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    hiko_kougyoku

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    hiko_kougyoku

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    若やまささ+雨緒紀……他
    「痛みと慈しみ」③
    ※雨緒紀の物語・完結編
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に描きました。
    ※名前付きのモブ有。
    ※途中流血・暴力描写あり。

    痛みと慈しみ③ 4

     頭上を覆いつくす瑠璃色は東へ向かうにつれ淡々しく色合いを変えてゆき、空の端はまばゆいばかりに輝いていた。立ち込めていた闇が薄くなり、視界が利くのを待っていた雨緒紀は、笠越しに朝焼けを感じながら人目を避けるように十番隊舎の門をくぐり、敷地の外へ出る。隊士たちはまだ眠っている。抜け出すなら今しかない。そう思い歩みを進めていたが、目の前にぬっと長躯が立ち塞がり、足を止められる。
    「やっぱり動いたか」
     薄い唇をにっと歪めた乃武綱は、雨緒紀と目線を合わせると「どこに行くんだよ」と訊いてきた。意地の悪い質問だ。思いつつもお前に答えてやる義理はないという顔を作った雨緒紀は無感情に「そこを退け」とだけ返す。だが乃武綱は素直に応じることなどせず、こちらの真意を探ろうとじっと目を据えたまま顎を撫でる。
    「長次郎を探しに行くのか。ふーん。夕べ、俺を止めたくせに自分は抜け駆けするのか」
    「抜け駆けなどではない」
    「まあ急ぐ気持ちは分かるぜ。俺も今すぐにでも飛び出したいからな。でも俺が焦って、何かが変わるわけでもない。悔しいことに待つしかないんだよ」
     ぽつりと独り言のように話すその表情からは昨夜自分に引き留められた時の苛立ちが微塵も感じられず、不思議に思った雨緒紀は「ゆうべとは打って変わった態度だな。ようやくお前も忍耐という言葉を覚えたか」と嫌味を込めて返してみた。しかし乃武綱は感情を荒げることはなかった。かがめていた腰を伸ばし雨緒紀から視線を剥がすと、色合いを変えてゆく空を見つめながら訥々と話す。
    「さっき俺も抜け出そうとしたんだが、金勒に見つかっちまってよ……叱られた。『お前は長次郎のことばかりに気を取られ、思いつくままに動いているようにしか見えん』って」
     周りが見えなくなるという乃武綱の欠点を、思っていてもはっきりと口に出せる人間は護廷十三隊の中でも少ない。その少ない一人が金勒だ。乃武綱のためとか遠慮がないという不明瞭な感覚ではなく、それが必要だからやるという事務的な理由を持ち合わせているのが金勒の美点であり、神経質だと揶揄される要因でもある。私情ではなく物事を客観的に見つめることができるという面では、雨緒紀は金勒のことをそれなりに評価していた。
     そしてその金勒に真正面から事実を突きつけられたのは、乃武綱にとっては相当堪えたようだ。その内容が長次郎絡みであれば尚更のこと。
    「『冷静になれ。お前が今、やるべきことを見極めろ。長次郎なら大丈夫だと、いつもそう言ってるのはお前だろう』……確かにそうだ。そして俺自身が、長次郎を信じてやれてねえんだって思い知らされた。
     お前が言った通りだ。俺は、長次郎を子どもみたいに可愛がっていたいんだろうな。右腕になりたいっていうあいつの願いを叶えたいと言いつつも、いつまでも世話がかかるクソガキにしたまま、あいつの心配をしていたいんだ……情けねえ」
     遠くを見る乃武綱の横顔には長次郎の理解者だと思い込んでいた己の姿がいつからかその輪郭を見失い、誰のためにもならない庇護者でしかなかったと思い知らされたことによる悲嘆が滲み出ていた。今の自分が何を言っても憎まれ口にしかならないと思った雨緒紀が黙っていると、こちらを見返した乃武綱は割り切ったような微笑を向けてきた。
