高諸02 尊奈門は昔から素直で人懐こい子どもで、年長者には素直に懐いた。その中の一人に、高坂がいた。幼い尊奈門に、後を着いて回られた時期もある。
高坂はさして子ども好きではなかったから、時々しか相手をしていなかった。といって、彼の存在が不快だった訳ではない。高坂の基準で言えば、可愛がっていたと言ってもいい。
それが決定的に反転したのは、雑渡が大きな火傷を負って戻ったその日だった。
仲が悪くなった、という単純なものではない。高坂の内側の感情だけが反転した。尊奈門は、何も変わらなかった。
当時の尊奈門に、雑渡の事以外を気にする余裕はなかったからだ。
その日から彼の世界の中心は雑渡になって、他の者の言葉は耳に入らなくなった。あえて入れないようにしていたのだろう。
高坂も当然、その中に入っていた。様々な負の感情が内側に生まれて、暴れて、高坂の内心は荒れていた。
内心で済んだのは、忍軍の内部もそれなりに荒れていたからだ。特に山本はかなりの責務と心労を負っており、高坂はせめて山本を支えようと尽力した。
雑渡が復帰する頃には、高坂の視界も少しは広くなっていた。
尊奈門を毛嫌いする事はない。だが、しこりは残ったし、正式に後輩となった尊奈門に対しては、できない所ばかりが目についた。
元々が周囲に厳しく接してしまう性格だ。尊奈門については余計にそうなった。
それでも二人が険悪な雰囲気にならなかったのは、ひとえに尊奈門の性質だった。
尊奈門の意志の強さは実力の伸びに直結し、単純だが真っ直ぐな気性は彼の居場所を確かなものにしていった。
もちろん、雑渡や山本も尊奈門をサポートしていた。ただ、自分たちがあまり表立って可愛がるのは良くないだろう、と思ったようだ。それは同感だった。
そして何故か、高坂に尊奈門の面倒を見る係が回ってきた。さすがに渋い顔をしたが、逆らえるはずもない。
尊奈門は、高坂が厳しく雑に接しても、気にした様子を見せなかった。神経の太い奴だな、と呆れながらも、高坂も少しずつ尊奈門への対応から棘は抜けていった。
素直に可愛がれないのは、高坂の性格が半分、意地が半分だ。
尊奈門は、高坂から見ればまだ未熟者だった。
技に関しては、そこそこだ。伸び代もある。頭の出来もそこまで悪くない。
精神面は、まだまだだ。特に感情が絡む術には引っかかりやすい。
ただ、そこは経験もある。これから鍛えてやればいいだろうと思う程度には、高坂は尊奈門を育てる役目に馴染んでいた。
そうして、高坂の中で、尊奈門への気持ちが和らいできた。
そんな時。突然、尊奈門の目の前に現れたのが、土井半助だった。
かつての雑渡の様に、土井が尊奈門の世界の中心になった訳ではない。けれど、あの強い目の光が向く先は、土井になった。
面白いはずがない。
尊奈門の目の先にいるのが雑渡ならば、何も思わなかった。気持ちがわかるからだ。高坂自身、雑渡を誰よりも慕っている。
だが、土井半助はそうではない。
急に現れて、尊奈門の視界を奪った。
それでも土井を敵視するまで行かなかったのは、どう見ても土井が困っていたからだ。
高坂から見ても二人の実力差ははっきりしており、であるのに尊奈門があのしつこさで挑み続けるのは、土井にとっては負担だろう。
土井は尊奈門を面倒がりながらも律儀に相手をするし、必要以上に痛め付けたりもしない。
タソガレドキに気を遣っているのもあるし、教師という気質もあるだろう。土井から尊奈門へ好意的な感情はあったとしても、執着を見せているのは尊奈門だけだ。
尊奈門の一方的な感情だからこそ気に食わないが、一方的だからこそ許容していられた部分もある。
そんなある日、突然耳に飛び込んできたのが、「尊奈門が誰ぞに振られたらしい」という噂だった。
聞けば、尊奈門がいつになく落ち込んだ様子で、独り言を言っていたらしい。「振られた」と。
迂闊にも程があると苛つきながら、高坂の頭に最初に浮かんだのは、土井半助の顔だった。
が、すぐに違うかと思い直す。つい先日も土井への対策をああだこうだと言っていた尊奈門に、そうした様子は見られなかったからだ。
しかし、では、誰なのだ?
