ほころびなぞりて、日々「こはくくんってさ、絶対スパダリだよ! 彼氏にしたらすごく大切にしてくれそうじゃない?」
そんな会話を、自分より二組ほど前に並んでいる女子高生たちが繰り広げている。こはくは目深にかぶった帽子の下で静かに息を潜めている。何気なくしていれば、案外気が付かれないものなのだ。
「えーっ、そうかなぁ? なんか結構厳しそうじゃない? 落ち込んでるときとかガツンと正論言ってきそう」
「そんなことしないよ! こはくくんはね、全部優しく包み込んで『そやね、そらつらかったなぁ』って慰めてくれるんだって!」
「あんたこはくくんの何を知ってるのよ」
その先の会話を聞くことはなく、こはくは手元のスマホに素早く『スパダリ』と入力した。検索結果が示す内容を読み込んでいくと、段々と黒いマスクの下は苦笑の形に変わっていく。
(高身長、高学歴、高収入、優しくて顔が良くて気が利く完璧な恋人、ね)
列が動き出したので前に並ぶ人間に続いて一歩踏み出した。女子高生たちはすでに別の話題に移っている。
と、開きっぱなしのスマホにメッセージが届いた。差出人とメッセージの開始数文字を確認して、こはくは今度こそマスクの下で苦笑いするのだった。
玄関先でただいま、と声をかけると、奥の方からそれに応える声があった。アイドル御用達のアパートからは少し距離のある場所に、最近のこはくの帰る場所がある。そう大きくはないが、セキュリティのしっかりしたアパートの一室。その奥の部屋から顔を出したのは、数年前にこはくと同じユニットで活動をしていた男である。
「おかえりなさあい☆ ご飯にする? お風呂にする? それとも……」
「それとも?」
「君の大好物の大福にするかあ?」
「ンッ……あとでいただくわ」
そう返すと、斑はくすくすと笑ってまたキッチンに引っ込んでいった。靴を脱いで、手を洗い、リビングに行くとすでに食卓の準備はほぼ整っているようだった。小鉢には、少し気の早い春の味覚が盛られている。
「つくしなんて、もう出てるんやね」
「ああ! 懇意にしてるプロデューサーさんのお母様からいただいてなあ! 佃煮風に煮てみたからぜひ試してほしい。少々オトナの味かもしれないが、」
歌うように言いながら、斑は手にした大皿からコロッケを二人分の皿に取り分けていった。なんとなく手持ち無沙汰なのでキッチンを覗いてみるが、調理と同時進行で片付けまでこなすタイプの人間の作業場はきれいなものである。
風呂も沸かしたし、今日は掃除のあとで布団も干した、仕事がなかったから買い出しにも行って、と聞いてもいないのに今日あった出来事を嬉しそうに話す斑にふんふんと相槌を打つ。
揃って挨拶をして、箸を伸ばした。かぶりついた、揚げたてのコロッケのほくほくとした甘さに目を細めていると、斑と目があった。少し得意そうに笑う彼に「おいしい」と素直に伝えると嬉しそうな「お粗末さま」が返ってきた。
こはくが長い列に並んで買ってきたプリンを開ける頃には、すっかり食卓に漂うのは団欒の空気になっている。
「今度一緒に過ごせるのは、半年後とかかもしれないからなあ」
食事を済ませ、風呂で身を清めて二人で寝転んだベッドの上。斑はそう言って、くしゃくしゃとこはくの頭を撫でた。
「来週の君のライブも見に行きたいんだが、ちょっと予定が厳しくって無理かもしれない」
「ええわ、そんなん。今ええ勢いついてるんやから、しっかり楽しんどいで」
撫でられるままに口にした言葉に、嘘はない。
こはくとのユニット活動を休止したあと、斑が泥臭く地味な仕事も選り好みせずにひたすら努力を重ねてきたことを、誰よりもこはく自身が知っている。初めて自分が実感を持って抱いたのだという『アイドルになりたい』という夢に向かって走り出した男の背中は惚れ惚れするほどに格好が良かった。この男を応援したい、その未来を一緒に見てみたいと思ったから、こはくは今でも斑の隣にいる。
「こはくさん」
「ん?」
「ん」
斑は、ばっと両腕を広げた。そしてわずかに胸をそらすようにして、もう一度「ん」と微笑んだ。
こはくはため息をついた。そうだ。嘘はない。けれども、寂しくはある。
「こんなんなぁ、どう考えてもぬしはんのがスパダリやんな」
「なんの話だあ?」
「別に」
その腕の中に飛び込むと、思い切り抱きしめられた。同じシャンプー、同じボディーソープの香りがする。それも今夜だけだ。そう思うとますます胸の底が切なくなって、こはくは斑の胸元に擦り寄った。
「これは、明日からも頑張れるハグだぞお。ママからの愛情たっぷりのなあ!」
「誰がおこちゃまじゃ」
ひとしきり笑った斑が、つんと指先でこはくの鼻をつつく。
「おこちゃま、とは見ていないんだよなあ」
「ほーん。どうだか」
「……次に会えるとき、スケジュールを調整して少し長めにお休みを取れるようにしたいと思ってるんだ。具体的に言うと、一週間くらい」
静かな声に、意味のわからぬままこくりと頷く。斑は珍しく歯切れが悪かった。しかし、話をやめるつもりはないらしい。
「だからその、君も……そのときまでに、準備しといてくれると嬉しいなあ、なんて思うわけだ」
「なにを」
「いやあ、そろそろ良いんじゃないかなあ……君だってもう、おこちゃまじゃないらしいし」
かぷ、と鼻先に優しく噛みつかれて、こはくは目を白黒させる。鮮やかな翡翠の瞳は、これまで見たことのない色をしている。
あたたかな吐息を唇に吹きかけられて、背筋が粟立った。
「……っ、そや、おこちゃま、やないっ……も、ええの?」
「うん。……うん。君、本当に我慢強いよなあ。ううん、スパダリ、か? 俺が駄目だって言ったら、こんなに一緒に暮らしてても律儀に我慢する」
同じ家に帰ってきたいとこはくが告げた日、斑はひとつだけ条件をつけた。身体の関係は持たないこと。理由を聞くのならばこの話はなかったことにすると言われて、こはくはいちもにもなく頷いたのだ。
「理由も聞かずに、ずっと。こんな俺の隣りに居たいだなんて、本当に物好きだ」
耳元で吐息とともに囁くと、斑はくしゃりと顔を歪めて笑った。
「本当に、俺でいいんだな」
気の迷いだ。勘違いだ。君は若いから。世間の常識を知らないから、俺なんかを好きだと勘違いしたんだ。
何度も、何度も斑はそんなことを言って、そのたびにこはくはそれを否定してきた。お決まりになったやり取りだったが、慣れることはなかった。いつだってこはくは、そのときどきの自分の心を覗き込んで、そこにある本心から引き出してきた想いを伝えてきた。
「おん」
だから、今夜の答えはこれだけでよい。
わけもわからず涙が溢れてきそうになるのをこらえて、滲む視界で睨みつけるように斑を見上げた。
本当に君は趣味が悪い、と嘯く口に勢い良く噛み付いて、二人の体はゆっくりとシーツに沈んでいった。