ホームワークが終わらない 第一章【ヒーローがやってきた】
零くん可哀想ねぇ。
どこへ行ってもその言葉が付き纏った。
その言葉の通り、世間一般で言えば僕は可哀想なのだろう。物心ついたときから親と呼べる人はおらず、親戚中をたらい回しにされた。どこでも厄介者扱いで快く僕を受け入れてくれる人はいなかった。
可哀想ねぇ。
耳にこびりついて離れない言葉。
可哀想だったら何なの。あなたは親代わりにでもなってくれるの。
人は、その言葉ほどには僕のことを心配などしていない。憐れんでいるのでもない。 自分より可哀想な生き物を見つけて本当は安堵しているのだ。
欲しがれば自分が傷付くだけだ。それなら最初から何も望まなければいい。
愛なんて知らない。誰も教えてくれなかったから。これからも知る必要なんてない。
だって僕はひとりだから。
そう思って生きていた、あいつと出会うまでは。
あいつは突然、やって来た。
担任の先生が「転校生を紹介します」と言って招き入れた少年。あと二週間ほどすれば春休みだというのに今頃転校生とは珍しい。寒い地域の出身だけあって、色白で聡明な顔立ちをしている。
「僕の名前は、諸伏景光です。よろしく!」
教卓の前で自己紹介を終えると、その端正な顔をくしゃくしゃにして笑った。人懐っこい仔犬のような笑顔。
「じゃあ諸伏君は、降谷君の隣に座ってくれる?」
先生が僕の方をちらりと見て、諸伏という少年に席につくよう促す。
目が合った。
まっすぐこちらを見る、強い眼差し。
こいつは苦手だ。真っ先にそう思った。
「降谷、これからよろしくな!」
差し出された手に、手が重なることはなかった。
その日の二時間目の授業は算数だったが、机を探るもいつものように教科書がない。 あるのは、すでにボロボロにされた計算ノートだけだ。
先生に教科書を忘れたことを告げると「降谷君また忘れたの?誰かに見せてもらいなさい」と呆れた声で言われる。
これが日常。少し困るけど、辛くともなんともない。大丈夫、大丈夫。
しかし、隣には転校生のあいつがいて興味津々な目でこちらを見てくる。
「前の小学校と教科書一緒だといいけど……見るか?」
算数の教科書のページを開き、突き出してくる。
色鮮やかに印刷されたページの、つんと鼻にくる匂い。慣れない優しさに戸惑う。
「降谷。お前さ、本当に教科書忘れたの?」
小さな声だったが、はっきりと諸伏はそう言った。
奴の視線の先には、表紙の破かれた計算ノートがある。やはりこいつは苦手だ。
「そうだよ」
感情が声に表れないように、短く返事をする。
「ふーん。ま、いいけど。席も隣同士だし仲良くしような」
「別に僕、友達とかいらないから」
話している途中でぴしゃりと言い返すと、諸伏は余計に面白そうに笑った。何が面白いんだか、変な奴。絶対関わりたくない。
しかし、避けたいと思っているときほど、厄介ごとはやってくるもので。
日直の仕事は名字の順で二人ずつペアを組むことになっている。いつもなら前田さんと日直だったが彼女は風邪を引いて休みだった。そして、一緒に組むことになったのは……。
「降谷ー。日誌って何書けばいいのー?」
よりにもよって、諸伏景光。こいつとは。
「今日楽しかったこととか、気をつけた方がいいこととか書けば」
「なるほどー。えっと、『皆さん手洗いをしっかりしましょう。0157が流行っています』っと。こんな感じかな」
諸伏が日誌を書いている間、僕は黒板を消そうとしていた。
「降谷、僕がやるよ」
「なんでだよ、僕がやるから」
「だって降谷の身長じゃ上まで届かないだろ」
「なっ!届くに決まってるだろ!」
僕より少しだけ背が高いからって馬鹿にするな。力強く黒板を消していると、背後から楽しそうな声が聞こえた。
「降谷って面白いのな。つま先立ちになってバレリーナみたい」
「う、うるさい!」