ぐるぐると尊奈門の周りの人間の顔が浮かんでは消えていく。
わからない。尊奈門が強い執着を見せる人間は、雑渡と土井半助くらいしか思いつかなかった。
尊奈門の交友関係は、タソガレドキの外には、ほとんどない。だが、忍務先で知り合った相手ならば、高坂が知らない可能性もある。
高坂は、尊奈門に近い場所にいる。色恋沙汰にも、そこまで疎くはない。
そんな高坂が相手を知らないのだから、当然、他の者たちも知らなかった。
尊奈門が色恋に疎いというのは、誰しもが思っていた様で、皆が意外なニュースに沸き立った。
その噂の着地点が雑渡になった日を、高坂は知っていた。
その日は尊奈門はもちろん、雑渡や山本といった上の面々も留守。高坂もいる忍軍の詰所内では、遠慮なしに尊奈門の噂が始まった。
相手は誰かと盛り上がり、ああだこうだと言い合う同輩たちの会話を、高坂は静かに聞いていた。誰もが興味深そうに話に入っていく中で、ずっと黙り込んでいるのは、高坂くらいだった。
やはり話題は、誰が相手であるのかという一点だ。
あれかこれかと出される名前を、高坂は頭の中に書き込んでいく。知っている名前も知らない名前もあったが、どれもピンと来ない。
話している者たちも同じようで、随分と悩んでいる。仕事でその位に頭を使え、と横から言いたくなった程だ。
結局、確かなのは「誰も知らない」という事だけだ。
高坂はその辺りで、場から離れた。
「相手は組頭なのでは?」
と、誰かが言い出したのは、高坂がいなくなってからだ。恐らく、高坂の前では言い出せなかったのだろう。
他に心当たりもなく、尊奈門の組頭好きは誰でも知っており、雑渡ならばという納得もあったのだろう。
後からそれを耳に挟んだ高坂は、思った。
それはまずい。
高坂だけでなく、上もそう思ったようだ。高坂が密かに山本に呼ばれたのは、噂が出回ってすぐだった。
「尊奈門の相手を知っているか?」
と尋ねられて、「いいえ」と首を振る。気持ちが重い。尊奈門の事ならば大抵は知っていると思っていたのに、根底から覆された気分だった。
「そうか。組頭が噂を気にされていてな」
「ええ、組頭にはご迷惑でしょう」
苦虫を噛み潰した顔の高坂に、山本は、
「おまえも相当気にしているようだな」
と笑う。高坂は慌てて表情を戻した。
「噂の出所はわかっているが、特定の誰かが悪意あって流しているものではない。火消しはそう難しくはないだろう」
「はい」
「まあまずは、当の尊奈門に真偽を確認せねばならんが」
「私が行きます」
咄嗟に、そう言っていた。知りたかったのだ。尊奈門が、密かに想っていた相手を。
「ふむ。構わんが……あまり追い詰めるなよ。組頭でない事さえ確認できればいい」
「放っておかれるのですか?」
「そこは尊奈門の問題だからな。成就したなら相手の調査も必要だろうが、振られた相手をあえて追求する必要もない」
「しかし、まずい相手かもしれません」
「例えば?」
そう言われると、困る。身分が違うだとか、敵対勢力だとか、既婚者だとか、思いつくものはある。
しかし相手が何だったにしろ、尊奈門が「振られた」と自覚しているのだ。
責めて口を割らせるには及ばない。
それが山本の、引いては雑渡の意思ならば、高坂もそれ以上は言えなかった。
「承知しました」
「ああ。頼んだぞ」
そうして、高坂は尊奈門に相手の名を問いに行った。
わかったのは、噂が本当である事と、相手が雑渡でも土井半助でもない事。それから、相手を言うつもりはない事。
尊奈門が本気である事。
誰なのか問い詰めたい気持ちを捩じ伏せて、高坂は噂の始末を自分に一任する事を約束させた。
腹の奥から湧き上がる苛立ちを、尊奈門にぶつけなかっただけでも、高坂にしては耐えた方だ。
後ろに山本が潜んでいなかったら、あるいは耐えられなかったかもしれない。念の為に着いて行こうかという山本を断らずに良かった。
ただ山本から、素直に、と言われる理由は分からなかった。
素直になってしまえば、尊奈門を問い詰める自分しか見えない。
