オレだけが知る医者のこと 細い指がスプーンを操るのを、ぼんやりと見る。
メスを扱うことに長けているだけあり、丁寧な指使い。
米とルーが均等に匙の上に盛られ、そのまま男の口へ。
見るともなしに、その動きを追いかける。
「おい」
感情の読めない、平坦な声に呼びかけられるまで、自分が一口もカレーを口にしていないことに気が付いていなかった。
「あ?」
「悩んでいるな」
悩んでいるのか? と疑問系ではない断定口調。数百の視線で常に相手を観察する、この医者らしい言葉。
何を悩んでいる? とは続けてこない。それすら、きっとこの男は見通しているのだろう。
獅子神自身『何に』と断言できない心理状態にあることさえも。
「お前が『帰ったら好きなだけやれ』って言っただろーが」
「そうだな」
あっさりと頷かれる。
それは、あの、刑事二人を相手にした賭場でのこと。
村雨に導かれるように、命を賭けて強さを得た。「我々は賭けに勝ったのだ」あの時の、彼の表情は忘れていない。
恐らく、滅多に目にすることのない、凡そ『らしくない』、あの笑みを。
賭場を後にして、その帰り。自宅にカレーを作っていると話したならば、当然のように医者はついてきた。
そして今、カレーの皿を前に二人向かい合っている。
「……」
スプーンを手に取り、カレーを口に運ぶ。自画自賛ではあるが、美味い。
辛味が強すぎず、さりとて甘いわけでもなく。丹念に炒めた玉ねぎの旨みが効いている。
「………静かだな」
無意識に、落とした呟き。
今頃恐らく、あの賭場で行われているだろう、悪趣味な『見せ物』のことを考える。
村雨が自分にそれを見せないように、連れ出したことはわかっていた。
それだけではない。
あの熱から離れ、時間が経ち、静かなこの場所まで帰ったからこそ、気が付いていた。
この、他人のことなど見えていようと気にしない、強く冷たいこの男がずっと貫いていたことは何なのか。
(………)
初めて語り聞かされた『兄』のこと。タッグマッチ中の『指示』も、それが終わった後も。
そう、ずっと。どうしようもないくらい。守られていた。
ここで、自分が『終わり』にならないように。
「美味いな」
「………あ?」
思考を巡らせていたため、呟きに対する反応が遅れた。
カレーを食べ終え、グラスのラッシーを飲む医者を見る。
どうやら、もう一度言うつもりはないらしい。聞こえていたことを理解しているのだろう、恐らく。
「………そりゃどーも」
礼を返し、自身もカレーの続きにとりかかる。結局、まだ殆ど口にできていなかった。
手を休めず、医者を見る。
守られていた。
その、事実を噛みしめる。これは、間違いなく、一生忘れてはいけないことで。
「村雨」
名前を呼ぶ。
自分よりずっと強く、冷たく、けれど気高い、でも『友人』だと認識してしまった男の名前。
そして、思い出す。「私は正しいか?」の問い。
あの時返した答えは、何も間違っておらず、或いは望む通りだったとは理解しているけれど。
下手な慰めなど彼は必要とせず。迷いがないからこその『強さ』だと、誰より知っているけれど。
「オレは」
ただこの瞬間。今日、自分に賭けてくれたこの男にこそ。守られた自分だからこそ、言える言葉がある。
「嫌いじゃねーぞ」
ただ、一言だけを放つ。
カレーを食べるフリをして向かいを見れば……あまり見たことのない表情の村雨が見えて。
その顔たけで、今日、生きていられたことに、感謝したいと心から思った。