柘榴の涙ジャミルのインク瓶は特別製だ。
画一的な四角いガラス瓶とは違う、ころんと丸い形もさることながら、陽光に様々に煌めく色ガラスの鮮やかさが一際目を惹く。
特に鮮やかな赤色の模様が気に入っているが、何よりも素晴らしいと思うのはその機能性だった。一見そうとは見えないように刻まされた魔法陣はジャミルのマジカルペンと呼応し、自動的にマジカルペン内にインクを補充してくれる。
マジカルペンを介して魔法を使うため、マジカルペンへのインク補充は必然的に手作業になりがちな魔法士には嬉しい機能だった。ジャミルはカリムの元で、いくらでも美しく貴重なガラス細工を見た事があったけれど、この自分のインク瓶が一等美しいと思っていた。賢者の島内部であれば、どこにいてもインクを補充出来る売り文句に誤りはなく、おかげでジャミルはインク壺を持ち歩く事から解放された。自室のランプ下に置いてあるインク瓶の輝きが強い事に気づいて、ジャミルは予習の手を止めた。買って以来机の上から動かしていないガラス瓶は、インクの残量によって光の反射率が変わる。キュポッと蓋を外せば、思った通り底に僅かにインクが残るのみだった。
「しまったな。購買で買ってくるか……、いや。そういえば」
みっちりと並んでいる本の中からレターブックを探し出す。本の形を模した箱の中、積み重なっている封筒の一番上に目的の物があった。店名が記されただけの、シンプルな薄緑の封筒から取り出した二つ折りの受け取り証書には、明日の日付が書かれている。リドルから商品の評判を聞き及んでいたジャミルは、小さく微笑んで外出届にペンを走らせた。リドルが召喚魔法の試験で呼び出した炎の鳥は、ジャミルの目を奪うほどに美しかったのだ。
石畳通りは学校からそれほど離れている訳ではない。だが、いかにも老舗といった店構えが並ぶ為、他の通りよりも格段に静かで人通りも少なく、歩きやすい。名前の由来にもなった複雑な模様を描く美しい石畳は、すり減ってデコボコしているが、歩行の妨げになる程ではない。耳に心地よい足音と踊るように進めば、緑の美しい扉にたどり着く。ドア横にある出窓には職人のからくり人形と共に、羽ペンや色とりどりのインク瓶が並んでいて、季節にちなんだ花や小物で飾られたディスプレイの中には、金と薄緑で書かれた店名が掲げられていた。
インク店ElderWaller-賢者の島店-
神歴3452年創業と、誇らしく記されている。
「いらっしゃいませ」
涼やかなドアベルと共に一礼した店員は妹と同じぐらいの年頃に見えた。
「本日インクの受け取り予約をしているジャミル・バイパーです」
「受け取り証書をお預かりいたします」
封筒ごと渡せば、二つ折りの用紙を取り出したエリンは一つ頷いて窓辺の椅子を勧めた。
「少々お待ちください。よろしければそちらの椅子におかけください」
「あぁ」
ディスプレイウィンドウとはドアを挟んで反対側にある小窓の前に、小さなテーブルと二脚の椅子が配置されていた。飴色に艶々と光る、よく手入れされた椅子に腰掛ければ、店内が一望できる。棚に等間隔に展示されているインクは、落ち着いた店内を宝石のように照らし、天球儀で作られた夜空が星の明かりを降らせる。こうも落ち着く店内も珍しく、失礼にならないように、でも目を輝かせて店内を見渡した。彷徨う視線の先で、何か動いた気がしてハッと振り返ったジャミルは、目と口を大きく開けてその光景を見た。ポットとカップがふよふよ浮きながらこっちに向かってきている。ハーツラビュルならともかく他ではあまり見ない光景に、思わず握りしめたマジカルペンを胸ポケットに戻しながら瞬きをした。
よく見ればクリックボードも一緒に向かってきている。ジャミルの目の前まで空を泳いできたクリックボードは、紐で繋がったペン先で器用にメニューを指し示した。どうやらこの中から選んで欲しいらしい。
手書きの温かみを感じさせるメニューには飲み物が三種類とお菓子が二種類書かれており、ジャミルはその中から紅茶とビスケットを選んだ。サッとカップが手元に飛び込んできて、ティーポットがえっちらおっちらとそこに暖かい濃赤の飲み物を注ぐ。小皿に入ったビスケットもお手拭きと一緒にふわりとテーブルに着席し、いつの間にかそこにいたシュガーポットとクリーマーは優雅に舞い降りた。最後にクリックボードが眼前に現れて、「お待ちいただき申し訳ございませんが、ゆっくりとお寛ぎください」と書かれた紙を見せた。
