(web再録版)窮地の君 サンプル 浮奇が目を覚まさなくなった。
数ヶ月ぶりに家に招いて、抱き合って眠った翌日のことだった。
思い出す限りこれといった前触れはない。いつも通り楽しくゲームをして、美味しい食卓を囲み、笑う彼を愛しく眺めて、誘われた唇にキスをして、気を失うように眠りに落ちたところまで、全てはいつも通りだった。いつものように彼より早く起きて、いつものように犬の散歩と日課のワークアウトを簡単に済ませ、いつものようにランチの相談に起こそうとして、ようやく異変に気がついた。
浮奇が目を覚まさない。ゆすっても名前を呼んでも、戯けてキスをしてみせても、くすくす笑う声も、気だるげな声も返ってこない。慌てて医者に駆け込んだ。
しかしどの医者を頼っても、体に異変はないという。ただ眠っている。それだけ。医学ではどうしようもない話だと悟り、ファルガーは友人たちに連絡を入れた。
最初に頼ったのは四百年生きた悪魔だった。彼は快く協力してくれたが、彼から見てもおかしな力は感じ取れないとのことだった。一緒に来てくれた呪術師も呪いの類ではないと太鼓判を押してくれたが、原因については分からなかった。
次に頼った魔女は持ち込んだ様々な薬や魔法を試みてくれたが甲斐はなく、天界の鳥の知識を持ってしても分かることはないようだった。幽霊の仲間の気配もなく、妖精の仕業というわけでもなく、天狐やドラゴンやマーメイドにもあたってみたが思い当たる不思議はなく、ただただ彼は眠っている。一般人では知り得ないような薬でも盛られたかと、その筋に詳しそうなマフィアや未来の特殊警察、果ては怪盗にまで協力を仰いだが、目ぼしい収穫はなかった。
そうやって一週間が経過した。
ファルガーは帰宅した玄関先で、しんとした自宅の気配に立ちすくんだ。ずぶずぶと心が重く沈んでいくのを感じる。最愛の恋人が眠り続ける寝室の様子を思う。
家の中で最も快適に過ごせるよう改修した部屋には大きな格子窓があって、差し込む光がレースのカーテンに柔らかく受け止められ、優しい陽だまりを作るよう設計されている。薄い影に隠れるよう配置された大きなベッド。二人で寝転んでも余裕のある広さで、肌に当たるシーツは浮奇が留まり続けることになって以来出来るだけ毎日代えるようにしている。居心地はそれほど悪くないだろう。体の手入れが粗雑な自分のやり方では怒るだろうか。怒ってくれるといい。お前の怒る声は可愛いから。
あどけない寝顔と、グレーの寝具に浮かぶ紫の髪と。
奔放で自由な彼をあの部屋に閉じ込めて独り占めする夢想もしてみたことがあったけれど、実際に似たような状況になってみると想像以上に虚しくて笑いが漏れた。
声を聞きたい、抱きしめられたい、幸せそうにはにかむ顔を存分に眺めて、誘いを戯言であしらって、拗ねる仕草ごと抱きしめてやりたい。悪態をつく唇に親指で触れて、むくれる頬を撫でて宥めて、左右で色の違う星色の瞳を見つめながら顔中にキスを贈って、くすぐったいとやわく叱られていたい。
薄いビニール袋に張り付いた水滴が足のセンサーを刺激して、現実に引き戻された。アイスが溶けてしまう。浮奇が好きなアイスだから、溶かして駄目にしたら文句を言いに起きてきたりしないだろうか。それとも逆に拗ねて閉じこもってしまうだろうか。また空想に囚われそうになって、慌てて首を振る。長く息を吐きながら、食料と日用品を幾らかと、浮奇の体に栄養を補給するための点滴を抱え直した。しっかりしなくては。
キッチンの冷蔵庫へ向かうと、間をおかずに賢い愛犬がこちらへ歩いてくる。腰に頭を寄せる姿に、丁度お前の食事の時間だったなと大きな頭をひと撫でして、ドッグフードを皿へあけた。しかしその皿を無視してぐりぐり頭を擦り付けてくる。細い声で喉を鳴らす様子に最初は甘えているのかと思ったが、どうにも様子がおかしい。
整理途中の食料品を放置して早足に寝室へと向かうと、果たして、ベッドはもぬけの殻だった。
目を覚ました浮奇が歩き回っているだけだと、一縷の望みにかけて家中を探したが徒労に終わった。浮奇のスマホに電話を掛けてみれば電源が切れていて、訪れた日のまま触らずにいた彼のバッグの中からバッテリー切れの状態で見つかった。誘拐の線も考えたが、家中の窓や出入り口に異変はない。代わりに、浮奇の靴だけが消えていた。
情報をまとめると、浮奇は財布もスマホも持たず自ら外に出たことになる。
念のため警察に届けるべきか。じりじりと焦燥に駆られながら次の行動を決めあぐねていると、机に置きっぱなしになっていたスマホが震えた。
「ふーちゃん? ひょっとして浮奇ってそっちにいる? さっき会ったんだけど、なんかぼーっとしててさ。腹が減ってるみたいだったから持ってたプロテインバーをあげたんだけど、水を買いに行ってるうちに居なくなっちゃって。そういや少し前に寝込んでるって聞いてたけど、もう良くなったのか?」
(サンプルはここまで)