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    おいちゃ

    @oitea_tya

    おいちゃ(追茶)です。表には上げにくいものを載せていく予定です

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    おいちゃ

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    pixivに載せる予定の放蛍(スカ蛍)小説です。暗い道を進む二人。そして人知れず頑張る放浪者くん。そんな放蛍ちゃんのお話。
    ※pixiv投稿時には「放浪者」には任意の名前を入れられる設定をかけます。ポイピクで読む際は脳内で変換をお願い致します!

    #放蛍
    release
    #スカ蛍
    ScaraLumi

    夜道を進む放浪者と蛍ちゃんのお話 ──それは突然のこと。一人分の呼吸音が消えた。

    「……え?」

     蛍は右横に顔を動かすも、つい数秒前までそこをふよふよと浮いていた相棒の姿が見当たらなくなっていた。

    「パイモン!?」

     慌てて周囲一帯を見渡してみる。雑木林に所々雑草が生えた砂利道。その砂利道には通行人の道標のように灯篭が並び立っているが、その中には風など吹いていないというのに赤白い炎が揺らめいている。蛍がずっと見てきた景色だ。そう、蛍たちを覆っていた景色に変化はない。ただ周囲の雰囲気に怖がってばかりいたパイモンのみがその姿を消してしまっていた。ドクドクと高鳴る心臓、頬を伝う汗。普通ではないことが起きていると嫌でも理性が理解してしまう。

    「……ここにはいない、か」

     もっと周囲を捜索したい気持ちに駆られたが、今は先に進むことを選ぶ。このどこまで続いているのか分からない灯篭の道。もしかしたら何かしらの存在により、この先に「連れて行かれた」可能性があるのかもしれない。そしてこの場を訪れた蛍とパイモンの目的は最奥だ。何が待ち受けているのか分からないが、相棒がそこにいることを信じて少しばかり重くなった足を前へと動かす。

     ただいまの時刻は深夜一時半頃。この場を訪れてから約三十分程が経過していると思う。稲妻では今の時間帯のことを『丑三つ時』と呼ぶと、この場所について情報をくれた紺田村の住人から聞いた。
     
     住人曰く、最近村の近くに夜な夜な鳥居が一つだけ現れ不気味に思っていたらしい。数日間様子見をして何も異変がなければ近くに寄って調べようと考えていたらしいが、たまたま村の近くを通りががった野伏が興味本位のまま鳥居をくぐってしまった。すると不思議なことにたちまち彼の姿を見失ってしまい、彼が帰って来られるのか気になって眠ることが出来ず離れた場所で朝日を迎えることとなる。結局、鳥居を通った浪人が戻って来ることはなかった。鳥居自体は四時くらいに消えたらしいが、それが毎回決まった時間に出現と消失を繰り返しているのかまでは分からない。だが夜中まで城下町で仕事をして村に戻ると鳥居はそこにある。それが何とも恐ろしいと話していた。
     そういった経験により「もし見かけても近付いてはいけない」と優しく忠告してくれたのだが、そういった話を聞いて大人しくしていられる蛍ではない。その日は早めに休息をとり、そして深夜一時に村の周辺を探索していた。ちなみにパイモンは「絶対お化けのせいだ……っ!」と住人の話を聞いた時から震えていたが、健気に蛍に付いてきてくれていたのだった。

     ──じゃり、じゃり。

     果ての見えぬ道。一人歩く蛍の足音のみが響く。鳥居をくぐると砂利と灯篭の道が四方八方に広がっているがそれだけだ。三十分ほど歩き続けたにも関わらず、大切な相棒が消えてしまったこと以外に変化は起きていない。登り路ではないためまだ体力には余裕があるものの、本当にこの道に果てがないのだとしたらそれは困る。蛍の旅はまだ終わっていない。兄との再会は未だ遠く、この旅路にはパイモンの案内が必要なのだ。明日(正確には今日だが)も依頼をこなさなければならないし、誕生日を祝っていない仲間だっている。やらなければならないこと、やりたいこと。そういったことを頭の中で一つ一つ思い出していると自然と足を動かす速度が増していく。ガツガツと歩くたびに跳ねる小石。踊るように揺れる灯篭。後ろに流れて行かない雑木林。背後からふわりと吹き付ける風。耳奥に届けられる灯篭の歌。蛍の名を聞いてくる。徐々に軽くなる両足。それら一切を無視して果てを目指す。そう、早く。早く行かないと。帰りの道は長く険しい。早く、早く、早く早く早く──。

    「ふっ」
    「イ────っ!!!!」

     突如背後より耳に温かい風が吹きつけられ、声にならない声が蛍の喉を締め付ける。歩きを止めなかった足はそれだけで仕事を放棄し、同時に前方にばかり意識を集中させていた蛍は大袈裟なほど全身を震わせ慌てて振り返る。すると蛍の真後ろには、笠を被った修験者姿の少年がニヤニヤとほくそ笑みを浮かべて真後ろにいた。止まっていた呼吸が空いた口の隙間から肺へと流れ込み、掠れた声が漏れ出す。

