年下の神様・2 続きの書きかけ 夜鷹さん改め純さんをお風呂に入れている間に、ベッドルームの床に敷いたマットの上で日課のストレッチと筋トレをする。
三十歳を越えてからは、特に入念にストレッチをするようにしていた。筋力以上に可動域を減らしたくなかったし、怪我を防止するための指導もしている俺が先に負傷するわけにはいかなかったからだ。
前に一度転んで肋骨にヒビを入れた時にはいのりさんにかなり心配させてしまって、長く引きずるほど彼女のジャンプの不調を引き起こしたので、自分自身が怪我しないように常日頃から気を遣っていた。
努力の甲斐あって、アイスショーの時も若いメンバーたちと比べても遜色なく動けたし、トラブルなく乗り切れた。
「……司くん、ストレッチしてたの」
「わ、純さん」
上体をマットの上にべったり倒していたところで声を掛けられ、身体を起こす。
「僕もするから、教えて」
俺が金メダリストの夜鷹純に教えられることなんてあるのか?と思うけれど、俺はつい数ヶ月前までは金メダリストのいのりさんのコーチだったんだ。それに、『教えて』と言われるとコーチとしての血が騒ぐ。
そうだ、表向きはどうだろうと、俺は純さんのコーチのつもりでいたらいい。そうすれば、『純さん』と名前で呼ぶのは何もおかしくはないし、変な気持ちを抱くことはないだろう。
家庭の事情によっては、教え子を自分の家に住まわせて、食事と生活の面倒をみるコーチもいるので、同居する理由にもなる。
「じゃあ、一緒にやりましょう」
スターフォックスはストレッチを含めて、怪我をしないための陸トレにかなり力を入れている。フィギュアスケーターとして怪我をしにくい身体を作るために、日々のストレッチは欠かせない。最新のスポーツ理論も取り入れているし、二十四年前とは指導が変わったところもあるはずだ。
「ゆっくり息を吐いて……そのままキープ。呼吸は止めないで……今どこを伸ばしているか、意識してくださいね」
二人で使うには手狭なマットの上で、基本のストレッチから一つずつ一緒にやっていく。
「……司くんは、インストラクターみたいだね」
「ああ、昼過ぎから仕事に行く時は、クラブで陸トレのインストラクターもしているので……結構、評判いいんですよ」
クラブ生からの希望もあって、もっと俺が担当する時間を増やしてほしい、と言われている。だけど、先日までアイスショーの仕事があったし、評判が良くて追加公演をするかもしれないという話も出ていたので、今のところ忙しくなりすぎないようにしていた。
「……そうだろうね。……わかりやすいし、声がいい」
予想外のことを言われて目を丸くする。
「そ……っ、そうですか?」
いい声の純さんに褒められると気恥ずかしい。
「純さん、ストレッチは続けてたんですね」
縦に開脚している俺の隣で、純さんの長い脚が同じように百八十度開いている。
彼の演技は柔軟性が高いのも魅力で、I字スピンや高く脚が上がるハイキックにも憧れたものだ。
だけど、数日でもストレッチをサボると柔軟性が落ちて同じように動かせなくなるのは、身をもってよく知っている。
「……引退したんだから、もういらないのに……身体が、動かなくなるのは……気持ち悪い」
彼はスケートができる身体自体、捨ててしまいたかったのだろうか。ストレッチの習慣は続けているのに、食べることは放棄して痩せてしまっていて、本人の中でも葛藤があるように思えた。
「ううーん……そこは、趣味ということにしたらどうですか? 俺もコーチをするだけならこんな柔軟性はいらないし、筋肉もいらないですけど、脚が上がらなくなったら嫌だし、せっかく付けた筋力がなくなったら嫌だなって思いますよ」
「趣味……」
隣から胸筋の辺りに視線を感じる。
純さんに世間一般の娯楽が楽しめるかどうかはわからないし、身体を動かす趣味を勧めるのは精神的にもいいかもしれない。
「俺はランニングも趣味なので毎朝走ってるんですけど、走るのもいいですよ! イラついたりむしゃくしゃした時は、思いっきり走るとすっきりしますし」
ランニングを好んでやっている人のほとんどは、競技なんて関係なく走っているのだから、難しく考えずに血液を巡らせて、汗を流したらいい。八十になったって続けられる、健全な趣味だ。
「明日も、走るの」
「はい。あー……、でも、最近は朝から貸し切りでスケートリンクが使えるので、外を走る代わりに氷の上を走ったり滑ったりしてまして……。朝六時からですが、純さんも行きますか? スケートやるのは気が進まないなら、リンクサイドがランニングコースになってるので走れますよ」
俺は毎日スケートリンクが使えて嬉しいけれど、スケート以外のことがしたいと言っている彼に氷上ランニングは勧めにくい。
「……司くんが滑るのなら、行く。……靴もないし、僕はリンクサイドでいいよ」
「スケート靴……は、どうにかなるかもしれないので……もし純さんも滑りたくなったら、出る前に言ってください」
