ふたりとふたり ある魔術師は、人知れぬ果ての高山『沈黙の天文台』において、無為な召喚を繰り返すことが勤めだった。新月の夜に二騎を見送り、また新たな二騎を座から迎える。これを力尽きるまで繰り返す。
魔術師と親しくしていた者たちほど、彼に課されたこの処遇を嘆き憤っていたものだが、当の本人は叛骨に奮い立つほどの血気に満ちた年若ではなく、己の境遇に納得しており、新たな生活にさしたる不満も不便も感じていなかった。だから今夜も淡々と、陣を描いて詠唱する。
傷をつけた指先は黒いズボンに押しつけ、発光しているエーテルの中で構築されていく塊を見つめた。塊は上下に伸び、人の形になり、逞しく均整のとれた肉体が編まれていく。長身で、髪は肌の浅黒さに反して白い。端然とした顔面にある唇が皮肉げに吊り上がるよりも先に、魔術師は素早く立ち上がると、真正面の胸板に飛び込んだ。
「エミヤ、待ってた。ずっと待ってたんだよ。もうどこにも行かないで」
「おいマスター、私のときとは随分態度が違うんだが?」
「来てくれて本当にありがとう。エミヤが誰よりも一番頼りになるんだ。ああ、今月はもう安泰だ。嬉しい」
「だから無視すんなっての! 誉れ高きアルゴー号の船長を差し置いて、たかが弓兵を持ち上げすぎだろうが!」
魔術師は召喚能力に特化していながら「何を召喚するか」を選ぶことは出来なかった。本来ならば、聖遺物や神秘の逸話を含む媒体、あるいは土地、血脈など、何かしらのトリガーがあってこそ召喚は成される。しかしながらこの魔術師——藤丸の場合は、自身の肉体とそこに蓄積された記憶・経験そのものが、数多の英霊の寄す処たりえてしまう。
麦穂のような金髪を逆立て、噛み付くように怒鳴っていたのは一騎目として呼び出されていた英雄イアソン。藤丸は挨拶も早々に「じゃあ次」と呼び出した二騎目の英霊、エミヤばかりを歓迎しているので、すっかり機嫌を悪くしていた。
「だってイアソンはおいしい冷やし茶漬けなんて作れないでしょ。脂っこくないのに旨味たっぷりの海鮮かき揚げとか」
「サーヴァントはお前の飯炊きじゃないぞ」
「ここがどこだと思ってるの? ご飯を作るのが上手で、生活力が高い人を重宝するのは当然でしょう。というかイアソン、なんでそっちの格好で来たのさ。ちびが真似すると困るから、着替えてくれる。ダ・ヴィンチちゃん、ジャージちょうだい」
「はいはい、かしこまりー」
藤丸が言うと、空中にいた少女が朗らかに笑んだ。姿は投影された画面内にしかないが、実体と見紛うほどの精彩な表情を映しており、頬と唇には血がかよっているような色艶がある。藤丸の代わりにイアソンへの歓迎を表していたのか、このときの装いは古代ギリシア風。豊かなドレープを描く白い衣装に、編み上げた髪を蔦の輪で飾っていた。
生物としてはもちろん、英霊としての肉も霊核も持たない汎用人工頭脳が物理的に世界に干渉する際は、代替物を経由する必要があった。ダ・ヴィンチが両手をにぎにぎしてみせると、愛嬌のある造形の自動機械が、アームを伸ばしながらイアソンに向かって滑り寄ってくる。
「長衣持ってたくせに。なんでそっちを着てこないの」
「そうだねえ。まあちびくんなら、色々見せちゃってるこの格好をしてもかわいいものだけど」
「うわやめ、バカバカバカバカお前ら! ひん剥きにかかるな!」
ゆっくりと再会の言葉を交わす間も与えられなかったエミヤは、慌ただしさに巻き込まれる前に大股でその場から離れ、召喚室の壁際、扉の方へと進んでいった。そこに立つのはよれたシャツさえ瀟洒に着こなすエドモン・ダンテス。片手は並び立つ子供の顔面を覆っている。子供の〈父〉が英雄の衣服を無理やり引き剥がしている様子を見ずにすむようにという配慮らしい。
「マスターは息災なようだ」
「……世話になる」
睫毛を伏せながら、軽く会釈する。エミヤと同じに英霊だというのに、エドモンの風貌にはまるで人間のように蓄積された疲労があった。苦笑しつつ、エミヤは子供にも声をかける。
「さて、こちらはずいぶんと背が伸びたらしい」
「ほんとうですか?」
我慢しきれなくなった子供は保護者の手をぐいと退けて、真っ青にぴかぴかした瞳をエミヤに向けた。十かそこらに見える少年にとって、背丈についての評価は重大な案件なのだ。