    「あ、やっと気付いた」
    「──、ぁ、え……放浪者……?」
    「ははっ!まるで幽霊にでも遭ったかのような顔だ!」

     この人の困惑を糧に笑顔になる少年……間違いなく蛍の知る放浪者だ。彼は蛍の動揺にゲラゲラとお腹を抱えて笑い出し、その姿は静寂に満ちたこの場にはまるで不釣り合いだ。先程耳に吹き付けられた息の音も酷く大音量で聞こえた心地がし、そのせいで蛍の心臓もドクドクとうるさく文句を主張している。これは心臓のペースをアップするよう無理矢理フェーダーを操作した放浪者のせいと言えるだろう。

    (あ、あれ?)

     だが本当にそれだけだろうか。この心臓のけたたましさの後ろに何かが隠れている、そんな予感がよぎるのは。それはパイモンとはぐれたことに起因する焦燥か。はたまた、一人で不気味とも言えるこの道を進むことになった現状への緊張感か。或いはその両方か。
     少しだけ思慮に耽けるも、すぐにそれを止めることにする。現状を打破するにあたり、自分の今の思考はそこまで重要ではないだろう。加えて、現在の手元の情報だけでは判断を下すことは出来ない。目の前では放浪者がそういった思考を馬鹿らしいと笑うかのように今も尚お腹を抱えている。こんなにも笑われていては物を考えることなんて出来そうにない。ただ彼の姿を見ていると、変に考え込んでしまった自分が本当に馬鹿らしく思え何となく気が楽になりそうだ。そして彼の趣味の悪い笑顔がこの心臓をゆっくりと落ち着けていくことも──また確かだった。

    「……いつからいたの?」

     心臓のボリュームの調整が終われば、ようやく彼に目を向ける時間だ。もっと他に声の掛け方があったのではないだろうか?今もお腹を抱えて笑い続ける放浪者にムッと口を尖らせる。……それにしても笑いすぎだろう。おかげで途中いろいろと何かを考えていた気もするが忘れてしまった。
     呆れながらもう一度辺りを見渡すも当然ながら放浪者以外に人の姿は見えなかった。景色も砂利道に灯篭、そして奥に雑木林と変わり映えしない。彼が誰かと行動を共にするような者とは思えないが、一方でもう少し人と行動することを覚えたらいいのにとは願ってしまう。……もっとも、それを強制しようとは思わないが。

    「あー、笑った笑った。で、いつからいたって話だっけ?僕はちゃんと君に声を掛けたけどね」
    「……ソウデスカ」

     悪びれる様子のない放浪者。思い返せば確かに目の前にばかり気を張っていたが、蛍が彼に気付くまでもっと声を掛けて欲しかったところだ。周りはこんな薄暗い参道。幽霊やそういった者をじわじわと感じさせるこんな環境では尚更自重して欲しい。……別に、そういった類のものが怖いからとかそういう訳ではない。
     
    「それは、ごめん。ところでパイモン見てない?」

     話題を変えるべく、今最も気がかりなパイモンについてダメ元で聞いてみる。放浪者と合流したものの二人しかいないこの現状が答えであるとは知りつつも、やはり聞かずにはいられない。それだけ蛍にとって大切な旅の仲間なのだから。

    「パイモン?……あぁ、あのちっこいの。僕は知らないよ」
    「うーん……そうだよね……」

     やはりと言うべきか、放浪者の答えは想定していたものだった。そして彼の言葉に嘘は感じられない。彼は蛍が歩いて来た道を通ってきたが、きっとその道中に相棒の姿や声は本当になかったのだろう。少しばかり期待していた自分もいただけに少しだけ肩を落としてしまう。
     だが、これでやることは確定した。彼が出会わなかったということは少なくとも後方にパイモンはいない。放浪者に背を向け前方を睨み付ける。そこは相変わらず先が見通せない道であったが、不思議と先程のように焦燥感が湧き上がることはなかった。

    「先に進むのかい?」
    「……へ?」

     蛍の背中に向けて放浪者がポツリと言葉を振りかける。そんな彼の思わぬ言動に思わず振り返ってポカーンとしてしまった。……珍しいこともあるものだ。人一倍まどろっこしいやり取りを嫌悪する彼が、つい数秒前の蛍のように分かりきった答えを聞くなど。
     放浪者の目を正面から捉える。彼も蛍に無表情で意図の読み取れない目を向けて逸らすことは無い。だが、確かに発せられている蛍を試す意思。それはまるでここから先は通さないとばかりに立ちはだかる門番のよう。