「あ、ああ。ありがとう」
器用に小さく一礼したクリックボードに続き、使われなかったコーヒーポットと水の入ったジャグが名残惜しそうに振り返りながらカウンターの方に向かっていく。本当に俺を飲まないの?とでも言いたげな様子に、ジャミルは苦く笑った。随分と個性がある食器たちだった。心地よい静寂の中、ほっと息をつく。ぼんやりと、光を反射して万華鏡のように表情を変えるインク瓶を眺めながら紅茶をいただく。立ち上がる豊かな香気を深く吸い込んで、ふぅと息を吐くだけで、何かが満たされる心地よさがあった。
しばらく堪能していると、チリンチリンと、乱暴に開けられたドアがけたたましく音を立てて、ジャミルの束の間の静寂は騒音によって破られた。
「こんにちはー」
声と共にドアを開け、踏み込んできた男は、随分な格好をしていた。ボサボサの金髪をヘアバンドで雑にまとめ、汚れ煤けたゴーグルを目元に掛けている。更に言えばその格好はツナギで、安全靴の汚れを遠慮なく店内にこぼしていた。
「……っ!」
こういう時、一介の客の立場としてはどう対処すれば良いか分からない。
思わず取り出したマジカルペンを握り締め、軽く腰を浮かせた状態でいるジャミルに気付かず男はあたりを見渡した。腕に抱えた大きな箱をよいしょと抱え直し、
「ルーカスー! いないのか? エリンさーん!」
思わずジャミルが耳を塞ぐような大声で吠えた。
キーンと痺れる鼓膜に震えながら、痛みをやり過ごしていると、勢いよくドアが開かれるのが見えた。店の奥に繋がるドアが勢いよく壁にぶつかりリバウンドする。出てきたのは怒気で顔を染めたエリンだった。クラシカルな制服の袖を捲り、アームカバーで留め、汚れた手を布巾で拭いながら大股で不審人物に近づいていく。
「お、おい」
思わず腰を上げたジャミルの前で彼女の口が大きく開く。
「納品は裏口からお願いしますって何度言えば理解してくれるんですか! シュルートさん!」
ドア枠に頭をぶつけそうな長身の男に食ってかかったエリンは、呆然と手を中途半端に伸ばした状態で中腰のジャミルに向き直ると深々と頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。ジャミル・バイパー様。現在準備をしておりますのでもう少々お待ちいただけますか?」
「あ、あぁ。それは構わないが、その男は……」
「俺か? 俺はナツカ・シュルート。ガラス作家だよ」
片手で荷物を抱え直した男は、ゴーグルを上げながらにこやかに笑った。友好的に見える笑顔の中で、そのトパーズの瞳孔だけが縦に裂けていた。
「大変お待たせして申し訳ありませんでした。こちらがバイパー様が注文された指定インク「柘榴の涙」でございます。熱砂の国にのみ咲く涙を流す鳳仙花の蜜と柘榴石の粉末を使用し、バイパー様の魔力に合うように純水の泉の雫を配合しています。日常使いもされたいとの事でしたので、配合魔力は低めにしておりますが、簡単な魔法式や魔法陣でしたらマジカルペンでの魔力変換なしに使用する事ができます。お確かめいただけますか?」
コトリと机に置かれたガラス瓶の中で、褐色のインクが揺蕩っている。ゆらりと揺れる水面は粘度があり、ガラス瓶に張り付いては波のように引いていく。波が引いていく瞬間に赤く煌めき、揺蕩えば金の漣が見え隠れする。ジャミルが今までに見たことのないインクだった。
手元に置かれたガラスペンを持ち上げ、恐る恐るインクに浸していく。瞬間、ガラスペンをつたってインクの魔力がジャミルの指先と結びついた。他人の魔力など、違和感と気色悪さを感じるはずなのに、水のようにするりと解け、体内の魔力と結びつく。魔法による知覚がインク瓶まで広がるなんとも言えない感じに、思わず息をつめた。
「こ、れは……」
「どうぞ、ペンを引いて紙にお試しください」
そっとインク瓶からペンを引き抜き、雫が落ち切るのを待ってから、用意された紙に向かう。ジャミルの魔力を纏ったインクに導かれるように書き記したのは、緻密さに息を呑むような魔法陣だった。
脳裏にあるものを正確に映し取ったような出来栄えに、ふぅーと息を吐いて呼吸を整える。腕より手より、ずっと自由に自分の魔力で記せた。魔力を直接操る全能感はオーバーブロッドの時にも似ているが、それよりもずっと健全で自然だった。
