今日はこれから、うちで鍋でもしませんか? 待ち合わせ時刻を過ぎたのに彼の姿が見当たらない。こんなことは初めてだったので、自分もサラリーマンの彼も心配を募らせてしまった。仕事帰りのくたびれた格好で、二人してスマホを片手にそわそわしてしまう。
「日にちや時間を間違えているってことはないですよね?」
「そうだったらいいんですけど、そういう方向のうっかりは今までないですよねぇ」
どうしたものかと困ったまま顔を突き合わせていても、一向に彼は現れない。これが自分かサラリーマンの彼かどちらかであれば、問題なく過ごせただろう。行き先だけ明確に伝えてもらえば合流できるのだから。しかし待ち人たる彼はそうにもいかない。やっとこの街に慣れてきたところなのだ。
何か厄介事に巻き込まれていなければいいが。そう思っていると、互いのスマホの画面にメッセージが表示された。そこには、
「Help me」
とだけ書かれていた。
ただならぬ雰囲気を感じて思わず身構えてしまう。しかし隣に立っている彼は落ち着いたもので、「僕から電話してみますね」と淡々としている。
「もしもし、クラージィさんですか?はい、吉田です。連絡ありがとうございます。はい、はい、なるほど。あなたの体調が悪いとか、そういうことではないんですね。今、どこにいますか?はい。あのね、クラージィさん、Don’t Panic 僕らは何も困ってませんよ、すぐに行きますから、待っててくださいね。はい、一度、電話切りますよ」
電話をかけると、癖毛の彼はすぐに応答したようだ。目の前の彼が波風立てず、静かな調子で話しているのを聞いていたら、自分の気持ちも少し落ち着いてきた。最悪の事態ということではなさそうだ。
「思ったよりも近くにいるみたいです。迎えに行きましょう」
通勤鞄を持った彼に先導されて向かったのは、待ち合わせ場所から大して離れていない路地裏だった。薄暗くて分かりにくいが、足を進めていくと小さな人影を確認できた。どうやらしゃがみ込んでいるようだ。
「クラージィさん?!」
やはり何か悪いことが起きているのではないかと思い、つい大きな声で呼びかけてしまった。すると、彼の視線がこちらに向けられた。
「ヨシダさん、ミキさん、shhhh」
予想に反して、人差し指を立てて口元に当てている彼は至って元気だった。近寄ってみると、彼は大きな体を縮こまらせていて焦った様子はあるが、顔色はいつも通りであり、怪我も確認できなかった。
「二人トモ、約束、遅レテ、ゴメンナサイ」
そう言って申し訳なさそうにこちらを見上げてくる。隣に立つスーツの彼は手を振って、「気にしないでください」なんて小声で返している。自分だけ事態に追い付けていないのだろうか。癖毛の彼が頑なに立ち上がらないので、怪我でもしているのではないかと思って覗き込む。
すると、そこには猫がいた。ふくよかな三毛猫だ。とても気持ちよさそうに寝ている。
彼の固い膝の上ですやすやと眠る猫を見て、全ての点と点が繋がっていくような気がした。猫好きの彼は待ち合わせ前にこの路地裏で猫を見かけて、相手をしていたら膝の上で眠られてしまった。猫を起こしたりどかしたりすることができず、困り果てて助けを求めてきた。そんなところだろう。
しかし、そんなことなら先に説明してくれても良かったのに。心配して損をした、とまではいかないが、それなりに癖毛の彼の身を案じたのだ。そんな思いからスーツの彼を恨みがましく見つめてしまった。すると彼は、
「いや、近いところにいるみたいだし、説明するより現場に行った方が早いかなって」
と、先ほどまでの冷静さはどこへやら、一転してもにゃもにゃした口調になっていた。
「すみません。俺もちょっと動転してました。まぁ、何もなかったみたいで何よりですけど」
冷静に考えてみれば、彼はトラブルに適切な対処をしただけなので、責任転嫁はお門違いだろう。何か問題があれば申し出てくれていたはずだ。我に返ると若干座りが悪く、謝罪と同時に未だ座り込んでいる彼に話を振ってしまった。すると彼は、
「ゴメンナサイ。ネコ、コノママ、起キナイデス。ドウシマショウ」
と変わらず困り果てていた。起こせば良くね?と思ったが、事態はそれほど簡単ではないらしい。とは言え、改めて彼に視線を向けると、
「足、疲レル、シテナイ。デモ、感覚がナクナッテキマシタ」