    「よくよく考えてみればあいつはあの戦争で山本と一緒に敵の総大将を討ち取ったんだ。実力は十分にある。そう簡単に窮地に陥るってことはねえだろうよ」
     確かにそうだ。冷たい死体の山から身を起こした長次郎の姿が今も鮮明に頭に浮かぶ。両手で斬魄刀を握りしめ、躊躇うことなくユーハバッハの胸を突き刺した時の、感情を押し殺した冷静な瞳。あの姿を目の当たりにしたからこそ、雨緒紀は長次郎の中の素質を見出した。同時にこう思ったのだ……磨けば磨くほど輝きを増す原石が転がって来た、と。未熟な精神の内側に燻る元柳斎への忠誠が生きるための原動力であり、その炎が燃え続けているからこそ長次郎は何度だって立ち上がる。
     だが、今回は状況が状況だ。昨日、山を出た時の嫌な視線が違和感として頭に引っかかったままの雨緒紀は、少しずつ焦りのようなものが沸き上がるのを感じた。この予感が外れてくれれば良いのだが……。
    「何かあったとしても、長次郎なら必ず山本のところに戻って来る。いざとなったら斬魄刀で戦うってこともできるし……」
     乃武綱の言葉に、昨日の長次郎の姿を思い出した雨緒紀は、「長次郎の斬魄刀は部屋にある」と否定した。すると乃武綱は一瞬きょとんとした顔になるとすぐに合点したように頷く。
    「ああ、そうか。あいつ、非番だから斬魄刀を持っていなかったのか。でもなんでそんなこと……」
    「昨日は白藍色の着流しを着ていた。北流魂街七十五区……長次郎は恐らくそこにいる」
     言ってから雨緒紀は内心で、すまない、と長次郎に謝った。お前に固く口止めをされていたのに、結局守ることができなかった。だがこの男は違う。この男は山本を除いた人間の中で誰よりもお前のことを慮っている。お前が渦楽のところに行っているからと言ってその行いを咎めるような男ではない。それは長次郎も良く分かっているだろう……。
     雨緒紀の言葉が意外だったのか、乃武綱はわずかに瞠目して「お前、それって」と驚いたような声を上げた。「昨日、そこで会ったのが最後だ」淡々と切り返せば、乃武綱は首を傾げて逡巡する素振りを見せた。
    「長次郎の奴、なんでそんなところに……」
     日が昇り、透明になってゆく空気に息を呑む微かな音が落ちたのは、その数瞬後だった。薄く開いた唇をわななかせた乃武綱は、作兵衛の墓か、と短く漏らすと、何かを抑え込むようにきつく目を閉じた。次に瞼を開いた時、その瞳に悲痛が立ち昇っていると思えたのは見間違えではなかったようだ。「長次郎、お前ってやつは」と喉を震わせた乃武綱は体ごとこちらに向き直ると、無表情を保っていた雨緒紀と目を合わせた。
    「それ、なんで今まで黙ってた。お前夕べ知らないって言ってたじゃねえか」
     それが長次郎の頼みだったからだ。返そうとした言葉は、しかし考えていたものとは別の方向へと転がってゆく。
    「何故お前たちに言わなければならないのだ」
     しまったと思ったのは、乃武綱の顔を見た時だった。それまでの痛恨をしまい込み、静かな怒気を滲ませた乃武綱は頬をぴくりと動かすと、嘘寒いような乾いた笑いを絞り出した。
    「そうだ、お前はそういう奴だった。何考えてるかわからない、ひねくれ者……でもようやく分かったぜ。お前は、長次郎のことを考えてるふりをしてたんだな。あいつのためとか必要なこととかごちゃごちゃと御託を並べてるがな、結局は長次郎のことなんてどうでもいいって思ってるんだろ」
    「何故そうなる」
    「だから今まで長次郎の居場所を言わなかったんだ」
     内部に流れ込んでくる声に、返す言葉が見つからなかった。冷たい感情のうねりが四肢の末端へと降りてゆき、足元がふらついたように思えた。いくら違うと叫んでも、信じてもらえるはずがない……こらえきれない悲しみに、握りしめた拳が小刻みに震えるのを感じながら、雨緒紀は乃武綱から目を逸らすことができなかった。
    「渦楽作兵衛の件の後、あいつなんて言ってたと思う? これも私に必要なことでしたからって話してたんだぜ 王途川殿は私を思って動いてくれたなんて言ってさ。誰かを恨むわけでも、嘆くばかりでもなく……それなのに、長次郎が信じてくれてるのに、お前はどうだ。長次郎をただ都合よく利用していただけなんじゃないか? お前の後ろ暗い過去の一つである、渦楽権兵衛の始末。その名残である作兵衛を消すために……」