     ……何て優しい門番。先程の蛍の隙ならば、簡単に蛍の正面に立つことも出来ただろうに。後ろから無防備な背に向けて、分かりきった答えを言わせて覚悟を固めさせるなんて。

    「行かないといけないの。──そうだ、放浪者もついて来てよ」
    「は?僕も?」
    「うん。そのためにここまで来てくれたんでしょ?」

     彼がここを訪れた理由は聞かされていない。だが蛍に己の存在を気付かせてくれた。そして会話をし、今こうして蛍の前にいる。彼はきっと、蛍たちが不思議な鳥居をくぐったのを見てその身もここへ投じてくれたのだろう。この推測が自惚れでも構わない。笑われたっていい。だから──

    「放浪者も一緒に来てくれたら嬉しい」

     今は一緒にいて欲しい。

    「……ははっ。本当に、君はお気楽だね」 

     笠を深く被り、蛍へと歩みを進める放浪者。目元が見えなくなってしまったが、彼が纏う雰囲気は手に取るように分かってしまいそうな感覚に陥る。放浪者はそんな奇妙な感覚を掴む蛍の左手首をとると、そのまままだ見ぬ道へと歩き出す。

    「何をぼさっとしてる。早く行くんだろう?」
    「──。うん!」

     乱暴に掴まれた手首はちょっぴり痛い。でもそれが何だか楽しくて、蛍の口角は少しだけ上がるのだった。


     放浪者に手首を引かれ一本道を進み続ける。そのペースは早過ぎることも遅過ぎることもなく、一人であれほど急いでしまっていたのが嘘のようだ。……そもそも何故あんなにも焦っていたのだろう。知らず知らずのうちに、パイモンとはぐれたことに対して恐怖を抱いてしまったのか。

    (これまでも何度か離れたことはあったのに……おかしな私)

     こほん。自分の行動に笑い声が漏れそうになるのをごまかすように一つ咳払いをし、視線を放浪者へと向けてみる。斜め後ろから見る彼は周囲を確認しているのか、頭ごと左右に動かしてキョロキョロとしていた。

    「度を越えて退屈な景色だ。この秘境を作ったヤツ、センスなさすぎじゃないか?」
    「ここってやっぱり秘境だったんだ」
    「……まさか君、何も分からないまま探索してたとは言わないよね」
    「ははは。言わない言わない」

     危ない。これ以上突入前のことを話していると、能無しと馬鹿にされそうなことを口にしてしまいそうだ。困った時は笑うに限る。かくっと頭を下げて呆れたようなため息をつく声が聞こえた気がしたが、それも笑って聞こえなかったことにしてしまおう。

    「……まあ、いい。僕は左右の張りぼての間違い探しでもしておくから、せいぜい君は正面にちっこいのが見えないか注意しているといい」

     そっちの方が難易度も高そうだしね、と再び放浪者は観察を始める。
     状況の見通せない環境下。前生では何百年とファデュイで活動をしてきた彼にとって、こういったことは初めてではないのだろう。周囲を警戒しながら蛍の手首を引く彼の歩みには迷いがなく、冒険者として尊敬されることの多い蛍から見てみても頼もしいと言える。否定する理由も思いつかないため、とりあえずここは彼の申し出に甘えさせていただくとしよう。蛍としても、この参道の先に訪れるであろう景色の変化を見逃したくはない。
     ──ただ一つ、文句を上げるとすれば、

    「わかった。……ところで、私は『君』という名前ではないのだけど?」

     放浪者が、私のことを名前で……「蛍」と呼んでくれないことだ。私は私が彼に与えた名前「放浪者」で何度も読んでいるのに。そこには彼からの意地の悪い意図があるような気さえしてしまう。

    「へえ……?じゃあ、無事にここから脱出出来たら、『君』が誰なのか思い出してあげるよ」

     蛍から飛び出した不満を子供じみたわがままだと理解したのか、ふん、と鼻で笑う放浪者。それとも、その笑いは名前を忘れてしまっている現状への誤魔化しか。脱出するまで、つまり「蛍」を思い出すまでの時間稼ぎだとしたら、こちらが思いっきり笑ってやろう。いつも小馬鹿にしてくる彼の整った綺麗な顔が屈辱に歪む様を見るのも一興だ。

    「よし乗った。ちゃんと覚えておいてね?」
    「はいはい、わかったわかった。だから僕ばかり見ていないで、前方への注意を怠るな」
    「素人じゃあるまいし、そんなことにはなりません」
    「ははっ、秘境と確信を持てなかったベテラン冒険者様はご立派なことだ!」
    「……そんなこと言ってない」

     ──決めた。笑うだけでは駄目だ。指差して、目から涙が零れてしまう程大笑いしてやる。そして悔しさに顔を滲ませる放浪者の顔を写真機に収め、自室の机の上に額に入れて飾ってやろう。極めつけに口の軽い可愛くて頼りになるパイモンにこのことを話し、どこかで旅の仲間たちや各地の知り合いに笑顔の種としてこの話を蒔いてもらおう。
     そのためにも、まずはパイモンを見つけ出す。そして三人でこの謎の秘境から脱出をしなくてはならない。どこか軽くなった体の内側を見ないふりをし、迷うことのなさそうな先の見通せない一本道の参道の奥を睨みつける。

