導入 割れたステンドグラスの向こうに、海が見えた。波の音は少し遠い。暁光を受けて輪郭を金色に滲ませる雲を背に、鳥が弧を描くように飛んでいく。石煉瓦の壁は崩れかけていて、断崖の海風を受けてそよぐ低木の青い小花が見えた。木製の床も所々剥れて、浅くはない窪みに矢車菊に似た野花が咲いている。
忘れられ、打ち捨てられた廃屋に人の気配はない。風化して時と共に崩れ落ちるのを待つだけの建物は、外に出ることも容易い。崩れた石壁を乗り越えて小花の揺れる崖に近付くと、今も尚、災厄の爪痕の生々しく残る港町を眼下に見留める。
誰もいない。当たり前だ。多くの人々が突如として降り掛かった災禍を前に、なす術もなく命を落とした。生き残った僅かな住人も今はこの町を離れている。寂寞とした白い砂浜に残る跡は。寄せては返す波の模様だけだ。静寂は、初めてこの大陸に流れ着いたときの不安を思い出させた。
顔を上げる。湿った風が強く吹き付けて、髪を掻き混ぜ、通り過ぎていく。
拳を更に固く握り締めると、硬質な感触が手のひらに返った。
肺いっぱいに潮風を取り込み、ゆっくりと吐き出す。脈打つ心臓はまるで早鐘だ。
一呼吸置いてから振り返る。そびえ立つ廃墟を見上げる。蔦の這う白に近い灰色の石壁は、斜めに差し込む陽の光を受けて今は灼けるように朱い。本来なら高く伸びていただろう鐘楼は半ばから崩れ落ちていて、土埃に塗れて錆びた青銅の鐘が、朝露を湛えて咲く花に寄り添うように横たわっていた。
廃墟は、かつては教会だったようだ。
打ち捨てられた鐘から視線を外すと、拳を解いて手のひらの内をまじまじと眺める。そこには誇らしげな光を放つ自己満足と自己保身とが形となって鎮座していた。
やり過ぎた。空を仰ぐ。冷静になればなるほど恥ずかしい。
きっかけはささやかな不安だった。何でも良い。不安を払拭する約束が欲しい。理由を失っても尚、彼を繋ぎ止められるだけの、強い約束が欲しい。それだけだった。
だが、それにしたって、これはない。その上、場所が悪い。まるで狙いすましたかのようだ。否。それ以前に、たまたま行き着いたこの場所に、どうやって彼を呼び寄せれば良いのか分からない。一瞥した崖下の廃墟には、相変わらず人影は見止められない。彼の居場所すら、今は分からない。もしかすると行動を共にすることに難色を示していた彼のことだ。知らない間に置いて行かれたかも知れない。
駄目だ。やめよう。今日はやめよう。ジャケットの内ポケットに手を差し入れる。
とにかく、彼と合流しなくてはならない。思考を切り替えて、改めて廃教会に足を踏み入れた。