パタンとドアの閉まる音が聞こえて、ネロは読んでいた本を閉じて冷蔵庫へと向かう。ぼんやりと眺めていた花火が終わって、屋台の片づけがあるブラッドリーと別れ、ネロは先に帰路へ着いていた。
花火の音で耳がやられたのかどこかふわふわとした頭で、それでも途中のコンビニでは詫びがてらブラッドリーの好きなビールを忘れずに買って帰った。
チキンの仕込みはすでに済ませていたから、ブラッドリーがシャワーを浴びている間に揚げるだけだ。
基本的にのんびりと過ごす時にはネロの部屋で過ごす。
ブラッドリーの部屋の鍵だってもらってはいるけれど、あのマンションはネロにはどうにも敷居が高いし、広々としていて落ち着かない。無駄に良い道具が揃っているキッチンだけは、ブラッドリーが仕事の付き合いなんかで食材を溢れさせたときにたまに使わせてもらいに行くが、それだってやっぱり使い慣れている自分の道具たちの方が手に馴染む。
大した家具もない狭いワンルームで、ブラッドリーがいれば多少窮屈なくらいのこの部屋がネロにはちょうどよかった。
とん、と肩に重みが乗る感触と、むわりと身体を包むむせかえるくらいの汗の匂い。腹に回された腕はしっとり汗ばんでいて、冷房をきかせている部屋に熱気の名残を感じさせる。
「……暑いんだけど」
「いいじゃねぇか。そういう気分なんだよ」
おかえりの代わりに口をついた文句にさえ、ぐりぐりと甘えるように額を肩口に擦り付けてくるブラッドリーの頭を抱えるようにして指を髪に差し込む。汗で湿って手触りの悪い髪が、ますます大型犬のようでなんだかおかしかった。
お、と衣を付けられたチキンを見つけたのかブラッドリーの声が弾む。
「揚げとくから風呂行ってこい」
「はいはい」
ちゅ、とわざとらしいリップ音を首筋にひとつ落として、聞き分け良く従ったブラッドリーの背をネロは軽く睨んだ。ああいう、慣れた手管を使われるのが妙にこっぱずかしい。いかにも「恋人」のような扱いにはまだネロは慣れることができていないのだ。じくりと腹の底を焦がすような熱と、ぞわぞわと悪寒にも似たうすら寒さが背を震わせるのと、相反したそれぞれが身体にある。
正直言えば、セックスの方がわかりやすくていい。
普段はそういう欲は薄いネロとて、たまには人肌が欲しい夜だってある。再会して、なんやかんやあってもう一度ブラッドリーの傍にいることを決めて、そうしたら、酒の勢いだったかうっかりと、あっさりと一線を越えていた。目覚めた時にはしっかり頭を抱えたものだが、体の相性は悪くなかったのだ。――明け透けに言うなら、むしろめちゃくちゃに、よかった。
だからこそ、昔のように友人として、それから溜まったときにはそういうこともする、セフレくらいがちょうどいいよ、なんてネロは何かの拍子にこぼした。ブラッドリーの方だって同じくらいの感覚でいるのだろうと思っていた。
だって昔から、ブラッドリーが相手に困ることがなかったのは知っていたから、それでもネロにそう言うことを望んだのは、気心が知れた相手との面倒がない楽な関係を望んでいるのだろうと思ったからだ。
けれどブラッドリーははっきりとネロの言葉に機嫌を悪くして、数日顔を出さなかったかと思えばさっきのようにあからさまに態度を変えてきたのだ。
――ここまでされたら、ネロの認識が間違っていると理解せざるを得なかった。
昔から、ブラッドリーに振り回されているばかりだと思っていたけれど、ふとした瞬間に自分は甘やかされているのかもしれない、なんて思うことがあった。今になって、それは気のせいではなかったのだとまざまざと思い知らされる。
