水曜日に寄り添うティラミス(匠メイ) ビスケットをエスプレッソにくぐらせて、型に敷き詰める。顔が隠れそうな大きさの四角い器へ隙間なく並べ終えてからは、メレンゲと合わせてふわふわのマスカルポーネクリームを数回に分けて、そっと流し込んだ。ゴムベラで最後の一滴まで余すことなく攫ってから流しにボウルとゴムベラを置き、水を張る。
そこから最後の仕上げに、と、ココアパウダーの封を開けようとしたところだった。
「……メイちゃん?」
作業の手を止めて、しかし振り返らずに呼びかけてみる。背後からぽすん、と音がしたが、ここが自宅である点を鑑みると犯人は一人しかいない。背中に身を預けた彼女はこわごわと腰に手を回し、頭をぐりぐりと押しつけているようだ。
(何だよ、この可愛い生き物は……)
半分開けたカーテンの隙間からは突き抜けるように真っ青な昼下がりの空と、歌舞輝町を始めとした都心特有のくすんだ街並みが見え隠れする。
この景色に慣れてからは数年。しかし、自室にメイちゃんを招き入れるようになってからはもう数ヶ月の時が経つ。
* * *
目新しい景色と強固なセキュリティ、それから充実したキッチン回りを求めて越してきた物件(タワーマンション)だった。
内見の時は料理しながら外を一望できるアイランドキッチンをひどく気に入ったはずだったのに、いざ作業台越しに外を眺めてみてもどこかちぐはぐで、ちっとも満たされない。何故だか「期待外れだったな」と意気消沈すらしたものだ。高層階から見える景色に夢なんか見るものではないと思う。高低差のあるビル群の隙間からは車の流れを確認するのが精いっぱいで、豆粒ほどの大きさで行き交う人など目視すらできない。それなりに稼ぎか蓄えがあるものにしか見られないはずの世界はどうにも、俺自身の心を動かす要素はなかったらしい。それに気がついてからは昼夜問わずにカーテンをぴっちり閉めて過ごすことが多かったのだ。
思えば再び外の景色を見るようになったきっかけも。
初めて二人で夜を越した翌日。早朝に起きたメイちゃんは身支度を整えた後、キッチンで準備する俺に「おはようございます」と声をかけてから、リビングのカーテンをぱっと開けたのだ。二人でも些か広すぎるリビングのカーテンは五歩、十歩と進んでもなかなか開き切れず、途中ではっと気づいたように顔を上げてこちらに向き直り、「すみません、寝ぼけていました」と。きっちり九十度に腰を折って謝罪するものだから、思わず素で腹を抱えて笑ってしまった。
ハローで過ごす際の朝のルーティンを俺の家でも実行していたと思うと何ともいじらしくて、それなのに差し込む朝陽がいやに透き通って、きらきらしていて。
あまりにも綺麗だったものだから年甲斐もなく目元が熱くなってしまい、それを悟られないようにツボに入ったふりをして笑い続けながら取り繕っていた。
* * *
味気なかったはずの景色と、あまりにも愛おしい背中の温もりとの落差が胸中を搔き乱す。虚しさと幸せとのギャップで内心頭を抱えたくなったが、努めて態度には出さないように心掛ける。
誤魔化すように出しっぱなしだった水を止めようと何とかレバーに手を伸ばした。何とか水は止められたが、腰に回されたメイちゃんの両腕は始終拘束を解く気配がない。
「で、どうした?」
「……どうしたんでしょう」
「え」
どちらかと言えば淡々と、率直な意見を述べる性質のメイちゃんだ。珍しい物言いに戸惑いはしたが、どこかで浮足立つ気持ちだってあるのだから始末に負えない。
どうやら恋人としての俺は、メイちゃんに困らされるのがどうしようもなく、嬉しいと思えてしまうらしい。
「まあ理由もなく、くっつきたくなることもあるか」
「どうしてかはわからないんです。でも」
恋人としていまの体勢を肯定したつもりだった。にもかかわらずメイちゃんは、どこか躊躇うような、あるいは上手く心境を言葉に出来ないもどかしさのような、言葉を探している雰囲気を感じた。
「火村さんの傍にいる方が、良い気がしたんです」
発言の意図を図りかねたまま、どのように言葉を返せば良いかを考える間もなく、メイちゃんは言葉を続けた。
「お誕生日なのに何だか、元気がないのかな、と」
「……メイちゃん」
ああ、敵わない。俺は心の中で白旗を上げる。
きっとメイちゃんは言葉にせずとも、感じ取ってくれているのだ。いくら歳を重ねても、どこかで負い目を感じている俺自身の心情を。他の誰かの幸せを願いながらも、自身の幸せにはどこか投げやりで生きてきたこれまでを。
「火村さんを苦しめるものを知って、受け止めたいと、思うんです」
慎重に言葉を選ぶメイちゃんの指先には僅かに、力がこもる。
「甘やかしたくても今の私には難しいかもしれません。だからせめて、傍にはいさせてほしいと、思うんです」
たどたどしくも真っすぐで、嘘のない言葉をひとつずつ、噛み締めていく。
あんたほんと、良い女だよ。
目を閉じると柄にもなく涙が滲むが、メイちゃんにはまだ知られたくない。きっと遠からず、今の情けない表情を見られてしまう日は訪れるだろうけれど。
視界の端にはココアパウダーを振り損ねた、作り立てのティラミスが置き去りにされている。
この腕が離れたら皿へ盛り付けて、ほろ苦いココアパウダーを振りかけて、愛すべき恋人へと捧げたい。
きっと彼女はとびっきりの笑顔で寄り添って、不甲斐ない俺を元気づけてくれる。