    (待っててパイモン。絶対置いて行ったりしないから)


     どれだけの距離を歩いただろう。代わり映えしない景色では体内時計が正常か否かの判断も付きにくい。途中で空に浮かぶ景色でそれらを図ろうとも考えたが、空を見るまでもなくすぐに諦めた。星空でさえ偽物なんだ、作り物である秘境であるならば尚更役に立つ情報を得られるとは思わなかったから。

    「──あ」

     そうして緞帳のオープンだけを繰り返す壊れた演劇映像を見ているだけの蛍だったが、ついに開演の火が灯ったような変化を目にした。灯篭の火が導く視界の先にぼんやりと光るもの。もともと光に判然とした輪郭があるわけではないが、それはどことなく形を持っているかのように見える。……まるで、建物に取り付けられた窓から漏れ出た明かりのように。
     放浪者もソレに気付いたのか、状況の変化に思わず足を止めた蛍を咎めることはなかった。

    「本殿か。はっ、それにしても随分とちっぽけじゃないか」
    「え、あれが?」

     放浪者の言葉の通り、参道の先には小さな建物がそこにあった。どうやら明かりはそこから漏れ出てきているようだ。蛍は稲妻の文化に精通しているわけではないため判断が付かないが、放浪者の視点からはあの小さく頼りなさげな建物が終着点らしい。

    「ここまでパイモンの痕跡は全く見つからなかった……。なら、あそこに……?」

     ここまで長い参道を歩かされてきたにも関わらず、何かがあるだろうその建物は彼の言葉通り「ちっぽけ」であった。恐らく十人も入ることが出来なさそうなほどの大きさ。三段の階段の先には明かりを漏れ出している引き戸がある。淡い光がこぼれ出ている様子からして、決して厳重に閉められた扉ではないことは察しが付く。
     だがこの秘境が神社を模しているのであれば、その中心となる本殿にはきっと蛍の求める答えが隠されているのだろう。その答えを促すように放浪者を見やれば、たいして驚きや焦燥といった色を浮かばせていない顔をした目とぶつかった。彼にあるのは──退屈、そして……呆れ?

    「可能性は低くはないかもね」
    「……パイモンっ!」

     居ても立っても居られない。
     放浪者の態度が気になったものの、ようやく目の前に現れた手掛かりの一つを手にしない訳にはいかなかった。蛍の手首を掴んだままの放浪者もろとも急いで前へと進みだす。てっきり手が離れると思ったがそうはならなかった。だがそれでも構わない。今はただ、一秒でも早くパイモンを見つけたかった。

    「おい、そんなに引っ張るな」

     掴んでいるのはそっちなのに──。
     その言葉を呑み込んで一歩、また一歩と歩みを進める。永遠とも思える参道を乗り越えて来たためか、本殿の引き戸の前に辿り着くまでの時間はあっという間に感じられた。ようやく仲間と出会える。急ぎ足になるのも当然だ。感動に胸がドクドクと喜んでいる。

     ──い……。

     稲妻の民家と変わらない質感をした戸の前に立つと、自分たちの足音と話し声しか響いていなかったこの秘境内に全く別の音が混ざり始める。それは疑うまでもなく目の前から聞こえている。

     ──もん……。

     ……あぁ、どうして私はこんなにゆっくりしてしまっていたのだろう。ずっと、こんなにも近くにいてくれていたのに。

     ──ぱ、もん。ぱい、もん……。

     大丈夫、怖がらないで。私は、パイモンの傍を離れたりなんかしないよ。

     ──わ、たし……?

     そう。あなたは私の相棒。そしてわたしは──。


    「────っ」
     
     引き戸に右手をかけると、それは少し力を入れるだけでいとも簡単に開いてくれた。が、ずっと暗闇の中にいたためか室内に灯った蝋燭の明かりに目が眩んでしまう。そして同時に耳に飛び込んできた拍手のような音。その正体を辿るべく、蛍は恐る恐る目を開けるのだった。

    「……え?」

     パチパチパチ!

    「ぱ、いもん!おいら、ぱいもん、ぱいもん!」

     パチパチパチ!

     そこには蛍が探していた大事な仲間がいた。ふよふよと本殿の中を飛び回り、初めて覚えた言葉を復唱するように自分の名前を連呼して遊んでいるようだ。その様子を見る限り怪我をしているようなことはなさそうだ。大切な仲間に傷一つないことに、張り詰めていた緊張の糸が解けるように肩の力が抜けていく。

    「何ともなくてよかった、パイモン」
    「……!ぱいもん!」
    「わっ!もう……心配したんだから」

     呼びかけるとようやくこちらに気付いたのかパイモンが抱き着いてきた。空いている右手で頭を抱きかかえると、その冷たさに安堵感が胸から体全体に広がっていく。長時間離れていたとは思えないが、やはり傍にはこの子がいてくれないと。自分の中で確実に大きくなっていたパイモンの存在が今ここにあることが、息が詰まってしまいそうなほど感動が胸いっぱいに膨らんでいくようだ。心臓も眠る様に感動に浸り始め、それに反比例するように左手首が熱を帯びていく。
     ふと右手の力を抜くと、胸に縋りつくパイモンと目が合った。よく見るとその目元は赤く腫れあがり、頬には涙のような水分が流れた痕跡が残っている。思わず視線を小さな手元に移らせると、僅かに変色した部分が見受けられた。それは腕で目元をこするのに丁度使いそうな箇所。

    (あ、れ……?)

