龍の逆鱗 敷布団の足元近くに、爪ほどの赤い雫が見えた。この頃の寒さだ、鯉登の足にあかぎれでもあったのだろうか。冴えた肌は心配でより青ざめ、尾形は手を伸ばす。
だが血と見紛ったのは一片の鱗であった。美しい緋色の地にひとすじ墨が流れ、部屋に薄くさす朝日へ透かせば縁が銀とも金ともつかぬ色で輝いた。
先ず血でないことに尾形は安堵する。しかし、この鱗はなんだろう。虫の羽ならまだしも、偶然部屋に在るものではない。そのうち顔を洗いに行った鯉登が戻ってきた。
「どうかしたのか?」
「いや、此処に鱗が落ちていた。」
「――鱗?」
さ、と鯉登の顔が強張り、その場へしゃがみ込んだ。何事かと尾形はすかさず一歩踏み込む。
「あ、嫌だ……。」
鯉登は子供の泣きだすような声で言った。身を縮めたのは己の脚を触る為で、踝の上を撫でた手が離れると、尾形の拾ったのと同じような鱗が二、三、皮膚と連なり、鯉登の肌となっていた。
聞けば、幼少の頃から時々あったのだと言う。昨夜まで何も無かった皮膚の一部が突然鱗に変わり、しばらくすると剥がれ、元通りになる。「蕁麻疹のようなものだ。何処へ出るか分からないし、何処にでも出る。」鯉登は寝巻の裾から両脚を零し、鱗の在る側を上にして横座りした。丹念に磨かれた鼈甲のような艶やかな肌に緋色は鮮やかで、遠目には裂けて肉が見えているようでどきりとする。
「緋写りというの。」
曰く、家系だと。鯉登の家に生まれた者は直系も遠縁も皆鱗が出る。鱗は人それぞれで、錦鯉の品種にあやかり鱗を評した。鱗は地が緋かと思ったが、緋写りは黒地に緋色の種だそうだ。
「兄は、それは美しい紅白だった。夜光貝のような地に私のよりも数段鮮やかな紅色が綺麗で、そのまま漆器へ着ければ螺鈿になるのではないかと言われていた。」
微笑を俯かせ、指先で緋の鱗を撫でる。
「触れて痛くはないのか。」
「無理に引っ張れば痛いし、ずっと触れていたら熱くて沁みるけれど、少し撫でるくらいなら平気。それよりも、これが出ると乾くの。夏ならまだ汗で潤うけれど、今時分だと寒くて汗どころではないし、服で擦れて一層乾いてひりひりする。手や首なら濡らした手巾で潤せるけれど、こんな所、外でどうしよう……。」
「今日は具合が悪くて行けぬと言えばいいだろう。」
「月島に、鱗が痛いからしばらく休むと言えばいい?」
鯉登はころころと笑い、やがて首を振った。「手巾をうんと濡らして当てて、油紙が有ったろう、あれを重ねておく。」「そんなもので凌げるのか。」「やってみなければ分からないけれど……」鯉登は物言いたげな目を尾形へ向けた。
「余程酷くならない限り、尾形の他へ、鱗を見せたくない。」
愛しい片意地に、尾形は顔を変えず「そうか」と低く返した。そして、掌へ乗せた、鯉登から離れた一片の鱗を見やる。
「するとこれも潤してやっていた方が良いのか。」
「――それは……確かに乾くと色が濁るけれど、でも、」
「兄君が螺鈿ならお前のこれは赤漆か宝石珊瑚だ。美しいものは、美しいままにしておきたい。」
すると鯉登は仄かに頬を染めて「そう」と小さく返した。
かつて手当に使ったガーゼの残りを湿らせ、絞らないまま鱗へ当てた。尾形は冷たくないかと案じたが、鱗の出た時は、不思議と全身の肌が湯を厭い水を喜ぶのだと言う。
「だから今日は風呂を沸かさずにおいて。あんまり氷水では辛いけれど。」
「ああ。耐え切れなきゃ月島に泣きついて帰ってきな。」
「そうしたくないなぁ。」
油紙を被せたのを包帯で巻いて、あとは普段通りに制服を纏って出て行った。横顔はいつもよりも頼りなく心細さが滲んでいた。士官してから鱗が出たことはあったのか、学校時代はどうだったのか、もう少し話を聞いてやればよかったと思ったが後の祭りだ。
残りのガーゼを湿らせて剥がれた鱗をそこへ置いた。白と緋の比はなるほど美しかった。そしてそう思ってしまったことが鯉登を酷く傷つけたと、尾形の内に罪悪感が生まれた。本人へ伝えたか否かの話ではない。鯉登の心へ残った傷を知った上で重ねたことが罪だ。墨染のガーゼというものは聞いたことがないが、ないのなら何でも構わぬから黒の端切れを買ってこよう。黒地に緋の鱗が俺には一等美しいのだと鯉登へ示してやらねばならない。尾形にはそれが、愛するということだった。
戻ってきた鯉登は殆ど泣きべその体だった。迎えに出た尾形と目が合うとか細い声で「いたい」と言う。
「剥がれたのか。」
「増えたの。」
鯉登は袖をまくり右手首を晒す。墨と緋が半々で染まった鱗が、三つ四つ並んでいた。鯉登はいかにも悲しく辛そうな顔をして自分の体へ視線を落とす。
「脇腹と、腰も……こっちの脚にもある気がする。」
「風呂は水を張ってある。歩けるか。」
「歩けるけれど服が擦れて本当に痛いの。此処で脱いでしまってもいい?」
「ああ脱いじまえ、他はどうだ、何か欲しいものはあるか。」
案じてあれこれ尋ねれば鯉登は「へいき」とやっと表情を緩めた。脱いだコートを受け取り、鯉登が上を脱ぐ間に、尾形は屈んで、脚絆を外すのを手伝ってやる。ひとつ、ひとつ、衣を落とすのが、蓮の花の朽ちるようだった。
