尾鯉ドロライ第3回『滴る』 旭川で暮らして、軍人に見つかるなというのは無理な話だ。況してや街の外れに隠れているのではなく堂々と『少尉殿』の家に住んでいるのだから。顔見知りの多くはおそらく死んだが、憎らしい父親似の面から、見知らぬ者にさえ推察される可能性は十二分にある。
あの二十七聯隊の鯉登は脱走兵を下男で置いているらしい。
その下男というのもどうやら例の花沢閣下の妾腹のようだ。
誰かが囁いたら終いだ。人が死ぬのは容易いが、一度流れた噂は不死身に等しい。そしてそれは最悪の頃合いで鯉登の足元をすくいに来る。
故に表を二人並んで歩くなど以ての外――だと言うのに、鯉登は小さく、幼く、それを強請る。
偶には外へ食べに行かないか、だとか、買い物ついでに散歩をしよう、だとか。尾形を見つめ、薄い寂しさを透かせて笑う。
きっと罪滅ぼしなのだろう。何処へも行ける筈の尾形を、会いたくない者だらけの旭川に留めていることへの。人目を避け、半ば家に引きこもらせていることへの。何も気にせず好きなように外出して良い、二人で居ても構わない。そう振る舞うことで、鯉登は罪悪感を濯いでいる。
だから尾形はその度に、俺はこの暮らしに不自由していないのだからお前は態々自分の首を絞めるようなことをするな、と説く。すると鯉登は決まって悲しそうに俯くのだ。尾形の言う方が真っ当であっても、毎度毎度泣かせる寸前の罪を負わされれば、流石に尾形も堪える。
晴天の真昼間でなければ、時々は。
そんな折衷案でようやく落ち着いた。必然外出は夕方から夜にかけての僅かな時間だが、それでも鯉登は、尾形の隣を歩き、他愛ない話をして、心から喜んでいた。尾形は道中誰かに見つかりやしないかと気が気ではないが、それでも月明かりに鯉登の笑顔を見ると、何か救われたような、言い表しがたい柔らかな気持ちがした。
この日も束の間の楽しみになる筈だったが、折からの強い風があちこちから雲を寄せてきた。分厚く固まった雲は雨粒ひとつ零すが早いかあっという間に夕立をおこし、尾形は咄嗟に鯉登の手を掴むと路地裏へ駆けて、店と店の細い間で軒下を借りた。
「止むかな」
鯉登はさっきまで居た通りを窺い見る。
「どうせ通り雨だ。止みはしなくても、直に歩ける程度の小降りになる。暫く辛抱しな」
鯉登は「うん」と大人しく頷くと、左手で髪についた雫を払った。その仕草を見て、尾形は自分が鯉登の手を掴んだままなのに気付く。
すぐに手を離すが、鯉登ははっとして、尾形へ囁くように強請った。
「雨宿りの間だけでいいから、手を繋いでいるのは駄目?」
尾形は片眉を顰めた。往来を行くのは雨に駆け足の者ばかりで、敢えて路地に目をやりはしないだろう。もし偶々覗いても手前にある鯉登の体が影になってすぐにそうとは気付かない。
それでも尾形には万一誰かがという躊躇いがあったが、答えてもらえぬ鯉登の顔が次第に悲しく曇ってくるから、仕方なく手を繋いでやった。途端鯉登の顔は晴れ、ほのかに色づいた頬は緩み、手を返すと尾形の手をそっと握り返した。
建物と建物の間は風も遮られているが、降る量が多いせいなのか、ひと粒、ふた粒、雨は軒を越えて、尾形の手の甲から鯉登の親指へ伝った。ほんの小さな粒なのに確かに濡れて僅かに冷える。
尾形は一旦繋ぐ手を解し、鯉登へ拳を握らせるようにして、その上に自分の手を被せた。じゃんけんの石を紙が包むような格好だ。鯉登は眉根を寄せてくすくすと笑う。
「これじゃ繋ぐって言えない」
「濡れるよりゃいいだろ」
微かな笑い声は雨音に混ざって消える。ひと粒、ふた粒、代わりに雨を受ける尾形の手の甲を愛しく眺めて、鯉登は掌の中心を爪先で少し弾いた。
「このまま雨に打たれて、手へ雨垂れ石みたいな穴があいたら、赤い糸でも通しておこうか」
明け方こんな夢を見たの、とでも言うような、優しい声音だった。尾形が視線を向けると鯉登は微笑みを返す。しばしの沈黙の後、尾形は淡々と返した。
