「うわっ、」
他人の熱で蒸された空気と共に、勢いよく地下鉄のホームに押し出される。一気に肌寒さを感じて、ぷるっと身震いした。その直後、ジャケットに入れていた携帯がタイミングよく震える。
『店の中にいる』
『慌てず、ゆっくりおいで』
立て続けに送られてくるメッセージの相手は、中学からの恩師である煉獄杏寿郎だ。中高一貫校であるキメツ学園の教師であり、炭治郎一家が営むKAMADOベーカリーの常連客でもある。そして、炭治郎の意中の相手でもあった。
ここまで来るのに苦節、五年。煉獄とプライベートなやりとりをするのに三年かかり、さらにそこから二年かけて食事をする仲になった。今年の夏、炭治郎が成人してからはお酒の付き合いも加わり、休日の夜は予定を合わせて飲みに行くようになった。月に二回もあればいいほうだが、今月は既に三回目の約束だ。非常にラッキーな月である。
炭治郎は『すぐに行きます!』とメッセージを入れると、人に揉まれながら一番近い出口を目指した。初冬の寒さを感じながらも、握った拳の中が妙に湿っぽいのは緊張しているからだろう。その緊張は、居酒屋の看板を見たときにはピークに達していた。いらっしゃいませー! と店員の元気な声を聞きながら、既に奥の個室にいるという煉獄の元へ向う。
「こんばんは……! お待たせしてすみません!」
「おぉ、炭治郎! 先週ぶりだな」
にこっと煉獄が笑って、すぐに向かいの席へ座るように促される。煉獄は全然待っていないぞとさり気なくフォローを入れると、炭治郎の方にメニューを開いた。
「先にビールだけは注文しておいた」
「ありがとうございます」
「食べ物はまだだから、好きなものを頼むといい」
「先生はいいんですか?」
「うむ! 俺は何でも食べるし、何でも好きだからな。……それよりも炭治郎」
急に煉獄の声がこわばり、目つきが険しいものになる。煉獄はメニュー表を捲っていた炭治郎の手をぎゅっと握ると、珍しく溜息をついた。
「いつまでも"先生"と呼ぶのは如何なものかと思うが!」
「えっ!? でも、煉獄先生は煉獄先生なので……」
「君と俺との仲なのに?」
「俺と先生の仲であっても、です」
「ふむ、そうか……」
分かりやすくしょんぼりと落ち込まれて、先生から覇気がなくなる。「でも、先生は俺にとって特別ですから!」と慌てて弁明すれば、一瞬にして悲しみの匂いが消えた。そうか、そうか! と煉獄が笑って頷くから、これには炭治郎も小さく笑みを零す。
そう、煉獄は特別だ。友人でもなく、先生でもなく、好きな人、だ。だから今日、覚悟を決めてきた。今日こそ先生に告白する。長年、温めてきた想いを伝える。そのために、何度も何度も頭の中でシミュレーションをしてきた。
『実はずっと前から好きでした。俺と付き合ってください』
今日まで繰り返し脳内で再生してきたこの言葉をいつ口にするべきか。あまり考えすぎないように……と意識すればするほど、告白のことばかり考えてしまう。メニュー表に書かれていた料理名を目でなぞっているときも、生ビールとお通しの枝豆がテーブルに運ばれてきたときも。
だから煉獄から見て、自分の態度がおかしいことにまったく気付かなかった。
「なぁ、炭治郎」
「は、はい! なんでしょう?」
「さっきから、妙にソワソワしていないか?」
「へ、」
ぽろり。指先でつまんでいた枝豆がテーブルの上に落ちる。指摘されるほどソワソワしている自覚はなかったが、確かに緊張はしていた。それこそ、地下鉄に乗り込んだときから。
こうなったら今すぐにでも伝えるべきだろうか。いや、でもシラフでは言えない。先生に、好き、なんて。
炭治郎はジョッキを掴むと、勢いよくビールを喉に流した。
「おぉ、すごい飲みっぷりだな!」
「こうでもしないと緊張しちゃうので……」
「ハハハ! まぁ、分からなくもない」
するりと煉獄の手が伸びてきて、落とした枝豆を回収しようとする炭治郎の手に重なる。何故、手を握られたのか分からないでいると、煉獄が見たこともない表情で笑った。
「俺も君との初デートで緊張している」
…………。
………………。
……………………ん?