「以前はしゃがんでやっと目が合う程度だっただろう」
「そうそう、君が前回きてくれたときのちびくんの身長は、九十センチにも満たなかった頃だものね。でも今朝の記録は、百二十二センチだよ」
藤丸と共にイアソンの着替えに取り掛かりつつ、別の場所にも映像を投影して会話に参加することなどダ・ヴィンチには容易い。衣装まで変えてみせる細やかさである。
「エミヤ先生がいらっしゃったら、ぼく、お料理のつくり方をきっと教わりたいと思っていたんです。教えてくださいますか?」
「話し方もずいぶん大人びた」
褒められて気恥ずかしそうにはにかむ表情は、エミヤの知るマスターの若い頃によく似ていた。
「料理が今月の課題かね?」
「いえ、そういうわけではないんですが、近ごろお父さまが、作るのも食べるのも面倒くさいっておっしゃるんです」
「よくない兆候だな」
「いやなに、バテてるだけさ。健康状態は悪くないよ。ただ先月はクレーン女史とジナコ君のインドア・ペアだったものだから、ちびくんの遊び相手にはなってくれなくてね。子供の全力遊びに付き合わされることになったお父さまと伯爵さまはくたくたになって、料理をする気力が湧かなかったと」
「——なるほど」
「味もメニューのバリエーションもバッチリの自動調理ユニットがあるんだから、毎日でも使えばいいのに、伯爵さまがちびくんに、食事とは何もせずに得られるものではない、と仰るもので、あんまり活用してくれないんだー」
ダ・ヴィンチの台詞によって、白皙の眉間には深いしわが刻まれた。おそらくはエドモンの葛藤を表すものだったのだろう。
藤丸を際限なく甘やかすことに定評のあるエドモンなので、藤丸の性質を引き継いで造られた子供に対しても、一切の不自由を感じさせようはずがない。しかしながら他ならぬ藤丸から「君を基準にしないで。保護者になるつもりなら、ちびには一般常識を身に付けさせること。自活力は必須だから。自分が貴族の坊ちゃんに育てられていくのを見せられるなんて、冗談じゃないよ」と厳命されている。
よって不慣れな『人並み』の育児家事に努めることになっているエドモンだった。
「台があれば、ぼくもキッチンに手が届きます。カップ麺以外のものもつくれるようになりたいんです」
少年はやる気に満ちた意気込みを述べたが、普段の食生活が窺える内容だったので、エドモンはエミヤから注がれる視線に耐えられず、そっと首を逸らした。
「ニホンで販売中のカップ麺はだいたい全種類網羅したよね」
「簡単でおいしいものね。でも、続くと飽きちゃうから」
弁明しておくと、そればかりを食している訳ではないし、エドモンは藤丸よりもよほどキッチンを活用している。ただし悲しいかな、供せる料理が少なく、調理を教えるという行為に長けていないのである。
「エミヤ先生、お父さまの好きな和食は、ぼくにも作れますか?」
大きな手のひらが、黒頭をぽんと叩いた。
「もちろんだ。むしろ、この天文台の調理場は君にかかっているのかも知れない」
いささか重みを増してしまった声音だった。
エミヤが計画を練って色々と準備する——小さな体に見合った調理道具や機器が必要だということで——少年への授業と実習はひとまず先送りとなった。
* * *
「教えるったって、あー、そうだな。船に乗ったその時から、いや下船したとしてもだが、船長こそが最優先だ。船員どもは身を賭して船長を、つまり私を守るためにある。全滅を避けるためには、指揮官こそを生かさなければならないからだ。そのことだけは、よーく覚えとけよ」
「Oui, capitaine」
ミス・クレーンにあつらえてもらったという衣服に身を包んでいる少年は、品のよいシャツの襟元を飾っているリボンを激しい海風にはためかせた。
「お前、素直だな」
「そうですか?」
甲板に出向いた二人は互いに声を張っていた。海風に妨げられないためだが、帆船とは喧騒に満ちているもので、船体が波を砕く音、帆布が風を受ける音、動索(帆を操作するロープと棒)が軋む音など賑やかさには事欠かない。ダ・ヴィンチがシミュレーター内に再現しておいた黒い影のような船員たちも、ばたばたと動き回っている。舵輪に就いている操舵手もまた影のなりだが、イアソンが目配せし、身振りで指示をすると頷き、細やかな舵取りに務めていた。