と、ぷるぷる震えている。おそらく足が痺れてきたのだろう。時間にして二十分は経過しているようなので、無理もないことだ。それでも猫を直接的に起こそうとはしないのは、自己犠牲が過ぎるのではないか。しかし隣の彼も猫をどかそうとしない辺り、猫というのはそういうものとして扱うべきなのだろうか。分からない。
これ以上、男三人で頭を突き合わせていても埒が明かない。彼の足もそろそろ限界だろう。そう思い、強硬手段に踏み切ることにした。
「クラージィさん、俺らが全面的に悪いってことにして良いですからね」
と自分もしゃがみ込み、彼の肩に手を置いた。スーツの彼を見上げて視線で訴えると、察してくれたのか「そうですね。これ以上は無理そうですしね」と彼もしゃがみ込んだ。そして彼のもう片方の肩に手を添えていた。癖毛の彼だけが事態を飲み込めず、ぽかんとしている。
「「せーの」」
二人でタイミングを合わせて、彼の肩を軽く押す。普段の彼なら動じないはずだが、長いことしゃがみ込んでいたせいで、そのまま後ろに倒れていった。そのまま尻餅をついて、猫は驚いて目を覚ます。そんな魂胆だった。しかしそうはいかなかった。
彼は確かに後ろに倒れた。しかし、起き上り小法師の要領でころんと元に戻ってきてしまった。彼が怪我をすることはないと踏んでいたが、ここまでとは。流石の体幹としか言いようがない。自分もスーツの彼も、転がされた当人も揃って唖然としてしまった。三毛猫は片目をちらっと開けただけだった。
猫を宝物のように抱えた彼がそっと地面に尻を下ろして、所謂「体育座り」の姿勢になる。これ以上姿勢を安定させてどうするのか、と思ったが、同時に酷く彼らしいとも思った。隣の彼も同様の考えらしい。これ以上、直接でも間接でも寛ぐ猫の妨げとなるのは良策ではない。待つしかないのだろう。
「近くに自販機ありましたよね。僕、なんか買ってきますね」
「俺も行きますよ。クラージィさん、苦手なものあります?」
「イエ、デモ、今、財布出セナイデス」
「いいんですよ。さっき転ばせちゃったし、お詫びも兼ねて、ね」
そう言って道を引き返したスーツの彼に自分もついていく。辺りは先程よりも暗くなっていて、自販機の放つ光が強く感じられるほどだった。彼の分の飲み物代をどちらが出すかとなった際に、「言い出したの俺だったし」「いや、僕の方が年長なので」と謎の押し問答を繰り広げてしまったが、ひとまず無事に購入を終えた。
そうして、お茶、コーヒー、ホットレモンの温かいペットボトルを手に癖毛の彼の元に戻る。
「あの猫、これ飲み終わるまでに起きますかね?」
「どうでしょうね?猫って基本的に人間の予想を裏切る生き物だから」
「そういうもんですか。まぁ、急ぐわけじゃないからいいのかな」
いつになく小声で話しながら足を進める。時間のことも、予定のことも大した問題ではない。しかし、二つほど気になる点があったのだ。一つは、癖毛の彼が冷え性であること。地べたに座り込んでいては体が冷えていく一方だろう。そして、もう一つ。スーツの彼にとっても大事なことかもしれない。
「路地裏でおっさんが三人雁首揃えて座り込んでたら、職質されないですかね?」
そう口に出すと、隣の彼が見たこともないくらい渋い表情をしていたが、
「うーん………でも、猫がいたら、大丈夫ですよ、きっと」
と返ってきた。
そういうものなのか。猫ってすごいな。
彼の自宅にいる三匹の猫の話を聞いていると、あっという間に目的地に到着した。すると、癖毛の彼の様子がおかしいことに気付いた。体育座りのまま、両手を広げてあわあわとしている。しかし、先程のような困惑ではなく、むしろ嬉しそうな、感動しているような感じだろうか。何事かと覗き込むと、三毛猫が彼の腹を前脚で押していた。正確には彼のダウンコートに対してなのだと思われるが、リズミカルに前脚を交互に押し付けている。猫のこういう行動はなんというのだっけか。脳内で検索していると、こちらに気付いた癖毛の彼が、
「ネコ、フミフミ、シテマス!」
と小声ながらも興奮冷めやらぬ様子で見上げてきた。スーツの彼が笑顔で親指を立てているのを見るに、猫にとっては素晴らしい状況が整っているということなのだろう。
これは先が長くなりそうだな。そんなことを思いながら、冷たい地面に腰を下ろした。
完