「X-6827番、起床しなさい」
真っ白な空間に一箇所だけ浮いたようについている頑丈そうな鉄のドアに空いている小窓から声をかけられ意識を浮上させる。
あ、朝か。
この部屋には外の様子が見れる窓がなく時計もないため毎朝男の声を合図に起床する。
むくりと起き上がり眠気を覚ますためベッドの上で軽くストレッチをするとロックが解除される音が聞こえ、真っ白な白衣を着て仮面で顔を隠した男が部屋に入ってきた。
「起きたか。バイタルチェックを行うから手首を出してくれ。」
サイドテーブルにノートパソコンを置くと、白い手首に巻かれたバングルのようなものをコードで繋ぎ軽快にきキーボードを叩いていく。
「心拍数、血圧、特に異常なし。身体に違和感があったり不調があったりとかはないか。」
「特にないです。」
そう答えると男はそうか、と呟きコードを抜くとパソコンを閉じた。
「今日は何して過ごすんだ。」
器用にコードを巻き取ると、もとあったアタッシュケースに戻していく。
「中庭で本を読むつもりです。」
「そうか。門限までには戻るんだよ。」
分かってます、と答えるとサイドテーブルを元の位置に戻し男は立ち上がって扉のドアノブに手をかけると何かを思い出したのか振り返った。
「そういえば明日はおまえの誕生日だったな、何か欲しいものはあるか。」
問われてカレンダーを確認すると、確かに僕の誕生日の一日前だった。
今の今まですっかり忘れていた。
「ええと。」
瞬時に思いつかずあれこれ思案している中、質問主の彼は急かすことなくじっと待ってくれている。
「そうですね、新しい本が欲しいです。できれば専門書ではなく文芸書がいいのですが。」
やっとのことで絞り出すと少しの間があった後、分かった。と言い部屋を出ていった。
普段から読まなくなった本を時々彼からもらっているため、本当にそれでいいのかと仮面越しに問うてくるのを見て取れたが言葉にはしない。
類を担当している彼は類の意志を尊重してくれるし、言葉は少ないがちゃんとこちらを気にかけてくれているのが伝わるので気に入ってる。それに物心ついた時から一緒なので信頼もしている。
「さて、行くとするか」
ベッドから降り、本棚から幾つか本を取り出して鞄に入れ靴を履いて扉の外に出る。
廊下に出てエレベーターで一階まで降りしばらく歩くとと、だんだんとすれ違う白衣の仮面たちの数が減り人工的な白から緑が生い茂る広場にたどり着いた。
閉鎖的な空間の中に木や花たちが植えられている様子はテラリウムみたいでなんとも神秘的だ。
中央に植えられている大樹の下にもたれかかると、類が来るのを待ちわびていたように草むらからウサギのような耳をした猫が現れ膝に乗ってきた。周りを見渡すと光る羽を持った文鳥や足が長い子豚などが銘々の時間を過ごしている。
ここは元々遺伝子操作の研究が行われていた研究室の一つで配合に失敗した植物や動物が育ちきり、そのまま手がつけられなくなって今のような状態になったそうだ。
なんとも適当で無責任な話だが、類のお気に入りの場所なのでここを作り出した研究員の失敗には感謝している。
ひとしきりうさぎ猫を撫でてやると満足そうに膝の上から退いていった。少々名残惜しいが、鞄から本を取り出し読み進めていく。
今日の本は小説だ。哲学書や歴史書、科学書や医学書などありとあらゆる種類の本を今まで読んで理解してきたつもりなのだが、小説の中でもとりわけ恋愛要素を含むものだけどうも釈然としなかった。
どの本でも「愛」によって身を滅ぼしたり、人生を棒に振るったりする人物が出てくる。
類からすると、ひとつの感情に過ぎないものに振り回される人生は如何にも非効率的で面倒に思える。
この前読んだ本の一節には「貴方の為なら死んでもいいわ」なんてものもあった。
恋情は人間が命を絶ってもいいと思えるほどのものなのかと恐怖も覚えた。
以前読んだ哲学書によると、そもそも哲学の語源は愛と智でありソクラテスなんかは知への愛を目覚めさせる為に街ゆく人々に問答を吹っ掛け回っていたなんていう。
