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    8kawa_8

    @8kawa_8

    🐏飼いさんを右に置く人間です。

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    8kawa_8

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    フィガレノです。文章リハビリ。北師弟がコイバナしたりする話です。私はちょっと女々しい攻と男前な受が好きです。

    #フィガレノ
    figareno.

    【フィガレノ】その三秒のためだけに「まぁまぁ、フィガロちゃん。とりあえずなんかこう、元気出して?」
    「そうそう、フィガロちゃん。何があったか知らないけど、笑っていこ?」
     空が薄雲に隠された、ほの暗い静かな夜。その日に限っては見上げた空よりも、このバーの方が多くの煌めきに満たされていた。優しく妖しい照明が、グラスや液面での乱反射が、空間を美しく飾っている。
     穏やかな表情でグラスを拭く店主の前では、一人の魔法使いが管を巻いていた。自称南の国の優しいお医者さんこと、フィガロ・ガルシアだ。彼の両脇には長寿の双子の魔法使い、スノウとホワイトが控えてその背中を優しく擦っている。
    「すまぬな、シャイロックよ。我らの愛弟子が、そなたのバーにそぐわぬ品の無い飲み方をして……」
    「あとでよくよく言い含めておく。だからここは……、我らの可愛いお顔に免じて許してちょうだい?」
    「ふふ、構いませんよ。ここは美酒のみをお行儀よく楽しむ場所でもありませんし。人にも、魔法使いにも、こうして感情を吐き出す場所は必要ですから」
     私たちみたいに長寿を生きて、甘えるよりも甘えられる方にすっかり慣れてしまった立場であれば、尚更、と。そう加えてこの場の秩序にフィガロの存在を許したのは、魔法舎のバーの支配人ことシャイロック・ベネットだ。
    「今のフィガロ様にはこちらを」
     そんな彼が大きな氷が鎮座するグラスに注いだのは、どろりと濃い黄土色の――まるで泥水のように濁りきった液体である。
    「え、なにこのヤバそうな色」
    「飲むのに勇気がいるやつじゃんね」
    「味と香りはそこそこなんですが、何に混ぜてどう薄めても、この色と見た目になってしまう不思議で難儀なお酒なんです。今のフィガロ様になら、問題なく召し上がっていただけるかと」
     酒であれば中身は問わないといった酔い方を、つまりは自棄酒を呷ることを望んでいるフィガロの存在は、このボトルを持て余している様子のシャイロックにとっては都合が良かったということだ。見た目を気にせず飲んでもらえるのだから、この酒の欠点が潰えてくれる。それにふとした拍子にフィガロがこの液体の見目を気に留めてしまって、飲酒を思いとどまったなら、それはそれで良いことなのだ。シャイロックの選択に、双子は「たしかに」と目を合わせながら頷いた。
     カランと氷の音を立てさせて、まずは一杯。ゆっくりと身を起こしたフィガロがその泥水のような液体を啜る。それから二杯目。喉ぼとけをはっきりと上下させて、嚥下した。そのまま三杯目――と。いくらなんでも進みが速すぎる飲み方に「「まてまてまて」」と双子の声が重なっていく。
    「そなた、自棄酒はいい加減になさーい!」
    「いつまでうじうじしてるの! それでも北の魔法使い?!」
    「…………」
    「ああ、もう、『南です』と突っ込んですらくれぬ。このうじうじ感、南というよりもどちらかといえば東じゃな」
    「キノコでもはえてきそうな湿度の高い陰気っぷり。まことに東じゃ。弟子に似たかの?」
     アルコールに浮かされたはずの据わった瞳で、フィガロは不機嫌そうにスノウとホワイトをそれぞれ睨みつけた。お気に入りの悪口を言われる腹立たしさには双子たちも理解がある。その場はすぐに「すまぬ、今のは言葉が過ぎた」「撤回しよう」と口を揃えた。