俺は、純さんの足に合う靴を、持っている。
ストレッチの後は自重と手持ちのダンベルでできる筋トレを一緒にやる。メニューを作ってほしいと言われたから、筋肉の回復のバランスを考慮しつつ、新品のノートに純さん用の筋トレメニューを書き込んだ。
彼はかなり痩せてしまっていても、若いだけあって結構力は強いし持久力もある。
純さんによれば、トレーニングをしなくなって三ヶ月弱ほど、という話だったから、まだ回復も容易な期間だ。
一緒にプランク(両肘を床について上体を支え、足まで真っ直ぐ伸ばす)をしたら、当然ながら毎日鍛えてる俺よりしばらくやってなかった純さんの方が先にぷるぷるしてきて力尽き、『……っ、絶対、鍛え直す』ってものすごく悔しそうにしていたので、そういう負けず嫌いなところも可愛いな、と思う。
鍛え甲斐のある身体だし、回復する過程を毎日見ていられると思うとわくわくした。
「あ、そうだ、ダブルベッドに俺と二人じゃ嫌ですよね。今夜は仕方ないとして……明日、買い物に出たついでに床に敷けるような三つ折マットと布団を買いましょうか」
「……司くんと寝るのは、嫌じゃない」
「え、でも……」
「明日、五時半に起きるのなら、寝るよ」
純さんはさっさとベッドに上がって、奥側に詰めてくれる。
「ええと、狭いとか暑苦しいとかあったら、我慢しないでくださいね。俺は結構幅を取るので」
俺は照明を常夜灯にして、ベッドに乗り上げた。
「うん。……もっとこっちに来て」
夜鷹さんは人を寄せ付けないような雰囲気があったので、若い彼の意外なパーソナルスペースの狭さに驚く。
「おやすみ、司くん」
純さんに急に顔を近付けられたと思ったら、額に柔らかい感触が一瞬触れて、離れていった。
「お……っ、おやすみ、なさい……?」
えっ……キス、された?
頭の中は大混乱だ。落ち着け。
俺の脳内夜鷹純Wikiによれば、彼はロシア語と英語が堪能で、ロシアのクラブとカナダのクラブに在籍していたことがある。コーチと選手の間でハグとかキスとか当たり前(?)の文化圏にいたんだから、そういう挨拶なのでは? きっとそうだ。
ちらりと純さんに目を向けると、彼は何事もなかったかのように俺に背を向けて横になっている。
これは下手に騒ぐ方が変に意識してるみたいだよな?
挨拶なら返した方がいいんだろうか……?
いやいや、若い夜鷹純のご尊顔に自分から顔を近付けるとか無理だろ。さっき急にアップで見せられた時には息が止まってた。部屋を暗くしていて逆光だったから、ぎりぎり叫ぶのを耐えられたようなものだ。
思い返すと今からでも叫びそうだった。ダメだ、思い出すな。
俺は、何事もなかったということにして無理やり眠った。
早朝に起きて洗面と軽いストレッチを済ませ、家を出る。十一月末の東京はまだ日が昇っていなくて、きんと空気が冷えていた。吐き出す息が白い。
東の空が白み始めているのを見ながら、スケートリンクまで短い距離を一緒に走った。純さんは冬用の服を持っていないため、俺が貸したTシャツとパーカーとジャージのズボンを着用した上からダウンジャケットを着ている。
サイズは合ってないし、俺の安物の服が非常に似合っておらず、このままでは夜鷹純への冒涜だ。今日の午前には絶対彼の服を買いに行く。
コーチ専用のカードキーでスケートリンクへの通用口を開け、建物内に入る。
誰もいないスケートリンクは、何度見ても特別感があって、好きだった。
純さんはスケートリンクに来るのも久しぶりなのだろうか。
「…………」
寂寥感のある目で誰もいない氷の上を見つめる彼の横顔に、何も言えなくなる。
夜鷹純が引退してから何年、氷の上から離れていたのか、俺は知らない。鴗鳥先生の口振りからすれば、一年や二年ではなさそうだった。
彼はその間、どうしようもない渇望を抱きながら、氷の上に戻ることもできずに苦しんでいたのだろうか。
あんなにすごいスケートをする人が、スケートから離れる決意をするのに悩まなかったはずはない。引退記者会見で『どうして』『まだ滑れるのに』と散々理由を問われても沈黙を貫いた彼に、本心を問いただそうとは思わなかった。
『スケート以外のことがしたい』と切実な願いを口にした彼の心もまた、偽らざる本音なのだと思う。
ストレッチと筋トレについては『趣味ってことにすればいい』と言ったけれど、スケートに関しては『趣味にすればいい』とは絶対に言えなかった。
二十歳の時の俺は、その歳になってもスケート選手になることを諦めきれずに、一人で一般営業中のリンクに通っていたから。
俺が十六歳の時に入ったスケートの同好会は、趣味でスケートをやっている人たちの集まりだった。どうしても選手になりたかった俺は彼らの中で浮いていて馴染めなくて、周囲との温度差の違いにずっと苦しめられた。
俺にとってスケートだけは特別で、趣味で楽しめばいい、とは何があっても思えなかったんだ。