冬至の祭礼は、国の鎮護を天に願う重要な行事だった。準備に追われる官吏らはもちろんのこと、郊祀の要となる王もまた忙しい。その合間を縫って首都州外の視察に赴いていた王は、外殿の裏に虎のような騎獣を降下させた。王に同行していた軍吏らとその騎獣は、当然ながら宮から離れたところにある兵舎に向けて帰還している。王の居城のそばでは、騎獣どころか剣の携行さえ許されない。王だけがただ一人横着をして特権を振りかざし、足寄りがいいところに乗入れたのだった。
騶虞が地に足の裏を着けると、ずしりと重たい音がした。続いて王が身を滑らせて着地する。
「萊蔾、ここまで来れば、お前は一頭で戻れるな?」
そして宮中で働いている人々が悲鳴を上げそうなことまで言い出した。
長距離の飛行を終えても双眸に強い光を宿したままでいる騶虞は、じっと王を見つめる。王が言うことを理解した上で、いいのか、と問うているようでもあった。いかに萊蔾が利口な騎獣で分別があり、命じられない限り人を襲うことがないといっても妖獣である。人の手足などひと咬みで失くしてしまえる生き物が、手綱を引く者なしにそこらを闊歩しているとなると、いらぬ騒ぎを引き起こしかねないのではないか。萊蔾の方がそのことを承知していそうだった。
しかし王は労うように白地に黒の縞模様の首を叩き、鈍い足取りで歩き出してしまった。騶虞が低く喉を鳴らす。王は宮に続く階段に足をかける。どうしたものか——と獣が思案したかは不明だが、
「主上、お戻りでございましたか」
下官を伴った荘朿が折よく回廊の端に現れ、王の姿を見つけて駆けてくる。すぐに事態が飲み込めた荘朿なので、叩頭を済ませたあとは下官の抱えていた書状を引き取り、厩舎の者を呼んでくるように命じた。
「驚きました。明日になると伺っていましたので」
「早く済ませた」
「それはようございましたが……」
涼やかな露草色の瞳が、ちらりと騎獣を見やってから王に向きなおった。「出したならちゃんと仕舞うまでやりなさい」と、咎める視線だった。対して王の関心は荘朿の腕の中の束に向いている。
「祭祀に関わるものか?」
「はい。小宗伯から目を通して欲しいと。来賓の並びもおよそ定まったとのことです」
「寄越せ。それも済ます」
「いえ、まずは私が確認いたします。——主上ともあろう御方が酷いお顔です。稼いだ時間の分だけでも、お休みになるのが宜しいかと」
王は、気を遣って休息を勧められたのだ、とはもちろん考えなかった。荘朿は惺苑とは異なって、底抜けのお人好しなどではない。この時期にわざわざ休めと言ってきたのは、その方が自身にとって都合がいいからだろう。疲弊した状態の王を諸事に取り組ませるより、一度休んで冴えた頭で裁可させていく方が早く、無駄な手間を増やされずに済む、などと思ってのことに違いない。王に手厳しいのはいつものことだが、荘朿もまた疲労の極みにあり、敬意を払う素振りまでが疎かになっている気がする。
王がげんなりしていると、どこから伝達があったのか女官らまでばたばたとやってきて、堂室への移動を促してきた。
気怠そうに歩き出した王の背を見送って、一人きりになった荘朿は、段下の騎獣が見える位置に腰を下ろした。何もせずに外にいては、すぐに体が冷えてしまう季節になっていたが、見つけた騎獣をこのまま放っておくわけにもいかない。迎えがくるまで待つことにして、この時間を息抜きにあてることにした。
「無茶を強いられましたか? 鹿州は遠かったでしょうに。主上は相手が人だろうが獣だろうが、使い方が荒いから」
話しかけられた騎獣は、すでに温順しく土の上に寝そべっていた。
「——私は、このようなお役目を賜ることがなければ、道を変えて空行師にでもなっていたと思いますよ。騎兵として、鎧を着けて、佩刀して。その方がしっくりくるだろうという、確信のようなものがあるのです。けれどまさか、あの破天荒な主上陛下を、台輔お一人にお任せするわけにはいかないでしょう?」
獣は尾を滑らかに揺らした。荘朿は目を細めながらその様子を眺め、はあ、と白い息を吐いて手先を温めた。
旗袍を脱いだ王が部屋着を着せ掛けられていると、女官が水の入った桶を抱えて室に入ってきた。卓子に盥と共に置き、もう一人の女官がしずしずと柄杓を運んでいる。手などを清めるためのものだった。それを見ながら、王はふと思い至って、
「熱くしろ」
と簡潔に命じた。すぐに火鉢の中の焼石が移され、桶の中にはぶくぶくと泡が立ち、湯気を放ち始める。ほどよい温度になるよう水が足される。
「外はそれほど冷えておりましたので?」
耀賈が帯を締めながら問うと、王は「いいや」ときっぱり答えた。
「氷水だろうと我は構わんが、指を冷やしたままで会いに行くと、くろがむくれる」