    「馬鹿を言うな。そんなことあるわけないだろう」
     「どうだかな」嘲笑を貼り付けた乃武綱は、雨緒紀に向かって冷ややかに言い放つ。
    「お前は俺たちとは違うんだろ? ならば長次郎が傷付こうが野垂れ死のうが関係ないんじゃねえのか?」
     自らの思いとは相反する推測をぶつけられ、雨緒紀は確かに耳の奥でちり、と脳髄が灼ける音を聞いた。全身の血液が沸騰したように体全体に灼熱が走る。まとまらなかった思考が弾け、頭の中が真っ白になった雨緒紀は膨張する怒りに衝き動かされるがまま固く握った拳を振り上げ、乃武綱の頬に打ち付けていた。
     肉を打つ鈍い音と、呻き声。殴られた乃武綱がよろめきながら塀に手をつくのを視界の端に捉えながら、じんじんとそこだけ感覚がおかしくなったような痛みに疼く拳に目を落とす。怒り。それは久しく忘れていた激情。清明になっていく思考が自分を動かしたものの正体を理解すると、続いて一抹の虚しさが競り上がり、雨緒紀の裡に広がって行く。
    「それでは私は、まるで人でなしではないか……」
     失望が、空っぽになった胸を占める。乃武綱に対してではない。自分自身にだ。
    「お前の目には、私はそんな人間に見えるのか……!」
     叫んだつもりの声は細く掠れており、何とも情けない響きをしていた。腹の底で蠢いているどす黒い卑屈を奥歯を噛むことでこらえていると、あまりの嫌悪感に吐き気がこみ上げた。精神的な嘔吐感だ。
     人の本質を見抜く男にそう見られていたのなら、自分は冷徹な人間などではなく、ただの人のなりそこないに過ぎなかったのかもしれない。孤独になろうとしてもなりきれず、しかしどこまでも人の中で生きることができず、明けない夜を過ごしながら何かにおびえるように呼吸を繰り返す、哀れで惨めな生き物。その現実から目を背け、人の形を保っていたに過ぎなかったのか……。
     卯ノ花の言った通りだった。冷たく放たれた可哀想という言葉は、自分を偽りながら生きてきた男への手向けの花。全てを嘲笑いながら消えてゆくであろう魂が、その最期に呟く弔いの言葉。自らの生が何一つ報われることがない、意味のないものに思えてしまった雨緒紀は、打ちひしがれた胸をどうしようもない悲しみが占め、目頭が熱くなるのを感じた。
    「殴ったのはお前の方なのに、何て顔してんだよ」
     よっぽどひどい顔をしていたのか、まじまじと雨緒紀の顔を見つめていた乃武綱が思わずといった様子で苦笑する。
    「お前もそういう顔できるんだな」
    「何を言っている」
    「煽って正解だったぜ」
    「何……?」
    「長次郎のことを考えてなきゃこんな時間に出かけようとしねえよな」
     混乱した頭では上手い具合に情報を処理することができず、少しの間乃武綱が何を言っているのか理解できなかった。煽るという単語に先ほどの言葉の数々が本心ではなく、こちらを試すための方便だったと気付いた雨緒紀は、沈みかけていた憤怒がぶり返すのを感じた。
    「私をわざと怒らせたというのか、お前は。こんな時に……ふざけているのか!」
    「お前が何考えてるかさっぱりわかんねえからな。ちょっと嫌なこと言ったぜ。それに関しては悪かった。けどな、腹の知れねえやつには自分の命も他人の命も預けたくねえんだわ、俺」
     「それにしても涼しい顔して斜に構えているって思ってたけど、やっぱり俺とおんなじものを持っていたらしいな」怒りを飄々と受け流した乃武綱の言葉に、雨緒紀は何かを言うことができなくなってしまった。長い間誰にも見せず、最後まで隠し通すつもりでいた心の最奥、いわば精神の恥部とも呼べる部分を引きずり出されたようなものだ。恥ずかしさよりも弱さを曝け出した心もとなさに、雨緒紀は所在なく立ち尽くすことしかできなかった。
    「あー、いってえ。唇切れてら。なかなか効いたぜ」
     乃武綱は右手の親指で唇をなぞり、手袋に付いた血を見るとニタリと口角を上げた。拳を握りしめ、その瞳が雨緒紀を捉えると「雨緒紀、歯ぁ食いしばれ」と言い、一歩こちらに踏み出すのが見えた。
