノブを捻って異世界へ突入しようかとタイミングを伺っていた。
「そんで? 今日は何にキレてんの?」
「……そうだ本題だ。これ」
「何? ファンレターじゃんって、うわぁ」
相方である祓ったれ本舗の白い方こと五条悟は、夏油から受け取った手紙を見て、絵に描いたような露骨な拒否反応を顔に表した。封筒の表面には、「私の愛しい王子様、夏油傑様へ」「あなたに恋する姫より」という文面。丸っこくいかにも女を表すかのようなフォントにすら夏油は怒りを覚えた。
「愛しい王子様! ハハッ傑いつの間に王子に転職したの? 俺は?」
「既に私には誰一人として手に付けられないじゃじゃ馬クソデカ姫がいるってのに、知らない女の王子にまでなってられるか」
「ごめーんじゃじゃ馬クソデカお姫様は傑君がだぁい好きだからさ。離せねぇのよ、振り回すのに。中見ていい?」
「いいよ。吐くよ」
一度封を開けられた手紙はすんなりと五条の細い指により開封された。中には三枚程の紙が折りたたまれて入れられていた。当然、ファンレターという名のラブレターである。三枚綴りの便箋にはびっちりと、細かな文字で夏油への愛で一面埋められていた。そしてその最後には、小さなカードも挟まっていたのだが。
「オッエー! キッモ! 無理無理これなに? え、血じゃね?」
「だから言ったろ吐くって。もうそれファンレターでもラブレターでもなく呪いだよ。呪われた何か」
小さなカードには、恐らく手紙の主の血で書かれた「愛してる」の文字。行き過ぎたガチ恋勢というのは、平気でこういうものを送り付けてくる。本人は、これを見て夏油が喜ぶと思っての行動なのがまた更にタチが悪い。夏油は五条が机に放り投げた紙を、舌打ちと共につまみ上げて床に捨てた。
「せめてゴミ箱に入れろよ」
「この楽屋掃除するスタッフが可哀想だろ。伊地知、外にいるんだろう? 入ってきていいから、悪いけどこの汚物、処分してくれる?」
「傑がシンデレラに出てくる継母に見えてきた」
「あそこまで性悪じゃないだろう」
「いい勝負だろ」
「表出ろよ悟」
この流れは祓ったれ本舗二人の定番なようなものなので、タイミングを掴めずかれこれ二十分は佇んでいた伊地知は、ようやく呼ばれたと安堵しつつ、全くもって安堵出来ない代物を膝を着いて拾い上げた。
「つーかさ、伊地知よぉ」
「は、はい」
「こういう手紙とかって検閲してないの?」
「勿論しております。けれどその、こちら宛名はご覧になりましたか?」
「見てないけど……誰?」
伊地知がか細い声で告げられた名前に、五条は変わらず頭の上にはてなマークを浮かべたままだったが、夏油は広い額を全て覆ってしまうように両手で隠して塞ぎ込んでしまった。
「えっ傑、だれだれ?」
「……今ドラマで共演してる主演女優」
「あ? あ〜アレかぁ! あのー、な。俺よりブスで演技下手な奴な!」
「ご、五条さん! 外にスタッフもいるのでもう少しボリューム落としてください……!」
歯に衣着せぬ言い方に、伊地知は焦り狼狽えるが、五条もそれを言われた夏油も何一つ反省の色も無ければ注意することもなかった。
「正直、世界中の人並べても君に顔勝てる人類だけはいないと思ってるよ」
「傑俺の事大好きだもんな」
「君の顔だけはね、本当に賞賛するものだと思うよ。そっか〜……読めたぞ。事務所宛のものなら検閲出来るけど、共演者だからって、受け取るの断れなかったってこと?」
「すみません……」
「前から距離が近いメス猿だなって思ってたけど、まぁ伊地知はマネージャーの仕事をしたまでだろう。さて来週から現場でどうしようかな」
「ガン無視キメれば? それかブスは黙れとか言えば?」
「そんなこと言える権利あるの、多分君しかいないよ。いっそ指輪でもしよっかな……」
無骨で大きな夏油の手が、楽屋の蛍光灯に向けて翳される。今のところ、彼の左の薬指に指輪を嵌める予定もなければ、相手もいない。
