【薔薇咲_エアスケブ】緞帳のあちら「ツバメさん、小さなツバメさん。」
そう、彼は繰り返した。両の目蓋は下ろされ、薄く開いた唇から悲痛な声を発する。
「貧しい子供達の、声が聞こえないかい? お腹が空いたと広場の隅で泣いている。彼らは上着を着ているだろうか、靴は履いている? 私にはもう見ることはできない。だからどうか、教えてくれないか?」
ーー上着も、靴も、靴下すらもありません。幼い子ども達だけで身を寄せ合って、石畳の上で凍えています。ーー
「……あぁ……この寒空の下、かわいそうに……。」
悲しみに揺れる声の狭間に、震える息が溢れる。だけどその声は、そして心は、容易く侵されるようなものではない。きっと、届けたい人に届くだろう。
「ツバメさん、どうか、私の身体から純金を剥がしておくれ。そうして彼らに届けてほしい。広場の子ども達だけではなく、この街に住む貧しい人達へ。どうかお願い。苦しみの底で喘ぐ人達に、私の身体の欠片を分けて。剣のルビーも瞳のサファイアも、もうなくなってしまったから、この身体中の黄金を分けて。どうか、お願い、ツバメさん。」
ーーわかりました、王子様。あぁ、幸福の王子様……!ーー
ツバメは願いを聞き入れ、王子を美しく飾る純金に嘴をかける。始めに脚、それから腕に、腹、胸、背中、とうとう顔にも。冬の澄んだ空気に煌めく金を剥がされながら、幸福の王子は吐息を溢した。
「あぁ……ありがとう、ツバメさん。君が居てくれて良かった。君が居てくれたから、この街の皆を救うことができる。私は心の底から幸せだ。……神様、どうか彼らを救ってください。愛しいこの街の人達に、幸あらんことを。」
両手を弱々しく寒空に伸ばす。震える睫の下からは透明な雫が溢れ落ちた。鉛が剥き出しの頬を伝って、優しく緩められた口元を滑り落ちる。やがて顎から足元へ落ちた。彼を"幸福の王子"たらしめていたものを全て失いながら、世界で一番幸せそうに微笑んだ。
わななく口から感嘆の息が忍び出た。物音を立てないように、呼吸すら躊躇われる。彼の世界を、目の前にあるほんの一瞬の儚い芸術を壊してしまわないように。
王子像の台座は小さな踏み台、剣は竹刀、身に纏うのは制服だし、午後八時のレッスン室には彼しかいない。でもそんなことはどうでも良かった。それをちぐはぐだと揶揄する方が余程場違いであると感じるくらい、シャスポーは世界一の"幸福の王子"だった。
「……ーー。」
微かに、なにかを呟いた。直後、喜びをたたえた表情から笑みが抜け落ちる。両腕を掲げたまま、すとんとくずおれた。
「あっ……!」
抑えられなかった声が、思わずまろび出た。目の前の光景が全て、巧妙な嘘だと知っているはずなのに。それどころか、その嘘の下書きもとい脚本は私が書いたものだというのに。
「先輩……?」
シャスポーが、しゃがんだまま目を丸くして私を見ている。本番の二週間前ともなれば、最小限の動きで音もなく、かつ安全な床への着地も慣れたものなのだ。
「お、お疲れ様。」
「またこんな時間まで図書室で執筆を? 無理しちゃだめだよ。うちの演劇部の大切な脚本家なのに。」
もう演じていないのに、美しい所作で立ち上がる。こちらへ向けられた青い瞳が、優しく和らいでいる。他でもないシャスポーの笑顔を見て、心のどこかでほっとしていた。
「ありがとう。でもそれを言うならシャスポーも。うちの看板役者なんだからそろそろ帰りなさい。」
わざと先生みたいな小芝居をすると、相手も応じた。
「はぁい。」
そうして、部屋の隅に寄せてある荷物の所まで歩いて行った。
「私も帰るところなんだ。一緒に帰ろう。」
台本をしまう背中に声をかけると、俯いていた後頭部がぴょこんと浮いた。
「うんっ。すぐ行くよ。」
言葉通り、手早くブレザーに袖を通す。その様子を横目に、私は踏み台と竹刀に手をかけた。
「あ、僕が……」
「二人でやるほうが早い。ところで、どうして制服で稽古してたの? 自主稽古だっていつもジャージなのに。」
そのまま話を続けると、シャスポーはどうやら諦めたらしかった。埃取りの為に乾いたモップをかけ始める。黙々と掃除をしながら、自分でもどうしてそうなったのか記憶を辿っているようだった。
「七時くらいに、もう帰ろうと思って着替えたんだ。でも支度しながらぶつぶつ台詞を言ってるうちに新しい演技プランが湧いてきて。」
「それから一時間?」
「それから一時間。」
ロッカーの扉を閉めながら、うへー、という顔でモップをしまうシャスポーを見た。