    「それにしても珍しいですね、フィガロ様がこのようなお姿を、私たちに見せるだなんて」
     よほどのことがあったのでしょうと。深くは訊ねない姿勢を見せて一線を引きながらも、その赤い眼差しの下にそっと隠した強い好奇心の片鱗を、ちらりとシャイロックは覗かせた。
     何かが見えた、という感覚に、北の魔法使いは非常に弱い。
     それが何であるのかが気になって、全貌を暴きたい衝動に誘われて、いとも容易く西の魔法使いの挑発であるとか誘惑であるとか、そうした類に引っかかるのだ。
     そしてそれは、今こそ南の魔法使いであることを自認しているものの、生まれと育ちは北の国であるフィガロも同じである。
     酒を含んでは、飲み干して。そればかりを続けていた唇が、新たに招いたのはバーの空気だ。飲み干したアルコールの混ざった呼気を吐き出しながら、「ちょっと、気にくわないことがあって」と口にする。こうしてシャイロックの口車に乗ることで、自分の好奇心が満たされるような錯覚を抱くのだ。
    「よければ、お聞かせ願えますか? 偉大な魔法使いであるあなた様の力になれるかはわかりませんが、悩みの種類によっては、多少の助言ができるかもしれません」
    「種類も何も、きっときみの得意とするところの分野の話だよ、シャイロック」
    「それはつまり?」
    「双子先生も好きだと思いますよ、コイバナってやつなので」
    「きゃ~!」
    「フィガロちゃんにも春が来た~!」
     とうとう孫の顔見れちゃう?! と。二人で手を合わせながら、きゃいきゃいとスノウとホワイトがはしゃいでいく。
     年頃の生娘たちのような盛り上がり方であったが、彼らの実態はシャイロックやフィガロよりもずっと年上の魔法使いだ。大きく盛り上がっては、疲れたように一瞬で元の人形のような表情を取り戻す。
    「して、誰との悩みじゃ」
    「やはりファウスト? それとも賢者?」
    「まさか大穴で我らやオズちゃん?!」
    「……どうしてか、だんだんと言いたくなくなってきちゃいましたね」
    「またまた~そんなこと言わずに~」
    「まったくもう~シャイなんだから~」
     バサリと、どこからか現れた大きな毛布がフィガロの頭上に落ちて、スノウとホワイトを含めた三人の姿をすっぽりと覆う。双子が言うには賢者の世界のコイバナとは、自分の部屋ではない場所で、皆で毛布にくるまって、話すものであるらしい。
    「修学旅行の風物詩というやつですね」と。同じ話を聞いていたシャイロックが三人の姿にそっと近寄って、パイプの煙を揺蕩わせながら呟いた。
    「ええと……それじゃあこれも、賢者様の世界ではお約束の文言らしいですが。『誰にも言いません?』」
    「魔法使いゆえ約束は出来ぬが、そなたの信用を失うような真似はせぬ」
    「我ら、まだまだフィガロちゃんのこと可愛がりたいもんね」
    「面白がって揶揄いたい、の間違いでしょう、もう。……ええと、それじゃあ、言いますけど……」
     急にまごついて掠れはじめた声は、おそらく彼の羞恥心に起因したものだろう。酒で喉が焼かれたと誤魔化しては、先ほどまでの発声を説明できなくなる。
     二千歳を遥かに超えた魔法使いに寄せる感情としては随分と微笑ましい類のものを向けつつも、双子とシャイロックは真剣な面立ちを浮かべて息をひそめる。自分たちの呼吸が、わずかな衣擦れが、フィガロの気まぐれな勇気を妨げてしまいそうだった。
    「レノ、なんです。意中の相手」
    「レノックス!」
    「ほう、意外とはいえば意外じゃが……納得といえば納得じゃの」
     双子が意外と称したのは、フィガロのような二千年も生きた北の国の大魔法使いが、魔力の弱い魔法使いに思いを寄せたという点についてだ。