ジャンプして最上部の文字を消すとさらに笑い声が聞こえた。
「降谷選手、華麗なジャンプです」
「お前喧嘩売ってるのか」
ほんとムカつく奴だ。
だけどこいつが互角に言い返してくるおかげで、間が持たないことはなかった。久しぶりに人とこんなに会話したかもしれない。
家に帰ってもおばさんは夜の仕事でいつもいないし、おばさんの恋人の男(世間ではヒモというらしい)はろくに顔を見せない。
「あ、ジャンプと言えばさ。先月の長野オリンピック団体戦ジャンプ見た?」
僕の故郷の長野で開催されたんだ、と自慢げに諸伏は言う。
「金メダル獲った瞬間、興奮して兄ちゃんとさ……」
「……見てないから」
どこ行くんだよ、と尋ねる諸伏を無視して、手のひらについたチョークの粉を払った。
「終わったから帰るんだよ」
「あ、そしたら一緒に帰らないか?」
あのさ、と吐き捨てて言った。
「勘違いしてるようだけど。僕は誰とも仲良くなる気なんてないから」
目を丸くして僕を見る諸伏。僕は教室を後にした。
家に帰って「ただいま」と言うが返事はない。いつものように千円札が食卓に一枚置かれている。これで何か買って食べてねということだ。
自分の部屋に入り、ランドセルを投げ捨てると床に寝転がった。目を瞑って息を大きく吸う。
諸伏はあれからちゃんと帰っただろうか。
いい奴なんだろうな。薄々わかっている。僕が苛められていることも、あいつはたぶん気付いている。
だから余計に関わらせるわけにはいかない。
くだらない僕なんかのことで他の奴の学校生活まで潰したくない。もう僕はとっくの昔に潰れているようなものだから。生まれた時からずっと……。この先の人生も。
そう思っていたのに。
ある日、事件は起こった。
いきなり視界が色とりどりに、まだらに、染まる。
「金ピカの髪の毛を目立たないようにしてあげましたー」
「感謝しろよなー」
図工の時間に外で写生をしていた時のこと。
苛めっ子のボスを筆頭に、クラスの奴らが僕の頭に絵の具をぶっかけてきた。
ぽた、ぽた。
絵の具が滴り落ちて、顔も服も汚す。
大丈夫、まだ、泣いていない。大丈夫。
「おっ降谷泣くぞ、泣け泣けー」
大丈夫、こんな奴らのために泣くもんか。
今だけ我慢すれば。僕が我慢すれば終わるんだ。
だけど一体。僕はいつまで我慢すればいいんだろう。
こらえきれず涙が零れ落ちそうになったとき、怒号がした。
「お前くやしくないのか!」
空から降ってきた怒鳴り声に顔を上げると、諸伏が立っていた。
「僕はくやしい。こんな奴等に負けてるお前を見てるのが」
驚いた。普段の諸伏からは想像出来ないほど、怒りに溢れた顔をしている。自分のために怒ってくれているのに。他人事のように唖然としてしまい、驚きで何も言えないでいる。
「降谷……見てろよ。ケンカってのはなぁ、こうやるんだ」
「諸伏……やめろ」
やっとの思いで、声が出たときにはもう遅かった。諸伏は苛めっ子集団に向かって走り出している。
「なんだよ、ひろみつ、やるのかよ……っ!」
怯むことなく諸伏が拳を突き出した瞬間。
「くらえ!ムシムシ爆弾!」
諸伏の手の内から放たれたのは多数の虫だった。奴らの頭に虫が降りかかる。
「うわぁぁああ、取って!取って!」
「どうだ、参ったか!」
諸伏は苛めっ子達が暴れまわる様子を愉しげに見ている。
僕は拍子抜けしてしまい、目の前の光景に開いた口が塞がらなかった。
その内一部始終を見ていた女子が騒ぎだした。
「男子何やってんの、サイアクじゃん。先生呼んでくる」
「おい、やべーぞ、逃げようぜ」
「ひろみつ、明日覚えとけよ!」
「ふん、逃げるのだけは早いのな。都会のぼっちゃんは」
「お前……なんで……」
「話はあと!降谷、一旦僕らも逃げよう!」
そう言って強引に手を引かれ、走った。
走って、走って、これでもかというほど走って。