「同じことを教えてやったマスターには、しらけた目で見据えられたもんだ。アイツ、新米の頃ならいざ知らず、カルデアの頭が変わる度に図々しくふてぶてしくなっていったからな」
「お父さまが?」
「おう。私のことも散々、さんっざん! コキ使いやがった。前線には出すなっつってんのに、こちらの都合なんかお構いなしに、効率重視で最恐メンバーを編成する周回の鬼だったんだぞ」
「おに」
少年がぱちくりと瞬きした。
「つーわけで、異聞帯でも特異点でもない所に呼ばれた私はマスターの言うことなんか聞かない。働かない。お前の先生にもならない。ひと月の優雅なバカンスを過ごす。船室に転がってやがる足長モンスター連れてさっさと帰れ、ガキ」
エミヤの調理実習が準備中なので、少年は保護者ともどもイアソンに付いてきていた。しかしながらエドモンは、人様王様に子守りを押しつけて姿を消していた。少年いわく「おじさんは疲れているから、どこかでお昼寝しているのかも」とのことだが、イアソンにしてみれば「船乗りだったなら帆の引き上げなり何なりを手伝え」と言いたくなる。
おまけに強制的に着せられることになったジャージは間違いなくその男のもので、さして背丈は変わらないくせに、袖と裾とを折り曲げるはめになっているという屈辱が、イアソンをいっそう不愉快にさせていた。
だから八つ当たりを兼ねたきついもの言いをした。こうすれば少年は困惑し、すごすごと船を降りるはず。天文台にやってくるサーヴァントたちを「先生」と慕って教えを乞うのがお決まりらしいが、誰しもが先生になりたがる訳ではないのだ。
犬を追い払うような仕草までされても、少年は細い首を上向けたまま、大きな瞳でじっとイアソンを見つめる。
「何だよ」
「イアソンさんのお話、もっと聞きたいです」
「んあ?」
「だってお父さまをおにっていった人、初めてなので」
「あいつタラシだからな。これまでこっちに来たサーヴァントどもは、どうせ褒めちぎる奴ばかりだったんだろ」
「全員ではないですが、だいたいは」
少年は誇らしげに頬を照らした。
「だから新鮮で、興味深くて。イアソンさんから見るお父さまがどんな風なのか詳しく知りたいんです」
父に対する酷評を酷評と捉えていないのか、少年は好奇心旺盛ににこにこしている。とはいえ子供の純な笑顔には、どうにも苦手意識、あるいはほんの僅かな罪悪感などを覚えてしまうイアソンである。
「やだ。かったるい」
「やだですか……」
吐き捨てるように断ると、少年の黒眉がしゅんと八の字に垂れた。
「興味を持つならオレとヘラクレスの冒険譚にしとけっての。つうか、マスターのことなんざ一言で充分だわ。鬼畜なうえ、しぶとくて強欲」
それらも初耳の父の評価だった。丸い青目がまたもぱちくりした。
「英雄の証、あと百八十個集めるまで帰らないからって、令呪かかげて死んだ目で林檎食いながら言いやがる。ぞっとしたね。あいつ人間よりもサーヴァントに囲まれてばっかだったから、常識と頭のネジがぶっ飛んでんだよ」
「ネジ」
「以上。ほらほら、帰った帰った。あとは他のやつに聞けばいいだろ」
「でも、多角的な印象の収集によって情報の精度が」
「あーあーごちゃごちゃと喧しい!」
イアソンはだかだかと乱暴な足取りで、帆を緩めている船員たちと帆柱を越え、船尾楼甲板まで突き進んだ。しかし少年はぴったりとイアソンの後ろに付いてくるのである。
「しつこいな!」
叱られても少年は怯まなかった。お行儀よく足を揃えて立ち、やや困り顔で軽く首を傾けている。「ガキはガキどもと遊んでろ」と怒鳴ってやろうとしたが、そうした環境がないことをイアソンは思い出した。
果ての天文台は棺桶のようなもの。誰よりも人のために尽力した人間が隔離されている場所だ。同居人と呼べるのはあらゆる制約をかけられているサーヴァントと、電子の海に引っ越した汎用人工頭脳のみ。同じ陸地には村も街もなく、森や湖などの自然、動物の住処もなく、天候は不安定で嵐ばかり、訪れるのは毎月二騎のサーヴァントだけ。自堕落な隠居生活を望んだ当の本人ならばともかく、子供にとっては充実した場所だとは言い難い。
