(web再録版)怪物たちの紡ぐ唄 サンプル※浮奇・ファルガーの2人は、ライバーとしての体とは別に現実世界の体と名前を持っている設定です。
タン、タ、タ、タン
いい天気に弾む足を石畳に歌わせて、慣れた帰り道を辿る。新しい曲を作るときはいつもそう。足元にリズムを並べて、頭の中でメロディを重ねていくの。
今日はたぶん、タロットカードを引いたら「吊るされた男」とかが出るんだろうな。タロット良く知らないけど。朝ごはん用のジャムは切れてたし、傘を持って出たのに帰りには晴れてるし、学校の課題で作らなくちゃいけない曲のテーマは苦手分野にクリティカルヒットした。
だけど晴れ間が見えるのも早かった。教室で課題を見たときには思わず呻いたけれど、バスを降りる頃には「これだ!」っていうテーマを思いついたんだから。方向性が見えると気が楽になるよね。
ああ、でも随分前のことだから、彼らを曲にするならやっぱり日記を読み返さなくちゃ。
私を絶望から救ってくれた彼らの話。
はやるリズムを追い越して、私は家へと駆け出した。
その人は私にとって「先生」だった。
心の中でね。本人に言ったら「もう転職したんだが」と渋い顔をされたから。
うちの家族は、父と母と兄と私と妹の五人家族。すごく仲が良くて、私が十をとっくに過ぎた頃に生まれた妹はみんなのアイドルだった。仕事人間の父も奔放な兄も、妹のこととなれば何があろうと時間を作ってくれる。
その頃、私たち家族が住んでいたのはそこそこの都会で、今考えると学校がびっくりするくらい近くにあった。私の通っていたミドルスクールは特にそう。さらには妹の幼稚園が歩いて行けるくらいの距離にあったから、家族の中で一番に帰れる私が毎日お迎えに行くことになっていた。
「先生」はその幼稚園で保育士をしていた人だ。背の高い男性で、一見すると少しとっつきにくく見える。話してみると穏やかで目配りが細やか。子供のお話を聞くのが上手。よく笑う人で、天使だけれど時々モンスターにもなる子供たちと目線を合わせるのがすごく得意だった。
私はあの頃、妹の小憎らしい天邪鬼にほとほと手を焼いていたんだよね。特に帰り際、幼稚園の入り口で靴を履くのをいやいやいうのには本当に参ってしまっていた。
そんな妹を、あの手この手でうまく誘導してくれた先生に私が懐くのは必然だった。リトルモンスターと化した妹の前に颯爽と現れて、たった五分で「おうち、かえる!」と言わせてくれた時の感動ときたら。子供たちに髪の毛をもみくちゃにされて、顔に変なシールを貼られたその人が、私にはキラキラを纏ったスーパーヒーローに見えた。いつも帰り際に一言二言話すくらいだったけど、一日幼稚園で一緒に過ごしている妹と同じくらいに先生のことが大好きになったんだ。
だから、今でも「先生」。
その先生にバイト先の小さなバーで再会するなんて、そんな偶然信じられる? この広いアメリカで!
最後に聞いたのは何年前だろう、笑いすぎた時に出てくる特徴的な、お湯が沸いた時のケトルみたいな笑い声(先生はそれを聞かれるのを酷く嫌がっていて、私も数回しか聞いたことがない。それでも覚えているくらいには特徴的だった)。それが客席から聞こえてきたときは幻聴を疑ったし、見覚えのある、でも少し歳を重ねた姿を見つけた時には二度見して、店員があげちゃいけない声を上げていた。先生も同じくらい目を真ん丸にしていたけど。
先生は、私が雇われたばかりのこの店の店長と友達なんだって。近くに住んでいるらしい。
昼はカフェ、夜はバーになるこのお店に時々来ては、食事をしたりお酒を飲んだり、店長が暇だったらおしゃべりをしたり。他に友達がいれば彼らと騒いで、帰りにはいつも私を見つけて、「美味しかったよ、ありがとう」と言って、チップをちょっとだけ多めにくれる。
私だって店長たちみたいに先生と話したい気持ちもなくはなかったけど、バイトがあんまりサボるわけにもいかないでしょ。それに多分、「子供」カテゴリの私がいたら、気遣い屋の先生はリラックスできないような気もしていた。
そういうわけで賢い私は必要以上に存在を主張せず、かといって気を遣い過ぎないように、つまりは普通の店員とちょっと気前のいい客として、悪くない距離感を保っていたのだった。
私がどうしてこの先生の、もう少し踏み込んだ話を知ることになったかを説明するには、もう一人別の人の話をする必要がある。
彼は私の家に……正確には私が居候している兄の家に、下宿人としてやってきた人だった。
「シェアハウスの募集を見たんですけど」とやってきたその人は、インターフォンで現れたのが若い女性であることに困惑していた。下宿人を募集しているなんて寝耳に水だった若い女性こと私も、同じくらい困惑していた。
「住所間違えたかな……。連絡は入れたんだけど」と気まずげに、けれどしっかりした発音で言った彼は、聞き馴染みの良い静かな声と、細身でスタイリッシュな外見を持っていた。
(サンプルはここまで)