相方の顔をこれでもかと言うほど褒め称える夏油だが、ファンの間でガチ恋勢が多いのは夏油の方だ。引く手数多で、芸人なんて職業でなければ、生涯女に困る生活もしていなかっただろう。だがしかし現実、たとえ芸人をしていなくても、この男の隣にはいつも真っ白な人類の地雷原のような男が立っている事だろう。夏油自身も、何故か相方のこの男とは前世でも出会っていたような気がするくらい、切っても切り離せない存在となっているのを自覚していた。
「傑」
「んー?」
「指輪欲しいの?」
「いやー、指輪が欲しいっていうか、虫除けが欲しい感じかな。指輪見たら諦める人間も、多少なりともいると思うからさ」
「えー、じゃあ作る?」
「作るって。そこまでしなくてもいいよ。適当にどっかで買ってきてさ……」
「は? やだ」
「は? なんで君に否定されなきゃいけないの?」
「だって俺もするもんだし」
「は?」
「は?」
は? はこちらのセリフである。
夏油はもちろん、五条のトンチキ発言には伊地知も持っていたタブレットを落とした。幸い、画面は割れなかった。
「な、何で悟も着けるの」
「だってお前、誰との指輪着けるつもりだったの?」
「いないよそんなの」
「じゃあ誰ですかって聞かれた時答えられねぇじゃん!」
「それは別に……適当に答えて流せば……」
「そんなん言ったら逆に女と歩いてるだけで適当に理由付けられて撮られんぞ」
「うーん、まぁ一理ある」
「ならさ、傑は面食いってことにしちゃえばいいんだよ」
「メンクイ?」
「うん」
中途半端に胸の前で掲げられた夏油の左手の隣に、五条は自分の左手を並べる。同い年で、ほぼ同じ背丈で、長い時間共にしてきた二人なのに、手の大きさや色一つとっても、正反対である事が象徴されたようだった。
「『面食いの自分が、悟以外の人間と隣合って歩く想像が出来なくなっちゃったんです』って、言やいいじゃん!」
「…………」
「俺ってば天才〜! 俺の虫除けにもなるしな!」
「……伊地知」
「……はい」
「……火消しは頼んだよ」
「事務所全体で全力で消します」
「俺、傑に恋するお姫様って言お〜!」
五条がどこまで本気で言っているのか、それは長年隣にいる夏油にもわからない時がある。今がそれだ。
この相方は、自分の発言がどんなに大きな爆弾を自分に落としたか、わかってないのだろう。相方の顔に「ガチ恋」している夏油が、五条のトンチキ提案を拒否することなんて出来なかった。
いちお笑い芸人が、こんな事をして良いものか。夏油は頭を抱えたが、隣でニコニコ笑う顔を見た瞬間、どうでもよくなってしまった。
後日、二人の左手の薬指には美しいシルバーリングが光り輝いていた。周りの質問攻めに対し「お姫様」「王子様」としか言わない二人に、新しいネタの方向性なのかと疑う者もいれば、本気で凹み次の日から出勤出来なくなるファンも続出した……らしい。
尚、この件で一番疲弊していたのは、言わずもがな、二人のマネージャーであった。
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⑤「時間制限」
文化祭のステージ発表というものには、いくつかの規定がある。時間制限もそのうちの一つだ。
我が校は少し変わってて、各クラス代表で誰かを選出し、文化祭最後の閉会式前に行われる余興のようなステージ発表で披露するという謎の伝統があった。代表者は一人でも良いしクラス全員でも良い。一人で何か一発芸を披露する者もいれば、クラス全員一致団結してダンスを披露するなんてところも去年はあった。私は去年見る側だったけど、これがなかなかどうして、くだらないものもあるけど見応えのあるものまであって案外楽しめる。そんな季節が、もうすぐやってくる。
高校二年生、秋、来年の文化祭時期には受験勉強に追われてるだろうという想像が容易についてしまうが、今は今だ。私と、親友である悟は、屋上でのんびり寝転んで空を見上げていた。昼下がりの秋空の下は心地よく、少しだけ冷たい風も秋晴れの太陽が和らげてくれている。私はそよ風に弄ばれる悟の白い髪を指先でいじりながら、彼のおしゃべりに付き添ってた。