     何を、と言おうと口を開いたが、直後に左頬に走った衝撃に脳を揺さぶられ、言葉を発することができなかった。目の前が暗くなり、閃いたいくつもの火花が消えると今度は鉛を思わせる重い痛みと熱が広がる。後ずさる足元に笠が落ちる音を聞いた雨緒紀は、それ以上立っていることができなくなってふらふらとその場に膝を付く。
    「どうだ、痛ぇだろ」
     雨緒紀は勝ち誇った顔で立ち塞がる乃武綱を目だけで見返すと、認めるものかと言わんばかりに首を横に振り、「ふん、お前の力など……」と震える声で言ってやった。精一杯の強がりを聞いた乃武綱は、雨緒紀の胸倉を掴んで力づくで引き上げると、開きかけた拳を握りなおす。
    「じゃあもういっぺん殴られてみるか?」
     粘性のある声が耳朶に絡みつくと、脳内で二発目が来ると警告する声が響いた。固く目をつぶり身構えた雨緒紀は、歯を食いしばって次の衝撃を待ったが、
    「お前ら、何やってんだよ! こんな時に喧嘩すんなって!」
     割り込んできた声に緊迫した空気が霧散し、雨緒紀はそっと目を開いた。すぐそこで琥珀色の髪が揺れている。自分よりも背丈のある乃武綱にしがみつき、必死の形相で押さえつけているのは弾児郎だった。普段のふやけた笑みを消した弾児郎は乃武綱と雨緒紀に鋭い視線を放つと息を大きく吸い込み、全身を声にして叫ぶ。
    「長次郎のことが心配なのはお前たちだけじゃないんだぞ! 今はみんなの気が立ってる。振る舞いには気をつけろよ!」
     弾児郎の怒声で現実に立ち返った乃武綱は「分かってるさ。悪ぃな、世話掛けて」と詫びを入れると、雨緒紀を掴んだ手から力を抜く。解放され、たたらを踏んだ雨緒紀が顔を上げると、何かを訴えようとする真摯さを込めた弾児郎の目が一直線にこちらを捉えているのが見えた。
    「雨緒紀も! もっとおれたちを信用してくれよ。そりゃあ、お前よりも報告書を書くのは遅いし、頭は回らないし、いろいろ知ってるわけじゃないけどさ……でも、おれたちだって隊長なんだ。お前と同じ立場なんだ。たまには隣に立ってくれてもいいじゃんか」
     苦しげに吐き出された声を真正面から受けた雨緒紀は、胸の辺りで感じていた痛みが鋭さを増していくのが分かった。無視することも流し去ることもできず、ひたすら耐えることしかできない暗い痛み。少しでも紛らわせるために白壁の塀へと目の置き場を求めるが、弾児郎の視線が途切れることはなかった。
     こいつはどうして私を一人にしてくれないんだ。今だけではない、この間怪我をした時もそうだった。こちらの痛みにすぐさま反応し、自分のことのように悲しみ、案ずる素振りをみせる。そんなことをして一体何の利があるというのだ……雨緒紀の頭にはここにいない有嬪の顔も浮かび、胸の痛みが重くなる。自分など放っておけばいいものを。そう思いつつも、善意を突っぱねるような人間を見捨てることをせず、振り子が少しでも傾けば弱さになりかねない生身の感情をぶつけてくる弾児郎の気遣いを無下にできないもう一人の自分がいることに気付いた。
     大らかとか親しみとは違う、言うなれば無条件の優しさ。ひとたび刀を抜けば修羅となるこの世界で、他人を信じていなければ与えられないぬくもり、馬鹿正直な思いに心の奥がじわりと熱を持ったように感じ、雨緒紀は自問する。
     隣に立つ、か。誰かとそんな関係になるなど、考えたこともなかった。それどころか肩を並べてくれる誰かなど、今までいただろうか。思えば誰かと同じ場所に立つことを恐れ、そこから逃げることを孤独と思い込んでいたのかもしれない……。
     目を逸らすことよりも向き合うことのほうが難しい。他人とも、自分とも。随分と長い間張り詰めていた神経がほんの少しだけ弛緩したような気がした雨緒紀は、「すまない、尾花」と小さく返していた。それ以上は何と言っていいのか分からない。我ながら不器用だと自嘲すると、それまで顔をこわばらせていた弾児郎もふっと力を抜き、頬を緩ませた。