    「ぱいもん!ぱいもん!」
    「!」

     パイモンの声に飛ばしていた意識が戻って来る。今自分は何を考えて……?せっかくパイモンと再会できたというのに何をしているのだろう。自分で自分が分からなくなる。今はただ、この再会の余韻に浸っていればいいんだ。

    「というか、私は『パイモン』じゃないよ」
    「??……ぱいもん」
    「パイモンってば……」

     悲しいことに、どうやらパイモンにまで名前を忘れられてしまったようだ。はぁっ、とため息をつきパイモンから手を放す。
     自然と私の視線の高さにまで浮かんだパイモンは、ただこちらをじっと見つめている。前々から思っていたが、パイモンの瞳はまるで星空のようだ。テイワットの空が偽物なら本物の空はここにあるといいのに。そうすればきっと、この本当の星空は私だけを見てくれる。私だけに真実を投影してくれる。

    「私は──」

     手を伸ばしても届かない贋作なんて必要ない。私を捉えて離さない本物にどんどん引き寄せられていく。

    「私の、名前は」
    「おい」
    「……!っ、いった……!」

     放たれようとした言葉は、手首へと訪れた突然の痛みによってせき止められてしまった。温かかったその左の手首はギシギシと叫んでいるようで、骨が折れてしまっても何ら不思議ではないほどの圧力がかけられている。一体何がこんなことを?とは考えるまでもない。星空を求めていた視界は激痛に歪み、自然と手首から繋がる腕、肩、そして原因の顔を映し出していく。

    「君に一つ、質問がある」

     犯人の顔は傘を深く被っており、真意をまとう表情を伺うことは叶わない。それでも唯一見えるその口元から発せられる言葉が重くのしかかる。まるで、こちら側に拒否権など与えない──そんな尋問をされているかのような冷たさ。パイモンの体温の低さに安心していたはずの自分なのに、どうしてか放浪者から突き付けられる氷をまとったような言葉に髪の毛一本とて動かすことが出来なかった。
     
    「僕の名前はなんだ?」
    「……は?」

     正面から尖った氷槍を叩きつけられることを覚悟していた蛍に振りかかったのは、頭上からの星だった。思わぬ問いかけに固まってしまっていた体はガクッと一度大きくバランスを崩し、45度傾いた世界に誘われる。所謂ズッコケというやつだ。
     そんな自分から見ても端から見ても恥ずかしい体勢になっている蛍だが、視線が低くなったことで傘に隠れた男の顔を目にした。そこには眉間に皺を寄せつつも、群青の瞳にみっともない姿を見せる蛍を絶えず収めている。見たことのない彼の表情。見間違いかと姿勢をただし再度正面から向き合う。身体の移動の最中も群青は蛍を追い続け、傘が直立した蛍にその色を隠すようなことはなかった。

    「残念ながら、こんなところで『答え』を聞く気なんて僕にはないんだ」
    「こた、え……」
    「そう、答えだ。──忘れたならもう一度言ってあげようか?」

     蝋燭の明かりに照らされれもなお暗い瞳がふわりと微笑む。折れそうな程握り締められていた放浪者の手が緩み、代わりに体ごと勢いよく引き寄せられ頬に手が添えられる。いきなり狭まった二人の距離は口と口が触れ合いそうな程近く、これからキスをする恋人のようだ。

     だというのに、蛍の心臓は驚くほど落ち着いていた。

    「──『無事にここから脱出出来たら、『君』が誰なのか思い出してあげるよ』」

     放浪者の髪が蛍の前髪と混ざり合い、口と鼻が肺をも巻き込んで呼吸を忘れる。──キスって、味がしないんだ。甘さも酸っぱさも感じられないキスは彼が人形であることが原因か。分からない。分からない分からない。今の蛍に分かることは、未だに自分を薄暗く照らしている群青が眩しいこと。瞬くだけの遠くの星々より心を持つ偽物の方が美しいと感じ、そこから目が離せないでいる自分がいることだけ。

     すうっ。

    「っ!?!?!?」

     彼の瞳に全てを奪われていると、ほんのり空いていた蛍の口から空気を食べるように放浪者が息を吸い込んだ。その何ともいえない感覚に思考が現実へと戻され、目の前にいた男の体を思い切り押しのけた。

    「な、な……!?ちょっ……放浪者……!?」

     今になって心臓がドクドクと異常を訴え出す。放浪者に添えられていた頬に手を当てると、これでもかという程熱を帯びてしまっている。

    (キスしちゃったキスしちゃった!はじめてだったのに男の人とキスしちゃった……!)

