オメガバース茨が倒れた。
今日はずっと体調が悪そうで、痺れを切らしたおひいさんが予定をレッスンからミーティングに変更した。
紅潮した頬、苦しそうな顔、荒い息。それはどう考えても、"ヒート"の症状だった。
茨はずっと、αだと思っていた。
俺よりもずっと、才能もあるし、顔もいいし、おひいさんやナギ先輩に比べたら大したことはないものの、なんでもできるところがあるし。
だから漠然と、このαの集団の中でΩは俺だけなのか、なんて思っていた。
予想した通りナギ先輩はαで、おひいさんも俺の番なのでα。
だけど今思えば、初めてヒートを起こしたときに隣にいたのは茨で、ヒートに当てられた様子はそういえばなかったかもしれない。あのあと保健室で目が覚めたわけだけど、あのときには鎮まっていたからもしかしたら茨が抑制剤を打ってくれていたのかもしれないと今更ながらに思った。
だってどう考えても、目の前の茨は「ヒートを起こした番持ちのΩ」なのだ。
「茨!?」
「すみま、せん」
「謝罪はいいね。確認するけど、これはヒート、だよね?」
ナギ先輩はフリーだし、おひいさんも他のヒートにあてられないわけではない。Ωの俺も、同じΩのフェロモンは感じ取れる。だけど、こうして「ヒートかどうかもわからない」ということは番持ち以外有り得なかった。
こくり、と小さく頷く茨を見て、どうして今まで気がつかなかったのかという違和感と、番は誰なのかという疑問が湧き上がってきた。
「詳しいことは後で聞くけど。番の、連絡先は?」
「……連絡、取れる相手ではないので」
保健室で、いいですと茨は言った。
同じくΩの保健医は驚いていた。
茨はどうやら、番はいるものの離れてしばらく経つので抑制剤を飲めば普通の生活を送れると説明していたらしい。
実際、茨が三か月に一度休むようなことはなく、保健医としてもΩとしても、「なるべく番に会うように」とはアドバイスしたそうだがその様子はなく。
抑制剤も相性が良かったようで、それで今までβやαと俺たちにまで勘違いされていたのだった。実際は、俺たちが決めつけていただけで公文書などでは偽っていたわけではないようだけど。まあ、第二性はかなり踏み入った話だし、親しい仲でも必要なければ話題にしない。だって、Ωは明らかにわかるし。
だから今までずっと、茨はΩに理解あるαだと思っていた。それが、茨自身もΩだったなんて、おひいさんもナギ先輩も思いもよらなかったようだった。
数日後、レッスン室に現れた茨はいつも通りだった。
「……もう体調はいいの?」
「はい!ご迷惑をおかけしました!」
胡散臭い笑みでニコニコと笑みを浮かべる茨は完全にいつも通りだった。
「ヒートにしては、随分と短くないっすか?」
「ああ、番持ちだと短くなる人もいるらしいですよ。自分もそれみたいで、二日もすればすっかり」
番を求めても番がこないから、諦めるようにすぐにヒートが治るらしい。あとから調べたが、番に長年放置されたΩに起こる症状らしくて想像しただけで寒気がした。
「で、茨。重要なことだから聞くけどね。番は誰なの?」
後ろに立っていたおひいさんが、腕を組んだまま茨に問いかける。
「いえ、特に殿下にご迷惑はおかけしませんので!」
「わからないでしょ?番ができたのは、最近のことじゃないよね」
「……ええ、まあ」
「どれくらい前?」
「自分、分化が早かったもので」
としか、茨は意地でも言わなかった。
一般的に第二性、とくにΩへの分化は中学生以上で起こる。とはいえ、中学生で起こるのは発達の早い女性ばかりで、男性は皆高校生以上であることが多い。一般的な早い、というのは、俺の知る限りだと小学生くらいの話だ。
オメガバースの詳しい授業は、中学から高校にかけて行われる。小学生でもその存在はもちろん知っているが、具体的な発情期の症状、番契約について、とかいうかなり深いった話は知らないことが多い。
大半のαは幼少から頭角を表しており、小学生になる頃にはフェロモンをしっかりと感じ取れることが多い。フェロモンに欲情し始めるのもその頃からである。だから、分化の早いΩはなにも知らないαの餌食になる。
「……じゃあ、今まで僕たちが茨のヒートを見たことがなかったのは」
「まあ、番ったαと会っていなかったからです」
淡々と茨は答えている。
だけど、そんな話をきいたことはなかった。
そもそも分化の早いΩ、という存在を茨ではじめて知ったが、一度番をつくると破棄できないという特性上、捨てられるΩや番を亡くしたΩだっている。そのΩのヒートが止まるなんて話は聞いたことがない。
Ωのヒートが止まるときはストレスによるものか、妊娠したときか一般的な女性の閉経時のみだ。
「……茨、その言い方だと今は会えているという捉え方になってしまうけど。この間、番とは連絡が取れないって言っていたよね」
これで話を切り上げようとしていた茨の動きが止まる。
そういえば、そうだ。
