≪綾人蛍≫ハンドクリームの話じゃない話「ハンドクリーム出しすぎちゃった、ちょっと貰ってくれる?」
「またかー? しょうがないなあ」
そんな会話が聞こえて目を向ければ、旅人さんがパイモンさんの手にすりすりとクリームを塗り込んでいるところだった。またか、なんて言いながらも、ふたりで手を握りながらきゃっきゃと笑い合う様子は微笑ましい。
剣を握りながらもすべらかさを忘れない手はああして保たれているようだ。
ふわりと届いた上品な花のような香りは最近の妹と同じもので、なるほど旅人さんからのプレゼントだったと。仲が良いのは良いこと。綾華もこんなことがあってと教えてくれればいいのに、とは思うが。
考え事をしていれば無意識のうちにふたりをじっと見てしまったようで、それに気づいた旅人さんがこちらを見やる。
「綾人さんも使う?」
「いえ、いい香りだなと思いまして」
「でしょう? 璃月の知人が調合してくれたの」
「お前もどうだ? 手がつるつるになるぞ!」
広げられた小さなもみじはつやりと輝く。また次回に、とにっこりと笑って返せば、香りを残してくるりと飛んでいった。
そういえば、書斎には用意されたハンドクリームがあったような。書類仕事をするなら持っていた方がいい、とは言われたものの引き出しの奥に転がっていたままだった。引っ張り出しては何とはなしにつけてみたけれど、無機質な油脂の匂いだけ。ああ、このツンとした匂いが気に入らなくて今まで眠っていたんだった。先程なんだかあのハンドクリームが魅力的に思えたのはその香気のせいか。さらに奥にしまい込んで引き出しを戻す。
ああ、紙がくっついてわずらわしい。せっかく腰を据えたのに、手を洗いに行かなければ。また仕事が進まない。
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「お兄様、手が荒れています。きちんと保湿しなくては」
「うん、後でやっておくよ」
「いけません。そう言っていつも先延ばしにするでしょう」
差し出されたハンドクリームを仕方なく手に取る。ひび割れた関節を見た妹には、苦手だと言っても許されないだろう。べたつかない程度にと少量出せば、足りません! と怒られた。綾華によって手の甲にこんもりと盛られたそれを塗り広げる。あの華やかな甘い香り。と、とんでもないべたつき。やはり好きになれない。この香りを持ってしてもべたつきへの不快感は拭えないらしい。思わず手を止めてしまった自身に代わって、綾華がするするとすり込んでくれた。
「ありがとう」
「手も大切にしてくださいね」
ああ、そういえば数日前に見た光景と同じだ。思わず口角が上がってしまったが、不思議そうな顔で見つめられる。なんでもないよ。お礼に、と綾華の手にも広げれば、ふんわりとした笑顔が返ってきた。ほら、同じじゃないか。
なるほどあのとき魅力的に見えたのはハンドクリームの方ではなく、と納得したのはその晩のこと。布団の中でひとり笑いをこぼした。手を取って小さな会話を交わし、笑い合う、親しい者とのスキンシップ。たいそう素敵なことだ。
妹がハンドクリームを塗っているところを見かけては近寄る。お兄様もご一緒に、と言われれば手を差し出す。そんなことを二度繰り返したところで、お兄様も欲しいのですか、とハンドクリームを貰ってしまった。目的はそちらではなかったのだけれど。
それから妹のおこぼれもなくなってはハンドクリームを使う機会などなく、再びささくれた手に逆戻り。
ああ、せっかくの交流が。他の者は私の手など握りはしない。さて、どうしたものか。
「綾華、出しすぎちゃったんだけど貰ってくれない?」
「あら、私もついさっきつけてしまいましたので、お力になれるかどうか……」
聞こえてきた会話に足を止める。開いていたすき間から覗けば、困った顔の旅人さんと目が合った。
「綾人さん! 今、大丈夫? ハンドクリーム貰ってくれる?」
「もちろん。私でよければ」
自身より温かい手が包み込む。する、と広げられる久しぶりの感覚。そう、ここにいるじゃないか、私に触れるのを、のんびりと会話するのを厭わない者が。思わずその手を握りしめては、声を上げて笑う。それが珍しいのか突然で驚いたのか、彼女は目を見開いた。次は眉を下げてこちらを促すように首を傾ける。
「すみません、こちらの話です」
「良いことでもあった?」
「ええ。たった今」
「うん? ……綾人さんが楽しいならいいけど」
「香り、変わりましたか?」
「そうなの。今の時期のお花なんだって」
困惑している旅人さんは、ハンドクリームを広げることもなく握ったままの手を見下ろしている。いいんです、目的はハンドクリームではありませんから。