「そんでさ。昨日お前見た? あのお笑い番組。点数競うやつ」
「あぁ、呪力舎主催のやつだろ。ジュジュワングランプリ」
「そ! 俺あれ初めて見てさ〜めちゃくちゃ面白かった! 漫才ってあんな笑えるんだな。俺落語しか今まで見たこと無かったから、同じ舞台での芸事で笑えるモンがあるなんてビックリした」
「相変わらずの古典学習式だね五条家は……。落語と漫才はまぁ、違うようで似てる部分もあるのは確かだよね」
「でも漫才は二人でやるもんだから、楽しそうだよな。テンポがいいと見てても楽しい」
「それはある」
「なぁすぐるー」
「何だい」
「俺達も漫才、やろ?」
「うん。…………はい?」
思わず「うん」なんて言ってしまったが、普通に聞き返したし、寝転んでた身を起こした。悟は秋晴れの雲ひとつない空を写したような蒼い眼を爛々と輝かせて、私の顔を見つめてきた。そんな、好奇心旺盛な犬みたいな顔をされてもすぐには折れないぞ。
「急に何言い出すんだい?」
「だからー、今年のステージ発表。まだクラス代表決まってないじゃん。俺達で出て漫才やろうぜ」
「馬鹿言うんじゃないよ。君、漫才なんだか知ってる?」
「昨日見たからな。さすがに知ってる」
「ネタってどうやって作ってるか知ってるかい?」
「そんなのプロが作った脚本みたいなの覚えてんだろ」
「……あのね、悟。ネタは皆本人たちが考えてるんだ。落語みたいに何か元ネタがあるようなものじゃない」
「えっ」
「君が昨日テレビで見ていたものは、全部本人たちが頑張って考えて、あの日のために時間も体力も削って必死になって練り上げたものなんだよ」
「すげぇ」
「そうでしょ? それを君はあと一ヶ月足らずで出来るって言うのかい?」
「出来る」
「そうかそうか君はそういう奴だったな」
「エーミールじゃん……」
お坊ちゃまにもこのネタは通じるらしい。同世代あるあるは置いといて、私は妙に自信満々な悟の瞳にやっぱり抗えず、ため息をついた。私の小さなため息でさえ、秋風は優しくどこかへ放ってしまった。
「……わかった。でもまずはクラス長に相談からね。他にやりたい人もいるかもしれないし」
「いや捩じ伏せる」
「鬼か」
「神様仏様悟様だぞ俺は。どうにかする」
「暴君だったわ」
まぁそうだった。悟がそう言う奴だったということは、入学当時からよく知ってた。とは言うものの、悟の興味の移ろいはかなり振れ幅があり、他に興味を惹かれる物を見つければそちらに集中してしまい、漫才なんてやっぱやらなーい、なんて投げ出す可能性も十分考えられる。
この顔だけ一級品の暴君が残り一ヶ月弱、きちんと漫才に真摯に向き合う監視をすることも、私の中で勝手に義務付けられた。
……まぁ、結果として、そんな必要はなかった。悟は案外というか、あの日見た漫才が相当気に入ったようで、歴代優勝者のネタを見ながら研究したり、どういうネタが今の流行りになるのか等、真面目に考えているようだった。かく言う私も、全校生徒の前で恥をかいて赤っ恥晒すつもりはなかったので、悟とのネタ作りには真面目に取り組んだ。
お互い部活にも入っている為、待ち合わせは部活終わりのファミレス。二人で閉店間際までやり取りして、帰りに夜の公園で少し練習して帰った。毎日は出来なかったし、誰かに見せた訳でもないからまだ面白いかわからなかったけど、母はそんな私を見て「青春してるじゃない」と言った。
なるほど、青春。私にもあったんだなぁ。悟との青い春は、とても楽しい。
そんな青春物語を成功させるべく、同級生でありお互いの共通の知り合いであった硝子を放課後捕まえ(謝礼はした)、ネタを見てもらった。硝子は普段クールだ、面白くなければハッキリと言うし、逆に指摘だってしてくれる。お笑いのことなんて知らないと一刀両断されてしまえばそれまでだけど、とにかく私たちは、見て欲しかった。
ネタを見終えた硝子は言った。
「つまんね」
「え」
「全然面白くない。お前ら身内ネタみたいなの多すぎ。確かに今流行りのものを入れるのはいいんだけど、ノリとテンションが今のお前らにしか分からないものが多すぎて面白くないんだよ」