「芝居バカ。」
「先輩もでしょ。」
ローレンツやタバティ先生によく向けるようなむすっとした顔をする。彼が
奥のスイッチに手を掛けると、小気味のいい音とともに部屋の奥半分の電気が消えた。
「仰る通りです。帰る前に同族を探しに来ちゃったのかも。」
入り口側の端で、壁面のミラーを覆う為のカーテンに手をかけた。丁度、シャスポーも向こう側からカーテンと歩いてくる所だった。
シャーーー……とノイズにも似た音が空間を支配する。単純にそれがうるさいから、私たちも口を噤む。
「……あれ。」
不意に、本当に唐突に、断片的な場面が思い出される。思い出されるというよりは、脳裏に浮かんだ。台詞を書く時にも嘘くさいから使わないような言葉だけれど、まさにそう言い表すのがしっくりくる。ほんの瞬きの間に短い映像を見せられたみたい。
ーーシャスポー!ーー
シャスポーの名を呼ぶ声。私の声だ。
ーーシャスポー、シャスポーお願い……!ーー
何度も何度も必死に、懇願するように叫び続ける。
ーー……。ーー
目の前に蹲るのはおそらくシャスポー。癖のない茶髪も背格好も彼に違いない。だけど、仰々しい軍服のような衣装を着ているし、黒い靄がかかっていてよく見えない。
ーー聞いて、シャスポー! シャス……っーー
酷く狼狽した私の声を聞き入れたのか、彼は立ち上がった。そうして向けられた表情と重々しい鉄の塊に、現実の私も息をのむ。小道具やレプリカじゃない、本物だ。あれは、本物、の……
「っは……!」
「先輩、先輩! 聞こえる?」
シャスポーが、私の右肩を揺すっている。もう一方の肩はミラーに寄りかかっていて、何とか立っているらしかった。
「シャス、ポー……。」
夢の中の私とは比べ物にならないくらい、曖昧な声でその名を呼ぶ。そう、夢、あれは夢だった。昨晩見た夢。ベッドの上では覚えていたけれど家を出るころにはすっかり忘れていた悪夢を、今鮮烈に思い出したのだ。
「良かった……。ゆっくり座ろうか。」
私を覗き込む瞳は、青く澄んでいる。夢とはまるで違う。だけど、ミラーに映るもう一人の彼が不安定で歪な存在に感じた。
「ごめん、立ち眩み……。」
「えっ、やっぱり頑張りすぎだよ。さぁ、僕が支えてるから……あ。」
「立てた……から、大丈夫。……ありがとう。ごめん。」
まだ頭はふわふわとした感覚を伴ったままだけど、身体はコントロールを取り戻していた。纏わりつく靄を晴らすように、まだ少し開いていたカーテンを鋭く閉める。
暫く、気まずい沈黙が降りた。
「あぁれ、まだいたのか。先生もう帰りたいんだけどぉ。」
唐突な声の方に振り向くと、入口のドアから顧問のタバティ先生がひょっこり顔を覗かせている。
「……。」
「……。」
「……どしたの。」
ややあって探るような視線。その実、次々と起こる出来事に付いていけず呆気に取られているに過ぎなかった……少なくとも私は。シャスポーはどうだろう。気遣ってくれたのに変な態度を取ってしまったから、困らせているかも。
「タバティエール、車を出せ。先輩を家まで送るんだ。」
「え、なに、具合悪いの?」
心配した先生がレッスン室に入ろうと靴を脱ぎかけた。
「良い、神聖な稽古場に髭面で入ってくるな! それより車。」
「すんごい偏見……。へいへい、電気と空調消して、鍵は返して、んで北門で待ってな。気をつけて。」
ひらひらと揺れる手を残し、先生は退出していった。
「行こうか。」
一連のやり取りをぼんやりと見ていたけれど、優しく囁く声にはっとする。
「う、うん。」
「先輩、手を。」
シャスポーは、私の鞄を持ってくれていて、もう一方の手を差し出した。
「ありがとう。」
手を重ねると、確かめるように一度握られる。答えるように、握り返した。
「それから、ごめんね。なんか最近変な夢をよく見るから、ちょっと疲れてて。」
「ううん、いいんだ。」
すっかり安心したような返答だった。
「先生に送ってもらうことになっちゃった。本当になんともないのに。」
「それは本当にいいんだ。」
打って変わってむすっとした声が可笑しくて、小さく吹き出した。
「ねぇ、先輩。」
彼の青い眼差しは、空っぽの稽古場を見渡す。
「僕、もっといい役者になるよ。誰よりも、ずっと。」
ストイックな姿勢は彼の美徳だ。彼の努力を、進化を、真に迫った表現を、いつまでも見て居たくなる。でも今日は少しだけ、ありふれた現実に連れ戻したくなった。
「うん。……一緒に作ろうね。」
繋いだ手を小さく揺らした。
「シャスポー。」