     とはいえ、長寿の魔法使いたちの多くは大魔女チレッタが南の国の人間に心を奪われ、恋を成就させた姿を知っている。それを踏まえれば、特段不思議なことでもなかったし。そうなると南の国の優しい医者であろうとするフィガロと、彼が元来どのような魔法使いであるのかを知った上で共謀者の役割を担うレノックスの信頼関係の方が目に留まる。
     スノウやホワイトにとってのレノックスといえば、誠実で好ましい性格をした魔法使いであったが。魔法舎で出会ってからの短い間で、これだけの信頼を無条件に勝ち得ている男なのだ。数十回もの季節の巡りを共に感じていたフィガロにとっても同様で、かつ、思い入れも深いのだろう。ならばフィガロの抱く感情も何ら不思議ではなく、むしろ自然であるかのように思えるのだ。
    「で、あいつの返事に腹が立ったというか。ショックだったというか。なんか……ああ、俺馬鹿みたいだなと思って。さっさと振りほどいて、ここに来たんですよ」
    「差し支えなければで結構ですが。どういったお話をされてこられたんです?」
    「……レノと過ごす時間は心地よいし、おまえは俺にとって稀有な相手だから。ずっとこれからも、変わらずそばにいてほしいって」
    「熱烈!」
    「直球!」
    「でも、心に傷を負ってこちらに来られたということは。レノックスは、なんと?」
    「……『ずっと変わらずは、ちょっと』って。若干、引き気味だった」
     はあ、と。フィガロの吐き出した大きなため息が、たゆたう煙管の煙を払っていく。
     フィガロの言葉が真実であれば、まさに彼は失恋の傷を負ったばかりであるのだろう。スノウとホワイトは「「おお……」」と零すと気まずそうに眼を合わせ、それからぎゅうと、彼の細身の体を抱きしめる。
     双子の体温と大きな毛布にすっぽりと覆われたままのフィガロの瞳は、「あついですよ」という言葉と裏腹に、冷えてはいたが。同時に、どこか擽ったそうな、どん底から救い上げられている最中であるかのような、そんなぬくもりを宿しているようにも見えた。
     ――魔法使いは、何よりも自分の心に正直に生きる存在だ。
     本音を隠し、本心から目を逸らし続けては満足に精霊を従えず、魔法も使えない身体になる。その心が最も制御不能となる厄介な感情こそが、何物かに向ける愛だった。
     月に花、風に鳥。
     魔法使いは、自由に、何物にも恋心を抱いてしまう。そのくせ、恋した相手から同じ感情が返ってくるかは別問題なのだから、報われない。
    「どうして、あいつなんだろうなぁ」
    「我らとしては、信用のおける誠実な若者が相手で嬉しいがの」
    「愛しい我が子がダメ男に引っかかっては、切ないからの」
     レノは、と。フィガロの唇が薄く開き、その魔法使いの名前を呼ぶ。
     彼は一見誠実で、優しく、一途でもあって。他人の幸せを第一に考えて、他人のために動くような男だ。本当に四百年以上も生きる魔法使いなのかと訊ねそうになるくらいには、純粋で、無垢でもある。
    「だから多分『おまえが応えてくれれば俺は幸せになれる』って方向性で押せば、なし崩しになるだろうし、きっとどうにでも掌握できるんですよ。でも俺は、それをしたくなくて」
    「少し物騒な単語は聞こえたが、純愛じゃな」
    「まぁそれを行動に移さないあたり、健気な子じゃ」
    「しかし何故、レノックスはフィガロ様の言葉に難色を示したのでしょう。フィガロ様の言う通りの人物像なら、応えさえすれば、フィガロ様を幸せに出来ると。彼は分かっていそうですが」
     シャイロックの提示した疑問に、さあ、と。フィガロは肩を竦ませた。そのまま、目の前のグラスに手を伸ばす。
     レノックスは同時に自分勝手で、傲慢で、博愛の人でもあると、フィガロは続けて評していった。
     他人の幸せこそが自身の幸せなので、自己の幸福のためだけに生きている男だと。
    「俺と一緒になったら自分が幸福になれないと、悟って避けたんじゃないか」
     そしてすぐさま、フィガロは唇を引きつらせた。