どうしてそんな事を言われたのかと思いながらも、高坂は次の仕事に取り掛かった。
噂から雑渡を消して、別のものに塗り替えるという任務に。
まず、雑渡についての噂を消すのは簡単だ。その話をしている者たちの背後を取り、
「まさか本当に相手が組頭だと思っている訳ではないだろうな?」
と凄めば済む。
高坂は、雑渡に関連するどんな小さな戯言も許さない。タソガレドキの忍者ならば、誰でもそれを知っている。
同じ事を何度か繰り返せば、話は萎んでいく。ただただ、高坂に絡まれないために。
そうやって噂を消せば、では相手は誰だろうという話になる。好奇心は消せない。噂の上書きをどうするか、と思っていた時。
とある任務後。高坂を含めた幾人かで行ったのはそう難しい任務ではなく、つつがなく終わった。報告後に解散となり、ぎりぎり夕食に間に合う時間であったため、流れで揃って食堂へ向かった。
各々の食事が終わる頃、誰かがふと言った。
「そういえば、今回は尊奈門も来るはずだったんじゃなかったか?」
「あいつは、前の任務が長引いているらしいぞ」
そんな流れから尊奈門の話になり、そのまま、また尊奈門の想い人の噂の話になった。
「結局、誰もわからないままか」
これだけの忍者の好奇心に晒されて、相手を悟らせないのは大したものだ。最近では、逆にそんな感心の空気さえ出てきた。
どうやら当人に聞いた者もいるらしいが、口を割らなかったようだ。
そこまで皆の興味を引くのは、それだけ尊奈門に関心があるからだろう。悪い事ではない。気になる気持ちもわかる。
だが同時に、知りたくないという気持ちが、高坂の中に生まれつつあった。腹の奥から苛立ちが湧き、気付けば高坂は言っていた。
「もう放っておけ」
高坂が口を出すのは珍しい。何人かの目が、高坂に向けられる。一番怖いもの知らずの同輩が、話しかけてきた。
「なぁ。高坂も知らないのか? 本当に?」
まだ言うか、と高坂は眉を上げる。高坂の冷たい目に、しかし、慣れている同輩はまるで怯まない。
何か返そうと高坂が口を開く前に、まるっきり予想外の言葉を投げられた。
「もしかして、相手はおまえか?」
一瞬、思考が止まった。
その発想はなかった。
本当にそうならば、良かったのに。
咄嗟に、そう思った。
尊奈門の想う相手が、自分であればいいと思った。そう思った事、それ自体に動揺した。
だから反応が遅れた。
高坂が意味深に黙るものだから、他の話をしていた者達まで、高坂に視線を向ける。
すぐに否定すれば良かったのだ、と後から思った。
だがその時は、口から言葉が出なかった。
高坂は、
「さぁな」
と曖昧な言葉を残して、その場から離れた。
その時点では、意図などなかった。ただ単に、動揺を悟られたくなくて逃げただけだ。
その姿が、図星を突かれたように見えたのだろう。という事にも、後から気付いた。
話はあっという間に広まってしまい、その日のうちに、尊奈門は高坂に振られた数多いうちの一人となった。
さすがに気が咎めたが、ここで否定して更に噂を上塗りするよりも、そのままでいた方が良いと思い直した。
何よりも、周りはその結論に納得していた。何故かはわからない。尊奈門は高坂相手に、そんな気配を見せた事は一度もないのに。
おまえたちの目は節穴か、と思いながらも、高坂は黙って噂を放置した。
意図していたものと違うとはいえ、結果は出せた。
あとは尊奈門にそれを納得させるだけだ。
恐らく、尊奈門はこの状況を飲むだろう。
想い人について、言わないとはっきり拒絶した尊奈門の目を思い出す。
燃えるような意志の宿った目は、尊奈門の気持ちの大きさをそのまま表していた。
誰に向けたか分からないその情念を、仮初とはいえ己のものにできたように感じた。嘘だというのは、誰よりも自分がわかっているというのに。
自嘲と、妙な満足感が混ざり合い、自然と口元が上がった。
胸の奥から滲む仄暗い満足感がどこから来るのか、高坂はまだ分かっていなかった。