楽しいお喋り 新居での二人暮らしが始まって早三週間。揃って食べる夕食の時間はまだまだ新鮮で楽しい。
百貨店勤めの鯉登が遅番で帰宅が遅い日は、月島が夕飯作りを担当している。二人とも同じくらいの帰宅になれば一緒に作るし、鯉登が休みの日は夕飯をバッチリ仕込み玄関先で「お疲れ様♡」のハグをするのが定着してきている。
「でな、そしたらそのネコさんが」
今は、鯉登が茶碗を持ったまま、勤め先裏手の休憩スペースに最近出入りする地域猫の話をしているところだ。勿論口の中のものは飲み込んだ後だが、箸も動かずお喋りが止まらないでいる。しょうがない。スタッフ間で噂には聞いていたものの、なかなかお目に掛かれなかった猫とやっと出会えたという話なのだから。
「あぁやっと会えたと思って感動してたら、スルスル~って塀の上をな」
ついさっきまで美味しい美味しいとモリモリ食事していた口が、聞いて聞いてと一日の出来事を表現豊かに伝えてくる。猫に会えてパッと輝かせた笑顔も、あっという間に逃げられて残念そうに下げた眉も、きっとその時と違わず今しがた月島に見せたとおりのものだったろう。情感こもった話しぶりはその場に居合わせたように感じるほどで、月島は目を細めてそれを見つめた。
その視線にハッとして、鯉登が「行儀が悪かったな…ごめんなさい」と頭垂れる。ころころ変わる表情に見惚れた視線を、暗に咎めたものだと思ったらしい。
「あっ! 違うんです。可愛いなって眺めてました」
察した月島が慌てて否定すると、鯉登は黙って頷く。
「ん……良かった。でも、ご飯中に喋りすぎたな」
ごめんなさいともう一度軽く頭を下げ謝って、控えめにおかずを口に運ぶ。だいぶしょんぼりとしているので、月島は気にしなくていいのにと、見せつけるように大皿の回鍋肉を掬って茶碗の白飯にのせる。さっきまで鯉登が美味しいと頬張っていた月島手製の中華メシだ。
「鯉登さんがモリモリ食事してるのも、沢山お喋りしてるのも見られて眼福です」
問題ないというように、月島が大きく口を開けておかずごと白米をかきこむ。
「ん! ふまい!」
口をもごもごさせながら「美味い」と言うと、それに鯉登が吹き出し笑顔が戻った。
「ハハ、ちょっと」
「お行儀悪かったですかね」
「や、それはお行儀っていうか、フフ。……んもう、月島さんはオイに甘かな〜」
「ンフッ」
「あっ、また月島さんの好きな『もう!』を出してしもた。ウフフ、知らんうちに大盤振る舞いしてしもたな」
「ハハハッ、はい。ありがとうございます」
美味しいご飯と、笑顔と、愛情。今夜もこの家の食卓は和やかなものとなった。
食べ終わったあとの片付けは、食器洗いとそれを拭く係を代わりばんこで回している。
この時間も、新しくできた二人のお気に入りのルーティンだ。
「今までは一人分だったから気にならなかったけど、食器洗い乾燥機ってあった方がいいですかね」
鯉登から洗った皿を受け取りながら、そういえばと月島が問いかける。元々洗い物は食器かごに置いたままの自然乾燥派の彼は、引っ越し当日の共同作業が思いの外楽しかったこともあり、こうして鯉登に倣った後片付けを続けている。
「ん? 別にこれくらいの家事なんともないぞ」
この作業が好きそうだったのにと、その口ぶりを不思議に思って鯉登が返す。渡された最後の器を渋い顔で拭きながら、月島が左右に首を振った。
「でも、鯉登さんの手が荒れたらとか考えると。俺のはどうなってもいいんで、やっぱりこれからは俺が洗いますよ」
「はあ? オイが月島さんの手が好きって知っちょってそげんこっゆとな!」
「え、なんかごめんなさい」
楽しい空気が一変するほど、鯉登が珍しく語気を強める。その勢いに圧倒されて、月島は反射で謝ってしまった。
「わかったらいい! 洗う、拭くの順番こはこれまで通り! わかった?」
鯉登にぎゅううと握りしめられているスポンジから泡がボタボタ落ちていく。可愛いからと鯉登が買ったペンギンの形をしたスポンジが拳の中で小さくなっている。それをちらっと見て、すぐに月島は「わかりました」と引き下がった。
「月島さんは時々そうやって自分を低く見積もるからダメだ。オイは月島さんの全部が好きだけど、そこは直さないとダメだなっ」
プリプリと口で怒りながらも、潰れたペンギンの形を整えながらスポンジラックに戻した優しい手付きに月島はホッとする。
──致命傷になるほどは怒らせてはないみたいだ。
自分のことより恋人優先の月島の思考が、稀にこうして鯉登を怒らせてしまうことがある。遠慮と思いやりは違うことも、それでこじれることも秋のすれ違いで学んではいるが、さっきの思いやりが鯉登を怒らせてしまったのだから難しい。月島はそう考えながら、どうしたものかと頭を掻いた。
「……何?」
濡れた手を拭きながら鯉登が聞くと、月島が「また怒らせたらごめんなさい」と前置きして続ける。
「……怒られてるのに、それと同じくらい愛されてるのも伝わってどんな顔したらいいかわからないです」
正直、怒る鯉登もその理由も可愛い。でもそれを言ったらまた怒られそうだ。でも本当は、こんな風に怒られるのもやぶさかではない。駄目だけど。
そんな考えも一緒に巡るので、ますます振る舞いが分からなくなって困ってしまう。