     どうして先程までは冷静でいられたのか理解に苦しい。いっそのこと事後の方が平静を保っていたかった。口元に触れようと震える手を持ち上げるが、まだ彼の感触が残っている気がしてしまい、触れる直前でその動作を止めてしまった。何、何これ。……もう何も分からない!今日は自分を見失ってばかりだ。

    「あっはは!ちゃんと言えたじゃないか」
    「──────」

     恐る恐るいとも簡単に跳ねのけられた放浪者を見やると、数歩よろめいただけのようだ。だが突き飛ばされた彼の口は笑みを湛えており、むしろ蛍の行動に満足を得ている様子。彼が求めていたものを見つけたような姿に、忘れかけていた何かが湧き上がる感覚。本能のまま周囲を一瞥し、ようやく蛍は「現実」に向き合うのだった。

    「──い、言いたいことはたくさんあるけど……、とりあえず『連れ戻してくれて』ありがとう」
    「さて、何のことやら。僕はただ、君が画策していた企みがどれほどのものか見てみたかっただけさ」
    「……ほんと、素直じゃないんだから」

     頬の熱を仰いで振り払い、照れ屋だが自分の成果を誇示しない恩人に背を向ける。彼は礼という面倒な手順を必要としない人。それをよく知っているから、この場は伝わるまで言葉を届けることはしないでおこう。代わりに部屋の真ん中まで移動し膝をつく。

    「遅くなってごめんね、パイモン」

     そこには力が向けて畳の上に横たわる相棒の姿。その小さな体をそっと持ち上げて髪を撫でると、蛍とはぐれてから相当泣いたのか毛先が束のようにまとまっていた。喉元を軽く確認してみると、通常よりも浅くはあるが確かに息をしている。どうやら気を失っているだけのようだ。呼吸器官を圧迫しないように動かない体を抱きしめれば蛍の知っている湯たんぽのような温かみが胸を覆い、嬉しさや後悔に目元が水気を帯びていく。

    「……っ、一緒に、帰ろうね」

     未だ意識を失ったままのパイモンの口元が笑ったように見えたのは気のせいだろうか。少しだけ苦しくなった鼻呼吸に発破をかけるように一つ大きく深呼吸をする。大丈夫、私はまだ動ける。

    「ねえ、こいつは?こっちも生きてるみたいだけど」

     退屈そうな声に目を向けると、部屋の隅の方には男が倒れていたようで放浪者が足先でツンツンと突いていた。稲妻でよく見かける野伏の装い。一目で彼が村人から話に聞いていた浪人だと見当が付く。出会えば問答無用で襲い掛かってくるような連中ではあるが、このような正体の分からない秘境に置いて行くことも出来ない。

    「もちろん連れて帰るよ」
    「相変わらずお人好しなことだ。また襲われても知らないよ」

     放浪者の悪戯を手で制し、倒れている男の腕を自分の肩に回す。片手でパイモンを抱え、もう片手で男を担ぐようなこの体勢は、冗談でも余裕とは言えない程蛍の細い体に重くのしかかってくる。でもこれは命の重み。これらを振り払って秘境を脱する選択肢はなかった。

    「大丈夫、その時は返り討ちにするから」

     ニッと放浪者に笑いかける。きつくてきつくて仕様がないが、蛍はどこまでいっても負けず嫌いだ。特に目の前の男の子にだけは弱いところなんて見せたくない……なんて変に意識をしてしまう。彼の顔を見ていることが出来ず、見られているのも耐え切れず……。入って来た入口に体ごと向き直り、男の足を引きずりながら今来た道を戻るためずるずると歩みを進める。ここまで来るのにどれほどかかっただろうか。30分?1時間?とにかく頑張るしかない。

    「ははっ、勇ましいね。じゃあ同行はここまでだ」

     傘を外しその場に腰を下ろすような気配。期待などしていなかったが、放浪者が蛍を手伝う素振りはなさそうだ。「一緒に来て」とお願いしたのに帰りは別々であることを突き付けられ、胸の中でよく分からないものが渦巻くのを覚えた。もしかしてパイモンが動いたのかな?なんて確認してみるも、小さな相棒はいまだに全身を蛍に委ねている様子だ。