     自分がこれまで自棄になって飲み干していた酒の、見目の悪さがとうとう気になってしまったらしい。口元まで運んだグラスをそのまま遠ざける様をカウンター越しに見守るシャイロックは、「私はそうとは思いませんよ」と首を振った。
     照明との角度が変わるたび、彼の黒髪の艶めきも姿を変えていく。後れ毛が微かに見え隠れする様を、北の生まれの魔法使いたちは、まるで抗えない力にでも襲われてしまったように、食い入る形で見つめていた。
    「思うに、フィガロ様にもレノックスにも、言葉が足りていなかったのではないでしょうか。私の感じる通りなら……そうですね。そう遠くないうちに、転機は訪れるかと」
    「すごいね、まるで予言みたいに物を言う」
    「本職のお二人を前にして予言を騙るだなんて、とても恐れ多いですが……。その運気が早く巡るように、恋まじないのカクテルでもお作りしましょうか」
     ハートカカオに、西のルージュベリー。合わせたのは青のガロン瓜。そうして作られたという甘酸っぱいピンクのリキュールに、注がれたのはひんやりエバーミルクだ。見るからに甘ったるくて胃もたれしそうなお酒だと笑うフィガロに「ガロン瓜は青ですし、これは植物性のミルクを使っていますから。意外とすっきり飲めると思いますよ」とシャイロックは微笑んだ。
    「ハートカカオのチョコレートには、恋を叶える力があると言われていますが。これはチョコレートではなくリキュールなので、その効果は見込めません」
    「なるほどね、だからあくまで〝まじない〟か」
    「ええ。ここで本物のチョコレートを使っては、それはもう不思議の力の管轄になりますから。フィガロ様もお嫌でしょう。ここまで真摯に相手のことを考えたというのに、相手の意志に関係なく、恋を成就させてしまうのは」
     本気でなければ違ったかもしれませんけど、ともシャイロックは付け加えた。
     タイムパフォーマンスを追い求めがちであるという自覚は十二分に抱いているため、否定も、肯定もしないまま、フィガロは口角を軽く上げる。そして普段であればきっと飲まなかっただろうアルコールへと、誘われるように唇を付けた。
     シャイロックが言う通り、甘さは勿論感じるものの、同じくらい爽やかな酸味が口の中を心地よく広がっていく。好きな味だと、ぽつりとフィガロは呟いた。心なしか表情は、少しだけ憑き物が落ちたように穏やかになっている。
    「……おぬしは諦めも早い子じゃ。だが、ここで諦めずにもう一度、レノックスと向き合ってみてはどうじゃ?」
    「そうじゃな。我らの目にも、おぬしが悲観しなくても良いように見えてならない。ここで手を離してしまっては、双方ともに不幸になるじゃろう」
    「……自分たちのことじゃないからって、好き勝手言うなぁ」
    「ほっほっほ。他人の色恋ほど面白い話題はないからの。オズよ、そなたも。この不憫な兄弟子を励ましてやってはくれぬか?」
     ホワイト、フィガロ、スノウ。三人並んだその隣に、オズも最初から座していたのだが。彼はこれまでたった一言も相槌を打たず、そして話を振られることもなく、今の今まで過ごしていた。
     突然スノウから話を振られたオズは、眉間に深い皺を寄せる。話を聞いていなかったわけではないが、ただでさえ他者との対話を苦手としているオズにとって、他人の恋の話は輪をかけて無縁の世界とも言えた。有体に言えば、興味のない話であったのだ。
    「励ます……」
    「そう深く考え込まずとも良い。そなたから見たレノックスの話を、フィガロに伝えるのじゃ」
    「できればオズちゃんに対してと、フィガロちゃんに対してで、こんなにもレノちゃんの態度が違ったよって分かるといいよね!」
    「……彼とは、先日共に酒を飲む機会があったが……」
     物静かなオズと、レノックスの交友関係に、今度は場の視線が集まっていく。
     物静かな大男二人が隣りだって酒を飲みかわす姿は、このシャイロックのバーでも何度か目撃されているものだ。
     会話が始まるまでの、どこか張り詰めた緊張感。にもかかわらず、口数の少ない男たちにとっては大層心地良いらしい、静寂の時。