「これは、……自分の魔力に合わせたインクを使うべきだと言われるのも分かりますね」
「お気に召して頂けて何よりだ」
笑いを含んだ低い声に上を向けば、顔面に煤をつけたままの店主が出てきていた。
「お久しぶりです。マイスター」
「こちらこそ、前回の測定は手が離せずエリンにお願いしていたからな。バイパーが自身の買い物にうちの店に来るなんて初めてじゃないか? 余計に魔力が引っ張られる感じや、足りないと感じる事はないか?」
「いえ、申し分ない。とても気に入りました」
「それは良かった。騒がせた詫びに、何かおまけしてやるよ。欲しいインクとかあるか?」
それはさっきの男の事を言っているのだろう。確かガラス作家と名乗っていた。
「いえ、……この店のガラス瓶はあの男から購入してるのでしょうか?」
今ジャミルのインクを入れている四角いガラス瓶は特に特徴がなく、画一的だ。作家がわざわざ手がけるようなものに思えなかった。
「魔法士が使うような、指定インクは保存も一筋縄じゃないかない。インクの内包魔力が抜けないように器もある程度の魔法的強度が必要になってくる。短期間使い切りのインクは別にそういうのは要らないんだが、バイパーのインクは日常遣いもする長期間用のインクだから、出来ればインクに合ったインク瓶が合った方が、より安心しては使用できるな。勿論、作成時に魔力が抜けないような処理はしているが、インクは使用者の魔力と相互に影響を及ぼすから、どうしても変質を防ぎきれないところがある。そういうインク瓶を作っているのが、あの男だ。あんな見た目だが、腕は良いぞ。いくつか見本を見せてやるよ」
そう言ってジャミルの前に並べられたのは、どれも美しいガラスのインク瓶だった。丸や四角といった形をしているが、どれも捻ったり引っ張ったりされていて、驚くほど賑やかだった。
「色ガラスを使っているんですね」
「その方が魔力を込めやすいんだよね」
にゅっと、顔を出して来たのは正にその作者だった。
「さっきは驚かせてごめんね〜、この時間誰もいないと思ってさ。ガラス瓶が必要なんだろ? お詫びに俺の作品を一つやるよ。どんなインクを買うんだ?」
「やめろ。個人情報だ」
肩を跳ねさせたジャミルの前で、ルーカスが男を阻止するように体でガードする。
「なんだよ。どうせインク瓶を選ぶにも、インクとの相性を見る癖に」
「だからってお前の出番じゃない」
「ちぇー……ん、んん?」
ナツカはジャミルの顔を改めてまじまじと見て、訝しげに眉を顰めた。首を傾げ、ジーとジャミルを見つめる。
「な、なんですか?」
「やめろ、この馬鹿」
後ろも見ずに拳を叩き込んだルーカスを余裕の顔で避けて、ナツカはジャミルを覗き込んだ。
「ん〜、あっ! 思い出した!」
「だからやめろ馬鹿!」
「待て待てルーカス! この子お客さんだ!」
「今まさに俺のお客様だわ」
「違うって! 前に露天でインク瓶を買ってくれたお客さん!」
いきなり指さされたジャミルは、顰めた顔を隠す余裕もなかった。何いってるんだ、こいつはの表情を取り繕う前に、ナツカはほら!と説明を続ける。
「前に鮮やかな赤が入った色ガラスの、こんな大きさの丸いガラスインク瓶を買っただろ? マジカルペンとインク瓶を繋ぐ魔法陣が瓶の底に仕込まれているやつ!」
その説明に、ジャミルは思わず叫んでしまった。
「売ってたのじーさんだっただろ!!」
ジャミルが思わず露天で買ったお気に入りのインク瓶を売っていたのは、記憶が正しければじーさんだった。薄れたボサボサの髪に、地味に色の服を着た、手先がまだらに汚れていたじーさんだった。確かに顔は碌に見えなかったが、嗄れた声をしていたし、インク瓶に夢中なジャミルはじーさんとしか思っていなかった。それが、こんな獣人の特徴色濃い男だったとは。
「久しぶり〜、あのインク瓶使ってくれてる? 不具合ない?」
「あ、あぁ。色あいも気に入っているし、機能も問題ない。いつも使ってる」
「いや〜ありがとう。あれは会心の作品だったから気に入って貰えて嬉しいよ。あ、このインクはあの瓶に入れるの? インクの種類によっては合わない事もあるから、インク瓶作家として同席させてよ。ルーカス。あのインク瓶はお前のところに卸してないし、お前も詳細を把握出来ないでしょ」
はぁー、と大きなため息を吐いて、ルーカスはジャミルの方を見た。
