情けない男(大馬鹿者)『今から外出られるか』
そんなメッセージを送ったのは、アニエスの卒業式前夜だった。
なにかと忙しく引っ張りだこな彼女を連れ出すのは気が引け、ようやくの思いでそれこそほぼ半ばヤケクソのようなものだったかもしれない。
気が引けたというそんな建前にも似た情けない感情にトドメを刺すべく、彼女のいる寮があるオーベル地区を不審者の如く彷徨ったのは秘密だったりする。
明日にはありとあらゆる覚悟を総動員またはかなぐり捨てて彼女を掻っ攫う気でいるのに、本当に情けないことこの上ない。
「ヴァンさん」
寮の扉から出てくるアニエスと、その後ろで興味深そうに眺めている彼女の友人たちの姿に笑ってしまいそうになる。
ヴァンの学生時代から変わらぬ優しくも厳しい管理人の姿も目に入り、軽い会釈をして愛おしい恋人へと手を差し出す。
遠慮がちに伸ばされた手を取り、緩やかな階段を降りる彼女。
初めて出会った時よりも幾分か、いやもっと綺麗に大人びたアニエスに目が眩みそうになった。
「悪いな、こんな時間に」
「まだ門限まで時間がありますから、大丈夫ですよ」
「積もる話もあったんじゃないか?」
「今日が最後、というわけではありませんので」
「学生ってのは特別なもんだぞ」
「はい、分かっています。それでも、貴方との時間が大切なんです」
いつまでも変わらない無垢な笑顔のまま、彼女は見つめている。もう何も知らぬ少女などではないのに、この笑顔だけは変わらない。
「そうか、ならもう言うことはない。少し歩くぞ」
「少しで良いんですか?」
「……門限ギリギリまで」
「ふふ、はい」
やはり変わらぬ笑顔で、アニエスはヴァンを見つめ続けている。ただ置かれていただけの手を握り締め、街頭が照らされた夜の道をゆっくりと歩き出した。
まだ明かりのついたアンダルシアの前を通り、大通りへと繰り出す。数台の車が通り過ぎて行き、風を作った。
「寒くないか?」
「ちゃんと着込んできたので大丈夫です。ヴァンさんは寒くないですか?」
「ああ。お前の手があったかいからな」
絡めた指が、より一層強く握られた。
暗がりでも分かるくらいに赤くなっている頬が愛おしい。
「もう……着きましたよ、ヴァンさん」
アニエスの言葉で、身体と視線を目的の地へと向ける。明日の準備が完了し、華やかにも厳かにも飾られたアラミスの門が目に入る。
もう、くぐることも通ることもできないそれが眩しく映り胸が締め付けられる。
「明日、だな」
「はい」
「緊張してたりするか?」
「そう、ですね。少しの寂しさと一緒に」
大人びた横顔を眺め、再度アラミスへと視線を移す。明かりのついたその場所は、教師たちがまだ忙しく動き回っているのだろう。明日の主役を盛大に送り出すために走り回る恩師や知り合った教師たちが浮かび、微笑ましく思う。生徒たちの青春の片隅で、確かに彼らは輝いている。
「行こう、アニエス」
握り締めた手を引き、また歩き出す。先程来た道は戻らず、大聖堂へと続く道を歩いていく。言葉は無くとも、苦にならない。ゆっくりと歩いていく。
「夜の大聖堂って、なんだか神秘的ですね」
「怖いくらいにな」
見慣れたはずの建物を、2人で見上げる。
開け放たれた大きな扉は通らず、ただ外からその堂々たる佇まいを。
「ヴァンさん。今日、私に会いに来てくださった理由はなんですか?」
「アニエスに会いたかった」
「それはとても嬉しいです。でも、本当の理由はなんですか?」
アニエスに会いたかったのは嘘ではない。
けれども、一番の理由を告げれば笑われてしまうのではないかという不安があった。
「“子ども”のお前を最後に目に焼き付けておきたかった」
「変わらないですよ、そんな」
もう子どもになど見えない彼女が笑っている。女性としても一人の人間としても魅力的に育ったアニエスを見つめる。
猶予も容赦も無く掻っ攫うその日まであと数時間だというのに、覚悟が鈍りそうになる。
かなぐり捨てるにはまだ早い。
置いていくだけでいい。
「分かるだろう、お前なら」
「……明日が待ち遠しいです」
やっぱり無理かもしれない。
「少々フライングだが、これくらい女神は許してくれんだろ」
「え?どういう……っ!?」
アニエスの唇の横に軽く口付ける。
甘い香りが鼻をかすめ、唇越しでも分かる滑らかな肌が心地良い。
口付けた直ぐ隣に、今直ぐにでも欲しいものがあるのに我慢出来た己を褒めてほしいくらいだ。
「なんつう顔してんだ」
「ヴァンさんの所為です……!」
小鳥のように可愛らしい文句を言う唇を塞ぐのは明日の楽しみにとっておこう。
繋いだ手を誤魔化すようにわざとらしく引き、寮へと向かう小道へと足を進める。
「あー、早く明日になんねぇかなぁ」
「ヴァンさんの馬鹿」
ああ、大馬鹿だよ。