クロディ6話目⑤ 甘い匂いが意識を浮上させた。花とは違う。香ばしいバターと小麦の焼ける匂いだ。目蓋の裏側に陽射しを感じる。雲雀の囀りに似た、鳥の声が鼓膜を揺らす。朝だ。
クロードは重たい目蓋を押し上げた。
雨は止んでいた。窓枠から滴り落ちる水滴が朝の光を宿して真珠のように煌めいて、高い空にはきつく弧を描く極彩色のスペクトルが走っている。反射虹だ。
その光景に、聖書の逸話が脳裏を掠める。
「約束の虹」
小さな灯火を頼りに、嵐の海をさ迷った果ての約束が口の端を滑った。
「何だ、それは」
頭上から降って来た声に、驚いたクロードは跳ね上がる。あまりに慌てて飛び起きたので、机の角に頭をぶつけた。涙で視界を滲ませながら頭を抱える。それから、クロードはそこが床の上であることを知った。
痛みが引き、そろそろと顔を上げると、灯火の石に似た色の双眸と克ち合う。テーブルに頬杖を突いた男は、クロードを冷ややかに見下ろしていた。
着込んだ衣服に夜明けの名残は一切感じられない。対するクロードは、脱ぎ捨てた衣服が申し訳程度に掛けられているとはいえ全裸に等しい。情緒がない。仮にも肌を重ねた相手にもう少し何かないのだろうか、とクロードはとても悲しい気持ちになった。
落ち着いて辺りを見渡すと、部屋の中は小綺麗に片付いていた。雑貨の詰め込まれた箱は蓋がされ、丁寧に閉じられている。床の上に飛び散っていた硝子片もない。組み敷いた男が気にしていた窓だけが、変わらず開け放されたまま外の空気を風に乗せて運んでくる。
急に恥ずかしくなって、クロードは慌ててズボンを穿いた。
クロードに興味をなくしたのか、男は居住まいを正してテーブルに向かう。シャツに腕を通しながら覗き見ると、チョコレートアイスにチョコレートソースのかかった、生クリームたっぷりのクレープが質素な皿の上に乗っていた。雑にバナナが盛り付けられ、丁寧にアーモンドスライスが散らしてある。花の香りを掻き消すほどの甘い匂いの正体だ。今は見ているだけで頭が痛い。眩暈がする。
「よくやるよ」
「お前も食べたければ好きにしろ」
顎をしゃくって、男は台所を指し示した。
「朝から重い」
ディアスと向かい合うように、テーブルにつく。彼は何も言わなかった。無言でアイスクリームを崩している。すり減ったテーブルの木目をなぞりながら、この椅子には誰が座っていたのだろう、とクロードは思った。
「……悪いことばっかすようになった人間に嫌気がさして、神様が世界を洗い流そうとする話」
ディアスの手が止まる。クロードは窓の外を指差した。空にはまだうっすらと虹が架かっている。
「さっき訊いたろ?」
「続けろ」
窓の外を見て納得したらしいディアスは、また皿の上に視線を落としてクレープを切り分け始めた。
「一握りの善良な人間と生き物を残して世界を滅ぼした神様が、もうこんな風に力づくで綺麗にしたりしません、って約束に、虹を空に架けたんだってさ」
「己の主観と物差しで善悪を量るのか」
傲慢だな。口の端に付いたチョコレートソースを指で掬って舐めとりながらディアスは笑った。
「そうだね。でも、ぼくはこの話、嫌いじゃないよ」
ディアスは何も言わない。口が咀嚼で忙しいからだ。
「最後は愛と許しで終わるところが良い。ぼくの誕生石も出て来るしね」
以前、レナがセリーヌとアシュトンから誕生石の指輪を贈られて嬉しかった、と話してくれたことがある。エクスペルにも誕生石の概念があるのだろうと思い、特に注釈を入れることはしなかった。
ディアスはクレープの切れ端で、皿にこびり付いたチョコレートソースを拭き取っている。興味がないことを取り繕う気もないらしい。
相変わらずのつまらなそうな無表情のまま、顔も上げずに「どんな石だ」とディアスは訊いてきた。誕生石なんて興味がないのに、先を促す男の物言いがおかしかった。
「興味ないくせに」
誕生石に限った話ではない。虹の約束も、別段ディアスの興味を惹く話題ではなかったに違いない。それでも何故か、この男はクロードの言葉に耳を傾けようとする。
「話には興味ないけど、ぼくには興味があるってことで自惚れるけど、いい?」
「自意識過剰もここまで来ると清々しい」
悪態を吐きながら、それでもディアスはクロードの驕り自体は否定しなかった。だからクロードは、彼の赤い眼を真っ直ぐに見つめて言った。
「ぼくの誕生石はね、嵐の中をさ迷う船の灯火に使われたんだって」
食べ辛そうに眉根を寄せたディアスが、クレープをかき込みながら睨み上げて来る。肩を竦めて胡乱な視線を躱すと、クロードは窓から覗く空に溶けかけた虹を見遣った。
「約束に辿り着く為の道標だ」
ディアスは何も言わない。矢張り興味がないのだろうな、とクロードは思った。
気持ちは解かる。クロードも宝石に興味はない。誕生石にしても、自分とごく親しい人たちの石のいくつかを辛うじて覚えている程度だ。目の前の男の誕生石すら分からない。とてもアシュトンのようにスマートにはなれない。それでも、自分の誕生石が目の前の男の眼差しと同じ色をしている偶然に、喜びを感じる程度には愛着があることを知った。
宝石の色を明かしたところで、どうせまたつまらなそうな顔で相槌を打つだけの男の姿は想像に難くない。疑惑の男はクレープを食べ終えて、いつの間にかクロードと同じ空を見上げている。
もう少し、ぼくだけの宝物にしておこう。瑞々しい柘榴のような瞳に、虹を映すディアスの横顔を眺めながらクロードは密かに決意を固めた。