「確かに。念入りに温めて行かれませ。先の賭けでは、台輔がお勝ちになられたのですものね」
「珍しくな。あれは温室に篭ったままか?」
「ええ、ぬくぬくなさっておいでのはずですよ」
「我が寒空のもと働いていたというのに」
「仕方がありません。台輔はお寒いと具合が悪くなられますもの。お勤めを怠けておられるわけでもなし、お責めにならぬよう。——水門の様子はいかがでしたか?」
「悪くない。お前の水汲み機もよく動いている。欲を言えば数を増やし、堤防の範囲を広げて作業を早めたいところだ。春の嵐までには済ませてしまいたい」
「倍の大きさに組み上げる算段はつけてございますよ。ただ、まだ試作ができていないのです。邑烓に下りて工匠を雇っても宜しゅうございますか?」
天官たる耀賈の仕事といえば、王や宰輔の身辺の世話をすることである。しかし彼女はそればかりでなく、画工として筆を走らせたり、工人としてもの造りに励んでいたりもする、自他ともに認める変わり者だった。審美眼と画力は確かながら、非凡の才ゆえに周囲の理解の及ばぬ奇天烈なものを拵えてしまうことが多い。しかし遅々として進まなかった土木工事の根本を変えてしまうような絡繰を、ぽんと出してくることもあるのだった。
「うちの者を使えばいいだろう」
「郊祀が近いのですから、祭礼用の品を造るのに忙しいでしょう。こんな時期に仕事を増やしやがってと、恨まれたくはありませんもの」
「ならば好きにしろ。だが、あまり宮は空けるな」
王の許諾が得られて、耀賈はにっこりした。そして王の懸念は無用であることを、自信を持って受け合った。
「台輔のことでしたら大丈夫です。釿婆子を改良してございますので、うんと長くぬくぬくしていただけますし、中の木炭末と麻殻の交換のやり方もご習得なさいました。私が数日宮を離れても、問題などございませんとも」
「そんなものまで使っているのか。外に出るわけでもなしに」
王は丹色の眼を丸くして嘆息した。釿婆子といえば、懐中に入れて暖をとる器具、いわゆる懐炉である。金属でできていて、中に込めたものが少しずつ燃焼することによって持ち主を温める。冬の旅路を行く者や、雪の山岳を行く兵が腰にたくしこんでいるもので、暖められた室内にある者にとっては無用の長物である。最北に位置する霎や櫂の国ならば常用の品としてありふれているだろうが、萋においてはいっとう冷え込む正月あたりで出番があるかどうか程度のものでしかない——と王は考えたが、それを汲んだ耀賈は宥めるように言った。
「台輔はすぐにお身体が冷えてしまいますから」
「肉が足りんのだ、肉が」
「あら、私はあのお姿が綺麗だと思っておりますので、変わっていただきたくはありませんね」
軽やかに会話を交わしながらも、耀賈はきびきびと王の身なりを整え続ける。壁際に並び黙している女官たちは、物怖じせず着実に仕事をこなしていく耀賈の手腕を、いつでも心内で賞賛していた。疲労が濃かろうとも、王から滲み出る覇気は周りを威圧してやまない。耀賈だけがけろりとしていられるので、女官たちは王と同じように「あまり宮を空けないでくださいまし……」と心底から願った。
麒麟の居城、仁重殿に渡った王は、真っ直ぐに宮の奥を目指した。役人たちが詰めている書房ではなく、麒麟の私室の延長にある書房の方に進む。扉前には侍官が立っていたが、彼らに王の足が止められるはずもなく、中からの許諾を待たずに扉は開かれてしまった。廊下の冷気と、中から流れ出てきた暖かな空気が入り混じる。山河を螺鈿で描いた衝立の裏に回ると、陽のあたる位置にある長卓の向こうに、こんもりとした山型の衾が腰掛けているのが見えた。
「くろ」
近づいて、鎮座している山の角をめくってみると、磨いた墨そのもののような黒い髪——麒麟の本性は獣なので、正しくは鬣という——が埋もれるように突っ伏していた。王は呆れた息を吐いて、衾に包まったまま仕事をしていたらしい黒麒をひょいと抱え上げた。ものが落ちる音がしたので見てみると、黒麒の膝にあったのだろう掛け布が床に流れていた。布のふくらみと硬い音は、例の釿婆子だろう。
「お前、まだ冬はこれからなのだぞ。いまからこんな調子でどうする」
疲労のためか、あるいはこの室内の暖かさのためか、くうくうと寝息を立てている黒麒を牀榻に運び、転がした隣に腰掛けて、王は羽織っていた上衣を脱いで襟を緩めた。
「暑くないか?」
黒麒は年若い少年の姿のまま長い年月を生きているので、寝顔にはあどけなさが残っている。額にはほのかな湿り気があって、暑がっているように見えなくもないのだが、黒麒の手足はもぞもぞと動き、全身をしっかりと衾の中に隠してしまった。眠りが深いのか、触れても反応がない。耀賈は「怠けておられるわけでもなし」と弁護していたが、思いきり寝過ごしているではないか。