     オズの言葉と言葉の間の沈黙から、二人が酒の場で醸し出す普段の空気も感じながら。フィガロも、双子も、シャイロックも、その続きをじっと待っていた。
    「共に過ごす心地良い時間が、これからも、何度も、続くのは悪くないと。そう話をしていた」
    「オズちゃん、ストーーーーーップ!!」
    「なんで?! 今この空気で言っちゃう?!」
    「さっきまでの話聞いてた?!」
    「私と、フィガロに対してで、レノックスの態度が違ったものを語れと命じたのはおまえたちだ」
    「「うーん、それはそう! 我らの話を聞いてて偉い! でも、これはちょっと違う!」」
     双子の視線が、すぐさまオズからフィガロの姿へと向き直った。少しだけ前を向き始めていた瞳からは、再び輝きが失われている。あの泥水の酒をそのまま流し込んだような、濁った色に変わっていた。
    「……ふぅん、そうか。レノのやつ、オズにはずっと一緒に居たいって、はっきり言っていたんだ」
    「あ~ん、フィガロちゃん、拗ねないで!」
    「言葉のあやというやつかもしれぬじゃろう!」
    「俺には、難色示していたのにね。ああ、嫌になっちゃうよ、もう」
     どうしてだろうと、フィガロは肩を落としていく。
     二千年以上も生きている彼だ。これまでに人間という種族を愛したことはあったし、幸福を願ったこともあったけれども。何か一つに、誰か一人に、特別な執着を向けたことなど一度もなかった。
     独りぼっちで死なないために、愛されたいと願いはじめて。誰ならば、その愛を自分に向けてくれるのだろうと必死に悩んで。多くの人々に自分の愛情の種を撒いては、これではない、きっと違うと、切り離してきた。
     見込みがなければ、さっさと退く。それはフィガロが長い人生を生きるうちで学んだ、試行回数を増やし、最適解に素早く辿り着くための、効率の良い方法のひとつだ。ファウストにはアレクがいるのだと知ってしまった、四百年前と同じように。オズにはアーサーが天命だったのだと、打ちひしがれてしまった十数年前と同じように。自身の生命の終わりが見え始めていたフィガロは、レノックスに対してだってそうするべきであったのだ。
     火を消す方法は簡単だ。火種を抱えて燻ぶる薪木を覆い隠して、酸素をすべて奪ってしまえばいい。感情に、蓋をして。ほとぼりが冷めてから、もう一度向き合う。そうすれば浮かれていた過去が、単なる思い出として切り離される。
     だというのに今のフィガロは、何に対して膨れ上がっているのかさえもが見当つかない、出土不明の悔しさが心の内側から湧きあがるばかりで。何一つ、いつも通りに、体と心が動かないままで。心は変わらず、レノックスへと矛先を向けたまま変わらない。
    「諦められないのが、本当に、嫌になる」
     こんなことは、フィガロの人生において初めてのことであった。
    「フィガロや」
    「泣くでない」
    「泣いていませんし、勝手に泣いたことにしないでください……」
     それでもちょっと、胸が痛い。そうフィガロが自覚をした瞬間だった。
     カタンと、バーの扉が音を立てる。何千年もの付き合いのある顔ぶれで集まってはいたものの、今宵のシャイロックのバーは決して貸し切りの状態ではなかった。誰だって、ここから出ていけるし。誰だって、ここに入っていける。それはこの話の渦中の魔法使いだって同じことだ。
    「レノックス……」
     フィガロが口にしたのは、今最も会いたくなくて、いつだって顔を合わせたいと願っている、そんな男の名前だ。視力を眼鏡で補っている男はバーの中を見渡そうとして、すぐにフィガロの声が聞こえた方角へと視線を向けた。
     強い意志を秘めた苛烈な緋色と目が合って、途端にフィガロは居た堪れないような、ばつの悪いような、この場から立ち去りたいという弱気な心に襲われる。とはいっても、彼の両腕にはいまだに双子がぴったりとくっついていたし。バーの出入り口にはレノックスが立っていたので、それは、難しいことであったが。