「雨垂れに穿たれる程の時間手を繋いでいたなら、それで充分添い遂げたことになるんじゃないのか」
そうしたら鯉登は意外な気付きに目を丸くした。やがて小さく「そうか」と零すと、恥ずかしそうに目をそらす。
「それは、そうだな……」
「その上更に運命を求めるとは、これは中々、業突張りなことで」
「それも……うん、その通りだ」
気恥ずかしさに薄笑いを浮かべた口で、頷くような言い訳のような不明瞭な言葉を二、三つ捏ねた後、一層恥ずかしくなったのか鯉登は沈黙した。尾形もそれ以上からかわないので、雨の音だけが路地に響く。小雨には今しばらくかかりそうだ。雨粒はまた幾つか、尾形の手の甲を濡らす。
「――逢引きを、」
雨音が耳に馴染んで音としての形を失う頃、鯉登はぽつりと言った。
「あの……どんなものだろうかと、思っていて」
「逢引き?」
「学校でしている人間が居たの。その……外の、贔屓の女だったり、学友同士でも、こっそり二人きりで出かけたり」
「へぇ。」
「……それで……だから私も、一緒に住んでいるから逢引きとは言えないけれど、あの……好いた相手と一緒に外を歩いたらって――」
鯉登は、ちら、と尾形に目を向ける。
「――ひとりで居る間、ずっと尾形のこと考えてる」
出かけるのを強請る時のように、薄ら寂しく微笑んだ。
「美味そうな桃が売っていたら、尾形は食べたいかなと思ったり。火薬鉄砲の店から若い男が出てくるのを見れば、尾形も新しい銃を見たいかな、とか。寄り添って歩いている恋仲らしい二人を見ると羨ましいし。私も尾形と一緒にああして、駄菓子をふたつ買って、散歩中の犬とじゃれて、蕎麦を食べて家に帰り、寝る前に優しく撫でて貰えたらどんなに幸せだろう……なんて」
そして鯉登は尾形から目を逸らし、狭い庇を越えて雨を仰いだ後、静かに俯いた。
「無理やり夢を現にしようと出かけてこの雨だ。業突張りの罰が当たったんだな。尾形は引き留めてくれていたのに、私に付き合わせて、巻き込んでしまって、ごめん。これからはもう少し我儘を控える……ように、気を付ける」
鯉登の横顔を見つめ、尾形は唇を結んだ。顰めかけた片眉が引きつりこめかみがぴくりと震える。
いつもの、泣き出しそうな顔だ。輪郭の向こうで降る雨がいっそ涙にさえ見える。そうしてまた俺を悪者にして――そこで、鯉登の泣くことが自分の罪悪感になっていると、ようやく気付いた。
うんと前なら、鯉登が泣いたなら寧ろ快かっただろう。そうでなくても、道理が自分の方にあるのなら、我儘を言って泣く様にはきっと呆れていた筈だ。それが、無理を通そうと泣きべそをかくだけで自分が泣かせた罪を覚えてしまう――その理由を、尾形はもう理解している。
例えそれが鯉登の為にならないとしても、鯉登が望むのなら叶えてやりたいと思ってしまう、愚かな、気持ちを、なんと呼ぶか。知っているから名付けるのは悔しくて腹立たしくて、可笑しくて、少し苦しい。
「……桃は別に、好きでもない」
瞬きひとつして鯉登が此方を向いた。
「銃は、見りゃ快いだろうが撃つもんも無いで、欲しいとも思わん」
「……うん、」
「駄菓子も態々食う気にならんし犬も嫌いだ。まぁ、蕎麦ぐらいだな」
「うん」
「気の利いたことが出来るほど優しい人間でもない」
「でも手は繋いでくれる。私の代わりに、雨に濡れてくれる」
手を繋いでやった時より幸せそうに微笑む様は、雨粒という無数の玻璃の為に一入耀っていた。泣くよりずっと綺麗だった。その感嘆は押し込める蓋をすり抜けて一番に胸に満ちたから、尾形は愚かだと認め膝を尽く他無かった。
「……雨が上がったら、蕎麦、食って帰るか」
鯉登は綻ぶ唇から真珠のような歯を覗かせて頷いた。どうかいつまでも誰にも見つからず咎められずただこうして笑っていてくれますようにと祈ろうにも神も仏も信用ならない。だから自分に出来るだけのことをしようと、尾形は雨除けの手をよりしっかりと握り直した。何処かに留まっていた一滴がその拍子に滴る。それだけは、二人の体温で温んだ甘雨だった。