「バイパーもそれで良いか?」
「え、ええ。構いませんが……」
すっかり勢いに押されてしまったジャミルは疲労のため息を吐きながら同意した。
「このインク瓶は熱砂の砂漠から採れた珪砂で作ったガラスを使用していて、砂金を溶かし込んで赤を作ってある。溶かした砂金は凪のオアシスで採れたものし、同じ場所で採れた銅で他の色を作っている。だから、柘榴の涙みたいなインクとの相性は悪くないと思うよ。ただ、最適かと言われると、ちょっと違うんだよね」
「それは、他のインク瓶を使用した方が良いという事でしょうか?」
お気に入りのインク瓶なだけに、そうはしたくないジャミルだった。
「いや、これでもこいつはガラス作家だからな」
「そうそう、持ってきて貰えば調整はできるよ。勿論見た目を変えずにね」
「今日この後時間あるか?」
すでに日は傾いているが、寮の夕食にはまだ時間があった。箒を飛ばせば間に合わない事はない。それに、今日はカリムがハーツラビルで夕飯を食べる日だった。それを考えれば寮の夕食の時間に間に合う必要もなかった。
「そんなに時間は取らないよ。お詫びに無料でメンテナンスするから、今からでもインク瓶を持ってこれる。今日から使いたいでしょ、新しいインク」
その言葉に背を押されるように、ジャミルは頷いた。
「すぐ戻ってきます」
その言葉通り、ジャミルはすぐに戻ってきた。学園に戻るなり箒を呼び出して寮まで飛んだジャミルは、大事にインク瓶を布に包んでその足で店に引き返した。
すでにクローズの札がかかったドアはジャミルを拒まず、店内のは少し模様替えされていた。店の真ん中に引き出されたテーブルは脚が華奢な年季の入ったもので、敷物も敷かれていない板面にはジャミルのインクとガラスペンの他に、瓶詰めにされた魔法素材と小さな錬金炉が置かれていた。その前の椅子に腰掛け、目に嵌め込むモノクルタイプのルーペを装着したナツカは、先ほどのゆるい空気などなかった。
少し息の上がったジャミルに向けられた瞳も鋭く、思わず息を呑んでしまう。
「こら、威隠すんな。すまんな、バイパー。こいつの種族特性だ。本人に威嚇しているつもりはないし、これでも腕の良いガラス作家なんだ」
「え、威嚇してた? ごめんね〜、ジャミルくん」
「気安いわ馬鹿が」
「そうかな〜」
「……いえ、気にしていません。お二人は随分と親しいのですね」
ただの仕入れ先と卸先と言うには、違和感があるほどには親しい間柄に見えた。
「あぁ……」
チラリと見遣るルーカスに、ナツカは良いよ〜とのんびりした声だ。
「こいつはNRCの後輩だ」
「え、という事は……」
「でも中退したから、ジャミルくんの先輩というには烏滸がましいかな〜」
何とも衝撃的な情報に、何と返して良いのか分からず、モゴモゴと口を動かすジャミルを見かねて、ルーカスは椅子を引いてジャミルに示した。
「気にするな。ほら、こっちに座ってインク瓶を渡してくれ」
布に包まれたインク瓶を取り出して、人工の星空の下にかざしたナツカは、確かめるように透明なガラス棒で何度かつっついた。キンッ、キーンと鳴る高い音から、ナツカは何かを読み取れるようだったが、門外漢である二人にはトント分からなかった。
「ジャミルくん、大事に使ってくれてありがとうね。この子も嬉しいって言ってる」
「は、はぁ」
「じゃあこれからメンテナンスしていくね」
指先を鳴らして錬金炉に火を入れ、慣れた手で次々に瓶を開けていく。
「月桂樹の葉に星屑の水、オアシスの結晶石に、ジャスミンの花びら。そこにルビーをひと匙」
歌うように素材を読み上げながら、錬金炉を操る手つきに澱みはない。
魔力で素材を蕩して、練り上げていく。滑らかに魔力で行われるそれらの作業は、魔法の櫂を補助にジャミルたちが行う錬金術よりもよほど高度だった。とろけ、黄金に輝く錬金炉の中に、ジャミルのインク瓶を落としていく。ゆらりと、炎が瓶の中で動いた気がした。瓶を覆う黄金の液体は、意思を保つように瓶を覆ったかと思うと、硝子の中に吸い込まれるように消えていった。
火が落ちた錬金炉の中で、瓶がコトリと音を立てて着地した。
ナツカがガラス棒で小さく突くと、ふわりとガラス瓶が浮かび上がり、星空の下で金の輝きをこぼす。底に刻まれた魔法陣は勿論、
鮮やかな赤の紋様も、光を拡散させる色ガラスも変わらず、金のヴェールで覆われたような輝きだけが加わったようだった。