途中、空を見上げると雲ひとつない真っ青なスクリーンに、あいつの笑い声がこだまして。
悪くないと思った。清々しくすら思えたんだ。
ようやく逃げ込んだのは、今は使われていないプールの蛇口の前だった。
立ち止まるなり、勢いで繋いでいた手が恥ずかしくなって、思いっきり振りほどいた。
「おせっかいはやめろよ!」
可愛くない言い方だと、自分でも思う。でも素直になるタイミングがわからない。胸の奥から嬉しさが込み上げてくるのは確かなのに。
「僕が許せなかったからいーんだよ」
ぽんっと諸伏が僕の頭に手を置いた。
「あのさ、降谷。お前は友達なんていらないって言ったけど」
諸伏は絵の具でぐちゃぐちゃになった僕の頭を撫で回しながら言う。
「こっちが友達だって思ったらお前はもう僕の友達なんだよ」
最初からそうだった。諸伏は僕の気持ちなんかお構いなしだった。
馬鹿じゃないのか。
僕のせいで、苛められるかもしれないのに、なんで。僕なんかよりあいつらに媚びた方がうまくやっていけたはずなのに、なんで。
ああ、でもそしたら僕はまたひとりで諸伏たちを眺めているだけなんだ。
嫌だ。
そうか僕は。
本当は諸伏と友達になりたかったんだ。
うわ、お前の髪、凄い色になっちゃったな。僕も服汚しておばさんに怒られるかな。諸伏は隣でぶつぶつ言っているけど、僕は涙が止まらなくなっていた。
「降谷……?」
困った顔で諸伏がこっちを見ている。恥ずかしい。穴があったら入りたい。
だけど一度溢れ出した涙は止まらない。
声を上げて泣きじゃくる僕に、諸伏はクスクス笑いながらこう言った。
「お前、泣いたらすげー不細工だな」
「うるさい……っ、誰のせいで……」
不細工、という言葉が逆に嬉しかった。なんだか特別に思える。可哀想と同情されるよりも、ずっといい。
「景光って名前、呼びにくいからヒロでいいぜ。ヒーローみたいだろ」
えーズルくないか?と言っても、景光はヒロという呼び名を曲げるつもりはないようだ。
「降谷の下の名前の『れい』ってどんな漢字? ……難しいな、まだ習ってない漢字だ」
「数字の0と同じ意味だよ」
でも、あまり好きじゃない、存在してないみたいだからと付け加えた。
「数字の0……そうか、ゼロだ!」
「ゼロ?」
「ヒーローの相棒みたいで格好いいだろ?ゼロって」
得意気に、自分のことのように言う景光が可笑しかった。
「なんでお前の相棒なんだよ」
「明日から苛めっ子との戦いの日々だぞ、ゼロ号よ」
「誰がゼロ号だ」
だんだん耐えきれなくなってきてお互いの顔を見てプッと吹き出してしまう。絵の具と涙で混ざりあった僕の顔を見て、景光は微笑んだ。
「ゼロは笑った方がいいな」
「何だよそれ」
「ヒロはいつも笑ってるよな」
「そう、ヒーローはピンチのときでも笑うんだ。だから僕はいつも格好いいんだよ」
ああ、悔しいけど、その笑顔は自信に満ち溢れていて本当に格好良くて。同い年の男の子とは思えない位逞しくて強かった。
「……原木選手のジャンプは凄かった」
「へ?」
「実は僕も見たんだ、オリンピック」
「ゼロも見たんだ!すごかったよな」
「視聴覚室のテレビでこっそりな。内緒だぞ」
平日の昼間に中継されるスキージャンプ団体戦がどうしても見たくて僕は視聴覚室に忍び込んだ。
「よく先生にバレなかったな」
「マラソン大会、ズル休みしたからね」
ペロッと舌を出してみせると、悪い奴だなとヒロが笑った。
春休みが明けた四月。学年が一つ上がる、クラス発表の日。昇降口に集まる生徒たちは皆、貼り出された紙を見ようと必死だ。
「ゼロ!」
「ヒロ、どうだった?」
あのな……と言ったきり黙り込むヒロ。ごくりと生唾を飲む。
「また一緒のクラスだ!」
「やったー!」
桜のつぼみが花開く頃、僕にもやっと友達が出来ました。
名前はヒロ。
彼は僕のヒーローです。