一月二日の執着(匠メイ) 追い風が自分の身体と一体化したかのような錯覚に陥る。もはやここが何処だかわからないまま、私は真っ白な空間を駆け抜けていた。もつれ知らずの足が空気抵抗をまるで無視して先へ先へと進むスピード感が心地よく、しかしあっという間に過ぎる景色は早すぎて何ひとつも見えない。
そのうちに後ろからけたたましい足音が聞こえてくる。何か威圧感のある獣の気配を感じるが、ふしぎと恐怖心は感じない。しかし後ろから迫りくる何かからは早急に逃げるべし、と脳裏で囁きかけられた気がして少しの戸惑いも覚えている。
追いつかれたところで何だというのだろう。
かつて得体のしれない何かから逃げていた身の私が、こんな考えを抱くのはもしかしたら不謹慎なのかもしれない。あの日に一切合切の記憶と感情を失ってからも、私はどうにか生きながらえてきた。ハローで従業員の一人として認められて、何不自由なく歌舞輝町での日常生活を送り続けている。だから今、追いつかれたところで問題はない。
万が一、得体のしれない何かに肩を掴まれたとしても返り討ちにして、また走り出してみせよう。
自分の中で結論を出してから、さらに曲げた腕を大きく振り真っ白な空間を駆け抜けていく。スピードを上げてもなお迫りくる威圧感に何故だか高揚感を覚えて、先日新宿御苑で見かけた小さな子どもの追いかけっこみたいだなと思えてならなかった。
だから、あの時追われていた側の子どもを真似てみたくなったのかもしれない。
「できるものなら、捕まえてみなよ」
* * *
「あの寝言はそういう意味やったんか~」
腕の中で、田中さんがにやにやとこちらを見上げている。窓から差し込む日差しの眩しさに目を細めながら、私は彼の後頭部をひと撫でした。
「お見苦しいところを、すみません」
「全く、何事かと思ったぜ」
火村さんは快活に笑いながら忙しなくキッチン内を行き来している。仕事初めに一足早く事務所を訪れていたばかりか、多忙の合間を縫って作り置きのお雑煮を温め直しつつ、持参したらしい重箱からおせち料理を小皿へ丁寧に盛り付けた。きびきびと動く上司とは対照的に、昼前まで眠っていた怠惰な自分には活が必要かもしれない。
火村さんは田中さんを伴って私の部屋に訪れ、私を起こしに来てくれたようだ。ノックした途端に「捕まえてみろ」と宣った寝言はあまりにもタイミングが良く、ならば遠慮なくと田中さんが私の後頭部に飛びついたという。
一般的に初夢とは、一月一日の夜から二日の朝にかけて見た夢を指すものだという。私の今年の初夢は、何もない空間の中を何者かに追いかけられる内容だった。
夢から覚める直前、はじめて振り返ってみたところ巨大化した田中さんが眼前に迫っているところだった。なるほど、通りで怖くなかったわけだと妙に納得したし、夢の中で原因がわかったのはある意味幸運なことだったとも思う。
「ですが今考えてみると、夢の中で田中さんと追いかけっこできたのはなかなか新鮮な体験だったのかもしれません」
「そうだな。単純にでかくなった田中さんがどうなっているかも気になるな」
ほらよ、と運ばれたお雑煮はほかほかと湯気を立てていて、ワンプレートに集結した一口大サイズのおせちの数々は目にも楽しい。田中さん用にもペット専用のおせち料理が準備されて、田中さんは勢いよくしっぽを振りながら私の腕の中から飛び出していく。
わたしは田中さんの後姿を見送りながら、いただきます、と手を合わせた。
紅白なますにエビや伊達巻、栗きんとんや黒豆……どれをとっても豊かな彩りに負けない美味しさで、こうした正月料理の数々を堪能することも年の初めの醍醐味なのだろう。
「本当に美味しいです。季節ならではの料理がより一層特別に感じられます」
「はは、ありがとよ。喜んでくれて何よりだ」
季節の味わいをひとつずつ噛みしめながら、改めて奇妙な初夢を思い出して笑みを零す。初夢、という概念だってここに来るまでは知らなかった。この場所は未だに感情に乏しいらしい私を人間らしくしてくれる場所だと思っている。
「ところで、火村さんの初夢はどのような夢でしたか?」
「俺? うーん……」
「もしかして、忘れてしまいましたか?」
「いや、覚えてはいるよ」
珍しく歯切れが悪いけれど、覚えていると断言するのであれば全く話せない内容ではないのだろう。
「……追いかける夢、かな」
推測したところで、火村さんからは断片的な答えが返ってきた。
何か大切なことを隠している雰囲気を感じたけれど、迂闊に触れてはいけないのかもしれない。半ば本能的に感じ取り、私は適切な言葉を考える。
「おお……火村さんが巨大な田中さん側に」
「いやいや夢を混ぜるなって」
考えた結果どうにも奇妙な返しになってしまったが、火村さんが顔を綻ばせたので方向性としては間違っていない、と信じたい。
「追いかける夢ってのは、その対象に執着するって意味らしいからな……少しは自重しないと」
意味深長にこちらへ目配せをして、困ったような、それでも愉快そうに笑みを浮かべる。
その理由をいつか知りたい、と願うのは過ぎた望みだろうか。