「……本当に一刀両断された」
「なんか言ったか」
「いや何も」
「見てくれって言ったのはお前たちなんだから、ハッキリ言わせてもらうよ」
「……硝子」
「何」
「ありがとう」
滅多に礼なんて言わない悟が、硝子の目を見て伝えた礼は、あの硝子でさえ豆鉄砲を食らった鳩のような顔を(実際見た事ないけど)していた。悟は何がダメだった? と持っていたネタ帳を広げてもう一度硝子に話を聞こうとした。私もそれに倣って話を聞いて、ネタ帳に書き込んできたけど、それ以前に、悟は私が考えている以上に真剣でいることにじわじわと喜びを胸に感じていた。
「……あいつ、めっちゃ本気じゃん」
「ね、私もびっくりだよ」
「お前が入れ込んだんじゃないの?」
「違うよ。どうしてそんなに本気になったのかわからないんだけど。まぁ、私としては嬉しいかな」
「キモ」
「何でよ」
「あ、お前ら時間制限気をつけろよ。一秒くらいならセーフだろうけど、五秒でアウトだから」
「えっそんな厳しいんだ」
実は発表といいつつ、このステージには見た人の投票によって決まる人気投票みたいなものがあって、優勝者には食堂で一ヶ月好きなものを無料で食べられる権利を得る。私からしたら魅力的な話であるんだけど、普段金に困るような姿を見たこと無い悟にとってはおまけみたいなものだろう。
「まぁせいぜい頑張れよ。文化祭で面白かったらサイン貰っとくわ。お前らが将来売れた時にオークション出してやる」
「勘弁してくれ。というか……何で未来でも私たち漫才する前提なの?」
「しないの?」
「……私はともかく、悟の家がそんな道許すとは思えないな」
何かに一生懸命打ち込む悟の姿は美しかった。見た目の問題ももちろんあるけど、そうじゃなくて、内面的な美しさが滲み出るようで、私はこの悟の姿をずっと見ていたいとは心の底から思っていたけど。
ステージと同じで、私たちの青春にだって時間制限がある。彼の道と私の道は、生まれた家柄からして違うのが目に見えてわかっている。私は、だからこそ今この瞬間をきちんと堪能して過ごしていこうと心がけている。
「バカじゃん。最初から決めんな」
「え?」
「奪っちゃえばいいじゃん、五条のこと。下克上ってやつ?」
「そんな簡単に……」
「言うだけタダってね。ステージは時間制限守れよ。でも、お前らが一緒にいるのに時間制限なんて誰にも決められないっしょ」
「……硝子」
「離れ離れになってお互い後悔しながら暮らすよりか、マシでしょ」
「硝子! 見て! 俺渾身のギャグちょっと直したから!」
それまで私たちの話にも加わらずネタ帳と向き合っていた悟が元気よく声を上げて硝子を呼んだ。彼渾身の一発ギャグは、硝子の「まぁいいんじゃない」という良くも悪くも取れそうな言葉で終わった。
「……悟」
「ん?」
「……お客さん、笑わそうね」
「! おう! はは、傑がそんなこと言ってくれんの、初めてじゃん」
「え、そう?」
「うん。嬉しい。俺だけじゃないって思えた。やっぱ漫才は二人でやらないとなー」
お前のツッコミと、俺のボケ! 二人揃えばとピースしながら悟が笑った。私が一番見たいと願う笑顔がそこにはあった。
「……ごめんね、口にしてなくて」
「いいよ。別に喧嘩してたわけでもねーし。な、それより俺たちコンビ名何にする?」
「……そういや決めてなかったね。そうだなぁ。何かいい案は?」
「俺、傑と二人でどんなやつも笑わしてぇなって思ってて。例え人間でもそうじゃなくても、生きてても死んでても」
「何それ妙に怖い。やめてよゴーストバスターズみたいな名前は」
「著作権大無視じゃねーか。ちげぇよ、俺たちは───」
「「どうも、祓ったれ本舗でーす!」」
あの日の体育館の景色は、今じゃもっと何倍も大きい観客席になっている。硝子の言った通り、私の悟との青春に時間制限なんてなかった。私たちの始まりの舞台で優勝してから早数年、まだこの青春の続きに時間制限がかかることはなさそうだな。