別れたはずの恋人が家まで訪ねてきたらどうする? 俺だったら無視する。
「おい、千冬ぅ! 早く開けろ!」
ドンドンドン、ピンポンピンポンピンポン。近所迷惑になりかねない勢いでドアを叩かれ、インターホンまで連打されて。さすがの俺も居留守を使うのは憚られて、渋々ドアを開けた。あとになって思えば、このドアを開けるか否かが運命の分かれ道だった。
「もう! うるさいっスよ、場地さん!」
「やっと開けてくれたな」
にっこりと人好きのする笑みを浮かべた場地さんが、コンビニ袋を顔の真横に掲げる。そのときわずかに見えた八重歯が、俺の中で沸騰しかけていた怒りを鎮めてしまった。
ああ、もうずるい。俺はこの人の笑顔にめっぽう弱いのだ。あと、千冬ぅ、と甘え混じりの声で名前を呼ばれるのも。きっと、場地さんはそれを知っててわざと俺の名前を呼びまくってる。
「千冬ぅ、今夜もいいだろ?」
「ダメですよ! 明日は早いんスから!」
このまま部屋に上がり込もうとする場地さんを食い止めようと、必死に体を押しやる。だが、びくともしなかった。いつまで経っても元恋人の力と体格差には負けてしまう。まるで、足元に纏わりつく犬でもあしらうかのような軽さで場地さんは俺の体を引き剥がすと、革靴を脱ぎ捨てて部屋に上がってきた。待って、場地さん、本当にダメだから! という制止を振り切り、部屋の中央に鎮座するコタツへと真っ先に潜り込んでしまう。
もう終わった。これは朝までコースだ。
「ほら、こっちが千冬の好きな酒」
「はいはい、ありがとうございます」
「あと、こっちがつまみ」
ここへ来る途中、たんまりと買い込んできたのだろう。場地さんが持ってきた袋からは大量の酒とつまみが出てきた。それと、〆のカップ焼きそばも。どんなときでもペヤングは外せないのだろう。必ず場地さんが持ってくる袋の中にはペヤングが入っている。それが場地さんらしいというかなんというか。懐かしく、嬉しく思う一方で、少しだけ胸が痛む。付き合っていた頃を思い出して、胸の奥がきゅうっと締めつけられるのだ。何度も半分こにしたそれが、たくさんの思い出を引き連れて心の柔らかいところを刺す。
今だって本当は場地さんのことが好きだ。でも、好きだからこそ場地さんとは別れた。この苦渋の選択を無駄にしたくないというのに、相変わらず場地さんは俺の家へと訪ねてくる。数ヶ月前、別れを切り出したときは「あっそ」と素っ気なくも、確かに「いいぜ、お前がそう言うなら別れる」と言ってくれたのに。
「千冬もコタツん中に入れよ」
「言われなくても入りますよ! 俺の部屋なんスから」
家主以上に家主たる風格で、場地さんがコタツを勧めてくる。コタツに足を突っ込んだら、すぐに心地よい温もりに包まれた。ほっとする温かさに、言いたいこともしゅるしゅると萎んでいく。場地さんはわざとコタツの中で足を動かすと、俺の足から熱を奪うようにくっついてきた。
「つめたい」
「寒い中、ここまで歩いて来たからな」
「だったら、自分の家でぬくぬく過ごせばいいでしょ」
「今日は千冬と飲みたい気分だったんだワ」
「それ、いつも言ってません?」
もはや、口実にすらならない。どうせ今日も日付を越えるまで飲むつもりだろうし、泊まるつもりだ。生憎、ベッドはキングサイズ。場地さんとそういうことをするときに困らないように、って数年前の自分が選んだのだから笑えない。
「おー、ペケ。お前も俺に会いたかったよな?」
飼い主よりも懐いてるのでは? と疑うレベルの人懐っこさでペケが場地さんにすり寄っていく。顎の下を撫でられてご満悦なのか、ゴロゴロと喉を鳴らして場地さんの体とコタツの間に収まってしまった。ペケは可愛いな、とこちらを見ながら言われて、モゴモゴと口を動かす。
コタツの中で軽く足の爪を立てたら、場地さんがギロリと俺を睨んだ。相変わらず、メンチを切るときはおっかない。
「なんもやんねぇぞ」
「別に飲みたくないからいいです」
「じゃあ、こっちは?」
「うっ……」
つまみの袋を取られて心がぐらつく。最近、ハマって食べているイカのつまみで、ひらひらと顔の目の前で振られて咄嗟に手が伸びた。猫みてぇ! と場地さんが笑って、俺の顎の下をくすぐる。
「俺は猫じゃないっスよ!」
「猫みてぇなもんだろ」
「違いますよ!」