    「ああ、こちらにいらっしゃったのですね、フィガロ様。あなたを探しておりました」
    「探すって……何のために? 俺の南の国の先生ごっこの、暇でも貰いにきた?」
    「……暇を、俺に取ってもらいたいんですか?」
    「嫌な聞き方をするね。おまえが欲しいんじゃないのか、俺と距離を置くためのそれらしい口実をさ」
     きょとんと、レノックスが目を丸める。フィガロからすれば、重苦しい感情をぶつけられたレノックスが自分を避けるだろう理由はあっても、自身とこれまで通り平然と付き合う理由はないと思うのだが。レノックス本人はどうにも違う様子だ。
    「ええと……すみません。フィガロ様は今、どうして、こんな状況に?」
     フィガロの事情を露とも知らないと言いたげに、困惑の表情を見せている。そのフィガロの両脇では双子たちが、「今は気が立っているから」「ちょっと後ろ向きうじうじネガティブモードだから」と、必死にレノックスへのフォローを告げていた。
    「……暇は要りませんが、フィガロ様と少しお話をしたいんです。お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
    「なら、私たちは席を外しましょうか?」
    「ああ、いや。込み入った話では……ないわけでは、ないかもしれないが。でも、人に聞かれるのは構わないし。聞かれた方が、都合がよいかもしれない。言った言わないの押し問答がなくなるから……」
    「それではせめて、バーの鍵だけでも。きっと大切な話をされるのでしょう、勇気の出るカクテルも一つ、ご馳走させてくださいな」
     呪文を唱えながら、シャイロックが煙管の煙を揺蕩わせる。
     仄かに桃色の煌めきの乗ったそれが帯のように伸びて、扉の細い隙間に入り込み、消えていく。開店を知らせていた看板が、閉店を知らせる文字に化粧替えを済ませたのだろう。カチャリと、鍵のかかる音が聞こえた。
     そしてホワイトが立ち上がると、その椅子をレノックスへと譲る。代わりに彼はスノウの背後に立って、じっと二人でレノックスたちの姿を見上げていた。
    「それで、話って何?」
    「先ほどの件についてです。おそらく俺の態度は、誤解を招くものだったと思ったので……」
    「……つまりレノは、傷ついた俺を優しく慰めにきたってわけだ?」
    「慰め……? 酔っていらっしゃるんですか、なんだかいつもより面倒くさいな……」
     好きで、面倒な性格になっているわけではなかったし。これは彼の心を守るための、立派な正当防衛であったのだから。レノックスが零した言葉に、フィガロは無性に腹立たしくなった。誰が好き好んで、二度も、わざわざ丁寧に、断りの返事を受け入れるというのだろうか。
     拒絶を告げるわけではないとしても、一度は全く脈がないと感じたレノックスの言動だ。今更手のひらを返したような言葉をくれたって、それはフィガロへの配慮の結果ではないかと、本心との乖離を疑ってしまう。
     どうしたって幸せにはなれないシミュレーションの結果を前に、「聞きたくないんだ」とフィガロは吐き捨てるように、口を開く。
    「それは困りました。俺はどうしても、フィガロ様に話を聞いていただきたいので……」
     しかしレノックスは、折れない男だ。
     ちょっとやそっとではへこたれない、中央の国出身らしい胆力の持ち主である。諦めの早いフィガロにとってはどうにも相性が悪く、分の弱い相手でもある。
    「でも、フィガロ様のお気持ちも分かります。察しの良いあなた様なら分かるでしょう、きっとこれが俺たちの関係を壊す時間になるだろうと」
    「もうその前から、壊れていたけどね」
    「……そうでしたか?」
    「どうしてそんなに、とぼけるんだ。……でもいいよ、聞いてあげる。きみはどう、申し開きをしたいんだ?」
    「申し開き……とは、違いますが。ご自身の都合の良いところだけ、あなたに聞き入れてもらえれば。それで十分です」
