泣き顔が忘れられない話。またバーを越えられなかった。
軽々と飛び越えていたはずの目標がいつもより高く感じて、今までどうやって跳んでいたのだろう、と冷や汗が滲む。
「……あ〜、やめやめ。」
滲む焦りを隠さないままその場を離れ、裏庭のベンチに座る。
爽やかな風が吹き通るこの場所であれば、少し気分を変えられるだろうと思っていたのに。
梅雨のじっとりとした空気が肌にまとわりついて、余計に気分を鬱々とさせる。
背もたれに寄りかかりながら、もやもやする気持ちを吐き出すように声を出した時。
体育館のある方角から「おつかれ〜」という声が聞こえて目を向けると、にやにやと笑みを浮かべた長身の男がそこに居た。
「おやおやお嬢さん、サボりですかぁ〜?」
「クロオ………はぁ……」
「いや人の顔見てため息つくなよ…」
遠慮というものを知らないのか、私の隣の空いたスペースに「は〜どっこいしょ」なんて言いながら座ってくるのは、クラスメイトで男子バレー部主将のクロオテツロウ。
「なんか顔暗いじゃん、どうしたのよ」
無遠慮で能天気なように見えて、それでいて他人の機微に聡いクロオ。
気遣うような優しい瞳と、クロオの動きに合わせてふわりと鼻を掠めた爽やかなシトラスに胸が高鳴る。
なんとなく、そのまま彼を見ていると、私の淡い気持ちが伝わってしまいそうな気がして、ふっと目を逸らした。
「…なぁんか、上手く跳べないんだよねぇ…」
「あぁ、🌸は走り高跳びやってんだっけ」
「うん。……ねぇクロオはいつもどうやって跳んでるの?」
いつか見た練習試合での高いブロックを思い出しながら、何かのヒントが貰えないかと聞いてみる。
ふむ、と私を見つめたまま考え込んだクロオが、少しの間を置いたあと言葉を紡ぐ。
「…そうだなぁ、ギュンッ、ズバッ、て感じか?」
「あ、もういいです」
「嘘ウソ!ちゃんと考えてやってっから!」
「そうですかぁ〜」
「🌸ちゃん…聞いてる…?」
分かってる。
落ち込んでいる私の気持ちを引っ張り上げるために、わざとそういう言い方をしてくれてる事。
後輩たちに丁寧に説明してたとこ、ちゃんと見てたし。
「んで?マジで何をそんなに悩んでんの。いつも綺麗に跳べてるだろ」
「いつも…?え、見てるの…?クロオのえっち。」
「ッはァ!?ちげーって!バレー部の体育館からちょうど陸上部が見えっから…!」
「……ふぅん?」
「いやホントに、マジで。信じてください…」
にやにやしたと思えば真顔になったり、焦ったり。
忙しい人だねぇ、と心の中で呟く。
先ほど心を乱されたお返しだ、と意地悪を言ってしまったけれど、大きな身体を縮めるクロオが少し可哀想で、「ごめんね、」とその背中をトントンと軽く叩いた。
また、ふわりと香るシトラスに胸が高鳴る。
じんわりと頬が熱を帯びるのを感じながら脳裏に浮かんだのは、彼を好きになった日の事だった。
それは1年生の春。
とある日の放課後に部室へ向かう途中、先生に呼び出されるというイレギュラーの為に部室棟までの道が分からず迷子になってしまった。
そんな時に助けてくれたのが同じく渡り廊下で迷子になっていたクロオだった。
その時私は人に会えた安心感で泣いてしまったのだけれど、クロオはそんな私を笑うことなく、一緒に部室棟を探してくれた。
そして、目的地に無事たどり着いた時。
私の頭に手を置きながら、「🌸のおかげで心細くなくて助かったぜ、ありがとな」なんて言われてしまえば、私が恋に落ちてしまうには十分すぎる出来事だった。
その瞬間から気付けば2年の月日が経っているけれど、臆病な私は想いを伝えられないまま。
…もし伝えたとして。
振られたら立ち直れない気もするし、いっそこのまま、卒業まで伝えないままでいようかな、と殻に閉じこもって心を守ってしまう。
じっとりとした梅雨の空気が頬を撫でて、いやでも現実に引き戻された。
…はやく過ごしやすい季節になれば良いのに。
もやもやと考えていると、体育館の裏からクロオを呼ぶ可愛らしい声が聞こえて振り返る。
それは最近男子バレー部に入部した女子マネージャーだった。
「クロオ先輩!もうそろそろ休憩終わりですよぉ〜!」
そう声を上げながらこちらに手を振っているその子は、ジャージの色から1年生だと分かる。
「あ、やべ。時間忘れてたわぁ」と言ったクロオが彼女を見遣る。
「おー!先に練習始めといてくれ〜!」
同じく手を振り返すクロオに嬉しそうにはにかんだその子。