これも同じ「愛」という物を柱としているが小説に書かれているものとは同質ではないのだろう。
幼い頃から気難しい本ばっかり読んでいるため少し情緒が育ちきってないのは自覚しているが、好奇心は人一倍強いためこの不可解な「愛」に惹かれてしまうのだ。
最近の類の興味は専らそれに向いている。
今日も夢中になって物語の世界に耽っているといつの間にか門限の時間が迫ってきていた。
……
ふと意識が浮上し壁に埋め込まれている時計を見ると、いつもの起床時間の四半刻前だった。別に類は朝が弱い方ではないのだがいつもバイタルチェックに訪れる彼の声で起きる為、珍しく自力で起きれたことに少し気分が良くなった。それに今日は生まれて17回目の誕生日だ。
生まれた時からここで過ごしている類にとって、誕生日というものは昨日まで忘れていた程度のものだが、なんとなく何時もとは違う特別感があり嫌いではなかった。
ぐーっと睡眠で凝り固まった身体を伸ばし、軽くストレッチをしていると足音が近づいてくる音がした。
「X-6827番、__『もう起きてるよ』」
彼の声を遮って扉を開けると、仮面越しに表情は見えないが面を喰らっているのが分かる。
「誕生日おめでとう。私が起こしに来る前に起きるなんて珍しいな。そんなに誕生日が楽しみだったのか?」
驚かせた仕返しなのか、少しの揶揄いをはらんだ言葉に赤面していると、そんな類の様子を気に留めず検査の準備を始めた。
「ありがとうございます。もう子供じゃ無いんだからそんなんじゃないですよ」
拗ねたように言うと、そういうことにしといてやるよ、と言って静かに笑った。
笑ったところを初めて見たなと、今度はこっちが面を喰らってると手首を出してくれ、と声が飛んでき従った。
「心拍数、血圧、異常なし。不調はないか?」
「特にないです。」
いつも通りの会話をした後、いつものように直ぐに片して帰る彼がそういえば、と話を切り出した。
「そういえば今日からこの部屋に新しくルームメイトが来る予定なんだ。」
「ルームメイト、ですか?」
突然のことに驚いて部屋を見回した。
確かにこの部屋は一人で住むには些か広すぎるとは思っていたが。
「ああ、この後ここに越して来るみたいだから必要であれば荷物の整理でもしておいてくれ。」
彼は部屋の隅に積んである本の山をちらりと見て言った。中々骨の折れる作業になりそうだが、それよりも類の興味は新しくこの部屋で一緒に過ごすことになる人物へ向いていた。
「新しいルームメイトってどんな人なんですか?」
「性格など細かいことは知らないが、お前と同い年くらいの男の子だそうだ。」
「そうなんですね、楽しみです。」
今まで歳が近い人と関わるのは疎か、世話になってる彼としかまともに関わったことがないのでちゃんと仲良くなれるか不安だが、初めましての人に対する好奇心に天秤が傾いた。
仲良くなれるといいな、と言うと彼はいつもの様にさっさと片付けて部屋を出ていった。
再び一人になった部屋を見渡し先ずは片付けだ、と自分を律するように立ち上がると部屋の隅に積んである本の壁に向き合った。
以前適当に棚に収納してあった本を綺麗に並べ直すために一旦出してよけたのは良かったが、永らく見かけてなかった本を何冊も見つけてしまい、つい読み耽ってしまったのがまずかった。
片付けるのが億劫になってしまい、更に本が増えることによって壁が厚くなってしまうという悪循環の産物がこれだ。完全に自業自得なのだが思わず溜息が漏れ出てしまう。
まずは低い方の山から崩してしまおうと、本の虫の本能をぐっと押し殺して掘削作業を開始する。
黙々と作業をしていると意外にも順調に片付けが進み、残りは天井近くまで積まれた山だけになった。
どうしてこうなるまで放っておいてしまったのか過去の自分を呪ったが背に腹はかえられない。
上から順番に崩していこうと椅子の上に登る。
手に持てるだけの本を抜き取ると、掃除が行き届いていないせいで大量の埃が舞った。顔にかかるのを防ぐために咄嗟に身じろぎすると、バランスを崩してしまった。
あ、落ちる。宙を浮く腕から離れていった本達と雪崩れ落ちてくる本の山がスローモーションのように見える。
