一枚絵の中の花々 朝見た彼が、傘を持っていなかったような気がした。そして自分も、彼と同じビルの中で仕事の予定があった。そのうえたまたま、仕事が終わる時間までだいたい同じであった。だから、特にこの行為に何か深い意味があるわけではない。
けれども、たとえば彼が天気予報を見ていなかったとして。急に今になって雨が降ってきて困っていたとして、そこに自分が現れて傘を差し出したら彼は多少なりとも恩義を感じてくれるだろう。そんな予想をする自分が嫌だった。しかし、いつものことでもあった。もう慣れていた。相手の一歩、二歩先の出方を考えてから動くのは、斑にとって生きていく上で当然に必要なことだったのだ。
ロビーのソファに腰掛けて、出入り口の傘立てに視線をやると、まだそこには斑の持ってきた傘が残っていた。もしこれで誰かに持って行かれでもしていたら、最初から何もなかったのだとそのまま次の仕事場に向かうつもりだった。しかしそこに傘があったので、斑は静かにここでこはくを待つことにした。
同じ目的のために一夜、手を取り合っただけ。そのはずだったが、なんの因果かその後も彼とは顔を合わせ、手を取り合う機会があって、自分はその関係を案外気に入っている。自分と同じく出自に傷を持つ人間が背中を守ってくれるというのは、思いのほか動きやすかった。彼があまり、こちらに踏み込もうとしてこないのも心地良い。触られたくないものがある人間同士、相性は悪くないのではないだろうか。
しかし、相手もそう思っているかどうかは、斑には分からない。
遠くから聞こえた足音は二人分で、こはくは隣を歩く別の人間から折りたたみ傘を借りていた。気配を殺してソファに身をうずめていた斑は、彼らが歳相応に無邪気に話しながら通り過ぎるのをじっと待っていた。自動ドアをくぐったところで、こはくは雨脚の強さに驚いたような声を上げている。同行者が、次からは予報を見るようにと優しく諭している。
こういうものだ、とどこか納得して、斑はソファから立ち上がった。彼らがビルを出てから三十分ほど経った頃だった。次の仕事に向かうのにちょうど良い時間になっていた。
間が悪いのも、いつものことだ。肝心なときに手が届かないのも、手助けしようとした相手に自分よりも頼りになる誰かがいるのも、普通のことだ。善良な人々が普段の装いを脱ぎ捨てる祭事の場でしかその輪の中に溶け込めない斑では、誰かを助けたいとは思っても、その後も隣で、同じ歩幅で進むことはできない。そもそもこんな暗いことをぐるぐると考えているような人間を、誰も好き好んでそばに置いておきたいとは思うまい。
こはくとは、同じ目的のため、そのとき限りのつもりで手を組んだ。その間だけは互いを裏切らない、あのユニットだってそのための、ある種の契約のようなものだ。
ビニール傘を手に取ることなく、ビルの外に出た。通り雨だ。雨粒の一つさえ、もう落ちてきやしない。
*****
寝坊して、寮を出るときに急いでいたから、今朝は天気予報を見る暇がなかった。窓の外を眺めて少々憂鬱な気持ちになりつつミーティングルームを出ると、そのタイミングでスマホが振動した。
『下で待ってる』
おや、と首を傾げる。今日、こはくはオフではなかっただろうか。口を開けていたエレベーターにちょうど良く滑り込んだ。幸運なことに目当ての階以外で止まることなく一気にロビー階に到着すると、斑は小走りでエレベーターを出た。ぐるりと見回すと、ソファの背に、見慣れた桜色の頭がある。
「こはくさん!」
「おー、おつかれさん」
チェックしていたSNSの画面を閉じ、こはくがニッと笑った。
「どうしたんだあ? 君、今日はお仕事なかっただろう」
「あー、まぁ、近くまで来たし。朝、斑はんバタバタしてたやろ。傘、持ってへんのとちゃうかなっち思って」
「……わざわざ持ってきてくれたのかあ」
せっかくの休日だ。彼ももう暇を持て余すような身分ではないというのに。
斑の反応に何を思ったのか、こはくはきょとんとして「当たり前やろ」と立ち上がった。
「濡れたら嫌やん。お仕事で疲れたあとに」
帰ろ、とそのまま歩いていくこはくの後ろを、ゆっくりと追いかける。自然と笑みがこぼれた。
「……そうだよなあ。君は」
「ん? なんて?」
「いや。なんでも。それにしても、君に付き合ってると夜ふかしのくせがついちゃいそうだなあ。あんまり宵っぱりなのは感心しないぞお」
「うっ……しょうがないやん、たまたま昨日はやること溜まってて……夜は静かで捗んねん。先に寝ててくれてええっちゅうたやろ」
「寂しいことを言うなあ、お夜食を用意してあげた人間に向かって」
「や、ほんまそれはおおきに……」
大きめのビニール傘に、ばらばらと雨粒が落ちる。少しだけ二人の声が大きくなって、やがて雑踏の中に紛れていく。
なんの違和感もなく、彼らの影はごく普通の人混みの中に溶け込んでいった。