    「……二人を紺田村に連れて行ったら戻るから」

     出来れば大事な仲間の一人である彼を一人にするのは避けたい。だが今は意識のない二人を安全な場所に連れて行くことが大事なことは考えなくても分かっている。

    「だから、それまでは絶対に無茶はしないで」

     余裕のない自分など見られたくない。けど今は私を見て欲しい……だなんて、何て格好悪い。

    「放浪者」

     この名に込めた意味。この名に込めた想い。それを口にすることで貴方の傍にいようとする私を、見て見ぬふりして───。

    「──分かってるさ」

     その時ふわりと、背後から温かい風が吹いた。それは命の重みを抱えた蛍を応援するかのような追い風。

    「他の誰でもない『君』がその名で呼ぶんだ。捨てるようなことはしないよ」

     少年の楽しそうな声を皮切りに会話は絶えた。それでも吹き続ける柔らかな風は、蛍の傍を絶えず流れ行く。
     もう躊躇する理由などない。男の腕を担ぎ直し、今度こそ後ろを振り向くことなく長い参道のその先を目指して蛍は歩き出した。行きと同様に果てがその姿を見せることはない。進む速度もかなり遅くなっている。それでも蛍の心は澄み切っていた。それは彼が蛍の与えた名を大事にしてくれていたからに他ならない。

    (大丈夫、彼は───放浪者は強い)

     自分がこの場に戻ることはないだろう。そう確信を得つつ、ただただ出口を目指すのだった。



    「……行ったか」

     大したものだ。自分よりも一回り大きな体を持った男を担いで途方もない道を進むなんて。もっとも、おかげで進行速度にはかなり問題があるみたいだけど。
     彼女がこの本殿を出発してから何十分経ったか。おそらく30はいったか?これだけ時間が経てば、ここで何が起ころうと彼女に聞こえる可能性はまずないと見る。笠を被り、袖を振り払って立ち上がる。

    「まあ、『結果』は伝わるだろうけどね。お前もそう思うだろう?」

     目の前には黒い影が広がっていた。見ようによっては人型にも見えなくはないが、正直そんなのはどうでも良い。影がうおんうおんと唸り、放浪者に向けて伸びて来るのを軽く風を起こしていなす。

    「はぁ……うるさいな」

     右手に風元素を収束させる。

    「……君、かなり名前に執着しているよね。大方、この秘境に迷い込んだ人間から名前を奪うまで閉じ込めるつもりだった、とかその辺りだろ」

     再度飛んできた影を軽く体を捻って躱す。影の言葉にならない叫びが室内を揺らし、建物自体がギシギシと限界を訴える。そんな相手の感情の分かりやすさが退屈すぎる。

    「ちっこいのを狙ったのは、彼女が名前を言っていたんだろうね。おかげで君が名前を聞き出す手間は省け、あとは相手が頷けばいい段階まで進んだんだろう」

     影が唸り、ついに本殿が崩壊を迎えた。頭上に落ちて来た瓦礫を空いている片手でつかみ取り、周囲に立ち込める影に向かって投げ捨てる。ガシャンと大きな音が鳴り響くも、実態を持たないモノに物理ではダメージを与えることは出来なかった。だが、その存在はますます暴風のようにけたたましさを増し放浪者へ伸ばす影の勢いが衰えることはない。

    「でもちっこいのが名を譲ることはなかった。はっ、当然だろう。……でも諦めきれない君は『彼女』を狙った」

     相手が建物を壊してくれたことで回避範囲が広がった。有難くその恩恵を享受し、空高く舞い上がる。それを追うように影も竜巻のように巻き上がってきた。執念だけは立派だが、力がないと意味がないというのに。

    「僕が彼女に出会った時にはとっくにまとわりついていたよね。加えて、ちっこいのを使ってまで名前を聞き出そうとまでしていた。本人は君に全く気が付いてなかったようだけど……疎ましいことこの上なかったな!」

     右手に収束させていた元素の塊を渦に向かって投げつける。風元素が凝縮されたそれに影は形状を保つことが出来ず、蝋燭の火によって燃えている本殿の残骸に叩きつけられても尚押し付けられていく。その間に再び足元に風元素を集める。ただしそれは先程のものよりも一層大きくて密度があり、それを証明するかのように左胸に揺れている神の目もその輝きを増しているのだった。

    「──僕の名前さえ手に入れられなかった君に一つ教えてあげよう」

     ふと参道を見やれば、どこを見ても彼女の姿は見当たらなかった。どうやら彼女は彼女の信念を果たすことが出来たようだ。
     元素の収束を中止し足を振り上げる。

    「人形は『身代わり』の道具でもあるんだよ」

     そして振り下ろす。彼女の──「蛍」の名を欲した魔の存在を断罪するように、無情に。跡形もなく踏みつぶしてしまおう。



     息も絶え絶えになりながらも村に二人を運び込んだ蛍。秘境の外には謎の鳥居の話を聞かせてくれた村人が今晩もおびえながらも様子を見ていたようで、秘境から出て来た蛍たちを快く家に招いてくれた。このまま朝まで休んでも良いと言われたものの、蛍はもう一度秘境へと向かうことに。パイモンと離れてしまうことに大きな抵抗を感じたものの、距離がそこまで離れていないこと、そしてパイモンの居場所が確実に分かることからもう一つの大事なものを迎えに行くことにした。膝がもう限界だと言わんばかりに震えていたが、それ以上に放浪者に会いたかった。