もう知らない! とペヤングを持ってキッチンへ。ひとりで食ってやるからな、と湯を沸かしていたら先に場地さんが酒盛りを始めてしまった。明日は平日だというのに躊躇うことなくぐびぐびとビールを飲む元恋人に目眩がする。明日の鍵開けはもうひとりの使えない社員に任せようかな……と思いつつ、麺に湯を注いだ。
※※※
「場地さん! ここで寝たら風邪引いちゃいますよ」
「んー……」
案の定というべきか。ハイペースで飲む場地さんの方が先に潰れた。俺はというと、毎回その片付けだ。普段、東卍メンバーと飲むときは酔わないのに、「千冬んちで飲むときは気が抜けてついつい飲んじまう……」と零した元恋人のことを昔は可愛いなんて思っていたっけ。俺の前でしか見せない気の抜けた表情や態度にひどく優越感を覚えたものだが、場地さんはただの友人兼同僚に戻っても態度が変わらないままだった。脱力した男の腕を引っ張り、なんとか体を起こす。
「ほら、寝室に行きますよ!」
「おー……頼むワ」
引っ張っていけということなのだろう。全体重をかけて寄りかかる場地さんをなんとか歩かせて寝室へ向う。ほとんど投げ転がすようにキングサイズのベッドに体を下ろせば、よくできましたと言わんばかりに手が頭に伸びてきた。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて場地さんの手を払いのけ、ベッドから距離をとる。馬鹿みたいに鳴る心臓を落ち着かせながら、足元で丸まっていた布団をかけた。
「ねぇ、場地さん」
「ン?」
「俺たち、別れたってこと忘れてません?」
「忘れてねぇけど?」
「じゃあ、別れるの意味、分かってます……?」
不安になって尋ねてみる。普通、別れたら少しは気まずくなるものだし、こうやって頻繁に家に来たり、触れ合ったりしない。実は頷いただけで、場地さんの中ではまだ付き合っているつもりなのだろうか……と思ったが、すぐに答えが返ってきた。
「分かってる。もう、千冬とキスとかセックスとかできないってことだろ?」
「うん……、まぁ、そうですけど……」
随分、ストレートな答えが返ってきて、これには俺の方が面食らってしまう。場地さんは、そこまで馬鹿じゃねぇよ、と零すと、おやすみも言わずに目を閉じてしまった。すぐにスースーと寝息が聞こえてきて、なんだかなぁ、と思う。
場地さんとは、高校を卒業してすぐに同棲して付き合い始めた。何年経っても場地さんの隣にいるのは幸せで楽しくて、そんな毎日がずっと続くと思っていた。
でも、あるとき言われたのだ。涼子さんと俺の母親から「あんたたち、いつになったら結婚するのよ」と。
その日は珍しく団地に帰った日で、場地さんちに集まってみんなで鍋を囲んだ日だった。酔った母親たちが息子の行く末を心配するのはよくある話で、きっと何気なく口にした言葉なのだろう。だけど、俺にとっては重い言葉だった。
だって、場地さんと俺では結婚できない。男同士だから、子どもを持つことだって難しい。このまま場地さんの隣にいたら、場地さんの人生も涼子さんの期待も奪ってしまう。
そう思って、場地さんとは離れることを決断した。たとえ恋人でなくても、キスもセックスもできなくても、よき友としてならずっと傍にいられる。それで我慢できると思っていたのに。
「場地さん、全然、変わんねぇんだもん……」
気持ちよさそうに眠っている元恋人の前髪をはらう。綺麗な寝顔にごくりと喉が鳴った。薄く開いた唇に手が伸びる。軽く指先で触れたらもうダメだった。
もう一生、場地さんとはキスできないし、それ以上のこともできない。だったら、最後にもう一度だけ。一瞬だったらバレないはず。
「……千冬」
そっと顔を近付けたときだった。ぱっちりと目を開いた男がこちらを見上げている。
は、と間抜けな声が出た俺に対し、場地さんはただ楽しそうに笑っていた。
「今、何しようとしてたン?」
「……な、何でしょうね。分かんないっス」
「適当なこと言ってんじゃねーぞ」
場地さんの手がうなじを撫でる。何度も撫でられて、引き寄せられたことを体が覚えている。その通りに引き寄せられて、互いの鼻先が擦れた。
「別れるの意味、分かってねぇのはお前だろ。別れてからもずっと、期待した目で俺のこと見てた」
無意識に閉じてしまった瞼に唇を押し当てられる。
どうやら何も分かってなかったのは俺の方だったようで、もう馬鹿なことは考えんなよ、と場地さんは言うと、罰を与えるみたいに歯を立てて俺の唇を奪った。