——いつかは、ここを出て行くだろうけど、それはあの子が独り立ちできるようになってからだ。身を守る知識と技術を身につけて、ただの人間として社会に溶け込み、何事も起こさずにやっていけると確信が持てるまで、外には出せない。
イアソンが思い出すマスターの瞳は、少年とそっくり同じ色だが、本物のそれには運命なり宿業なりに従うことのなかった、確固たる意志の強さと思慮深さが滲んでいる。藤丸はその目でイアソンを見つめて「だからよろしくね」と言ってのけた。
イアソンはもちろん子育てに付き合わされるのはごめんだと突っぱねたが、
——子育てについてはね、全部エドモンの仕事だから放っておいていいよ。ただちびの遊び相手になってくれれば。子供の全力ってすごいんだ。おれもうついてけないんだもん。だから、頼むね。
マスターは否を聞くつもりがないのだった。
イアソンがじっと見下ろすと、少年は不思議に思いながらもにこりとほほ笑んだ。そうすると見目よりもっと幼い子供に見えた。明るく柔らかい、裏のない笑顔だ。これが人生の酸いも甘いも噛み分けてしまうと、マスターのように有無を言わせぬ不穏な圧を放つ笑顔になるわけだ……。
イアソンとて、マスターに協力するつもりが少なからずないわけではなかった。けれども「子供の相手、面倒臭い」という思いが何よりも勝る。遊び相手や育児の手伝いなら、二騎目のアーチャーだとか、ケイローンをはじめとする先生連中、母性父性がきつい連中が励めばいい。
「こっちは忙しいんだ。ガキに構ってやる暇はない」
「どうしてもですか? ぼく、どんなことでもお手伝いします」
少年は健気に訴えたが、イアソンは馬鹿にするように鼻を鳴らし、意地悪く唇を吊り上げた。
「ハッ、そのひょろっこい腕でぇ? 帆上げの加勢にもならねえだろうが」
「あう」
「船員として役立たずでも、護衛として見込みがあるなら乗船許可をやらんでもなかったが、どちらにせよ無理だわな。襲撃を受けたら敵をなぎ倒し、この船ごとカッ飛ばして振り払ってみせるとか、温室育ちのお坊ちゃんにはどだい無理な——」
「あ、そういうのなら得意です」
この場にエドモンがいたのなら、子供を煽る大人げのないイアソンに「下卑た顔をするな」と手を出して叱っていただろうし、少年に対しては「滅多なことを言うな」と制止して腕を掴むはずだった。
「へあ?」
しょぼくれる少年を嘲笑うはずが、素っ頓狂な声を漏らすことになったのはイアソンだった。虚勢を張っているのだと思いきや、少年はいつの間にかどこぞの魔術師が使うものによく似た長柄で細身の、背丈よりも高い杖を掴んでいる。
「こちらにいるときなら好きなだけ使ってもいいよって、お父さまが。だから何が出てきたってやっつけられますし、かっとばせます。まかせてください」
黒々とした睫毛の間で、青目がきらきらと細められた。
イアソンは微かな不吉を噛んだが、苛立ってしまった勢いで「だったらやってみやがれってんだ」と吐き捨てたことを心底後悔することになる。そして仮想空間の構築者であるダ・ヴィンチの「やめといた方がいいと思うなー」との忠告が、もっと真に迫ったものであればと、盛大に文句を吐くことになるのだ。
きついのをくれてやれと言われるままに、ダ・ヴィンチは設定を切り替えた。彼女がまだ英霊として在ったときから現在のかたちになるまでに、カルデアと名が付いていたいくつかの組織は、多種多様な〈最悪の状況〉を経験していた。アーカイブしているものの再現は簡単だ。少年にとっての過去問と被らない点だけに配慮する。
太平だった海上の趣きは瞬時に変化し、陽は翳り、甲板にはぞろぞろと這い出すものがあり、数を増やして膨れ上がっていく。イアソンはじりじりと少年の後ろに回った。彼を頼りにするつもりではなく、盾や身代わりとするためだった。残念ながら、これは無意味な行為だった。
少年は敵影が主帆柱よりも伸び、張り巡らされているものを圧迫して壊し、船体そのものを軋ませていく様子を恐れる様子もなくじいと眺めていた。そして焦れたイアソンが今しも乱雑な怒声を吐き散らそうとしたとき、ごく柔和な声音で起動の手順を踏んだ。
「宥さんと欲す汝は訴ふ」
