温泉宿の夜は更けて ザバッと湯船から立ち上がると、なめらかなお湯が身体を流れ落ちていく。露天風呂の縁に腰かけて星のちらつく空を見上げれば、火照った身体に夜風がひんやりと触れる。無意識に、深い溜め息を吐いていた。
「これが温泉か」
……悪くない、と思う。以前『辻斬りナギリを探すであります!!』と息巻いたカンタロウに引っ張り込まれた時はその場を切り抜けるのに必死で、気づいたときには湯中りで倒れていた。あれはもう思い出したくないので温泉に入ったカウントには含めていない。
『我こそは吸血鬼温泉猿無限増殖!! 今こそシンヨコの温泉を全て猿で埋め尽くしてyブエエェェェェ!!』
『さすが辻田さん! 本官のコレは出番がなかったであります』
『わかったからその物騒なものを振り回すな!』
手強い吸血鬼だと聞かされていた割には出オチのような決着だったが、辺りを取り囲む猿たちをカンタロウが破城槌で威嚇していなければたしかに多少は苦戦したかもしれない。多少は。
釈放のために「VRCが常に居場所を探知できるようタグピアスを装着する」「退治人または吸対メンバーと二人一組で活動する」という条件を飲んだからとはいえ、慣れてみれば誰かに背中を預けて戦えるというのは、どこかくすぐったく、頼もしく、……ひょっとしたら嬉しいという感情に近い気もする。もちろんそんなこと死んでも口には出さないが。
『あなたが退治人ギルドから来てくださった方ですか! ありがとうございます!! 町へのバスはもう終わってしまっている時間ですから、ぜひ泊っていって下さい!!』
感謝されるということには、まだ慣れない。こちらがやりたくてやってることに何故そこまで? とお礼を言われる度にむず痒い思いをする。
だがこうして、厚意を受けてのんびりするというのもたまにはいいかもしれない。退治人ギルドの連中が自分も温泉に入りたかったと羨ましがる様を想像して、ふふんと小さな笑いがこぼれた。
気づけば、さっきまで背中を流すだの頭を洗ってやるだのと騒いでいたカンタロウが妙に静かだ。用意された浴衣に着替え、部屋に戻る間もチラリチラリと何か言いたそうにこちらを見ながら着いてくる。
「なんだ?」
「いえ、そのう……浴衣、お似合いであります!」
「……?」
部屋に戻ると、また未知の状況に出迎えられる。いつの間にか机が部屋のすみに退けられ、畳の上には二組の布団がぴたりとくっ付けて敷かれていた。
「こんなに部屋の中央に寄せる必要があるのか?」
「辻田さん。その、先程から言おうかと思っていたのですが……」
カンタロウが目尻を下げてニヘッと笑った。
「これはとても、新婚旅行みたいであります!!」
「ハァ?」
新婚旅行? それは、結婚直後に夫婦で旅行に出掛けるという……?
……結婚!?
頬を染めて、なぜかこちらの手をとってくるカンタロウ。
途端にこちらの頬に、耳に、その熱が伝染する。
クソッ、何だこれは。
熱い手を振り払ってさっさと布団に潜り込む。すぐに部屋の電気が消されたが、隣の布団がもぞもぞと落ち着かない。
「辻田さん…本官、ギンギンで眠れそうにありません!」
「何がだ!? いや答えんでいい、寝ろ!!」
まだまだ知らないことが多すぎる。いっこうに下がらない頬の熱を、なぜか早まる鼓動の意味を、知るべきなのか知らない方がいいのか。ひとつ身震いをして目を閉じた。