タキサイキア現象と呼ばれるこれをまさか現実で経験するとは思わなかったな、と呑気に思い次に来るであろう衝撃に備えてぎゅっと目を閉じようとすると、誰かの大声が耳を劈きぐっと腕を引かれて身体は傾いたが想定していた痛みはなかった。
代わりにぐえっと何かが潰れたような音がし、温くて少し硬いものが類の下敷きになっていた。
後ろをさっと確認すると案の定大惨事になっている。
これをまともに食らってたら怪我の一つじゃ済まされなかっただろう。
安堵と片付けの面倒くささで本日二回目の溜息を吐くと、下敷きになっている人物と目が合った。
「あのー、そろそろ退いてもらいたいんだが」
そういえば馬乗りになったままだったと思いぱっと退くと、その人物はいててと呟きながらのっそり上体を起こした。
「助けてくれてありがとう、大丈夫かい?」
「ああ、それよりも怪我はないか?」
自分は痛そうにしてるのに人の心配をするだなんて、変な人だなと思いながら大丈夫だよ、返事をする。
それにしてもすごい量だな、と若干引き気味の彼は此処では見たことがない顔だ。まあ此処の職員は全員白衣に仮面と個性を殺した格好をしているため顔なんか分かる訳ないのだが。お世話してくれる彼の素顔さえも実は一度も見たことがない。
じっと様子を伺う類の視線に気がついたのか、自己紹介を始めた。
「初めまして、オレの名前は天馬司だ。今日からこの部屋で一緒に住むことになった。よろしく頼む。」
そう言うと右手を差し出してきた。
「初めまして、神代類です。よろしくお願いします。」
簡単な挨拶をした後、類は差し出された手の意味が分からずじっと見てると司は類の右手を取った。
「ほら、こうやって握ってみろ。」
言われるがまま司の掌をきゅっと握ると、類より少し体温が高いのか熱く感じた。生まれて初めての他人の体温になんとも言えない気持ちになる。物理的ではない温かさを感じると言うか妙な高揚感があるというか、兎に角初めての気持ちだ。
暫く握ったままでいると、ドアをノックされたのでぱっと手を離した。どうやら司のベッドと荷物が搬入されるらしい。慌てて片付けるために少し待ってもらうよう言おうとしたが、抵抗する間もなく無慈悲に扉が開いた。
ずらずらと入ってきた作業員達はチラチラと惨状を見ていたが、特に何を言うこともなく手際よく作業を開始していた。若干居心地の悪さを感じて片付けを開始したが、無事搬入作業が終わりさっさと撤収していった。
司の荷物とベッドは、類の向かい側に置かれた。
本ぐらいしかもっていない類に比べ、司は色んなものを持ち込んでいるようで搬入用の袋がパンパンに膨らんでいる。
現に袋のチャックを開けて、いそいそと中身を取り出しては備え付けの棚に置いている。物が多いがどれも大切にしているようで、指先で慈しむように置いていた。
どの品も類が見たことない物ばかりで新鮮だ。
片付けをしながら横目で見ているのがバレたのか、ばっちり目があってしまった。
「あ、すまない。荷物を整理したらそっちを手伝うからな。」
「いや、片付けを手伝って欲しいという意味で見てたんじゃなくて、その、珍しい物を沢山持ってるなって。」
ペンギンを模した人形やガラス玉の中に水と模型を閉じ込めたオブジェなど、この真っ白で単調な部屋に彩りを齎す物ばかり置かれている。
「この物たちは贈ってもらった物なんだ。誰に貰ったかは思い出せないけど、どれも大切な品なんだ。」
そういう司の目は優しい。最後に観葉植物を置いたところで、司は満足気に頷いた。
「ほら、この部屋も大分賑やかになっただろう。」
「そうだね、少々賑やかすぎるような気はするけれども。」
「む、何もないよりかはいいだろ。それよりも早くあれを片してしまうぞ。」
そういうと立ち上がり、大変な作業になりそうだなと呟きながら片付け始めた。
そういえば司は何処からやってきたのだろうか。
色々引っかかる所はあるが、お前も早く手伝ってくれと急かされたため結局聞けずにいた。
因みに作業は二人がかりで2時間弱かかった。