古いセンテンスを口火にして、指し示すように杖先が動いた。次の瞬間、雷が垂直に落ちてきた。目を焼く稲光に遅れて放たれる大音声の衝撃と突風に攫われたイアソンは、投げ出された宙から板張りへ激しく叩きつけられ息がつまった。視界のみならず身の内の霊核までぐるぐると回転し、しばらくはどこに頭が、手足があるのかも分からず、網にかかった魚のように放心していた。
そのころ船室で横になって休んでいたエドモンもまた、したたかに身体を打っていた。こちらは何が起きたのかなど察するに余りあるが、場所が悪かった。閉じた箱が振り回されると、中身にはなす術がない。やたらめったらに七転八倒することになり、全てが終わった後には、珍しくも少年を厳しく叱りつけた。
* * *
「お前さぁ、ガキの躾はしっかりやれよ」
「だからそういうのはエドモンの担当」
藤丸は食堂のテーブルにつき、どこか眠たげにちまちまと手を動かしていた。細長い緑色のマメ科の植物の筋をとるようエミヤに言われていた。厨房には動き回る赤い背中があり、丸っこい身なりの自動機械が手伝いをしているようだ。
「あのクソガキ、メディアタイプだな。魔術を使えばだいたい何でもできますとかほざく弩級のバカだろ」
災害に巻き込まれ、這う這うの体で海から戻ってきたイアソンにとって、天文台の中は凪の空間だった。そこでのんびりと軽作業をしているだけのマスターは、イアソンがどれほど酷い目にあったかについて「ふうん、そうなの」としか言わず、作業の手を止めることすらしなかった。
「そこのカゴ取って。ん、どうも」
「マジで死ぬかと思ったんだぞ。期限前にオレが消えたら色々と困るんだろ、だったら」
「一緒にシミュレーターに入らなきゃいいじゃん。ちびはこっちにいるときは大人しくしてるよ」
「やだ。こんなところで何してろってんだよ。何にもねぇじゃん」
「何にもないからいいのに。次の取って。うん、それ」
「お前なー」
「異常だと思った?」
「……思わないわけないだろ。あんな、ちんまい人間のくせに」
「生まれる前からあらゆる調整を受けているからね。親に似ず、センスの塊で、ハイスペック」
「大丈夫なのかよ」
「何が?」
「藤丸立香は無抵抗だからこそ生きてるんだろうが。はっきり言うが、あのガキはやばすぎる。ボロ船が実のところ戦艦を従えてるとバレた日にゃ、今度こそ首が飛ぶぞ」
「そうね」
「だーかーらー」
マスターには危機感がない。イアソンが不満げにべんべんとテーブルを叩くと、藤丸の薄い唇からふっと息がこぼされた。
「分からないよ、先のことは」
ようやく手を止めた藤丸は肘をつき、顎を乗せながら横目でイアソンを見やった。言葉をゆっくりと継ぎながら、深みのある青目に見つめられていると、契約下にあるためかサーヴァントは落ち着かない気分にさせられる。まるでマスターに、こちらの考えを全て見抜かれてしまっているかのような。
普段着にしている白衣から覗く白っぽい手首は、前線に出ていた頃よりも細くなっている。伸ばしっぱなしの前髪が青目にかかって影を落とす。元より童顔のせいか、いやに年齢が判別しにくい大人になっていた。
「ねえイアソン」
「なんだよ……」
「鬼畜で、しぶとくて、強欲で、図々しくて、生き汚ない偏屈なマスターなら、何があってもなるようになるとしか思わないんじゃないかな」
「そこまで言ってねえよ!」
くすくすと笑う藤丸。シミュレーターで放たれた悪口は、しっかりと当人に伝えられていたようだ。全く油断ならない。
イアソンは盛大にため息をつき、椅子にだらけて腕を組んだ。下処理の必要な野菜だかキノコだかの乗っている皿がついと寄せられたが、手伝わないという意思を示すためだった。
「面倒ごとを起こすときには、絶対に呼ぶなよ」
「そういう予定があるわけじゃないけど、おれがイアソンの〈やだ〉を聞いたことがあった?」
「ないんだよなぁー!」
イアソンがくだを巻いている頃、少年は自室に立っていた。向かいにはエドモンが椅子に腰掛けて脚を組んでいる。ぴりぴりと空気が張り詰めているのは、エドモンが唇を引き結んでいるせいだった。
「おじさんの足、まだ痛い……?」
「さてな。新品には馴染みがない」
「あうう……」
周囲にあるのは木造のベッドに本棚、机、クローゼット。どれもシンプルな造形で丁寧に使われており、清掃が行き届いていることが分かるものの、机まわりだけが著しく雑然としていた。本棚におさまらず、縦に横にと積まれている本のせいだった。