     その様子を見た乃武綱が「ま、長次郎の居場所も分かったことだし、行くぞ」といつもの調子で歩き出そうとすると、弾児郎がその背中に声を投げかける。
    「乃武綱、抜け出すとまた金勒に怒られるぞ」
    「そっちじゃない。確かに今すぐ飛び出したいけどな、それより先に行く場所があるだろ」
     思わせぶりな言葉に、雨緒紀はどこに? という疑問を視線に込め、乃武綱を見る。すると乃武綱は唇を歪め、にっと歯を見せて笑うと、何が何だか分からないといった空気を醸し出す雨緒紀と弾児郎に向けてこう言った。
    「決まってんだろ。長次郎の帰りを一番に待っている人間のところだよ」


     元柳斎の部屋の障子戸を開けると、そこには見慣れた横顔があった。
    「あれえ、金勒? どうしてここに?」
     弾児郎の声に元柳斎と話していた金勒はこちらに顔を向ける。雨緒紀と乃武綱、弾児郎という珍しい組み合わせに驚いたのかわずかばかり目を見開きながら言う。
    「たった今齋藤たち六番隊が出発した。現世の二番隊と合流して、四楓院が戻ってくるまでおおよそ半日といったところ……それまでに少しでも手掛かりを見つけるためにどうしようか話していたところだ。お前たちは?」
     「俺たちは山本に用がある」答えたのは乃武綱だ。乃武綱の視線を追うように部屋の主を見れば、固く口を閉じた元柳斎は厳然とした目でこちらを見つめている。ほんの数瞬走った緊張に感じるものがあったのか、金勒は双方の顔を見比べると「なら俺は席を外そう」と腰を上げようとした。
    「いや、必要はねえ。お前も居ろ」
     乃武綱が目だけで座るように促すと、金勒は中腰の姿勢のまま数歩脇にずれ、部屋の奥で胡坐をかく。空いた場所に乃武綱、弾児郎、そして最後に雨緒紀が座って元柳斎と正面から向き合うと、乃武綱が切り出した。
    「長次郎の居場所が分かったぜ」
    「どこじゃ」
    「北流魂街七十五区……雨緒紀が昨日そこで長次郎を見たんだと」
     状況を打開する兆しが見えた。希望を含ませた声に、しかし元柳斎の口から出たのは低い唸り声だった。困惑しているとも取れる、決して明るいとは言えない表情にどういうことだと訝しんでいると「やはり渦楽作兵衛のところか」と独り言のように漏らすのが耳に入る。今度は雨緒紀が驚く番だった。
    「やはり? お前、知っていたのか?」
    「普段の長次郎ならば、出かける時には必ず儂に行き先を告げるし、帰ってきた時には聞いてもいないのにどこへ行ってきただの何があっただの細々と報告をする。だが……最近はそれがない。あの一件からじゃ」
     隣に座る乃武綱が息を詰めるのが分かった。弾児郎も金勒も、真剣な表情を崩さないまま元柳斎の話に耳を傾けている。外で枯れ葉が地面を転がるささやかな音すら聞こえてきそうな静寂の中、元柳斎は言葉を重ねた。
    「長次郎が儂に言えない行き先など、思い当たるのは一つしかない」
    「山本、お前は長次郎が渦楽のところに行くと分かっていたのに、何も言わず送り出していたのか?」
    「止める理由がなかろう。それに、儂にできることはそれだけじゃ。弔いというのは生きている者が悲しみを癒すためだけにあるものではない。生者が死者のためにできる唯一の慈しみじゃ。長次郎の気持ちに儂が口出しするつもりはないし、それを排除しようとも思わん」
     思考の深部を覗き込もうとするかのごとくまっすぐこちらを見た元柳斎の、強い意志を滾らせた目をそれ以上見ることができず、雨緒紀は顔を伏せた。慈しみ。頭の中で形となっていく言葉をゆっくりと反芻しながら、いつかの日々を思い出す。元柳斎が長次郎に向ける眼差し、長次郎が作兵衛に掛けた言葉、そして、自分を見る有嬪の顔。ちかちかと駆け巡る光景に言い尽くせない感傷が沸き上がるのを感じ、雨緒紀はぎゅっと唇を引き結んだ。冷徹な人間の中に火種となって残っていた、魂の一部がじわりと広がってゆく。曖昧模糊で、かつての自分が脆弱だと嫌悪したものに心を打たれていると自覚したのは、内懐に競り上がる強烈な気持ちに気付いた時だった。