    「……秘境が……」

     入り口が揺らいでいる。中で何かが起こっていることは確実だろう。中に入って状況を確認したかったが、満足に動けない蛍では彼の足を引っ張ってしまう。力にはなりたいが、枷になることはもっと嫌だ。
     胸の前で手を組み、慣れないながらも願わずにいられない。彼に中で何があったのか話してもらいたい。彼とまた、お話が出来るように。彼とまた、名前を呼び合えるように。彼とまた──口付けが出来るように。

    「放浪者……」
    「──うわ、君って祈りが似合わないね」
    「っ!!」

     顔をあげると秘境の入り口は消え、代わりにそこには祈っていた男がいた。

    「あ、……えっ」

     直前まで考えていたこと。気配には敏い自信があるにも関わらず、それすらもかなぐり捨ててしまうほどに祈ってしまっていたこと。いろいろな恥ずかしい数秒前の自分が一気にフラッシュバックし、言い訳を考えたりごまかしたりと感情が濁流となり気の利いた言葉をかけることが出来ない。
     そんな固まった蛍の様子がおかしいのか、放浪者は噴き出して笑い始めた。

    「あっははは!その間抜け面の方がお似合いだよ!」
    「な……っ!?」

     明らかに馬鹿にされている言葉に、ごちゃまぜになっていた意識が一つに統一される。言葉に悩んでいた口と対照的に手は簡単に動かすことが出来て、放浪者の傘を掴みぐいっと下に傾ける。突然の蛍の行動に首ごと動かされた放浪者からは小さくうめき声が聞こえたが、今の蛍にとっては愉悦の材料でしかない。

    「ふん。これで見れないでしょ」
    「……き、君ってやつは……」
    「私のことを『君』としか呼べない物忘れ君には、これくらいじゃ足りないくらいだよ」
    「ぐっ」

     もう一度下に引っ張ればまたうめく声。彼よりも背が低いため、この動作がこちらの負担になることは全くない。いつもは近くにいると自然と見上げなければいけない彼に対して上位に立てているようで、正直気分が良い。このままもう一度引っ張ってやろうか、こちらが見えていない内に体術の一つでも掛けてみようか……それとも、傘を持ち上げて抱き着いてみようか。そんな些細な悪戯を考えるだけで口角が上がってしまいそうだ。

    「……蛍」
    「えっ──」

     だが蛍が次を仕掛ける前に傘が消えてしまい、あっと驚く間もなく気付けば蛍の唇には放浪者の唇が重なっていた。

    「……ふっ、ん」

     秘境でしたキスと同じはずなのに、脳内は自分の心臓の音がうるさく反響している。……柔らかい……温かい……苦しい。
     ──知らない、知らない知らない知らない!キスでこんなに体温が上がることを。キスがこんなにも苦しいことを。キスがこんなにも離れがたいことを。

    「蛍」

     名前を呼ばれることが、こんなにも嬉しいことを。

     息と息を交換すること数秒。ゆっくりと離れていく彼の体温が寂しい現実から目を背け口元を手で覆う。

    「ちゃ、ちゃんと……覚えて、たんだ」

     キスの感想を言わないのは最後の意地だ。どこまでいっても自分は負けず嫌いなんだから許して欲しい。

    「僕がそんな薄情な奴だと思われていたことの方が驚きだけどね」
    「だって……ずっと名前呼ばなかったから……」
    「何だ、名前で呼んで欲しかったのかい?」

     放浪者の問いかけに、思わず合わせられなかった視線を向けてしまった。彼がそういうことを聞くことが意外としか言いようがない。だってそれは──

    「え?当たり前でしょ?」
    「……は?」

     蛍にとって、何よりも当然の答えであったから。

    「自分の名前で呼んで欲しいと思うのは、何の変哲もない願いだよ」
    「────」

     生暖かい季節の風が二人の髪を揺らす。暗闇で気付かなかったが、放浪者の頬には埃のような汚れが付いていた。秘境でキスした時にはなかった汚れ。別行動になってから彼が中で何かをしてくれていたことが自然と読み取れ、愛しさが胸に詰まってしまいそうだ。自然とそこに手を伸ばして親指でなぞると、彼は特に抵抗を示すことなく大人しくしてくれていた。

    「蛍」
    「……うん、放浪者」

     放浪者が目を閉じて甘えるように頬を摺り寄せる。その端正な顔立ちはまるで子供のようでありつつ、何かを脳裏に刻み付けようと必死になっているようにも見える。

    「蛍」
    「放浪者」
    「蛍」
    「放浪者」

     聞きたいことがたくさんある。だが今は何度も何度もつぶやかれる己の名、それに答えるように彼に与えた名前を繰り返し告げることしか出来なかった。

     これから先、どれだけの数彼の名を呼ぶことが出来るのだろうか。これから先、私のことを「旅人」ではなく「蛍」と呼んでくれる人はどれほどいるのだろうか。今の蛍には知る由もない。だから今は時間と気まぐれな彼の気の許すまで名前を呼んでいよう。この願いは誰よりも名の重要さを知る放浪者にしか頼れないから。
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