例えばさっきのようなじゃれ合いや、部屋での座る位置、ふとした時に寄越される視線の甘ったるさ。そういう、蜜のようなとろりとした時間からときおりネロは逃げ出したくなる。
だって、今さらどんな顔をしたらいいのかわからない。
いい歳こいてこんなことを言うのもどうなんだと思いながら、それでも正直むず痒くてしょうがないのだ。
あの目は、学生の頃はブラッドリーの彼女に向けられていた。それをネロは横顔から知っていただけで、それを自分が真っ直ぐに受け止めることになるとは思いもしていなかったのだ。久しぶりに飲んだラムネが自分たちにはもう甘すぎたように、不似合いだな、と思う。
「さてと、こんなもんか」
油を切って皿に盛る。文句は言うだろうが、千切りキャベツとトマトも添えた。どうせ普段は食べていないのだろうから、ネロが作る時くらいは食わせたかった。
「だから野菜はいらねぇって毎回言ってんだろうが」
「栄養のバランスってもんがあんだよって俺だって毎回言ってんだけどな」
がしがしとタオルで頭を拭きながら、浴室から出てきたブラッドリーは開口一番想定内の文句を言う。それに返すネロの言葉だってもはやテンプレートだ。
うへえ、と顔を歪めながら、けれどそこはネロが譲らないのを知っているから、ブラッドリーは黙って皿を運ぶ。それから取って返して冷蔵庫を開ければ、鎮座したビールを見つけて機嫌を良くしたのか鼻歌を歌いながらそれをテーブルへと運んでいく。
ネロも濡れた手を拭いて、座った。いただきます、と手を合わせたブラッドリーにどーぞ、と笑って自分のビールのプルトップに指を掛ける。早速チキンへかぶりつくブラッドリーの横顔をちびちびと舐めるように飲んだ。気持ちいいくらいの豪快な食べっぷりとその無邪気な顔は昔と変わらない。
いて、とブラッドリーが小さくこぼして、口の端を親指の腹で拭ったのを見て、少しばかりの気まずさから視線を逸らす。その傷はネロがこさえたものだ。
「ったく、料理人が殴るんじゃねぇよ」
「……殴らせるようなことすんじゃねぇよ」
善処はしてやらぁ、と軽く流してまたフライドチキンにかぶりつく。この件はこれで手打ちだ、と言わんばかりに。
……だから、こういうところが。
「なぁ、もうそういうのやめろよ」
「あ?」
一瞬で怒気の籠められた声に違う、とネロは手のひらを振った。
そうじゃなくて。
「普通にしてくれ、頼むから」
テーブルに突っ伏すようにして顔を隠す。むず痒くてそわそわする。落ち着かなくて、逃げ出したくなる。けれどもちろん嫌なわけでは、なくて。
「嫌だね」
顔をずらして、片目で恨めしそうにじとりと睨む。ブラッドリーは目尻をふやかして、それでもどこか煽るようにも見える笑い方で笑った。
おまえがさっさと慣れりゃあ済むことだろう。
何を馬鹿なこと言ってんだ、と言わんばかりの呆れを声に乗せてあっけらかんとブラッドリーは簡単に言うけれど、おまえの方が何を言ってんだ、とネロは思う。それができないからこそ頼んでいるのだと言うのに。
「……チキン取り上げていいか」
「ダメに決まってんだろ」
ささやかな抵抗すら、大きな手にやんわりと阻まれて、むしろそのそっと這うような指の絡められ方に、また心臓が跳ねる。もう何を言おうが言いくるめられて、結局はネロの羞恥心が増していくだけなのだ。絡められた手はそのままに、ぱたりともう一度顔を伏せた。
「寝るなよ」
それは暗にこの後のことを指していて。
「……うるせえ」
くぐもった声で返したそれにからりと笑う声が聞こえて、ネロは瞼の裏でその顔を簡単に思い描けてしまうのだから、少しだけ悔しかった。