「くろ」
湯で温めず、外の冷気に晒したままの手でぺたりと触れていたなら、かっと目を見開いて、麒麟にあるまじき形相でこちらを睨みつけてきただろう。だが今年はそういったことが出来ない。してはならないことになっている。
——わたくしが勝ったのですから、約束していただきます。春になるまで、鬣は切らないこと。冷たい手で触れてこないこと。遠乗りにも誘わないこと。湯上がりに露台に連れ出さないこと。それから、
——多いぞ。細々と。
——でも、わたくしが勝ちました。
王は勝負事で負け知らずの才と強運を持っている。しかしある秋口、仕事の山と向き合っていた二人が興じた、ほんの戯れの言葉遊びのような賭け事は、どのような八卦が働いたのか黒麒に味方した。この機を逃してなるものかと、黒麒は珍しく頬を紅潮させて前のめりになり、王につらつらと要望を訴えた。それに対して「わかった」と応えてやったのは、面倒さ混じりのほんの気まぐれではあったのだが、些細な約定は、今でも一応は守られている。
「くろ」
何度呼んでも、黒麒は起きなかった。手持ち無沙汰な王は、黒麒の頸に手を差し込み、撫で上げるようにして黒い髪を引き摺り出した。しばらく切らないうちに、持ち上げられるほどの量と長さになっていた。この姿を見るのは久しぶりだから、目に楽しくはある。しかし黒麒が無為なしがらみを後生大事に守ろうとしているようにも見えて、重そうだし断ち落としてやるか、と刃物なり鋏なりを振るうことが多かった。しかしそうしたことは黒麒にとってはいい迷惑であるらしい。
髪は獣姿のときには鬣として、細長く伸びる首にかかるものだという。髪を切ると「こんな姿ではお見苦しいので」と言い、髪が伸びても「お目にかけるほどのものではありません」と言って、頑なに獣姿を見せてこない。ゆえに転変の詳細は未だ不明である。
王は黙々と射干玉の黒を編んでみた。ゆったりとした膨らみを徐々に細めていき、束ねた先は黒麒の腰から抜いた帯紐で縛ることにした。結び目を作り終えたと同時に、王がぱたりと倒れる。並んで横になってみても黒麒は目覚めない。寝息は穏やかで、淀みがなかった。
「つまらんな」
せっかく時間が空いたというのに、退屈なばかりだ。
王は衾に包まったままの黒麒に腕を回す。すると懐までが温められて、欠伸が出た。そのまま沈むように寝入った。
「——いけない」
夢の中でも現実でも同じ言葉を呟いて、黒麒はぱっと瞼を開いた。
卓について届いた書状に目を通し、直すべきところをまとめていたのだが、あまりに腕が重くて筆が進まず、字が書けない。どうしてだろう、やらなければならないことはまだ沢山あるのに、一文字さえ書ききれない。ああもどかしい——と思いながら気がついた。これは夢だと。
予想と異なっていたのは、長卓に突っ伏している体制ではなく、臥室に横になっていたことだ。夢遊によって移動してしまったのかと疑ったが、疑惑はすぐに解消された。王気が間近にあった。
「また勝手に連れ込んで」
姿や声を捉えられなくとも、麒麟は王を過つことがない。たとえ遠く離れても、己の王はあちらにいるのだと漠然と分かる。近くに寄り添っていればなおのこと強く王気を感じる。埋もれていた顔をぐんと持ち上げてみれば案の定、金の睫毛を伏せた端正な面立ちがあった。
やることが山となければ、熟睡しているこの人を湯婆子代わりに、いつまでもぼうっとしていたい。冬は嫌いだ。寒さは刺すように身を苛むし、水は冷たくなり、景色を閉ざす雪が降る。かつての王は、どちらも冬に逝った。いやな季節だ。暖かな陽だまりだけが恋しい。すぐに暗くなるせいか、過去を思い返して鬱々としてしまうのもいやだ。
黒麒は頭の中に凝る煩いを、頭頂ごと王の胸元にぐりぐりと押し付けた。この王なら黒麒の置き所のない不安など、一笑に付して済ませてしまうだろう。
気持ちを切り替え、さて勤めに戻らねばと考えた黒麒だが、がんじがらめにされていたので、囚われたところから抜け出すのにはずいぶんと苦労した。締めるような潰すような抱き方をするのが王の癖だから、賭けに勝ったとき、これも改めるよう言えばよかった。
脱皮する芋虫を真似て、うごうごと這い出す。何枚か衣を脱ぐ羽目になったが、芯から温まっていたので寒くはなかった。けれど温かさを蓄えていられない薄い体だから、そこらに放置されていた王の上衣を借りて書房に戻った。大きくてぶかぶかしたものは、全身をすっぽりと覆ってくれる便利なものだと知った。髪が結われていたおかげか、筆を動かす手も捗った。
荘朿:ガウェイン。耀賈(ダ・ヴィンチちゃん)と同じ天官で上司にあたる。弓射の達人でガタイもいいので、自他ともに「夏官(軍人)に向いてる」と思っている。