     長次郎をなんとしても助けなければ。その思いはこれからの護廷十三隊のためという、今まで自分が掲げてきた大義からだけではない。元柳斎のため、いや、ここにいる全ての人間のため……雨緒紀が膝の上に置いた拳に力を込めると、それまで黙って話を聞いていた金勒がおもむろに口を開いた。
    「居場所が分かったなら話は早い。すぐに何人か向かわせよう」
     鼓膜を揺さぶった事務的な声に、反射的に顔を上げた。ようやく目の前に現れ、届きかけていた熱が指の間をすり抜けていってしまうような焦燥感に奮い立った雨緒紀は、気付けば「私に行かせてくれないか」と声を上げていた。
    「お主一人でか?」
     意外と言わんばかりの顔で元柳斎が見たのと同じように、乃武綱や弾児郎、そして金勒の視線もこちらに向く。その瞳が今更お前が何を言うのだという卑屈な感想を投げてきているように錯覚し、口の中に苦いものを感じたが、それで雨緒紀の勢いがくじけることはなかった。
    「行くならば土地勘がある人間の方がいいだろう。私はあの場所に何度か行ったことがある。執行や善定寺のように外見に特徴があるわけではないから目立たないだろうし、笠で顔を隠せる。それに……」
     自分が今までやったことを考えれば、信頼などというものは地に落ちているとは承知している。しかし言わずにはいられないとばかりに口を動かしていると、今度は隣から忍び笑いが聞こえた。乃武綱だ。
    「お前、何かと理由を付けてるけどさ、素直に長次郎が心配だって言えよ」
     あっさりと見透かされた心中にばつが悪い思いになった雨緒紀は、そこから先の上手い言い訳が見つからず「言えるわけないだろう……」と返すことしかできなかった。見ると、乃武綱の向こうの弾児郎も微笑ましいものを見る目をしている。一瞬のうちに閾値を超えた恥ずかしさに元来の天邪鬼が首をもたげようとした時、ただ一人面子の中で険しい顔を崩さない金勒が「だが、長次郎がどうなっているのかも、何があるかもわからない。一人で行くのは無謀だ」と慎重論を述べた。
     その言葉に雨緒紀や元柳斎よりも早く反応したのは乃武綱だった。
    「一人が駄目なら俺も行くぜ」
     威勢のいい声に追従して「おれもだ」と弾児郎が膝を叩く。乃武綱がいいだろ? と片眉を上げて金勒を見れば、やれやれといった溜息が返って来た。
    「三人も行かせられるか……特に執行。お前は何をしでかすか分からないから動くな」
     ぴしゃりと厳命した金勒は「どうする?」と眼鏡の向こうの目を細め、元柳斎に問いかける。下駄を預けられた元柳斎は、内省するようにそっと目を閉じ、黙り込んだまま考えはじめる。最終的には総隊長の判断に従うしかないのは理解している。理解しているからこそ雨緒紀は、何かに縋り付きたい思いで元柳斎を見つめることしかできなかった。
    「昼には千日が戻ってくるだろう。そうしたら千日と有嬪を向かわせる」
     緊張を攪拌した声は、雨緒紀の背中に重くのしかかった。釈然としないのではない、ただただ悔しいのだ。頭では言うべき言葉を探しているものの、一方でここで自分が何かを言ったところで変わるものなどないという諦めが胸に広がりつつあり、失ったもののあまりの多さに慨嘆していると、元柳斎の目が真っすぐに雨緒紀を射抜いた。
     対峙するものを圧倒する苛烈さを纏った目の奥に、夜道を照らす星のような微かなきらめきが見えたような気がした。ささやかだが、しかし前に進むためにはなくてはならない光……その光は道理や効率性だけではない、人と人とが触れ合うからこそ生まれるあたたかなもので、まだ見ぬ朝に繋がっていると、雨緒紀はすでに知っている。
    「雨緒紀、お主は一人先に行って向こうの状況を探れ。そして千日と有嬪と合流し、長次郎を連れ帰って来い」
     力のこもった声に、どくん、と心臓が一つ大きく鳴った。それはつまり……と考えていると「山本」と自分と同じように目を丸くした金勒が咎めるように元柳斎を呼ぶのが聞こえた。しかし元柳斎が今述べたことを変えるつもりはないと言わんばかりの顔で見返すと、金勒は総隊長の決定に従うことにしたのかあっさりと口を閉ざした。
    「だとよ、雨緒紀。どうする?」
     乃武綱が意地の悪い声を掛けてくる。この状況も自分の目論見通りだと口角を上げる悪人面を軽く睨み返すと、雨緒紀は居住まいを正し、元柳斎に向かって頭を下げる。