朝の脚を解くと中のガーゼはまだ少しだけ水分が残っていた。反対の脚は太腿の面に、腰は褌の指二つほど上に、脇腹は刀傷のやや下に。いずれも二つ、三つだが、この広がりようだ。蕁麻疹と言うのも分かる。一つきり、左の鎖骨の下にも出来ていた。
「此処にも」
尾形は手を伸ばしかけ、指が熱くて沁みたら可哀想だと鱗の傍を微かに爪で掻いてすぐに離した。鯉登の唇から、ため息が漏れる。物憂いその顔が、けれど尾形を見て悪戯に微笑んだ。
「歩けるけれど、抱いてくれる?」
「……触れて痛くないのか。」
「平気。」
それで、自分の服が擦れては痛かろうと尾形は腕まくりをして鯉登を抱き上げて風呂場へ運んだ。しんと冷えた風呂場の、湯船の静かな水面に鯉登は手を浸す。「うん、丁度いい。」足からそうっと入ると肩まで浸かって、両手で掬った水で顔を拭い、仰いで息を吐いた。
「ああ、落ち着いた……」
心底漏れた言葉に尾形も胸を撫でる。そこで風呂場を出れば良かったのだが、なんとなく出そびれて、洗い場へ腰を下ろしたまま潤って輝く鯉登の鱗を眺めていた。
「こんなに広がるなんて。明日はどうしよう……」
「滅多にないのか。」
「十の時に一度。あの時は顔にも出て、私このまま鯉になってしまうんじゃないかって怖かった。」
鯉登は昔話に目を細める。尾形は右手を湯船へ入れた。ただの人間に、水は冬のまま冷たい。指を伸ばして、鎖骨の鱗に怖々触れた。鯉登は痛いと言わなかった。
「じゃあ此の度は龍にでもなるかな。」
軽口に、鯉登はくすくす笑った。水に浸けた手を上げて顔に触れる。頬の傷を親指でなぞる。
「冷たくない?」
「お前の肌に沁みるよりは俺の指が冷えて痺れる方がいい。」
「そんなこと言って。尾形の手が荒れたら私が困るのに。」
言いながら尾形の掌へ頬を擦り寄せた。「がさがさして、触れて痛いのは嫌だ」そんな風に甘える。水風呂に汗をかかずさらさらしたままの黒髪を、人差し指で跳ねた。
しばらくそうしていたが、己の手に熱が戻りつつあるように思え、尾形は手を離そうとする。別れの気配に鯉登はひとつ瞬きして、尾形の手をそっと握ると、自分の喉元に触れさせた。
「この辺りにあるの。」
「何が。」
「龍の逆鱗。」
最たる無垢だからこそ蠱惑する妖しさを孕んで、ふふ、と綻ぶ。
「逆鱗はきっと心のことだ。興味本位で触られたら誰だって怒る。言葉を産むところの傍へあって、好きな人に撫でられるとくすぐったくて、少し痛い。触れて怒られやしないかびくびくするのも、私みたいに触れて、知って、と曝け出すのも、心と同じだろう?」
重ねた尾形の手に自分の喉仏をなぞらせ、鯉登は尾形をまっすぐ見つめて問う。
「あげようか?」
鯉登の喉はなめらかな肌だ。燃えるような緋と輝くような墨の混ざった鱗が、ひとつ、ある様を描く。力任せに剥がす痛みに鯉登は泣いて、喉には血が滴るだろう。
きっと今だって熱くて沁みていると、尾形は指を反らせて肌から離した。
「無理にしたら痛いんだろう。」
「うん、でも尾形ならいいの。」
「態々痛ませる趣味はねぇよ。」
「剥がれるまで待ってくれるの。剥がれたら、私の捨てた、昔の心になってしまうのに?」
じっと尾形の答えを待って、返らないのを知って、鯉登は手を離してやって笑った。
「ごめん。尾形が私にとびきり優しいって知っているから意地悪した。」
そして独り言めいて零す。「誰より私の為に怒って、私が泣かないようにしてくれるもの、ね。」当然だった。それが尾形にとって愛することだった。
他の誰より尊ぶことが愛だった。決して傷付けず受け入れることが愛だった。抱きしめて腕の中で守ることが愛だった。そうして欲しかったから皆そうだと思った。
だから痛みも悲しみも尾形ならいいと言う鯉登の真意はよく分からなかった。最も遠ざけたいものをどうして欲しがるのかと思った。
いつか誰かに鱗を明かす日は来てしまうから出来る限り長く尾形と自分だけの秘密にしたい気持ちも、どうせ痛くて泣くなら他の誰かの前より尾形の前が良いという気持ちも、どれだけ痛い思いをしてもいいから尾形に持っていてもらいたいと願うのも、鯉登ははっきりと言葉にできなかったから、尾形には分かる筈も無かった。
「安心して。鯉登の人間で龍に変わった者の話は聞いたことがない。もし有ったなら、私は成れなかった出来損ないだって笑われてしまう。」
「その言い方だと鯉に変わった人間は居たのか?」
鯉登は答えずに笑い、不意に頭までとぷんと沈んだ。「おいっ」まさか、と焦る尾形をからかうように鯉登はすぐ顔を出す。
「鯉になってしまったとしても今は怖くないの。水の中なら泣いたって見つからないもの。魚は泣いても誰にも気づいてもらえないから悲しいという気持ちを捨てたのかしら。なのに人間になったら思い出してしまうなんて、進化なんて本末転倒ね。」
鯉登は頭から濡れていたから、それが正しい笑顔なのか、尾形に判別できなかった。