     レノックスの眼前に、シャイロックの作った〝勇気の出る〟カクテルが差し出される。フィガロの飲んでいたカクテルとよく似た桃色の液からは、ほのかに薔薇の香りが立ち込めていた。
     それを一気にレノックスは呷ると、フィガロに向かい、こう切り出した。
    「フィガロ様、先ほどは空気を害して申し訳ありませんでした。……俺は先ほど咄嗟に出てしまった態度のように、あなたが望むような形で、変わることなく、いつまでもあなたのそばにいることは、できないと思います」
    「……そう」
    「なにせ……友人では、嫌なので。俺は……それ以外の形で、フィガロ様のお傍に……いいえ、隣に、ずっと置いて欲しいと、願っています」
    「……え、あ、う、うん?」
     次に瞳を丸めたのは、フィガロの方だった。
     双子は口元に手を当てて、頬を赤らめ瞳を煌めかす。シャイロックが浮かべるのは穏やかで微笑ましさに満ち満ちた表情で。一方オズはこの場のすべてに興味関心を持たないまま、手元の氷割の酒にゆっくりと口を付けていた。
     レノックスの言葉は、まるで。フィガロとレノックスの間に、大きな言葉の掛け違いがあっただけで。同じ夢を語っているように聞こえてしまうのだ。
    「すみません、あなたはきっと純粋な友人として、俺のことを評価してくださっていたのに。俺は、それを踏みにじるようなことを願って、口にしようとしています」
    「れ、レノ」
    「それでも、ずっとは耐えられないだろうから、言わせてください。フィガロ様、俺は、あなたが……」
    「ッ、《ポッシデオ》!」
     フィガロの唇から呪文が放たれると、レノックスの体が大きく揺れる。言葉が中途半端な位置で途切れ、その上半身がカウンターの机に伏せられた。
     頬に、西のルージュベリーの赤とも、北のルージュベリーの紫とも見えるような、様々な色を乗せながら。「シャイロック」と、フィガロは咎めるように口を開く。
    「レノに出した酒にさ、おしゃべりなローズを入れただろう」
    「おや、バレてしまいましたか」
    「不思議の力の影響を、避けていた店主の仕業とは思えないよ」
    「ハートカカオのチョコレートと違って、この薔薇には誰彼構わず恋愛感情を抱かせるような効能なんてありませんから。その方の抱える愛情を、言葉に出すまでの葛藤を和らげる。ただ、それだけの作用です」
     愛されていましたね、と。シャイロックが微笑んだ。
     フィガロが少し視線を逸らせば、同じような生温い笑みを浮かべた双子の魔法使いたちと、合いも変わらず好奇心の欠片も持たない弟弟子の姿が視界に映る。
    「なるほど、肝心なことを相手に言っておらんかったのか」
    「シャイロックの恋の予言は、我らに引けを取らぬのかもしれんな」
     居た堪れなさで更に視線を外そうと逆を向けば。そこには自身の魔法で眠りについた、レノックスの姿があった。
    「まじないの効果も、てきめんでしたでしょう?」
    「ごめん、ちょっと……黙っててもらっていいかな」
     嬉しいんだけど、と。大きな手の平で目元を覆ったままフィガロが小さく零していく。
     芽を摘むはずで、摘めなかった感情が、そのまま苗木になって大きく育つことを許されて。体と、心が、軽くなって。あと一歩を踏み出せば、生身の姿のまま、どこまでも飛んでいけそうな心地がした。
     その踏み出し方を、フィガロはちゃんと知っている。だからこそ、自分の手で成し遂げなければならないのだと、そう思った。
    「……目を覚ましたら、俺から言うよ、レノ」
     きみを愛しているという、語るに三秒も必要としない短い言葉を。
     誰かに、一人に、注いで囁く勇気を持つ。そんな日をフィガロが迎えるまでに、気が付けば二千年もの月日が経っていた。
     

     
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