1年生らしく小柄で、ハーフパンツから伸びるすらりとした綺麗な足が眩しく映る。
一方私はと言うと、陸上競技に捧げてきた時間の分、鍛えられた足はあの子みたいに女の子らしいとは言えなくて。
…あぁいう柔くて可愛い子が、クロオには似合うんだろうな…と、勝手に嫌な想像が広がって、きゅう、と胸が押し潰されるようだった。
じわ、と滲み出す黒い嫉妬が外に溢れてしまわないように、少しでも早くこの場を離れようとベンチから立ち上がる。
「どした?」と、気にするクロオにも目を向けられないまま。
「…練習戻る」
「は?どうしたんだよ突然」
「こんなことしてる場合じゃないから。じゃあね」
抑揚もなく、吐き捨てるような冷たい声が出てしまったなぁと冷静な頭の片隅で思った。
そして、これは思い通りに跳べない焦りなのか、クロオを取られてしまいそうな焦りなのか、自分の気持ちが分からないのが気持ち悪い。
滲む涙を隠すように俯いて、逃げるべく走り出したけれど。
「ッ待て、お前やっぱ様子おかしいぞ…とりあえず落ち着けよ」
少し焦ったようなクロオに掴まれてしまった。
嫉妬が渦巻いている私の体に触れて欲しくなくて、クロオの熱い手のひらを振り払ってしまう。
その拍子に目に溜まった涙がぼろり、と溢れた。
「……かお、見ないで」
流れる涙を拭い続ける私をベンチに座らせたクロオが、私の背中を撫でながら顔を覗き込んでくる。
「🌸、どうしたんだよ」
どうしたもこうしたも、これは八つ当たりだ。
挙句の果てに可愛いマネージャーに嫉妬なんかして、もう心がぐちゃぐちゃで苦しい。
どの言葉が正解なのか分からなくて、俯いたまま何も言えないでいると、クロオが「……あのさ、」と呟く。
「1年の時にさ、部室棟に行けなくて迷子になった日、あっただろ」
「…うん」
「あの日、お前泣いてたじゃん」
「…、うん」
「その顔が頭に焼き付いて離れなくてさ、」
「……」
「で…、今のその顔も、正直、かわい〜、好きだ〜って思ってんだよね」
「………へ、」
可愛い…?
好き…?
って言った…?
信じられない気持ちでクロオを見上げれば、そこには顔を赤くして恥ずかしそうに首筋に手を当てながら、「くそ、情けね〜…」なんて呟くクロオの姿があった。
その様子に私の頬も熱くなるのを感じて、「こんな時に冗談言うとか、サイテー」と茶化してしまう。
「冗談じゃねぇし…!つかお前もさぁ…!俺の事好きです〜って目で見ておきながら何も言わねぇってどういう事だよ!こちとらずぅっっと、告白されんの待ってんですケド!?」
「……!気付いて、たの」
「当たり前だろ、ずっと🌸しか見てねぇんだから……」
なにそれ、なにそれ…!
思わぬクロオからの告白に、体がかぁっと熱を持って、心臓が暴れだすのが分かる。
「で、🌸ちゃん?成り行きとはいえ俺は思いを伝えましたけど?そろそろ足踏みやめてさぁ、俺のとこに飛び込んできても、いいんでないの?」
ぐいっと距離を詰めて、唇が触れちゃうんじゃないかと思うほどの距離。
確信を持ってにやりと笑うクロオを睨みつけながら、熱い頬と震える声で「その顔、ずるい…!」と呟くと、
「お前のその顔だって、十分ずるいだろ」
と吐息混じりの熱っぽい声で囁かれると、色気にあてられた涙腺が涙を誘い、咄嗟に目を閉じてしまう。
そして、「わり…、限界ぽいわ」と呟くクロオの言葉の意味を聞くために瞼をゆっくりと開いてみようと思ったけれど。
ふいに唇に触れた柔らかい感触に塞がれて、意味を聞くことは叶わなかった。
そうして唇が触れ合って数秒後、ゆっくりと体を離すクロオの顔があまりにも近くて、その瞳の奥に灯る熱もしっかりと見えてしまった。
初めて見る姿に心がそわそわして落ち着かない。
そうして体が動かせずに固まったままの私を見て、クロオはくつくつと喉を鳴らしながら笑っていた。
「カチンコチンじゃん!今からそんなんじゃ先行き不安だなぁ〜」
そう言うクロオに少しの違和感を覚えて立ち上がる。
「まっ、まだ私はクロオのこと好きって言ってない…!!」
「今!言ってんじゃん!」
お腹を抱えてケラケラ笑うクロオにほんの少しの怒りを覚えたけれど、これまで悩んでいた何かがすっと溶けたような爽やかな気分に自然と笑みがこぼれる。
「練習、がんばんなさいよ」
そう言って私の頭を一撫でしたクロオが体育館に戻っていく。
その頼もしい背中に与えられた胸の高鳴りのおかげなのか、いつもより足が軽やかに跳ねるのを感じながら、私もグラウンドへ急ぐのだった。