距離 それは、お互いへの好意や信頼が募り、関係性がゆるやかに形を変え始めたときのこと。ネロの部屋でのいつも通りの晩酌中、グラスが数杯空になった頃合。常ならば眠気が来る前に部屋に戻るファウストが、今日は珍しくうとうとと船を漕いでいた。
眠そうに目を擦ったファウストが、恐らく無意識だろう、ツマミの乗っていた皿を押し退けてテーブルにスペースを作る。そこに両腕を置いて頭を乗せて、しばらくもぞもぞと位置を調整して。やがて満足気にふんと小さく鼻を鳴らして、そのまますうすうと寝息を立てて眠り始めた。
「……お疲れ様、ファウスト」
今日は依頼された異変解決のため、朝からあちこちを駆けずり回っていた。
向かった先は東の国だったが、異変に関わっていた呪いを沈めるために必要な媒介が、西の国でしか流通していないものだった。だから東の国から中央を通って西の国まで箒を飛ばして、さらに西の中心街にある賑やかな通りの出店を端から端まで覗く羽目になっている。それからまた東に戻って解呪を行ったのだから、異変の性質上主軸となったファウストは疲れて当然といえる。
なんだかんだでいつも先頭に立って指示を飛ばしてくれる、優しくて真っ直ぐで強い歳下の先生。しばらくずっと寝不足気味なようで少し心配していたから、こうして眠り込み、起きる気配のない彼を見てほっとした。ファウストはきっと本人が思っている以上に、体力的にも精神的にも疲弊しているのだろう。
折角深く眠ることが出来ているのだから、朝までゆっくり寝かせてやりたい。そう思い、ファウストの身体を抱えあげて自分のベッドに移動させる。丁度今日干したばかりのシーツの上に寝かせて胸まで布団を掛けたところで、ゆらり、視界の端に赤が見えた。
「は?」
思わず声が出たが、すぐにそれが幻影だと気付いた。起こそうとしてファウストの身体を揺すりかけた手をぴたりと止める。
煙は出ていないし、焦げた臭いもしない。触れてみても手は空を切るばかりで、熱さも何も感じない。けれども、一瞬のうちにファウストを包んだ赤は、確かに炎だった。
どうして急にこんな幻影が、と首を傾げたのは僅か数秒のこと。炎の中に浮かんだ影を見て、すとんと、とは言い難いが得心がいった。
──これは、ファウストが今まさに見ている夢が、目に見える形で溢れ出ているのだ。
厄災の傷の話は、ぼんやりとだが聞いていた。もちろん詳しくは知らなかったが、こうしていざ目の前にしてみれば、何が起こっているかくらいは流石に気付く。
毎夜、どれだけ疲れていようと必ず高度な結界を張って。気を張りつめているせいで満足に睡眠を取れず、寝不足の状態で日々を過ごして。
そんな生活を続けていたファウストが、少し安心して、気を抜いて、こうしてネロの前で眠っているのだ。いつの間にか随分と気を許されているらしい、と嬉しくなって頬が緩む。
とはいえこの状況は、ファウストにとって不本意なものではあるのだろう。彼が無意識にでも自分に気を許してくれている、という事実だけで十分すぎるくらいに満たされた。これ以上何かを目にする前に、さっさと眠ってしまわなければ。
「《アドノディス・オムニス》」
部屋の外に夢の幻影が漏れないよう、慎重に強固な結界を張る。しっかりと結界が作動しているのを確認してから、もう一度呪文を唱えた。
魔法で大きくしたベッドに潜り込んで、魘されるファウストの隣で目を瞑る。床で寝たら、僕のせいで床に眠らせることになった、なんて謝らせてしまうことになるやも──というのは建前。許されるのなら隣で一緒に眠りたい、ただそれだけの下心だ。
「おやすみ、ファウスト。……、」
目を瞑ったまま小さく呪文を唱えて、安眠を祈る。願わくば彼が、今日くらいはゆっくり眠れるように、と。
翌朝、身を起こしたファウストは酷く狼狽していた。物音に重い瞼を持ち上げると、さあっと顔を青ざめさせたファウストが、「何か見たか」と強ばった声を口から零した。
「なーんにも?記憶あやふやだけど多分俺寝てたし、先生自分で結界張ってたし」
「……そうか」
部屋はネロの魔力に包まれている。すぐにバレるだろうあからさまな嘘は、ファウストへの無言のメッセージだ。
何も見ていないし、何も知らない。お互いにそういうことにしておいて、秘密の過去は知らない振りをして笑い合う。そんな二人の距離感が、居心地の良い空間と、この関係性を作っている。
決して踏み込まない。だけどお互いになら、きっと踏み込まれても大丈夫。信頼が形作る関係の名前は、友人だけでは、もう足りない。