「どうかな。ジャミルくんに合わせた柘榴の涙のインクなら、これで良いと思うんだ」
「そうだな……、問題ない。完璧な仕事だ」
「いやー、さすが俺だね」
真剣な表情で吟味され、魔法の光で解析されたインク瓶は、ジャミルが包んできた布の上に置かれた。
今インクを詰め替えてやると、マジカルペンとインク瓶に特製の洗浄魔法をかけて、魔力遮断の手袋に包まれた手で慎重に入れ替える。
「インクの詰め替えは手作業なんですか?」
利便性を追求されたインク瓶だというのに、詰め替えるのは結局手作業になるのかと少しがっかりしたジャミルに、首を振ったのはナツカだった。
「ジャミルくんが行う場合は大丈夫だよ。ただこれはジャミルくん専用に調整されたインクとインク瓶だからね、制作者といえども他者である僕らの魔力が混じるのはよろしくないから、念には念を入れて手作業なんだよ。あ、あの洗浄魔法はインク屋十八番の特殊魔法だから、残留魔力は0だし、問題ないから気にしないでね」
「いえ、ありがとうございます」
とくとくと、ガラス瓶の中にインクが流し込まれ、拡散する光が深みを増していく。淵まで入ったところで、ルーカスは慎重に蓋を閉めた。そこにインク屋の細長い封をして、紙箱に入れていく。手際よく包まれたインクが入った紙袋には、ジャミルが持ってきていた布も入っていた。
「待たせたな。さて、お会計といくか。学園発行の販売許可書をくれ」
「あ、はい」
ポケットに仕舞っていたそれを受け取り、問題ないと確認をした後に、店のスタンプを押していく。机に置かれたトイレの上には、すでに値段ぴったりにジャミルがマドルを置いていた。
金額を確認し、領収書にもサインと店の印を押して、ルーカスはそれらの書類を手早く複製した。店名が印字された薄緑の封筒に入れていく中で、一枚の金属で出来たカードをジャミルに向かって掲げる。
「これが、インクのレシピナンバーが書かれているカードだ。次回のインク購入にはこのカードと本人確認書類、マジカルペンを持ってきてくれ。事前に連絡をくれればそれまでに作成する事も可能だが、出来れば毎回魔力を測定させて欲しい。学生の間はまだ成長期だから、稀に魔力の波長が変わる事がある。特に大きな魔法事故に遭ったり、ユニーク魔法が発現したり、後はあまり起きて欲しくないがオーバーブロッドしたりするとな」
何気ない言葉にヒヤリとしながら、ジャミルは頷いた。
「分かりました」
「後、最近出た今季のうちのカタログも入れておくから、良かったら見てくれ」
「インクの配合が変わるとインク瓶も弄った方が良いから、良かったら僕の工房にも顔を出してね〜」
顔をこちらに向けてくるジャミルに、ルーカスは仕方なく頷いた。
「インク瓶の調整が必要になる事もある。その時は事前に相談してくれ」
「分かりました」
「ほら、俺の名刺も入れておくね〜」
「だから止めろ」
素早く袋に投げ入れられた名刺を取り出す事なく、ジャミルは軽くなった財布と共に立ち上がった。
「そろそろ夕食の時間だろ。門限も近いし、時間を取らせて悪かったな」
「いえ、インク瓶のメンテナンスまでありがとうございました。またよろしくお願いします」
「こちらこそ、またご贔屓にどうぞ」
「うちの工房もよろしくね〜」
「だから止めろって言ってるだろ」
賑やかな声を背に大きくドアを開く。一歩外に踏み出せば、すでに月が支配する世界だった。
「また来ます」
「気を付けて帰ってね〜」
「だから、……はぁ。お買い上げありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
頭を下げたルーカスの横でナツカが緩く手を振っている。
緑の扉がゆっくり閉まり、CLOSEと掲げられた金属札が小さく揺れた。
手に感じる重さがなんだか嬉しくて、ジャミルは口元に笑が浮かぶのを止められなかった。ジャミルだけの特別なインクとインク瓶を、早速夜の復習で使おうと、足取りが早くなる。
ここは賢者の島、石畳通り。
神歴3452年創業、インク店ElderWaller、賢者の島支店。
当店は、マイスター在中店舗。速乾滲まずの事務用インクから、魔法士一人一人に合わせた特製インクまで、あらゆるインクの製造・販売を行っています。
どうぞ、お気軽にお立ち寄りくださいませ。