「だけど、きっとばれないよ、ダ・ヴィンチちゃんも太鼓判を押してくれたよ……」
「ルー」
エドモンは低い声で少年を呼んだ。少年はうなだれて、ぼそりと呟いた。
「ぼくが杖を使っていいのは、向こう側でだけ」
射る視線が続きを促す。
「……向こう側でやったことは、こちらに持ち込んではならない」
「そうだ。お前の力の痕跡は、決して観測させるな。いかなる存在にも」
「見つかったら、ぼくたちは一緒にいられなくなる……」
「そうだ」
すでに教わっていることだが、言葉ではっきりと言われるたびに、少年は泣きそうになってしまう。何よりも実現して欲しくない離ればなれの想像は、いつなりと身を竦ませるのだ。
「本当にごめんなさい。お父さまが治したことにすれば、大丈夫だと思ったの」
「どうとでもできるという傲慢こそ足がつくものだ。隠しおおせる狡猾さが必要だ」
「はい……」
少年の魔力と藤丸のそれは同位体だった。親和性は極めて高いが、同一ではない。ごく僅かな、本人たちでさえ気付くことが難しい差異がある。その程度のことであっても、つけ込まれる糸口になりかねない。
自分の認識が甘かったと反省しきりの少年だが、実は破損したエドモンの足は、少年が修復してシミュレーターから帰還する前に、藤丸本人が秘密裏に再修復を済ませている。少年の痕跡はすでに無かったことになっているからこそダ・ヴィンチが太鼓判を押したのだが、少年はこのことをまだ察知できない。発言の裏を汲み、構築されているものの異変を見抜く洞察力の習得が今後の課題だ。
とはいえ、まだ幼い魔術師である。成長の過程にある者に万能を求めたところで詮無い。エドモンは短く息を吐いた。
「次は」
「どこに誰がいるかを把握して、巻き込まないようにきちんと配慮します」
「結構」
「……もう怒っていない?」
「ああ」
「お父さまも、怒ってないかしら」
「ああ。お前には怒っていない」
保護者のくせにと叱られたのはエドモンであって「ちびと違って、おれの魔力量が微々たるものだって、知ってるはずだよね。霊基修復すると、すごく疲れるんだけど」と文句を吐かれたのもエドモンのみである。
それを知らされることなく、ほっと安堵していた少年が、軽く腕を広げながら寄り添ってきたので抱きしめてやった。
「食事にしよう」
「うん」
そのまま自然と少年を抱え上げる動作は、藤丸に見つかると呆れられるので、食堂に入る前には降ろすことにする。この年頃の子供を抱き上げるのは、甘やかしが過ぎるのだろうか。いやしかし、ようやくエドモンの腰に手が届くようになったくらいだから、別にこのくらいは……。
昇降機に乗り込むと、エドモンの肩に腕を回している少年がぽろりと問いかけた。
「ねえ、おじさんは、エミヤ先生が苦手?」
「いや。何故だ」
「お父さまと先生がハグしていたとき、しぶい顔をしていたから」
「……」
今度はエドモンが不覚を反省する番だった。
「お父さまは、ここに来てくれるみんなが大好きだし、ひと月ずつしか一緒にいられないから大切にしてるんだよ。おじさんをないがしろにしてるわけじゃないよ」
本の虫の少年は、エドモンの知らぬ間に語彙を増やし、慰めの言葉をかけてくるので肝が冷やされる。
「エミヤ先生は故郷が同じだから、お父さま、とても嬉しかったんだね。でも、あんまりヤキモチを焼いたら、あう!」
長い指が、まっさらな額を鋭く弾いた。
「お前が案じることではない」
「だっておじさん、顔怖くなるんだもん」
「ならない」
「なってる」
「なっていない」
「Ne sois pas têtue」
「Petit garçon effronté. Ne vous inquiétez pas. Lui et moi, on s'entend très bien」
「Oh là là. Je t'envie‼︎」
少年が大袈裟に言ってみせ、可笑しさに二人ともの唇が曲がる。
ダ・ヴィンチはお邪魔をするまいと口を挟まなかったが、天文台の主である藤丸が、そろそろ夕食の時間だけど、二人はどこにいるのと訊ねたときには「エレベーターでいちゃついてるよ」と、正しく報告した。