「ん〜? ん〜そうだなあ」
一歩鯉登が距離を詰めて月島の顔を覗き込む。美しい顔が真正面にきて、一瞬体が強張ってしまった。
「そうだな……とりあえず、ちゅーしてみたらいいんじゃないかな」
美しい顔が、年相応の柔さを纏って甘えだす。上目遣いでそう言われて思わず大声がでた。
「かっ、わっ、いっ、いっ!」
「わっ声おっきい」
抱き寄せて唇を重ねる直前、鯉登の嬉しそうな微笑みを見て月島はまたホッとした。
──俺のことが好きだから怒ってる、で間違ってなかったんだな。
真っ直ぐに愛されすぎて、時々夢かと思う。鯉登相手だと、これまでの経験則が当てにならない。一緒に暮らしだしてから、まだ見せられていなかった素の自分がポロポロ出てきて、その度に月島は「今のは大丈夫だったか」「嫌がられてないか」とソワソワハラハラしてしまうのだ。
「なんか、すっごく甘えてしまった」
今夜は鯉登のベッドで一緒に眠る。明日、早番勤務の鯉登が月島のベッドでうっかり『催さないため』だ。最初のうちはこの自制がお互い効かなくて、あわや大遅刻……という慌ただしい朝を何度か経験している。よろしく頼まれたのにと鯉登家の顔を思い浮かべ猛省した月島は、毎回理性を総動員させてこういった夜を乗り越えている。
手を繋いで、おやすみなさいの前の軽いお喋り。灯りを消した部屋の中、ぽしょ、ぽしょ、とまどろんだ声が行き来する。
「うん?」
空いたもう片方の手で鯉登の頭を撫でつつ月島が受けた。鯉登はうとうとしながら言葉を続ける。
「こんなにプンプン怒ってたら、呆れて嫌われしまう」
キッチンでのことを言っているのかと気が付いて、月島はその手を背中に回してポン……ポン……とゆっくり目に叩いていく。
「鯉登さんが俺に感情豊かなの嬉しいですけどね」
「ん〜また甘やかしちょ……。だらしなかったり、我儘ゆったり、甘えんぼしたり……」
月島は、売り場に凛と立つ姿も、不快に感じた相手へ見せる顔も、家族の中で伸び伸びと愛される彼も知っている。恋人として知っていた彼の顔に、一緒に暮らしだしてから一層気安くなった顔が加わり始めている。それがどれだけ嬉しいか。
「我儘も甘えん坊もプンプンしてるとこも、全部可愛い。ますます好きになります」
──そんなこと言ったら俺だって。
気付いてないだけで、もうとっくにダサいところを見せているかもしれない。やっぱりおじさんなんだなとか、思ったより頼れないかもとか。
月島はそう考えながら、愛しい恋人の額に口付ける。半分夢の中にいるようなとろんとした瞳が、なだらかなカーブになる。
「ンフ、よかにせどん……すいちょっど……おやすみ」
長い睫毛が幕のように下がって、とうとう鯉登の瞳を隠してしまう。スー……と静かな寝息が愛しくて、月島がまた額に口付けた。
「おはよお」
「……おはようございます」
アラームで目を覚ますと、すぐそこに可愛い顔があったので月島は驚いた。まだ慣れずにいちいち感動してしまう。
「目覚めてすぐに鯉登さんの顔があるの、夢みたいで意味わかんないですね」
「オイも、起きてすぐ月島さんから褒められるのクセになって大変。顔も洗ってないのにこんな近くで見つめてしまうごとなった」
んーっと起き抜けのキスを交わしてハグ。毎朝のベッドで繰り返されるこれは、一日のスタートに欠かせないものとなっている。一か月も経たないうちに、色んな動きや会話が自分たちの生活において必要不可欠なものとなっている。
「おひげ、伸びてきたね」
嬉しそうに鯉登が、月島の整えた髭横の肌を人差し指でつつく。いつもデート前に気を付けていた箇所も、一緒に暮らしてしまえば知られてしまう。
「鯉登さんの寝ぐせも可愛い」
「ん~もう、こんなんも可愛いって言うから見せてしまうごつなったぁ」
いつも綺麗に決まっていたヘアスタイルも、朝は人並みに乱れることも最近知った。ぴょこっと外に向いた襟足が、恥ずかしがって身を捩る鯉登の動きに連動して揺れる。そんな平和で微笑ましい姿を、月島は顎下を撫でながら眺めた。
ひとしきり悶えた後、「あーあ」と体いっぱいに伸びをして、また月島の体に巻き付くように鯉登が抱きつく。
「時々失敗したかもって思うけど、こうやって素を見せてるのどんどん特別になる感じでいいな」
恋人同士よりちょっと深い関係。カッコいいところや気を付けているところとは違う自分を見せたり、相手のそういった一面を見たり。
「家族とか、夫婦とか、そんな感じになりたい」
鯉登が月島の手に自分の指を絡めて顎にキスをする。
起床から数分で熱烈に愛を囁かれて、その濃密さや真っ直ぐさに月島は目を瞬かせる。言われたことをゆっくり咀嚼して、遅れて胸がいっぱいになっていく。
「そうなりますよ。俺たちですもん」
自信満々に言って返すと、可愛い笑い声が部屋に転がり広がった。月島がその唇に吸い付いて起き上がる。素を見せて幻滅されないか、なんて杞憂だったかもしれない。鯉登の前向きな思考に心が浮き上がる。
窓から入る春の光が、ますます想いを後押ししてくれる。自分たちは、想いや言葉を贈り合ってきたのだから。
「今日は何のお話ししましょうか」
二人暮らしの、いつもの朝。
まずは洗面台へと、軽やかな足取りで連れだった。
おわり