「先生、いまなんて言いました?」
「緊張していると」
「いや、その前です」
「君との初デートで緊張している?」
「そう! それです!」
授業中、教師から指されたときのように、思わずビシッと手を挙げてしまう。
いま、初デートと言ったか。聞き間違えでなければ、確かに先生は初デートと言った。まだ告白はしていないし、さらに言えば返事すらも貰えていないというのに、もう煉獄と付き合っていることになっている。
わけが分からずに呆けていると、煉獄の眉間にシワが寄った。
「まさか、なかったことにするわけではあるまいな?」
「なかったこと、とは……?」
「先週、そういう話になっただろう」
珍しく煉獄の柔和な空気が崩れ、握られていた手に力がこもる。鬼気迫る表情で「何も覚えていないのか」と問われて、必死に脳みそを回転させた。
確か……先日の夜も煉獄と一緒に飲んでいた。似たような個室居酒屋で煉獄はビールを三杯、炭治郎はそれに加えて日本酒も飲んでいた。いつもより早いペースで飲んでいたため、かなり酔っていたことだけは覚えている。本来ならば駅で別れるのだが、その日の夜は煉獄が家の前まで送ってくれた。
「わっ……!」
「大丈夫か? 炭治郎」
ふらつきそうになる炭治郎の腰を逞しい腕が支える。もう一度、煉獄に大丈夫かと問われて顔を上げたとき、心臓がおかしな音を立てた。
「あっ……」
こちらを真っ直ぐ見つめる虹彩の美しさと、ふんわりと風で靡く金糸の髪。まるでスローモーションの映像を見ているかのように、煉獄の動きが際立って見えた。瞬きや吐息で白く濁る空気でさえも。
目が釘付けになるとはまさにこのことで、炭治郎は店の裏手にある自宅のドアに鍵をさしたまま、呆けた顔で男を見上げていた。
「せんせい、おれ、」
そのとき咄嗟に手が伸びた。ほとんど無意識に煉獄の袖口を掴んでいた。
いま、言わなくちゃ。
予習もなにもないまま、唐突に溢れた想いが口をついて出た。
「実は……ずっと前から好きでした。俺と付き合ってください」
※※※※
「――そう、顔を真っ赤にして言ってくれただろう?」
「い、言いましたね……」
「忘れてしまったのか?」
「うっ……」
すりすりと手の甲を撫でていた煉獄が咎めるように炭治郎の皮膚に爪を立てる。綺麗に切り揃えられているため痛みこそ感じないが、こちらを見つめる目には少しだけ不満が滲んでいた。
「すみません……。その、すっかり忘れてて……今日、先生に告白しようとしてました……」
煉獄への罪悪感で声が萎んでいく。
煉獄の中で、先週の夜から付き合っていることになっていたとしたら。今日は記念すべき第一回目のデートだし、頑なに"先生"と呼ぶ炭治郎に対して異議申し立てをする気持ちも理解できる。
本当に申し訳ないことをしてしまったと俯く炭治郎だったが、煉獄はすぐに機嫌を直すと、また炭治郎の手を撫で始めた。その立ち直りの早さにホッとするような、しかし何か裏があるような気もして、伺い見るようにちらりと煉獄の顔を見る。
「まぁ、いい。忘れられてしまったことは少し寂しいが」
「すみません……」
「君の素直さに免じてこれ以上は咎めないでおこう」
「ありがとうございます……!」
「ただし、」
煉獄の目がすうっと細くなる。
ちょっとだけ嫌な予感がした。その予感は、甘くもピリッとした匂いですぐに確信へと変わる。
「先週のことは俺も忘れる。だから、もう一度言ってくれ。君の口から、俺のことが好きだと」
えっ、と、間抜けな声が出る。言葉の意味を正しく理解したとき、あの夜と同じように心臓がおかしな音を立てた。煉獄の期待に満ちた視線が炭治郎の羞恥に火をつける。下手な誤魔化しや逃げは許さないと言わんばかりの空気に、炭治郎は緊張で震える唇を必死に動かした。
「……せんせい、おれ、」