    「必ずや、長次郎を連れ戻して来よう」
     頭上で「うむ」と重い返事が聞こえた。


     日はすでに昇りきっていた。元柳斎の部屋を辞した雨緒紀は早足で一番隊舎の門を出ると、思わぬ人物と鉢合わせた。
     暗鬱な夜を染み込ませたような射干玉の髪をなびかせ、立っていたのは卯ノ花八千流その人だった。朝日を浴びてもなお死人のように白い肌は明るさの中でもやはり不気味な色合いで、内心でぎょっとした雨緒紀は思わず立ち止まってしまった。
     その反応を見ても表情一つ変えない卯ノ花は、立ち尽くしたまま冷たい視線を向けてきた。今度は何を言ってくるのだろう。固唾を飲んで相手の出方を窺っていると、卯ノ花は人を死に誘うようななめらかな声を静謐の中へと落とした。
    「あの子は無事でしょうか」
     声の無感情さとは裏腹の内容に、雨緒紀は正直拍子抜けした。この能面にどう返してやろう……そう思考を巡らせたが、真摯な目でこちらを見つめてくる卯ノ花に子を心配する母親の面持ちを重ねた雨緒紀は、普段の皮肉を喉の奥にしまい込み「当然だ。あの長次郎だぞ。山本の目の届かない場所でくたばるほどやわではない」と返した。
     すると、目の前から細い笑いが聞こえてくる。
    「……なにが可笑しい」
     不機嫌を乗せて尋ねるも、満足げに細められた目がもとの冷然さを取り戻すことはなかった。
    「あなた、いい顔をしていますよ」
    「何?」
    「心の一番大切な部分を、大切だと思っている人間の顔ですよ、それは」
     投げかけられた声に、今ひとつぴんと来ない雨緒紀はとっさに自分の頬に触れた。今、自分はどんな顔をしている? 卯ノ花の言ういい顔というものがどんなものか皆目見当がつかなかったが、もしかしたらすっかりたるみきった、間抜け面なのかもしれない。そう思ったのは、目の前の女の唇が緩んでいるのを目にしたからだ。からかわれているのか? 眉を顰めて睨みつけるも、卯ノ花は意に介する様子もなく言葉を続ける。
    「それにしても、あなたと本気で斬り合えると思っていたのに、しばらくお預けのようですね」
     それは至極残念そうといった口ぶりだった。卯ノ花が斬魄刀の柄に指を這わせるとその姿が先日にらみ合った時の緊迫感を呼び起こし、慄然としたものを感じた。
    「冗談じゃない」
     まっぴらごめんだという思いをたっぷりと込めて言ってやる。「お前となど、刀を交えたくない」と続ければ、卯ノ花の目に喜悦が立ち昇るのが見て取れた。「やっと本心を聞くことができました」喜びと安堵が混じった声に、結局はこの女の掌の上かと癇に障った雨緒紀は、相手の神経を刺激するつもりで畳みかける。
    「お前も執行も、何を考えているのかわからないから苦手だ」
    「まあ、正直だこと。でもあなたに言われたくはありませんよ」
     こちらの言葉にそよともしない卯ノ花はゆらりと数歩ばかり歩み寄ると、雨緒紀の顔を下から覗き込む。その得体の知れない腹の底を探ってやろうと卯ノ花の目を見返すが、どこまでも昏い深海の瞳がそれ以上何かを語ることはなかった。そうして少しの間不気味な沈黙に浸っていた二人だが、やがて卯ノ花がふうと息を吐き、声の調子を落として告げる。
    「……私も正直に言いますが、いくら何でも執行殿と並べて欲しくはないですね」
     言ってやったとばかりにふふふ、と笑うのを見た雨緒紀は一瞬呆けた顔になった後「それは悪いことをしたな」と言うと、卯ノ花と同様に頬の筋肉を弛緩させた。

    《続く》
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    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。
    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
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