《綾人蛍》なんとかの功名? 屋敷の門をくぐり、心配そうな顔をする部下たちをどうにか躱して私室にたどり着く。夕暮れ時の薄暗い廊下にぼんやりと明かりが漏れ出していた。持ち主がいないのに邪魔できないよ、と遠慮してばかりだった蛍がようやく踏み入れてくれたようだ。
顔を見るのは二週間ぶりだろうか。愛しい人の出迎えを想像すれば勝手に疲れも飛んでいくというもの。年甲斐もなくはしゃぎたくなる気持ちを押し込めながら戸を引いた。
「綾人さん! おかえりなさい、お邪魔してます」
「ええ、ただいま帰りました」
振り返った彼女はうきうき声を弾ませたかと思えば、一瞬で表情を曇らせる。立ち上がってばたばた足音を鳴らしながら近づいてきた。
「また怪我してる!」
「ああ……そうですね。軽くですが」
「軽ければいいわけじゃないし、十分重傷じゃない!」
ぷりぷりに頬を膨らませた蛍は、立ち尽くしていた綾人の横を通り抜けて廊下に出る。ずんずん歩いていったと思ったら、くるりと引き返して。
「救急箱どこ!」
「ふふ、トーマに持ってこさせましょうか」
「いい! 私が取りに行くから案内して!」
怪我人のはずの綾人の腕を引っ張って案内をねだる。いたわるつもりにしては少々乱暴ではないか。痛がるふりに慌てて離れる手をくすりと笑ってしまったものだから、ますます頬が膨らむ。これはどこまで大きくなるのだろう。
危うく廊下で攻防を繰り広げるところだったが、結局、綾人の傷を目撃していた部下がちょうど持ってきた薬箱を拝借した。
「座って」
「ふふ、失礼します」
「さっきから何笑ってるの!」
綾人のためにぷりぷり怒る姿がたまらなく愛しいだけなのに。彼女がこうして感情を露わにするのも珍しく、それを見せてもらえるほど気を許してもらったことは大変悦ばしいことでもある。
そうして目の前の幸せを噛みしめる綾人とは対照に、蛍はふんすふんすと鼻息を荒くして説教を垂れていた。
「いっつも怪我するんだから。無茶な戦い方はだめだって言ったじゃない」
「無茶なんてしてませんよ」
「攻撃を避けないで斬り続けるのは十分無茶でしょう!」
唇を尖らせる彼女がするすると服を脱がす。床を共にするときは綾人の裸にあれだけ恥じらっているというのに、そんな素振りは全くない。期待外れにほんの少しだけ肩を落としながら、されるがまま素肌を差し出した。
腕に残った大きな切り傷に、消毒液がたっぷり染み込んだ綿球が押し当てられる。ぴり、と痛みが走った。耐えたつもりでも、腕を掴む彼女にはわずかな強張りすらもばれてしまう。
「痛い?」
「ほんの少しですが」
「まったく、怪我してきた綾人さんが悪いんだからね」
すうすうと風を感じる上にガーゼがのせられて、優しく包帯が押さえた。
やたらと手際がいいのは貴方もよく怪我をするからではないのですか、と逆に聞いてしまいたくなったが、話をすり替えるなと怒るだろう。これ以上彼女がへそを曲げては大変だ。
以前すっかり拗ねてしまった彼女がしばらく口を聞いてくれなかったことが思い出される。最終的には、機嫌を取ろうとする綾人に絆され、怒っていた理由も忘れて甘えてきたところまで含めれば可愛いものだったが。なんともからかい甲斐がある。
背中の傷跡まで丁寧に処置を済ませて、ゆるく羽織が戻された。
彼女が巻いてくれた包帯。心配といたわりを閉じ込めたこれはいつまで巻いておけるだろう。是非自慢して歩きたいものだ。包帯をそっと撫でながらぼんやりと考えていると、背を向けて道具を片付ける蛍がぽつりと呟いた。
「綾人さんが怪我して帰ってくるの、心配だよ」
「……泣いているのですか」
「泣いてないよ」
綾人からしてみれば、蛍の怪我の方が何倍も何十倍も不安になる。目の前で震える身体は、たったひとつのかすり傷から砕け散ってしまいそうなほど華奢だ。実際はそれほど脆くないのかもしれないが、綾人にはそう見えていた。
綾人はそんな傷程度で死にはしない。むしろこうしてほろりと涙を流してしまうほど綾人を想ってくれている様子が見られるのなら、どんどん傷付いてやろうとさえ思う。
「もう無茶しないで」
「無茶はしていませんよ」
「いいから約束! して!」
「はいはい」
ずいっと小指が差し出される。いつか教えた契りを交わせば、涙を拭った彼女が正面に座り直した。
思い出したように顔を赤くした彼女は、綾人のはだけたままだった合わせを引っ張って整える。
「今さら照れるのですか」
「う、だって……」
「散々見ているのに?」
意地悪く質問すれば、耳まで真っ赤に染めて睨まれた。かわいい、と漏らせば、限界を迎えた顔は手のひらで覆い隠されてしまう。
「蛍さん、どうかお顔を見せて」
「や、やだ」
阻む手の甲にちゅっちゅとキスを落とせば、隙間からちらりと瞳が覗く。それを見つめながら折れてしまいそうに細い指に舌を這わせれば、声にならない悲鳴をあげて逃げ惑う。
ああ、普段キスのときに目を開けたりしないのに、慣れないことをするから。
傷が痛む素振りを見せればすっかり抵抗をやめて近づいてくる。警戒心が無さすぎやしないだろうか。伸ばされた腕を先に掴んで未だ真っ赤なままの頬に口付けた。
「……そっちじゃないでしょ」
「おや」
わかっていて自ら罠にかかりにきたらしい。それではお望み通りに。