今まで会っていなかった番がトリガーだったのなら、ここ数ヶ月で番と会っていないと説明がつかない。
「会ったといってもすれ違って挨拶程度を交わしただけです。先程、分化が早かったと申し上げたでしょう?自分の番はそのとき理性がぶっ飛んでたんです。だから向こうも、自分が番だとは知らないんですよ」
「……そんなことって」
「同じΩで番持ちのジュンには信じられないかもしれませんけどね」
やれやれと言った表情で顔をすくめた茨は、どこか他人事のようだった。
そのとき、茨の電話がなった。
失礼、と茨がレッスンルームからでていく。いつも長電話の商売先らしく、先にはじめておいてくださいと付け足して。
「……日和くん。英智くんに、連絡したいんだけど。連絡先、知ってるよね?」
「うん、僕もちょうど同じことを思ってたね」
「は?」
「茨の番は伏見くんか、伏見くんの知ってる誰か以外ありえないでしょ?」
そういえば、茨は施設育ち。ちょうどその頃は伏見さんと一緒にいたはずだ、と考えて、自分の頭の悪さに嫌気が刺した。
このα二人はそんなことをずっと考えていたらしい。
「……今まで会ってなかった相手と会った、というなら十中八九伏見くんだろうけど」
「うん。茨のいうとおり、茨のことを番だとは一切思ってないようだしね」
もしもし、英智くん?というおひいさんの声がレッスン室に響き渡る。
いつものように軽く喧嘩をして、おひいさんは本題に入った。
一体どういうつもりなのだろうか。
はじめて、わたくしだけが生徒会室にいる。いつもは坊っちゃまはもちろん、衣更さまや蓮巳さまもいる生徒会室に、どういうわけかわたくしのみが呼び出されたのである。
生徒会の息のかかった教員の国語の授業中、「伏見。生徒会室に行ってこい」と。わけもわからずきてみたが、やっぱり誰もいない。三年生はもう自由登校だし、どういうことだろうと生徒会室を意味もなく彷徨いた。
「あ、もう来ていたんだね」
扉が開いて、会長さまが顔を出す。
頭を小さく下げると、結構と言った様子で会長さまが手を振った。
「急に呼び出してごめんね」
「いえ……わたくしになにか御用でしょうか」
「うん、えーっと、なにから聞けばいいかな。ちょっとセンシティブな内容だから、聞き辛くてね」
はあ、と言葉を漏らす。うーん、うーんと会長さまは唸っていた。
「とりあえず、弓弦はαだよね」
「作用でございますが」
「番は?」
「おりません」
第二次性の話か、と合点がいく。
ちなみに坊っちゃまもαで、会長さまももちろんα。日々樹さまは存じ上げないが、まあおそらくαだろう。
fineはαばかりのユニットである。
「七種くんは、Ωだよね」
「はい?なぜそこで茨がでてくるのかわかりかねますが……ええ、たしかにΩと記憶しております」
今思えば、Ωとαが同じ部屋で寝食を共にするなんてあり得ないのだが。
分化をする前だったこともあり。つまり、茨がΩだと知らなかったために同室だった記憶がある。
「単刀直入に言う。日和くんから連絡があったんだ。茨が番持ちらしい、相手が伏見くんなんじゃないかと思ってる、とね」
「……」
「そうじゃなくとも、伏見くんなら番に心当たりがあるだろうとのことで、連絡してきた」
施設にいた頃を思い出す。
俺と茨があったとき、茨はまた分化前で同じ部屋になった。
一年くらい経ったとき、茨にはじめてのヒートがあって、なだめてあげたのは覚えている。施設でΩだと知られたら茨の身に何が起こるかわからなかったからだ。教官、というかお客様権限で茨を隠し続け、それからもヒートが来るたびにアレの相手はしていたけど。番になった記憶はない。
「まあ、あんまり詳しく聞くのは僕もどうかと思うんだけどね。でも、そうじゃないかなと思ったから君を呼んだんだ」
「はい?」
「前に、ヒートを起こした生徒がいたときに君は何食わぬ顔で彼を担いで保健室に運んだよね。帰ってきた君が、「ものすごいフェロモンでしたよ」っていいながら平然と彼のフェロモンを纏わせていたから。あのときは相当忍耐強いのかなと思ったんだけど、番がいるなら説明がつくよね」
「っ、それは……」
たしかに、自分がフェロモンを感じ取りにくい体質なのは自覚している。
αであることを主張するかのように、番持ちではないΩの匂いはヒートでなくともわかる。これは、一般的なαでは感じ取れないこともあるらしいから二次性において有能なαである証拠だ。だけど、ヒートを起こしたΩのフェロモンに発情したのは……記憶の限りでは、いつだったか思い出せない。それがずっと、自分が本質的には無能だという証だと思っていたし。番にとらわれないのであれば、坊っちゃまにこの命捧げるまでと思っていたので大して深く捉えていなかった。
そこまで考えて、はたと思い当たる。
オータムライブの少し前。茨に連れていかれたという転校生さまを探して繁華街を歩いたとき、久しぶりに嗅いだ茨の匂いで俺は彼女を見つけたのではなかったか?